八神マキノと待ち合わせをしていた月宮雅と、マキノと同じユニットに所属している吉岡沙紀が初めて出会う話。

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エンカウンター・ブルー

 いつもマキノとの待ち合わせに使っている事務所二階の待合スペースは、階段を上がってすぐのところにあった。西向きの大きな窓からは、傾きかけた陽の光が斜めに差し込んでいる。スペースの中央にはガラスの天板が張られたちゃぶ台のようなテーブルが置かれており、その両側には二人がけのソファー、南側の壁際には自販機が一台、そしてその横には背の高い観葉植物が置かれていた。そこそこの広さはあるが、テーブルとソファーと自販機のほかに何もない、簡素な風景だった。

 簡素ではあるが、雅はここが気に入っていた。

 レッスンの休憩中やレッスン終わりに、世代やユニットを越えていろいろなアイドルたちが、何とはなしに来ては去り、集まっては散っていく。そんな一期一会をもたらしてくれるこのスペースが、雅はなんとなく好きだった。

 マキノと出会ったのもここだ。ここがなければ、マキノと知り合って仲良くなることもなかったかもしれない──そう思うと、この場所がいっそう愛おしく思えてくるのだった。

 そのマキノを、雅は待っていた。西陽が差し込むのでブラインドを少し下げて、北側のソファーに腰を下ろす。壁に掛かった電波時計の針は十六時五十五分を指していた。十七時にはレッスンが終わると言っていたから、ちょうどいい時間だ。

 数分も経たないうちに、期待したとおり、廊下の向こうからレッスン室の扉が開く音が聞こえた。人の声もする。こちらに向かってくる足音。きっとあれは──

 ──現れたのはマキノではなかった。

 雅は少しがっかりした。が、そこに現れた人物にはどこか見覚えがあった。

 背はマキノよりも少し高く、髪は明るい茶色のショートカットの少女──少女といって良いのだろうか、歳は、雅と同じくらいに見えるが、よくわからなかった。首にはタオルを引っ掛け、レッスン着と思われる白いTシャツは汗で肌に張り付いている。少女は雅のほうにちらりと目を向けたがすぐにそらし、自販機のほうへ歩いていった。ジャージに包まれた足が長い。

 雅はその少女の動きを目で追いながら、一生懸命に記憶をたどった。事務所のレッスン室でレッスンしているのだからアイドルには違いない。どのユニットの子だったか……。

 少女は自販機の前で少しだけ逡巡した後、コインを入れて最上段右から二番目の水のペットボトルのボタンを押した。ピ、ガコン。

 そうだ。

 雅は、勇気を出して少女に話しかけた。

「ねぇ、あなたってクァッドブルーの……」

 少女はペットボトルを取り上げるやいなやぐるりと振り向き、眉をぴんと上げて雅の顔をまじまじと見た。二人の視線が真っ直ぐに交わり合う。数秒の後、はっと何かを思い出したかのように少女は目を見開いた。

「もしかして、"月宮雅"さんっすか?」

 初対面の少女にいきなり名前を呼ばれたことに驚きながらも、「う、うん、そうだよぉ」と雅は答えた。

 相手は嬉しそうに目を輝かせた。

「どっかで見たことある人だなーって思ってたんすよ! いま!」

 いやぁ〜そっかぁ〜はぁ〜とか何とか言いながら少女は雅の顔を見てしきりにうなずいた。一見クールそうに見えたが、意外にも快活で爽やかな声をしている。

 雅は少し驚いた。彼女がマキノの所属しているユニットのメンバーであることはなんとなくわかったのだけれど、向こうが自分のことを知っているとは思わなかった。直接会ったことは一度もなかったはずだ。お互い新人なのもあるが、仕事で一緒になる機会でもない限り、他のユニットのアイドルのことは案外知らないものである。

 少女は首からタオルを外し、にっこりと笑顔を向けた。

「はじめまして、吉岡沙紀っていいます。マキノさんにはいつもお世話になってるっす。──マキノさん、まだ向こうにいると思うっすけど、呼びます?」

 名前を聞いて、雅はこの少女のプロフィールをだんだん思い出してきた。たしか歳は雅やマキノの1つ下。クァッドブルーの最年少にして最高身長メンバー。出身地は……はっきり覚えていないが、関東だった気がする。

 最初に顔を見たときにピンと来なかったのは、宣材写真とはイメージがだいぶ違ったからだろうか。雑誌か何かの写真で見た沙紀は凛として大人びた雰囲気に見えたが──クァッドブルーというユニットのコンセプトがそうだからだろう──、実際に会ってみると、年相応の可愛らしくはつらつとした少女のように見えた。

「ううん、大丈夫」

 雅はそう言って微笑みを返しながら、内心不思議に思った。マキノの名前なんて一言も口に出していないはずなのに、どうして初めから「マキノさんにはいつもお世話に」なんて……?

「もうレッスンも終わるでしょぉ? ここで待って──」

「いや、まだあと一時間あるっすよ」

「え?」

 雅はまたもや驚いた。時間を間違えたかしら、と掛け時計を再び見上げる。十七時五分。

「今日って十七時までじゃなかったの?」

「あー、そうだったんすけど、一時間増やそうって昨日急遽決まったんすよ」

 沙紀は言った。

「マキノさんが、少し練習を増やしたほうがいいって言って。で、彩華さんがプロデューサーに掛け合ってくれて」

 周子さんは面倒くさそうな顔してましたけど、と言いながら沙紀はペットボトルのふたを開けて水を口に含んだ。

 マキノからは特にメールも電話もなかった。急だったからかもしれないし、忙しくてつい忘れていたのかもしれない。マキノにしては珍しい。まあでも、今日レッスン後にご飯に行こうと誘ったのは自分のほうだし、一時間待つくらい、なんでもないのだけれど。

「そっかぁ、長い時間大変だねぇ〜」

 雅は言った。

 ん〜、と言いながら、沙紀は口に含んだ水を飲み込む。

「やっぱ、ライブ前ですしね。練習時間とかは、マキノさんが率先して決めたりしてくれてるんっすよ。これだけのレッスンをすれば今度のライブは理論上成功するわ、とか言ってね」

 変わってるっすよね、と沙紀は笑った。

 マキノが言いそうなことだ、と雅も思った。

「まあでも、その"理論"のおかげかはわからないっすけど、いままでなんとかうまいことやれてきてるんで、たぶんマキノさんの言うとおりにやれば大丈夫なんだって思って、みんなやってるっすよ」

 そう言いながら沙紀はペットボトルを縦にしゃこんしゃこんと振った。

「マキノちゃんのこと、信じてるんだねぇ〜」

 雅が言うと、へへっ、とはにかみながら沙紀は肩をすくめた。

「ま、アタシ、体力だけはそれなりにあるんでね」

「そうなの?」

「ええ、一晩中かけて壁に絵描いたりなんて、前はよくやってましたしね」

 そう言いながら沙紀は、スプレーを壁に吹き付ける真似をして、ペットボトルを持った手をぶんぶん振り回した。足も長いが腕も長い。それに、何気ない動きにしなやかさとキレがある。きっとダンスが得意なんだろうな、と雅はなんとなく推測した。

「壁に……すごぉい、見てみたいなぁ」

 それには答えず、沙紀は壁時計にちらと目をやり、そして雅のほうを振り返った。レッスンに戻るの、と雅が聞こうとする間もなく、沙紀は雅の真向かいのソファーにすとんと座り、雅を正面からまじまじと見つめながら言った。

「あの、月宮さんって、マキノさんと仲良いんすよね?」

 突然の質問に雅は面食らった。

「彩華さんが言ってたっす」

「彩華……岸部、彩華さん?」

 クァッドブルーのメンバーの名前を思い出しながら雅は問う。なんかすごく、ゴージャスな感じのする子だったような。

「そうっす。彩華さんがこの前、マキノさんと二人で配信した時に、マキノさんが言ってたらしいんすよ。何かこの前一緒にショッピングに行ったとかそんな話を」

 先週二人でモールに行った時の話だろうか。配信でそんな話をしているとは、雅も初耳だった。

「で、彩華さんも初めて知ってびっくりしたらしいっす。失礼かもしれないけど、あのマキノさんにそういう友達がいたんだーって」

 沙紀は言った。

「で、その"月宮さん"ってどんな人なんだろーって、気になってたんすよ」

 なるほど、それで自分のことを知っていたのか、と雅は合点がいった。

「マキノちゃんからはそういうの、あまり聞いてないんだ?」

「あの人、仕事は熱心だし頼れるけど、プライベートの事とかめったに喋ってくれないっすからね〜、なんか結構、謎に包まれてるっす」

 雅には意外に思えた。最初の頃こそ謎の多い人物のように思えたが、最近になって二人で出かけたりするようになってからは、学校の話や家族の話なんかをちょくちょく彼女のほうからしてくれる。しかし、考えてみれば、逆にあまり仕事の話では盛り上がったことがなかったかもしれない。クァッドブルーのメンバーについての知識がおぼろげだったのもそのせいだ。彼女なりに、相手に合わせて話題を選んでいるのかもしれない。マキノらしい。マキノのことがまた少し知れた気がして、雅は嬉しくなった。

「おっと、もうちょっと話を聞いてみたかったっすけど、そろそろ時間なんで行きますね」

 そう言って沙紀は名残惜しげに立ち上がった。

「またいろいろお話聞いてみたいっす、月宮さん」

 好奇心をらんらんと両目に輝かせながら沙紀は言った。そうして、ペットボトルをしゃこんしゃこんと振りながらレッスン室のほうへ歩き出そうとしたときだった。

 誰かが廊下を走ってくる音がした。

 雅は、今度こそそれが誰なのか確信していた。

「雅……!」

 髪を振り乱し、息を荒げながら駆け込んできたのはマキノだった。

 沙紀と同じく、レッスン着を汗で濡らしている。

「ごめんなさい、今日、実は──」

「マキノちゃん! 沙紀ちゃんから聞いたよぉ」

 雅はソファーから立ち上がり、満面の笑顔で彼女を迎えた。

 見た瞬間、ふわりと花の匂いでも飛んできそうな、そんな笑顔だった。

 沙紀はその表情を見て内心驚いた。約束をあやうくすっぽかすところだった相手に対して、純粋にこういう表情ができるこの人は、一体……? 誰に対してもこうなのだろうか、それとも相手がマキノだから? この二人の関係性がますます気になる──。

「雅、ごめんなさい。あなたとの約束のこと、すっかり頭から抜けていて……あの、昨日いろいろあったのよ、それで……」

 マキノは、見るからに焦っていた。これほど取り乱した様子のマキノを、沙紀はいままで見たことがなかった。

「ううん。大丈夫だよぉ。ライブに向けて頑張ってるんでしょぉ?」

 雅はマキノに近づきながら、優しく言った。

「今日はもともとみやびぃが誘ったんだし。カフェでのんびり待ってるねぇ」

「ほんとにごめんなさい。あと一時間で終わるの。終わったらすぐ行くわ。今日のことの説明もする」

 そう言ってマキノは深々と頭を下げた。髪の先から汗のしずくが床に落ちる。

 大丈夫だよぉ、と言いながら雅はマキノの手をぎゅっと握った。

「マキノちゃん」

 マキノは顔を上げた。

 雅の目が、優しく微笑みながら自分を見つめている。

「レッスン、頑張ってねぇ」

「え、ええ……ありがとう」

 そのそばを忍び足で立ち去りながら、沙紀はこっそりと口角をゆるめた。

 見たことのないマキノの表情を、もう一つ見てしまった。


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