何度生まれ変わっても   作:ミズアメ

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第伍話 華に化けた鬼

 百年の時を経て江戸から大正へ時代が移ったことで、吉原は大きく様変わりしていた。

 

 遊郭にある店はかつて遊女屋と呼ばれていたが、今は貸座敷という名前に変更されたらしい。最高位の遊女の呼称も、太夫から花魁へ変化していた。建物は木造の物が主流なのは変わらないが、鏡や硝子が広く一般に普及しているなど、細かな所に技術の発展を感じるなぁ。

 名前を変えた所で、店での遊女の扱いは変わらないが。籠の鳥のままだ。

 事実として、遊郭は治安維持の都合と遊女の逃亡防止のため、お歯黒(はぐろ)(どぶ)と呼ばれる堀のような大溝に囲まれている。出入口はただ一つ、日本提の辺りにある大門一つ切りしか存在しない。

 

 しかしお歯黒溝の幅は、昔と比べて随分と狭くなっているようだ。

 昔は五間――西洋風の()()()()な言い方をするなら、約九()()()()――はあった。しかし今の溝の幅は精々が三尺――約九十()()()()()()()――程度しかない。……容易く飛び越えられそうなものだが、案外そうでもないのだろうか。

 

 少なくとも俺なら飛べそうだなぁ。やらねぇけど。

 

 月の冴えた夜。盛況する吉原は、活気ある本来の姿を取り戻していた。

 嬌声と客を呼び込む声が至る所から聞こえてくる。そんな街の情景に背を向けて、俺はお歯黒溝の傍に立ち、立っている側とは反対の溝の壁を、意味もなくぼんやりと眺めていた。

 正確には、そこに巣を張っている最中の蜘蛛の動きを観察しているのだが。

 

 ……さっき一仕事終えたばかりか、感覚が尖ってて落ち着かねぇなぁ。

 

 聞きたくもない声がする。男と女の声だ。

 位置が近い。場所はすぐ後ろの路地裏か。衣擦れの音、嫌がる女と猛った男の汗の臭い、男が女の顔を建物の壁に叩き付け、自身の手で抑え込む反動が地面に伝わってこちらまでやってくる。

 

 ―――やめておくんなし! 人を呼びますよ!

 ―――そんな格好で叫んだ所で無駄よ無駄! 逆に俺みたいなのが増えるだけだろうよ!

 

 か細い恐怖の悲鳴と、下卑た男の笑い声がよく聞こえた。

 肩越しに振り返ってみれば、やはり路地裏の闇の中で体を(もつ)れさせている男女の姿があった。俺は夜目が利くからなぁ、そりゃもうはっきりと視えた。

 どうやらあの暴漢――外回りに出てた遊女を、隙を見て強引に路地裏へ連れ込んだらしい。

 

 俺は足元に落ちていた小石を拾った。

 

 ―――武器を扱う上で最も重要なのは、体から力を抜くことだ。

 

 筋肉は緊張している状態だと、本来の力を発揮できない。故に徹底して脱力する。しかし完全に力を抜いたのでは武器を握れない。なので正確には、親指とそれ以外の指――あるいは右手と左手で引っ掛けるようにして、武器を持つ。

 そもそも武器とは、腕の力で振るうものではない。

 腕だけで発揮できる力など高が知れているからだ。だから腕からは力を抜き、代わりに足腰を始めとした全身の筋肉の動きを意識した状態で、武器に全体重を乗せる形で刃を振るう。そうすれば俺のような痩せぎすの体でも、人の頭を刀ごと唐竹割りにするくらいは容易くなる。

 拳で殴る時にも同じことが言える。

 ただ腕力だけで殴りつけるよりも、足腰を入れた拳の方が強い、と言われるのはそのためだ。

 

 俺は右足を大きく後方へ踏み込ませて体を捻り、振り向き様に腕を鞭のように(しな)らせる。

 相手は建物の影――こちらからはやや死角となる場所にいるため、直線的なこの位置から直接狙うのは不可能だ。よって狙う場所は路地裏の壁。

 

 投擲された石は壁に当たって跳ね、狙い通りに暴漢の背中に直撃した。

 

 男が悲鳴を上げて蹲る。その隙に、遊女は肌蹴た着物を直しつつ逃走した。……労いの言葉が欲しいとは思わねぇが、せめて目礼ぐらいはしろよなぁ。礼儀がなってないぜ。

 まあそういう対応にも随分と慣れたもんだし、別に構わないけどなぁ。

 

「痛ってぇええ――テメェ、何しやがる!」

 

 激昂した男がこちらに怒声を浴びせる。

 

 それに言葉を返すつもりは毛頭なかった。代わりに俺は、被っていた頭巾を下ろして――これ以上ないってほどの嘲笑を暴漢に向ける。

 暴漢の顔が、茹で上がった蛸みたいに真っ赤になった。

 

「こんのクソガキィイイ―――――ッ!」

 

 男は罵声を吐きながら、猪の如くこちらへ突貫してくる。

 

 随分と恰幅のいい男の声だった。いつぞやの派手な女房三人連れ節操なし()()忍者みたく、上背が六尺は越えてそうだなぁ。いいなぁ、俺はなに喰っても全然肉がつかねぇからなぁ。恵まれた体を持って産まれたってのはいいことだ、実に羨ましい。妬ましいなぁ。

 

 まあ、仕事に私情は挟まないけどなぁ。

 

 男は拳を振り被り、俺の顔を狙って叩き込んでくる。それを苦もなく躱して振り抜かれた暴漢の手に己の腕を絡めると、そのまま勢いに任せ、柔術の要領で暴漢を放り投げた。

 暴漢はお歯黒溝には落ちず、そのまま対岸の地面に叩き付けられる。

 

「随分と酔っていらっしゃいますね、旦那。今日はもうお帰りなられた方がよろしいでしょうなぁ」

 

 嘲りを込めた口調で告げると、男は真っ青になっていた顔を再び赤くして、「ぶっ殺してやるからな! 逃げるんじゃんぇぞ!」と脅迫を残して全力で走って行った。

 

 再び大門からここまでやってくるつもりなのだろうが、当然ながらそれまで待つつもりは毛頭ない。俺は頭巾を被り直し、その場から離れようとした所で、肌と肌が凄まじく擦れる音を聞いた。

 

「いやぁ、本当にお強いでやんすね! 妓夫太郎の旦那!」

 

 発火しそうな勢いで揉み手をしている、猫背で出っ歯の男。鼠男が、何時の間にか俺の隣に並んでいた。

 

「覗き見してたのか、(ねず)。いい趣味してんなぁ」

「そりゃあもう、あっしは妓夫太郎の旦那を心の底から尊敬しておりやすからして! いつでも旦那のことを見ているでやんすよ! 旦那のまた新しい武勇伝を見られて、あっしは満足でやんす!」

 

 愛想笑い全開で言う鼠男。胡散臭いことこの上ないが、しかし心音と汗の臭い、声の肌触り、それに顔の筋肉の動きからして、嘘を吐いている感じはしなかった。

 

 前世からそうだったが――俺の感覚は並外れて鋭い。

 

 生まれ付きこうだったのか、それとも妓夫の仕事をしている内に研ぎ澄まされていったのか。どちらなのかはわからないが、兎も角、俺は相手の状態をつぶさに観察することで、何を考えているのか分かるようになった。

 ちなみに味覚も鋭いので肌を舐めてみればより解析の精度は高くなるのだが、気色悪いので基本的にはやらない。

 

 極めて高度な情報処理能力と的確な判断力。誰に言われるでもなく熟せた天性の才能。俺はこの技によって上弦の陸まで上り詰めた。醜く汚い俺にとって、腕っぷしの次に誇れる取り柄だ。

 

「そういや旦那、件の大物客ですがね。どうやら女連れのようでして。しかも相当な別嬪を連れてるんでやす」

「なんだそりゃ。そいつは女衒(ぜげん)なのか?」

「いえ、客の旦那は真っ当な堅気の商売をやっているお方でやすぜ。何件か店を回っているようでやすが、しかし遊女とはあんまり遊んではいないようで。それはもう、そこかしこから愚痴と罵詈雑言が聞こえやした」

「そいつはまた、礼儀知らずというか怖いものなしというか。さっきの遊女みたく、酔っぱらった馬鹿客に襲われかねないってのに。いらねぇ仕事を増やすような真似すんなよなぁ……」

「それが相当な大人数で来てやして。ありゃあきっと用心棒だ。旦那と別嬪はそいつらに囲まれてやすから、きっと大丈夫なんじゃないでやすかね?」

「それならいいんだがなぁ」

 

 頭巾を目深に被り直し、鼠男を連れ立って、遊郭の街路を歩きながら愚痴る。

 貸座敷の玄関口が並ぶ通りに出ると、何やら大人数で移動している足音が聞こえた。もうすぐそこにまで来ていて、月明かりに照らされた物々しい一団がよく見える。噂をすればなんとやら、どうやら先程話していた連中のようだ。

 店の呼び掛けをやっている奴等が、(ことごと)く壁際に移動して道を開けている。他の客達ですら同様だ。それに(なら)い、俺と鼠男も目立たぬよう隅に立つ。

 

 二人の人間を中心にして、十数人の用心棒の男とそれから数人の使用人と思しき女が悠然と行進している。まるで花魁道中のようだ。

 

「……どうやら大門の方に向かってるようでやすね。夜はまだまだこれからだってのに、随分とまあお早いお帰りで」

 

 皮肉交じりに鼠男が耳打ちする。

 俺は肘で鼠男の脇腹を小突いた。

 

 それにしても大物の客と連れの別嬪……果たして、どんな奴なんだろうなぁ?

 

 なんとなく興味をそそられたので、目立たぬように一団を観察する。多くの人影に覆い隠れた二人――その内の一人を見た瞬間。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 爆発したみたいに心臓が跳ね、血が(やかま)しく騒めく。

 

 強烈な畏怖によって心が塗り潰された。呼吸が完全に止まる。体中、至る所から冷や汗が噴き出していた。目を見開いたまま、瞬きすることすら忘れている。屍のように身体が硬直していて、ぴくりとも動かせない。

 

 何故、お前がここにいるんだ。

 

 今までに見たことのない姿をしていた。ソイツは完璧に人間だった。黒い着物を着た妖艶な女で、ソイツから発せられる気配は完全に人間のものだった。

 

 だが、体は騙されても、俺の血が――魂がその存在を忘れない。

 

 何故、お前がここにいるんだ。

 何故、()()がここにいるのだ。

 何故、()()()()()()()()()()()()()()()()()―――――!

 

 

 

 ―――――()()()()()()……!

 

 

 

 * * *

 

 鬼舞辻無惨の目的は二つ。

 

 この世で唯一完全無欠にして完璧な存在である己を、更なる頂へと押し上げる触媒――不老不死である自身を真なる意味での不死身に変える薬、『青い彼岸花』の捜索。

 そして、太陽を克服する体質を持つ鬼の創造である。

 

 鬼は太陽の光を浴びれば死ぬ。

 

 それは鬼舞辻無惨とて例外ではない。

 

 しかし、もし――鬼が進化し、太陽を克服する体質を獲得した場合。それを取り込むことで鬼舞辻無惨は全く同一の特性を獲得し、太陽の下でも生きられる究極の生命体へ変貌する。

 

 鬼舞辻は強い鬼こそがその体質変化の進化を遂げると考えているのか、鬼の中に十二鬼月という集団を組織し、実力に応じて絶えず順位を変動させていた。

 

 十二鬼月は、上弦と下弦とに分けられる。

 

 上弦の壱、弐、参、肆、伍、陸。

 下弦の壱、弐、参、肆、伍、陸。

 

 最も強いのは上弦の壱。

 最も弱いのは下弦の陸。

 

 前世において俺は、上弦の陸の鬼だった。だが今は人間だ。無力で弱く、その上醜い、みっともねぇ生き物だ。鬼からすれば人間なんて全て虫けらの畜生同然で、餌として容易く喰い殺される。

 

 鬼とは人間が変化したものだ。

 

 鬼舞辻無惨は自らの血を人間に与えることによって、人間を鬼に変える。その理由は『青い彼岸花』捜索のための走狗を造るためであり、そして、太陽を克服した鬼を生み出すためだ。それで鬼舞辻は見込みがありそうな人間に対して、手当たり次第に己の血を分けている。

 

 そんな男が吉原に来ていた。

 何故か? 鬼を造るためだ。

 

 恐るべき鬼が――今、この吉原にいる可能性が高い。

 

 事態は急を要していた。

 

 俺は鬼舞辻を確認した時点で、鼠男に対してあの客が行った店が何処だったか探るよう命令を出した。結果は直ぐに出た。

 

 奴等が回った店は三つ。

 

 『荻本屋』。

 『ときと屋』。

 

 そして――『京極屋』。

 

 順調だった筈の世界、幸福だった筈の未来が、雪崩を起こして瓦解していく音を聞いた。


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