何度生まれ変わっても   作:ミズアメ

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第参話 蝶よ花よ

 ―――ゴォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオ

 

 近くで何かが燃えている。

 

 肉が焼ける悪臭が鼻を突いた。排泄物を貯めた臓物の塊が炭化して、脂肪が溶け落ちる臭い。そして水分が失われて硬く罅割れる音と、肺腑の空気を吐き出しつくしても尚叫び続ける断末魔。血も凍るような恐ろし気な気配が、至る所から感じられた。

 

 きっと、人が焼けているのだ。

 

 何人もの人が焼かれている。

 悍ましいほどの数の人間が、灼熱の業火によって(あぶ)られていた。

 

 ―――ここは地獄だ。

 

 そうでなければ一体何だというのか。絶えず身を焼かれ続けるこの場所を表す言葉など、それ以外にありはしない。

 ここは地獄だ。罪人に責め苦を負わせる焼却炉だ。

 

 そこに、俺はいた。

 

 俺がいるのは地獄だった。そう認識した瞬間、体の内側から炎が噴き出した。心臓と肺を中心に、血液の一滴一滴が燃料に代わって燃え上がる。内臓が焼け落ち、筋肉が炭になり、眼球は一瞬にして蒸発した。

 俺が燃えている。全身が燃えている。

 熱い。痛い。熱い。痛い。熱い。痛い。熱い。痛い。

 苦しかった。辛かった。死んでも尚死なせてくれと願うほどに痛かった。

 

 決して忘れられない、魂の芯にまで刻まれた痛み。

 

 俺はこの痛みを忘れないだろう。絶対に、何があろうと忘れないだろう。

 

 幾星霜と焼かれ続けた記憶は絶対に消えない。何故ならこれは、罪を犯し、命を奪い、地獄に落ちた俺に、己の罪の重さを知らしめる為に刻まれた烙印だからだ。

 

 ―――ゴォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオ

 

 たとえこの世界から抜け出したとしても。新たな世界で産まれたとしても。己の意識を失う度に、俺はこの痛みを必ず思い出すだろう。思い出さずには、いられないのだろう―――

 

 * * *

 

「―――――ッ!」

 

 息が、できない。

 

 限界まで口を開けて喉を(うごめ)かせ、必死に胸と腹を上下させる。しかし全く空気を取り込めない。体が冷たくて仕方がない。まるで肺は死体のもののように硬直していて、完全に役立たずと化していた。

 

 死ぬ。

 

 このままだと、酸欠で死ぬ。

 

 金縛りにでもなっているのか、俺の体は仰向けになったまま動かなかった。肺と同じように、死後硬直でも起こしたみたいに固まっている。その感触が、酷く不気味だった。

 

「―――――」

 

 不意に、視界の端で影が動いた。

 

 被っていた掛布団が盛り上がっている。限界まで擦れたところで、布団が捲れ落ちた。すると梅の姿が露になった。どうやら掛布団の中に潜っていたらしい。

 

 梅は俺の腹の上に馬乗りになっている。

 そして―――何故か、梅は泣いていた。

 

「……大丈夫だよ。もう、大丈夫だよ、お兄ちゃん。辛かったよね、痛かったよね、がんばったね。ありがとう、ありがとうね」

 

 静かに涙を流しながら、梅は俺の胸の上にそっと手を置いた。

 小さな掌が、俺の心臓を押さえている。それがきちんと鼓動を打っているのかどうか、今の俺には分からなかった。

 

「―――お兄ちゃん、息をして」

 

 それは、死体に呼びかけるような言葉だった。

 

「胸の中に小さな炎をつくって。それを少しずつ、大きくするの。それで体のぜんぶに、血の一滴一滴までぜんぶに、火を行き渡らせるのよ。胸につくった炎と自分をおんなじものにするの。そうれば、苦しくなくなるよ、お兄ちゃん」

 

 滔々(とうとう)と語る声は、するりと頭の中に滑り込んできた。

 

 梅に言われたように、胸の中に炎を造る。胸に触れている梅の手の温もりを火種に、松明に火を灯して、小さな明かりを少しずつ大きく育てていく。

 無論、本当に体内でそんな現象が起こっている訳じゃない。全ては俺の脳が描き出した空想だ。だが、だからこそだろうか。精神の影響は肉体に色濃く表れると聞く。故に効果は覿面(てきめん)だったようで、俺の体は胸を中心に、段々と熱を取り戻していった。

 

 ―――ゴォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオ

 

 口から漏れ出す呼吸音は、まるで燃え盛る炎の燃焼音のようだった。

 

 気が付けば、普通に体を動かせるようになっていた。

 普段とは違う呼吸の方法に違和感を覚えないでもなかったが、しかし息を吸えるならそれでいい。万々歳だ。梅には幾ら感謝しても足りないなぁ、こいつは。

 

「フゥ………ありがとうなぁ、梅。おかげで助かった」

「えへへ、お兄ちゃんに褒められちゃった。うれしい」

 

 愛らしくはにかんで、梅は俺の胸に顔を埋めた。(あばら)が刺さって痛くないだろうかと気を回すが、流石に頬ずりまでしているのに引き剥がすのは野暮だろう。助けられたことだし、気が済むまで好きにさせよう。

 

「―――アタシね、お兄ちゃんの夢をみたよ。お兄ちゃんがみてた夢をね、みたよ」

 

 不意に、梅が告げた。

 その言葉に、どきりと心臓が跳ねた。

 

 さっき見ていたのがどんな夢だったかは、あまり思い出せない。だがとても痛い夢だったことは覚えている。そしてこの七年間――産まれてからずっと、俺は同じ悪夢に苛まれ続けていた。

 何と答えるべきか迷い、意味もなく口を開閉させる。俺がそんな間抜けを晒している間に、梅は言葉を続けた。

 

「お兄ちゃんの言ってたこと、ほんとうだったんだねぇ。アタシたちの心がつながってるって。よかったよ、よかったぁ」

 

 梅は俺の首に腕を回し、抱き着いた。そして首筋に顔を埋める。

 梅の香りが鼻腔を満たした。心地よく柔らかい、乳に似た甘い匂いを吸って意識が微睡(まどろ)む。俺の意識は、再び深い夢の底へと沈み込んだ。

 

「ずっと一緒だからね、お兄ちゃん」

 

 意識が消える瞬間に、梅の囁きが耳朶(じだ)をくすぐった。

 

 ―――……また、痛い夢を見た。

 

 それでも、今度は耐えられた。何故ならきっと、もう俺は一人ではないからだろう。……独りでないことが、分かったからだろうなぁ。

 

 * * *

 

 俺は吉原に警邏(けいら)隊のような独自の組織を立ち上げ、その総まとめ役に就いていた。

 

 各店にいた、吉原中の妓夫達の組合とでもいうべきか。奴等を一つにまとめ上げ、取り立てと吉原での()()()()などを行い、その対価として、所属する店からみかじめ料を徴収する。端的に言えばヤクザだ。

 無論何かと反発はあったが、その都度どうにか治めてきた。そして今に至る訳だ。

 

 何もかもが順調だった。

 

 貯めた金は梅を上等な貸座敷に入れるための資金に使った。

 決して体は売らず、芸を披露することで客と逢瀬を重ねる店だ。選んだのは吉原でも一等高級嗜好の強い店だったが、割とすんなり入れることができた。まあ、梅の美しい顔立ちと器量の良さを考えれば当たり前だがなぁ。

 

 凛々しく大きな瞳と細い眉。

 透き通るような白い肌に、よく映える紅い唇。

 そして丁寧に梳った絹のように滑らかで美しい銀色の髪。

 

 あいつの顔立ちは、大人ですらたじろぐ程の美貌なのだ。今はまだ見習いの禿(かむろ)だが、いずれ梅は吉原の頂点に君臨する花魁になるに違いない。俺はそう確信していた。

 

 まあ、問題行動が多いらしいのが胃痛の種だったが。

 

 梅は生け花に琴、三味線などの芸事は完璧にこなした。料理や配膳など下働きの仕事も問題ない。だが先輩の禿や遊女に対しての暴言やら何やらが多く、手に負えない……らしい。

 

 いや、遣手のお三津は「むしろそれがいい! 新しい時代が見えた!」と言っているらしいが。

 買った遊女そっちのけでまだ禿である梅に早々に目移りした客も、「早くあの娘のあの冷ややかな目で見下ろされながら罵倒されたい。というか踏まれたい」などと言っているそうだが。

 

 順調……順調か……?

 

 ……まあ、今の所は順調ってことで納得する他ないよなぁ。

 

 今の俺と梅は別の家で暮らしている。正確には、禿になった梅は店の下働きとして住み込みで働いている状態だ。それに対して、俺は変わらず羅生門河岸の母屋で寝起きしていた。

 会う機会自体はそれなりにあるが、いつも二言三言話すので精一杯だ。互いに仕事をしている最中なのだから当然だが。それでも寂しいものは寂しい。梅が憤懣(ふんまん)やる方ないのも頷けるというものだった。まあ、とばっちりで怒りの矛先を向けられる人達には誠に申し訳ないけどなぁ。

 

 俺は吉原の妓夫と警備を担っている。

 

 日本が開国し、外国の文化を輸入するようになって百年。元号が大正になって以降、この国の性の気風は乱れつつあった。

 

 急激な西洋文化の流入と、それに伴う日本文化の緩やかな衰退。声高に叫ばれる女の社会進出。さりとて、別に働き口が用意されている訳でもない。この世の中――女に出来ることは限られていて、しかし、()()()()()()()()()だ。

 

 男でも。女自身ですらも。

 

 ……今はまだ、女遊びといえば昔ながらの花街が主流のままだ。

 だがあと十年もすれば、その地位は別のものに取って代わられる可能性が高い。特に最近流行りの職業婦人――中でも、女給を擁する喫茶店とやら。あれが風俗化すれば、こっちの客のほとんどが向こうに流れていくだろう、ってのが俺の見立てだ。男なんてのは手っ取り早く女を抱きたいもんだからなぁ。俺には分からねぇが。

 教養ある女と逢瀬を重ねる遊戯は、それそのものが時代遅れ。もう既に、そういう時代なのだ。

 そんな世相を反映してか。それとも単純に景気が悪いのが理由か。吉原を訪れる客は、江戸の頃に比べて大きく減っているように思う。その反面、客質は落ちていて、借金を返せないぼんくらや女を無理やり瑕物(きずもの)にしようとするごろつきが随分と増えていた。

 

 まあ、そういう奴等から色々と取り立てるのが俺の仕事だから、別に構わないんだけどなぁ。

 

「―――おや、おやおやおや、これは妓夫太郎の旦那!」

 

 貸座敷――楼主の部屋を後にして『ときと屋』の廊下を歩いていると、横合いから声を掛けられた。

 声がしたのは曲がり角の方だ。そちらへ視線をやると、鼠男(ねずみおとこ)と目が合った。渾名通り鼠に似た顔の男で、ソイツは腰を曲げて愛想全開の笑みをこちらに向けていた。

 

「相変わらず景気が良さそうで何よりでやんす。これからも旦那のご健勝を祈らせて頂きますぜ、へぇっへへへへへへっ!」

 

 急速にこちらまで寄ってきて、発火しかねないほどの速さで揉み手している。

 

「……お前なぁ、何か用か?」

「用事があるかどうかといえば殊更ある訳じゃございやせんが、けれでも、けれどもですよ! あっしと妓夫太郎の旦那の仲ですから! これはもう是非にと世間話でもしようと思いまして!」

「世間話ねぇ。そうだなぁ。お前、甘いのは好きか?」

「へい、大好きでやんす!」

「じゃあ、これやる。これ、俺の舌には合わなかったからなぁ」

「ありがとうございやす! ありがとうございやす! 大事なことですから二回言いやした!」

「訊いてねぇんだよなぁ」

 

 袖から巾着袋を出し、鼠男の方へ差し出す。鼠男は恭しくそれを受け取った。

 巾着袋の中身は菓子ではない。金子である。

 この鼠男は何かと人脈が広く情報通で、各方面に顔が利く。諜報員としてはうってつけの人材だ。なので、こうして餌付けして飼い慣らしているという訳だ。

 

「そうでやんす、旦那。近々この吉原に大物の客が来るそうでやんす。もしかしたら遊女の姉御方にとっては久方振りの書き入れ時になるかもしれませんぜ、へぇっへへへへへへへへへっ!」

 

 こそこそと耳打ちすると、鼠男は忙しなく去って行った。

 

 俺は何事もなかったかのように歩を進める。

 すると、一人の遊女が前方から現れた。顔に見覚えがある。確か、『京極屋』の遊女だ。彼女はこちらの存在に気が付くと、露骨に嫌悪で顔を歪める。そして擦れ違い様に舌打ちまで零して、足早に建物の奥へと消えた。

 

 ……多少偉くなってもやはり醜い奴は嫌われるものだ。

 まあ、俺ももう随分とこういうのにも慣れたもんだけどなぁ。

 

 だが()()()()()()()()、あの女、少し()()()()()()()()

 まあ、あの様子じゃ俺が何かするまでもなく自滅するだろうが……それじゃぁ、ちょっとばかし腹の据わりが悪いよなぁ。どうしてくれようかなぁ?

 

 ……などと、少々物騒な思考を頭の中で弄んでいた所で、程なくして目的地に着いた。

 考えを打ち切ってから見えてきた襖の前で足を止め、頭に被っている頭巾を更に目深に被る。そして「失礼いたします」と一声掛け、返事を待ってから、引手に指を掛けて(ふすま)を開けた。

 

 中には、この部屋の主である一人の遊女がいた。

 

 長い黒髪を結い上げ、上等な着物を着た彼女は、遊女の中でも最高位である正真正銘、本物の花魁だ。前世の人間の頃の俺ならば、(まみ)えることすら叶わない極上の女である。

 女の名は鯉夏という。

 鯉夏は優しげな微笑みを浮かべ、廊下に膝をついたままの俺を出迎えた。その面差しに負の感情はない。彼女は今まで俺が出会った人間の中でも数少ない、俺の醜い姿に嫌悪を示さない人間の一人だった。

 

「お久し振りね、太郎ちゃん。この間はありがとう、助かったわ。自分よりもうんと背の高い男の人を一人でのしちゃうなんて、本当に強いのね。それに融通してくれたお薬も効き目がいいって、みんな喜んでいたわ。倒れた子もすっかり元気になって。本当にありがとうね」

「いぃえ、大したことはありませんぜ。それに、それが俺の仕事ですので。薬もこちらが手前で勝手に用意したものですんで、お気になさらず」

 

 無礼がないよう、努めて慇懃(いんぎん)に返答する。

 吉原に勤める者の中で、楼主以外の男の地位は女よりも更に低い。勿論例外はあるが、少なくとも俺の社会的な地位に限っては、目の前の女との差は天と地ほども隔てていた。

 

 梅の生活をより良いものにするために、俺は自分を変えることを決意し、実行した。

 

 顔の醜さと、痩せぎすの体はどうにもならない。なので少しでも目立ち辛くなるように、頭巾付きの羽織を着て顔と体形を隠している。社交的な口調や仕草などの処世術も積極的に学び、また、それ以外にも仕事に役立ちそうな知識はなんでも吸収した。

 特に医学薬学はこうして仕事にも役立っている。

 本は高価で買えないため、医家や商家へ金を取り立てに行った際、利子の一部を立て替えてやる代わりに頂いたり、ちょいとちょろまかしたりして手に入れた。そして知識を頭に入れた後は売って、蓄えに回している。

 (にわ)か知識を基に安く仕入れた材料で作った薬だが、中々どうして評判の程は上々だった。

 

 それもこれも、全ては梅のためだ。

 

 前世で死の間際にも考えたことだ。梅は素直で影響され易い娘だから、もっと良い環境で育ったなら。あんな惨い目に合うこともなく、幸福な未来を手に入れられたんじゃないか、と。

 

 だから俺は今選べる中で最善の道――梅を遊郭の中でも一等上等な店に入れるという選択をしたのだ。今ならまだ間に合うと、そう信じて。

 

 ……梅と住処を別にすることに、抵抗がなかった訳じゃない。

 

 しかし俺が言ったことだ。たとえ体は離れていても、心は一緒なのだと。だから――今はこれでいいのだと、信じるしかなかった。

 

(かしこ)まってそんな所に座っていなくてもいいわ。こっちにいらっしゃい、太郎ちゃん。お菓子をあげようね」

「……では、失礼ながら。頂きます。ご厚意、誠に感謝いたします」

 

 腰を低くしたまま部屋の畳を踏み、鯉夏の前で膝を突く。

 彼女は呆れたような、けれどもどこかおかしそうな顔をして、俺の手に包みを持たせた。

 匂いと感触、それに中擦れした時の音からして――中身はおはぎか。

 

 俺は頂いた菓子を懐に入れた。

 

「本当にしっかりしてるのね。今時の男の子で太郎ちゃんみたいな子は、吉原ではとんと見ないわ」

「恐れ入ります。……鯉夏花魁。話を蒸し返す形になってしまいますが、お許しください。先日の一件、俺がついていながら禿の娘に――それに鯉夏花魁にまで怪我を負わせてしまいました。誠に申し訳ございやせん」

「いいのよ、気にしないで。それにあの子もきっと貴方を恨んでなんかいないわ。本人がそう言っていたから、貴方も気に病まないで」

 

 慈愛に満ちた表情で、鯉夏は言った。

 

 ……彼女は根本的に、俺という人間を勘違いしているように思えてならない。

 

 事のあらましはこうだ。

 

『ときと屋』の若い新参遊女が客と蕎麦を食べ、突然倒れたのだ。

 遊女の顔と喉は赤く腫れ上がり、呼吸困難に陥っていた。その有り様を間近で見た客の男は毒を盛られたと思い込み狂乱、配膳を担当していた禿に殴りかかったのである。

 そこに丁度居合わせた鯉夏花魁が二人の間に割って入り、怪我を負った。

 後のことは鯉夏の言った通りだ。

 俺は荒れた男を抑え、遊女に薬を投与し、どうにかその場を治めたのである。

 

 俺が今日ここに来たのは、その不手際を処理するための事務的な謝罪が目的でしかないのだ。そもそも本当に謝るつもりがあるのなら、俺は楼主や鯉夏ではなく、怪我を負った禿の娘に真っ先に頭を下げに行っているんだよなぁ。だというのに、この女は俺が自責の念に駆られて謝りに来たのだと思っている。

 これでは腹の据わりが悪い。

 だが、殊更に否定しても意味がない。むしろこのまま勘違いさせておいた方が後々に得になると、そう判断できなくもない状況だった。

 何より雄弁は銀、沈黙は金という。ここは黙しておくべきだろう。

 

「……それでは、そろそろ俺は仕事に戻らせて頂きます。お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」

「いいのよ、何時でもいらっしゃいな。今度は梅ちゃんも連れておいでね」

「承知いたしました。では、失礼いたします」

 

 俺はそっと襖を閉めた。

 鯉夏花魁は、最後まで俺に笑顔を向けていた。だが、こうして壁一枚を隔てた向こう側でどうしているかは分からない。もしかしたら、唾でも吐き捨てているかもしれなかった。

 

 ……いや、そんなこと考えても仕方がないよなぁ。

 

 俺は目立たぬように浅く溜息を吐いてから、ゆるりと立ち上がって元来た道を引き返した。




【大正コソコソ噂話】
 鯉夏花魁はとても優しい人で、謝花兄妹のことを本心から気に掛けていてよくお菓子をあげています。餌付けの成果によって既に梅は陥落しているので、妓夫太郎もあと少しで攻略可能になるでしょう。
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