男/少年は問う。
なぜ――どうして殺す。
失われた命は回帰しない。二度と戻らない。
たとえ命を落とすことなく、生き永らえたとしても。
潰れた目が光を宿すことはなく、焼け爛れた肌と肉はそのままずっと治ることはない。誰かが死んだのなら、それは必ず、他の誰かの心を引き裂く傷となって永劫に心を膿ませ続ける。
だというのに――なぜ奪う?
なぜ、命を踏み付けにする?
どうしてそんなことができる?
お前も人間だったのに。どうして忘れる、なぜわからない。痛みや苦しみにもがき、涙を流していた筈だ。
何が楽しい?
何が面白い?
命をなんだと思っているんだ―――――
「―――――……ちゃん、……めちゃ……」
膿のように重く粘り付く闇の中で、梅は誰かの声を聞いていた。
それが誰のものだったのかは分からない。そもそも産まれてこの方、一度も聞いたことのない声だったように思う。だというのに――梅は不思議と、その声の主が誰なのか識っているような気がした。
だけど、思い出したくない。
もしもそれを思い出してしまったなら、全てが崩れてしまうような――そんな不吉な予感が、胸を締め付けるのだ。
(アタシ……アタシは、誰? アタシの名前、なまえ、は……―――)
混濁した意識の中で、彼女を呼ぶ声が木霊している。
それは怨嗟。怨念。決して消えることのない悪意であり、恨み辛み。地獄の底における日常茶飯事。糸を伝って極楽へ逃れようとする裏切り者を、引き摺り下ろさんと欲する亡者の叫びだ。
その声は酷く醜い。
しかしその一方で。それは、紛れもなく梅自身と同じ声をしていて―――
「―――梅ちゃん……ッ!」
耳元で聞こえた叫び声に、梅の意識は、眠りの底から弾けるようにして浮上した。
「つばき?」
「ああああ、目が覚めてよかったよぉ! だいじょうぶ? 廊下に倒れてたから、私、心配で心配で……!」
見回してみれば、確かにそこは『京極屋』の廊下だった。
板張りの床の上に横たわっていた体を起こし、梅は椿を安心させようと顔に笑みを張り付ける。
「そう、なの? ごめん。ちょっと寝てたみたい。床の上で寝るなんて、なにやってんだろアタシ、あはは」
「笑い事じゃないよぅ! 気分が悪いなら、楼主様たちに言わないと……」
「本当に大丈夫だから心配しないで! さっ、仕事の続きをしましょ! 今日は忙しんだから!」
立ち上がり、椿の手を引いて足早に歩き出す。
椿はまだ何か言いたそうにしていたが、梅はあえてそれを黙殺する。空元気だと自分でも分かっていた。それでも今は体を動かしていたかった。そうでなければ落ち着かない。休むなんて以っての外だ。
(……なんで寝てたのかぜんぜん思い出せない。最後になにをしてたのかも分からない。こんなこと初めてだ。気持ち悪い。変な夢も見るし、ほんと最悪)
眉を怒らせ苛立ち交じりに歯噛みしつつ、梅は頭を切り替えるべく頬を張る。そして一転して空元気を顔面に張り付けて、無心で仕事に没頭するよう努めた。
先程の異常を、悪夢を―――忘れ去ろうとするように。
決して思い出してはならない記憶に、蓋をするように。
* * *
鬼にされたのは梅ではなかった。
だが、だからといって安心できない。他の誰かが鬼になっている可能性が高いだろう。梅を『京極屋』に預けたままにしておくのは、あまりにも危険だった。
俺は『京極屋』の楼主と遣手婆を説得し、一時的に梅に暇をやることを認めさせた。
常に俺の手元に置いておかなければ危ない。安心できない。
最低でも『京極屋』、『荻本屋』、『ときと屋』の人間が出入りするような所から離れなければならない。故に、俺は梅を生家である羅生門河岸に戻すしかなかった。
貸座敷の上等な住まいから一転しての襤褸小屋生活。当然、梅は文句を言うだろうが、ここはどうにか我慢して貰うしかない……―――
―――と、思っていたのだが。
「やった、やった! またお兄ちゃんと一緒に暮らせる! やったー!」
偉く上機嫌だった。
思わず毒気を抜かれてしまったが、しかしそれで危機感まで飛んで行ってしまっては命に関わる。俺は気を引き締め、改めて俺達の置かれた状況を整理する。
まず第一に、誰も鬼になっていない可能性。
当然、そうであるのが一番良い。だが現実はいつも俺達に厳しく、災いばかりを運んでくる。この可能性はないものと考え、鬼はいるものと仮定して行動するべきだ。
蓄えはある。人脈もそれなりにある。出来ることは全てやった。
俺は妓夫の仕事は一番信頼できる奴に任せ、数日分の保存食を買い込み、梅と共に羅生門河岸の母家に引き籠った。そして件の三軒の貸座敷を中心に、吉原で不審な足抜けや自殺者が出ていないか、鼠男に情報を集めさせた。
更にそのついでに、吉原の内外にとある噂を流させている。
―――吉原で人が消えた。何人も消えた。鬼が出る。人食い鬼が出ているぞ。
噂は直ぐに広まっていった。
これは鬼狩り――鬼殺隊を呼び寄せるための策だ。前世でのことを考えれば忌々しい連中だが、しかし今は奴等に頼るしか手段がない。もしも鬼狩りがさっさと鬼を見つけて頸を落としてくれたなら、それで万々歳だ。その時は私財を投げ打って、鬼殺隊を支援する藤の花の家紋の家とやらを吉原に開いてもいい。
だが、噂を流したからといって鬼狩りが来る保証はない。仮に来たとしても、ソイツが弱かったりしたら意味がねぇ。時間が掛かる上に不確定要素が多過ぎる。あてには出来なかった。
結局の所――自分の身は、自分で護るしかねぇよなぁ。
「……椿、今頃どうしてるかなぁ」
暇そうに布団に寝転がり、頬杖を突いた体勢の梅が呟いた。
俺も知っている娘だ。『京極屋』に勤める禿で、梅と随分仲が良い。
……罪悪感がちくりと胸を刺す。
梅の友達。優しい気配の娘。叶うことなら死なず、生き残って欲しいものだが――しかし、実際に助けることはしない。
もし目の前であの子が鬼に食われそうになっていたとしても、俺は見捨てるだろう。見捨てて、梅を抱えて逃げるだろう。それが最も正しい行動の筈だ。俺にとって大切なものは、梅以外にないのだから。……だと、いうのに。なんなんだ、この妙な、嫌な感じは。
処世術の一環として、道徳だの倫理だのを学んだのが原因か。俺は、かつての俺と比べて明らかに世渡りが上手くなったが、その代償として弱くなっていた。
今だけはかつての己を取り戻せ。
梅を生きたまま焼いた侍と婆――アイツ等を殺した時の殺意と手触りを、思い出せ。
―――俺は何度生まれ変わっても必ず鬼になる。
あの誓いを、再び現実のものとしろ。
俺は腰紐に提げた二振りの鎌に触れた。俺にとって最も馴染みのある武器――鬼としての俺が持つべき凶器。久方振りに握った得物の柄は、自分でも驚くほど掌にしっくりきた。
「―――――」
唐突に、腹ばいに寝そべっていた梅が起き上がった。
まるで猫のように、宙の一点をじっと見つめている。
「お兄ちゃん……―――逃げよ」
どうかしたのか、と声を掛けようとした所で、いきなり梅に袖を引かれた。
逃げるとは一体どういうことだ――などと、困惑していた数秒前の己を痛烈に罵倒する。俺は梅を横抱きに
―――不味い。不味い不味い不味い、不味い!
遊郭の貸座敷がある方から強烈な血の臭いがする。恐らく、店が一つ
間違いなく鬼だ。鬼がこっちへ来ている。
糞、なんでこんな所に来るんだよ! ここにいるのは病気持ちの不味い人間ばかりだぞ! もっと他にこう――あるだろうがよ色々とッ! なぁあ!?
臭いが更に近付いてくる。足音が聞こえてくる程近い。嫌な空気が肌を刺す。
鬼の身体能力が人間以上であることを差し引いても、速度が尋常じゃない。臭いと音の位置が人の背よりも随分高い。どうやら鬼は地面ではなく、建物の屋根を次々と跳んできているようだ。しかもどういう訳か、完全に、俺達のいる方へ来……―――――
『―――――逃がさないわよ、気持ちの悪い糞兄妹』
気が付けば、ソレは目の前にいた。
見覚えのある顔だ。『京極屋』の遊女――以前、『ときと屋』で擦れ違った時に、俺に舌打ちを零した奴。禿の梅に対して陰湿な嫌がらせを繰り返していたあの糞売女。名前は確か―――
「―――いったい何の用よ、わらじむし!」
『蕨姫だって言ってんだろうが! 何度同じことを言わせるつもりだこの糞餓鬼がァアアア!』
現れた女は青筋を立てた鬼の如き形相で、名前を間違えた梅を怒鳴った。
それは、人の声じゃない。
これは、人の音じゃない。
この臭いは人間じゃない。
アイツのあの紅い眼は―――明らかに、人のものじゃない。
鬼舞辻無惨が鬼にしたのは、蕨姫か。よりにもよって、コイツなのか……ッ!
『本ッ当に忌々しい餓鬼だね。だけど今、私は機嫌がいいんだ。まだお前等は殺さない。死ぬほど痛い思いをさせて、死なせてくれと懇願してきても更に痛めつけて、何の反応も返さないくらい壊れちまった頃にようやく殺してやるよ』
「はっ! アンタがアタシを殺すですって? 無理ね。だってアンタは、アタシのお兄ちゃんより弱いもの」
俺の首筋に頬を寄せて、心底見下し切った顔で蕨姫を嘲る梅。
蕨姫は俯いている。肩を震わせている。悔しいからではなく、梅の言っていることがあんまりにもおかしいからだ。くつくつとした笑いを、口の中で転がしている。
今は夜で、とても暗い。周囲に人影もない。貸座敷がある通りの方から遠ざかっていたのが完全に裏目に出た。
梅は夜目が利く方じゃないが、月明かりで相手の
アイツが両手に一つずつぶら下げている何か――そちらには、全く注目していない。
あるいは――本能的に、見ないようにしているのか。
「ふん、震えてるじゃない。みっともないわねぇ。今なら許してあげるから、さっさと―――」
『く、くくく……アァ―――ッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ』
堪えられる限界を突破した蕨姫が、爆笑した。
『この私が、その醜い蟷螂男に負けるって? そんなことある訳ないでしょう、馬鹿が。なんていったって、今の私は鬼なんだからねぇ』
「はあ? なに言ってんのアンタ。鬼なんて、この世にいる訳が―――」
『なら、証拠を見せてあげようじゃないか。ほら』
そう言って、蕨姫は左手に持っていたモノを俺達の目の前に放り投げた。
血と臓物臭がする。何かの飛沫と弾性のあるものが地面に落ちる音が耳朶に沁みた。
放り投げられたのは、男の死体だった。
全身を切り刻まれ、腹から内臓を零した惨い死体。どんな殺され方をされたのだろうか、男の顔は恐怖で歪み引き
鼠男が死んでいた。
「―――――うぷっ……!」
梅は口を掌で覆った。そして俺の腕の中から飛び降りて、胃の中身を地面にぶちまける。
『汚いわねぇ。ああ、やだやだ』
血で汚れた口元を、血で真っ赤になった着物の袖で隠して、蕨姫は上品に梅を嘲笑った。
『私の周りを嗅ぎまわっていたからね、目障りだから殺してやったわ。醜くて喰う気にならなかったから、血鬼術で殺した。「京極屋」にいた奴は全員殺してきた。客も遊女も楼主も遣手婆も下働きも。美しい奴だけ喰らい、醜い奴は惨く殺してやったわ。―――って、いつまで吐いてんのよ愚図。顔を上げな』
「……?」
『そうそう。ほぅら、よく見て御覧、梅。お前、こいつの顔に見覚えがあるんじゃないかい?』
そう言って、蕨姫――鬼は、右手に持っていたものを掲げた。
それは、人の首だった。
幼い童女の首だ。年の頃は梅と近い。血で汚れた顔はやはり恐怖で歪んでいて、泣き顔のまま硬直していた。
『なんて言ってたっけ。……ああ、椿だ。私はお前と違って記憶力がいいからね、ちゃんと名前が言えるよ。こいつはお前と仲の良かった禿の餓鬼、椿――の、食い残しだ』
もぎ取られた椿の首――その頬に噛り付き、肉を喰い千切って咀嚼する。―――その光景を目にした瞬間、梅は絶叫した。
大粒の涙を零し、天を仰いで咆哮する。
肺の空気が尽きて叫べなくなると、梅は立ち上がって地団駄を踏んだ。
「殺してやる! 殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる―――殺してやるッ!」
「……ッ! よせ! やめろ梅!」
気が付けば、梅は駆け出していた。何時の間にかその手には、俺が腰に提げていた二本の鎌の内の一本が固く握られている。
腕を伸ばすが、手が届かない。止められなかった。
梅は鬼に飛び掛かり、頸目掛けて横薙ぎに刃を振るった。
鬼はにやにやと笑ったまま動かない。防ぐどころか、受け身すら取るつもりはないようだ。余裕綽々な態度を崩さずにいる。―――鎌の刃が頸に触れた、その瞬間までは。
「アアアァァァァアアアアアアアアアアッ!」
『―――!? ぐっ……この、餓鬼がァッ!』
鎌の刃が肉を断つ。分厚い刃が深く食い込む。それに本能的な危機を感じたのだろう、鬼は拳を振るって梅を払い除ける。
梅の小さな体は容易く跳ね飛ばされ、近くの小屋の壁に激突した。
鬼は首に刺さった鎌を抜くと、そのまま梅目掛けて投擲する。鎌の刃は梅が着ていた着物の後襟に突き刺さり、地に崩れ落ちかける矮躯を縫い留めた。
『なんて力してやがる。火事場の馬鹿力って奴かね? 驚いたんでちょいと強めにやっちまったけど、死んじゃいないだろうね? ……ちっ、気絶したか。まあいい。起きるまでお前で遊んでやるよ、蟷螂野郎。こいつが起きた時にまた反吐をぶちまけるような、醜悪な死体にしてやるから』
五指を不気味に蠢かせ、鬼は舌なめずりをする。
酷く恐ろしげな姿だ。だが、そんなことはどうでもよかった。
体が痒い。酷く痒い。俺は血が出るまで己の醜い顔を掻きむしった。
梅が――俺の自慢の妹が傷付いた。傷付けられた。
許せねぇなぁあ。
許せねぇなぁあ。
許せねぇなぁあ。
特に―――妹を止めることすら出来ず。
だが、それよりもまずは取り立てだ。
なにせ俺は妓夫太郎だからなぁ。こいつが『京極屋』で殺した命の分、そして俺の妹を殴りやがった分の貸しを、相手の命できちんと取り立ててやらねぇとなぁあ!
「―――やってくれたなぁぁあ雑魚鬼。お前は必ず、俺のこの手で地獄に落としてやるからなぁッ!」
『ハッ、馬鹿言ってんじゃないわよ屑が! 人間に鬼が殺せるか! 何より――地獄なんて、そんなもんある訳ねぇだろうが!』
【大正コソコソ噂話】
炭治郎達五人がそれぞれ一つの感覚に特化しているのに対して。
妓夫太郎は五感の全てに優れ、逆に梅は第六感に秀でています。