藤襲山に入ってから七日目の早朝。
本日この時を以って、鬼殺隊入隊の最終選別が終了した。
朝日の輝きが山を照らす。夜を白く染める暁の空から降り注ぐ光が、山を飾る藤の花の群れを美しく彩っていた。
肌を刺すような、冷たくも清々しい朝の寒気が全身を洗う。
全集中・常中の賜物か、別段これといって疲労はない。しかし清潔な環境と人間らしい食事に慣れた身としては、この七日間は些か辛いものがあった。以前ならば当たり前のこととして耐えられただろうが……今となっては、煉獄邸の食堂と檜風呂が恋しくて仕方がない。
そんな風に考えて――ふと、気が付く。
俺にとって帰るべき家とは、あの屋敷なのか。梅と暮らした吉原ではなく。梅と共に過ごしたあの日々ではなく。あの恵まれた、綺麗なところが俺なんかの居場所だと……―――
「―――……」
強引に思考を中断する。
これ以上そんなことを考えては駄目だ。意味がない。愚考に時間を割くくらいならば、今後について思いを巡らせるほうが有意義だろうが。
一つ一つ、石段を降りていく。
ここは藤襲山の中腹――辺り一面が絢爛な藤の花で覆い尽くされた地帯だ。
最終選別の会場入り口であった広場に到着するまで、もう間もない。
そんな折、背後から声を掛けられた。
「―――あ! おーい!」
振り返ると、見覚えのある姿が視界に入る。
忘れはしないその姿。
竈門炭治郎が、妙に嬉しそうにこちらに手を振りながら階段を駆け下りてきていた。
「妓夫太郎! よかった、無事で! ……あれ、でもなんだか吐瀉物の臭いがする。体調が悪いのか? 辛いなら言ってくれ。俺が背負っていく。この辺りならもう鬼も出ないだろうし大丈夫だ」
「嗅ぐなよなぁ。食中りの類じゃねぇから問題ねぇよ。それよりお前の方が重傷じゃねぇか」
思わず呆れ混じりに言葉を返す。
服はあちこちに泥が跳ねていてボロボロだ。額には大きな傷があるらしく、包帯を巻いている。見るからに疲労困憊といった有り様だ。立っているのも辛いように見える。
「心配してくれるのか? ありがとう、妓夫太郎! でも大丈夫だ。俺は帰るまで絶対に倒れない。―――妹が、俺の帰りを待ってるから」
「……そうか」
頷くだけに留める。
妹。竈門炭治郎の妹。前世で会った時――こいつの妹は鬼だったが。今はどうなのだろうか。聞いてみたい気もしたがやめておく。
それよりもだ。
竈門炭治郎。こいつ、なんだか妙に馴れ馴れしいというか……距離が近い。歩を速めてもついてくる。目を向ければ微笑みを返される。まるで犬だ。現在においては俺とこいつの接点は限りなく零に近いはずだが……何故、こうも懐かれているのか。皆目見当もつかない。
―――落ち着かねぇなぁあ。
思わず溜息を零す。相手は俺の頸を斬った奴だ。敵対しようとは思わないが、しかし仲良くしたいとも思えないのが嘘偽りのない本音だった。
炭治郎を伴って藤襲山を降りていく。
疎らに頭上を覆い隠していた藤の花の帳――それが、不意に途切れた。
広場に辿り着いた。
空けた平地。その上には、雲一つない青空が顔を覗かせている。
広場には四つの人影があった。
試験開始時に説明役を務めた二人の童。何をするでもなく、ただぼんやりと蝶を眺める栗花落カナヲ。そしておろおろとしながら必死の形相でカナヲに話しかけている黄色い頭のガキ。
伊之助の姿はない。
下山途中に鬼に襲われ殺された――ということはないだろう。あいつに限ってそんなヘマはしねぇだろうし。ともすれば、当人が言っていたように誰よりも早く下山したと考えるべきだなぁ。
「ア゛―――! ちょっと、そこの二人!」
こちらの存在に気付くや否や、黄色い頭のガキが物凄い速さでこちらへ駆けてきた。
山を降りている途中で聞いた声だ、と思い出す。確かやたらと汚い高音で喚きながら朝日の到来を礼賛していた奴だ。
黄色い頭のガキは、縋るように炭治郎の両肩を掴む。
「初対面なのに不躾で申し訳ないんだけども! 白い髪の綺麗な女の子を見なかった!? あの子、まだ山から降りてきてないんだ!」
「見てない、けど……その子は君の知り合いなのか?」
「山に入って直ぐに、鬼に襲われてた俺を助けてくれたんだ。それから六日は顔を合わせてなくて、それで心配で……もしかしたら、怪我をしてるかもしれない! 足を挫いて動けないのかも! 助けに行きたい! でも俺ってすげぇ弱いから、もう一人じゃあんなおっかない山怖くて入れなくて……だからここから動けないという訳で! でも、でも……ッ!」
酷く錯乱した様子で黄色い頭のガキが叫ぶ。
こいつの言葉を飲み込みつつ、改めて周囲を見回す。梅の姿はない。そして新たに人が降りてくる気配もない。
黄色い頭のガキは泣きながら暫く俯いていたが、不意に面を上げる。
「頼む! 今から俺と一緒にあの子を探しに山へ登ってくれないか! 鬼が動かない昼の間だけでいいんだ、協力して―――」
「―――それには及ばねぇよ」
見ていられなかったので、思わず割って入ってしまった。
失敗した、と思いつつも、言葉は止まらない。
「あいつがこんな程度の選別で死ぬ訳ねぇからなぁ。そのうち降りてくるだろ。今行ったって入れ違いになるだけだ、大人しく待ってろよなぁあ、みっともねぇ」
「あいつって……あの子のこと、知ってるの?」
「知ってるも何もなぁ。俺は謝花妓夫太郎。あいつ――謝花梅の兄貴だからなぁ」
「梅ちゃんのお兄さん!?」
仰天した様子で固まる黄色い頭のガキ。
そんな奴の奇行に面食らいながらも、炭治郎はこちらを窺うような目を向ける。
「その……本当に探しに行かなくていいのか、妓夫太郎?」
「ああ。心配いらねぇよ。なにせ俺の妹なんだからなぁあ」
言うだけ言って、俺は二人の視線を払い前へ向かって歩き出した。
……らしくないことをやったと、そう思う。
以前の俺なら、我関せずといった態度で山に戻る二人を無視していただろう。しかし俺はそうしなかった。カナヲですら物珍し気にこちらを見ているのだから余程だ。だがそれでも、まあいいか、とそんな風に思えるのだから不思議だ。
広場の端――階段がよく見える位置に陣取る。すると炭治郎と黄色い頭のガキの両方がついてきた。二人はそわそわした様子で、誰か降りてこないものかと見守っている。
―――それから。
四半刻としない内に、待ち兼ねた娘の姿が視界に飛び込んできた。
階段を駆け下りて、一目散にこちらへ向かって走ってくる少女の姿。服こそ汚れているものの、どうやら怪我はしていないようだ。その姿を目にした瞬間、思わず安堵の溜息が漏れたことを自覚する。……大見栄を切った癖にみっともねぇなぁ、俺は。
「―――梅ちゃん! 無事だったんだね……がふっ!?」
「お兄ちぁぁぁぁああああああああああああああんッ!」
飛びつこうとした黄色い頭のガキを蹴り飛ばし、何事もなかったかのように梅は俺の胸に飛び込んできた。
ぐりぐりと顔を押し付けてくる梅を、そっと抱きしめる。
信じていた。
梅ならばきっと大丈夫だと、信じていた。それでも不安があった。もしもまた、俺がいない間に梅が死にそうになっていたらと思うと気が狂いそうだった。それでも俺は梅を信じた。
きっと、だからこそこの結果があるのだろうと。そう思う。
ああ――本当に、よかった。
「君、大丈夫か?」
「大丈夫じゃねぇよ……立てねぇよ……でも、よかった……ガクッ」
* * *
結局、あれから無事に下山できたのは一人だけだった。
頭の側面を刈った髪型の男。そいつの到着を最後に、最終選別の終了が告げられた。
合格者はこの場にいる六人と、さっさと下山したどこぞの猪頭のみ。
どうやら梅の直感が当たったようだ。
「―――皆様、お帰りなさいませ」
「おめでとうございます。ご無事で何よりです」
説明役の二人の童の前に集い、話を聞く。
隊服の支給や鬼殺隊内での階級について。日輪刀の原料である玉鋼の選定と、打ちあがるまでの期間。そして連絡用の鎹鴉の割り当てといったことだ。
山から一斉に鴉が飛び立ち、俺達六人の下に一羽ずつつく。
梅とそれぞれの腕に留まった鴉を見比べて和む。何故か一人だけ鴉ではなく雀がついている奴がいるような気がするが、まあ、こちらには関係のないことだ。
すると。
「―――どうでもいいんだよ、鴉なんて!」
飛んできた鴉を乱暴に払い除ける不届き者が一人。
側面刈りの男は鼻息を荒くして、怒り心頭といった面持ちで童の下まで迫る。その足取りは荒々しく、完全に癇癪を起こしているように見えた。
「刀だよ刀! 今すぐ刀をよこ―――」
「―――みっともねぇ真似はやめろよなぁ、お前」
「あァッ!? ぐ、糞……!! なんだテメェは!」
男が白い髪の童女に殴り掛かったのを制する。
男の手はピクリとも動かない。どんなに力を込めても戒めを払えないことを察したのか、男は怒気をこちらへと向けてきた。
こういう時、己の醜い容姿は武器になる。吉原でも散々やってきたことだ。
俺は互いに息がかかるほど男の顔に自分の顔を近付けて、意図して低い声で凄む。
「このお二人は鬼殺隊の当主、産屋敷耀哉様の御子息と御息女だ。手を挙げることは許さねぇからなぁああ」
「……ッ!? クソ!」
手を放してやると、男はバツが悪そうに悪態を吐きながら引いた。
二人の童に頭を下げ、梅の隣に戻る。
「ふくれるなよなぁ」
「……別に。ふくれてないもん」
どこか不満そうに頬を膨らませて、梅はそっぽを向いてしまった。
「ではあちらから、刀を造る鋼を選んでくださいませ」
そう言って、童は広場の奥に設えられた壇を指す。
壇上には十個以上の玉鋼が安置されていた。
俺達は横並びに整列し、無言で玉鋼を見下ろす。
流石に鋼の良し悪しまでは分からない。どれも同じように見える。しかし選ぶからには一番良いものを選びたいが……さて、どうしたもんかなぁ。
黙考すること数秒。
誰も動かない。鋼に関して無知であるが故に、選べないまま固まっている。そんな中、動き出す者が二人いた。
梅と炭治郎だ。
まるで吸い込まれるように、二人の手はそれぞれ一つの玉鋼を掴み取る。まるでそれを手に取ること自体が予め決められたことであるかのような――そんな風に思わせる迷いのない動きだった。