なお、実験的に顔文字を使ってます。
ウォーリアーという上級職の資格試験に合格し、得意の斧術技能に関しては満足のいく段階に達したと判断したエーデルガルトは次に何を学ぼうかと考えたところ、マヌエラの授業で触れられた飛行術に目を付けた。
これまで身に付けた斧術と併せればドラゴンナイトを目指せるし、歩兵だけでなく飛兵の経験を積めば指揮にも活かせる。皇帝としてより広く俯瞰できる視点を得るためにも、戦場を広く飛び回れるような飛行術を学んでいた。
訓練の他、グループ課題という名目で生徒も行う上空警備にペガサスに乗って参加したりなど、集中して飛行術を鍛えている。
ベレトに頼む個別指導でも彼と一緒にドラゴンを駆って空中の追いかけっこに興じるなどして、徐々にその腕を上げていた。
なのでドラゴンに乗って空を飛ぶのはこれが初めてではない。風を切って空を往く感覚はもう慣れたものであり、今さら身構えてしまうようなものではなかった。
それでも彼と一緒になってドラゴンに、それも彼に抱きついて乗るとなれば全くの別物で、どうしても緊張してしまう。
(まさかこんなことになるなんてね……)
ベレトの体に腕を回しているという事実を意識して、エーデルガルトはむずがゆい気持ちが湧くのを抑えられなかった。
上気する頬を冷たい風が撫でて心地好い。自分がそうなってしまう原因を自覚し、同時にそれが悪くないものだとも感じて、目の前の背中へ頭を押し付けた。
そんなエーデルガルトの動きを感じてか、振り返らないままベレトが声をかけてきた。
「どうかしたかエーデルガルト」
「何でもないわ。少し考え事しただけ」
飛行のために手綱を握ることに集中していても、僅かな変化を察して気にかけてくれるベレトへの想いは温かなままである。
前を向く翠眼も、風にたなびく緑髪も、色こそ変わっても彼の本質は以前と何も変わっていないのが感じられてエーデルガルトは嬉しかった。
「そうか……なら、俺の方からいいか?」
「何、
「ここなら他人に聞かれる心配はない。今の内に話しておきたいことがある」
空の上で邪魔は入らず、真面目な声色であることからただの雑談ではないと察し、何か相談事かしらと耳を傾ける。
「今節の課題、どう思う?」
「聖墓での儀式だったわね」
話に出たのは今節の末に
変貌を遂げたベレトにレアが言い渡した次の課題は、聖墓と呼ばれるセイロス教の禁足地にて儀式を行うことだった。
かつて女神より力を授けられた聖セイロスが聖墓で啓示を受けたことに倣い、同じく力を授けられたベレトも聖墓に赴き啓示を受けるように、と。
何故それが学級の課題になるのかとベレトが疑問を返すと、セイロスが啓示を受けた時、その周りには共に戦ってきた聖戦士達が控えて儀式を見守っていたらしく、ならばベレトの指導を受けて一緒に戦ってきた生徒達がその聖戦士に相当するとして黒鷲の学級ごと儀式に参加させることにしたとレアは答えた。
筋は通っている……のか?
そんなものが士官学校の学級課題になるのかと一度は首を傾げたベレトだったが、レアがそう決めたのならそういう仕事なのだと考えて頷いた。
ただし、そこで唯々諾々と従わないのが我らがベレト先生。
課題の内容を理解した彼は、通達したレアとセテスに向かってこう言ったのだ。
全学級合同の課題にしてほしい、と。
目を剥く二人の前でベレトはこう話した。
──自分の指導を受けたのは黒鷲の学級だけではない。
──各地で起こった諍いの解決に他学級の生徒と協力したこともある。
──前節は生徒達が学級の枠を越えて力を貸してくれた。
──士官学校の生徒はみんな仲間だ。
──共に戦ってきたという括りなら生徒みんなを連れていきたい。
話すベレトの口調は珍しく熱を帯びていて、悩んだ末にレアは了承することにしたのだ。
セイロス教団の大司教としてレア自身も儀式を見届けるために同行すると付け加えて、通達の場はお開きとなった。
ベレトとしては、生徒はみんな仲間のように思っており、彼らを仲間外れにしたくなかった。
通達された儀式の内容からして教師の自分が中心になってしまうのだろうが、課題となれば主体は生徒である。上司の指示にはなるべく従うにしても、せめて生徒を立ち会わせて少しでも特別な経験をさせてやりたいのだ。
指導したとは言っても、ベレトは自分が一方的に教えたとは思っていない。むしろ自分が生徒から学ばせてもらった気分だった。
恩を返したい気持ちもあって、少しでも生徒のためになることはないかと考えていたところにこの儀式である。課題という形で貴重な経験を得られるなら、逃す理由はない。
また、聖墓そのものが目的というのもある。
この聖墓という場所、どうやらガルグ=マク大修道院よりもさらに昔から存在している(そもそも大修道院が聖墓を守るために建てられたもの)らしく、フォドラでは有数の歴史を持つ施設だと思われる。
イグナーツのように美術的な価値を見出す者。クロードのように歴史的な情報を気にする者。マリアンヌのように宗教的な境地を求める者。そういった生徒にとっては大変興味をそそられる場所だろう。
通常は立ち入ることが許されない場所に行くことができる機会をより多くの生徒に与えてやりたかったのだ。
そんな考えがあるのだとエーデルガルトは聞かされていた。
「その儀式の時に、また一騒動起きるんじゃないかと俺は考えている」
「戦闘になると?」
「ああ。ありえないとされた襲撃が今まで何度も起こったんだ。今回も同じことになるんじゃないかという予感がある」
(まあ、そう考えるのも無理ないわね)
神妙に聞きつつも、胸の内で苦笑してしまうエーデルガルトだった。
ベレトがこうして警戒してしまうのは仕方ないことかもしれない。何しろこの一年で黒鷲の学級に出された課題で戦闘に関わらないものが一つもなかったのだから。
大樹の節の対抗戦。飛竜の節の鷲獅子戦。この二つは恒例行事だから当然として、例年なら市民への奉仕活動だったり、やったとしても騎士団の活動を補佐するくらいが精々なはず。未熟な生徒を率いて本格的な戦闘に臨むなんていうことが本来の教育課程に組み込まれるなどそうそうないのだ。
なのに今年の黒鷲の学級は、対抗戦が終わった翌節にいきなり盗賊の討伐、次いで反乱の鎮圧への参加が言い渡された。大修道院の警備では三学級の中で自分達だけが聖廟襲撃に立ち会い、それが終わったと思えば英雄の遺産奪還という大任で、その次がフレン捜索のため地下で戦闘。鷲獅子戦を折り返しにしてルミール村の調査という名の暴動を治め、ガルグ=マク郊外に現れた魔獣を退治。そしてあの封じられた森の掃討戦。
はっきり言おう、今年は異常である。それも黒鷲の学級だけが課題の内容が戦いに偏り過ぎだ。
士官学校の教師に就き、今年初めて学校生活なるものを知ったベレトだが、いくらなんでもこの頻度で命がけの戦闘が勃発する流れが普通だとは思えまい。戦時ならばともかく今は平時である。
なのでこの流れから行くと、今節の課題でも何かやばいことが起きるのではないかと彼が危惧するのは自然なことだろう。早期に異常を察し、それに備える警戒心は傭兵にとって必須の心構えなのだから。
「師の懸念は分かったわ。備えておくに越したことはないわね」
「ただ、聖墓のような特別な場所だといつもの課題みたいに騎士団を編成していくわけにはいかないだろう」
「つまり私達生徒の力が要になる、と?」
「ああ」
聖セイロスの遺骸が眠るとされた聖廟然り、教団にとっての禁足地には限られた者しか立ち入ることは許されないのは予想できる。
ジェラルト傭兵団のような頼もしい味方も含め、今回は騎士団随伴で臨むことはできないだろうとベレトは考えた。
なので肝心なのは生徒達自身の力。
「そこでエーデルガルトには帰ったらみんなに呼びかけておいてほしいんだ。今節にやる訓練は、全学級合同の連携訓練をするって」
「騎士団に頼れない状況では私達が連携できるように、ということね?」
「そうだ。一つの学級でまとまって動くことはみんなも慣れたものだろうけど、二つや三つもの学級で組んで一斉にという経験はないだろう? 残り期間は多くないが、確認しておくだけでも違うはずだ。先生方には俺から話を通しておくからエーデルガルトは生徒を頼む」
これは……ある意味、革新的な提案かもしれない。
拡大解釈になってしまうが、ベレトが言っているのは三学級、将来的には三国合同の軍事演習をしようということでもあるのだ。
フォドラに共存している中立関係とは言え、帝国も王国も同盟も、相応の野心を秘めている者は多い。実現するかはさて置き、フォドラ統一を夢想する者は生徒の中にもいる。
いざ軍を動かすような事態が起きたとしても、自国の軍だけで解決しようとしか考えられないだろう。他国と協調して動くなど、思考の端にさえ浮かぶかどうか。
しかしベレトはそう考えていない。
三つの国という分かれ方があるなら、そこにある軍も三種の傾向がある。ならばそれぞれの強みを生かさない手はない。それぞれの弱みを補わない手はない。
取れる選択肢は多ければ多いほど有利。複数の手段があれば自分から主導権を握れる。
教師になってから士官学校で説いてきた彼の教えはこういう形にも表れている。戦術だけでなく戦略の観点からも考えられるベレトの視座は政の領域だ。
ただし、それは理想でしかない。
(ごめんなさい師……貴方の考えが叶うことはないわ)
ひょっとしたら、このまま大きな事件が起こらなければ、将来のフォドラでは三国間の協力関係が生まれているかもしれない。士官学校の生徒達は、程度の差こそあるが仲は良好で禍根は少ない。未来でそういう関係になれる余地は充分ある。
だが、自分がいる。他ならぬこのエーデルガルト=フォン=フレスベルグがいる。
近い内にフォドラを揺るがす大事件を起こし、歴史に悪名を刻む新たな皇帝が、その理想を砕くのだ。
とは言え、この場でそれを口にするわけにはいかない。曖昧な返事で誤魔化そう。
「できるといいわね……」
「できる」
「え?」
力なく溢した返事にまさかの即答があって驚き、エーデルガルトは俯いていた顔を上げる。
「君達は力を合わせられる」
「どうして、そんな」
「だってもう合わせることができたんだ。一度できたなら、またできる」
確信を込めた言葉に揺さぶられながら、首だけで振り返ったベレトの横顔を見上げた。
「俺達が初めて会ったあの夜」
「ルミール村に私達が押しかけた……」
「そうだ。君とディミトリとクロードが、俺と一緒に力を合わせて盗賊を退けた。危ないところもあったけど、あの時の俺達は間違いなく一つだった。だからまた一つになることも必ずできる」
忘れていない。
忘れたことなど一度もない。
あの夜、身を挺して庇われた瞬間、エーデルガルトとベレトは
三国における次代の指導者が、一つの意志の下で力を合わせる。
歴史的に見ても稀有な事態。それがすでに為されていた。
あの夜から、もう未来は作られ始めていたのだ。
彼に導かれて。
「封じられた森でも、俺が飛び出した後はエーデルガルトが指揮を執ってくれたと聞いている。級長だけじゃなくて他のみんなも一つにまとまることができたんだ。だから大丈夫だ」
断言に、ぞくりと身が震えた。
エーデルガルトの胸に生まれた熱が急速に高まっていく。
その熱を与えてくれたべレトへ、何を言えばいいのかもわからないまま口を開こうとした、その時。
「
突然、乗っているドラゴンが吼えた。
それまで安定した飛行を続けていたのに急に揺れてしまい、慌ててベレトの体にしがみつく。
「師!」
「ああ」
素早く手綱を引いて落ち着かせたベレトに訴えるように、首を向けたドラゴンは苦しそうに鳴いた。
「
不調の原因は明らかである。単純に疲れてしまったのだ。
出発時には上ったばかりだった太陽も、気付けばかなり高い位置にある。随分長い間飛んでいたようだ。
「一度降りましょう師。いくらなんでも、ずっと飛び続けることはできないわ」
今の時点で相当な短縮ができている。この調子で進めば想定よりもかなり早くアンヴァルに辿り着ける。無理をさせてドラゴンを潰すわけにはいかない。
明日の朝までに戻るというのはやはり不可能なのだろうが、それでも充分過ぎるほど速いのだ。
そう思ってベレトに着陸を促すエーデルガルトだが、彼はここでも予想外の行動に出た。
「エーデルガルト、一度手綱を持ってくれ」
「私が?」
「少しの間でいい。すぐに代わる」
抱きつく腕を放して言われた通り手綱を受け取る。ドラゴンはふらついていても暴れているわけではないので操縦は問題ないが、何をするつもりなのか。
手綱を引いてドラゴンの姿勢を制御させるエーデルガルトの前で、ベレトは体を前のめりに倒していく。落ちないように足で鞍をしっかり挟んだまま、両手をドラゴンの首元に添えるように伸ばした。
途端、彼の魔力が膨れ上がるの感じる。掌に集まっていく魔力が白い光となり、現れた紋様が魔法陣を形作るのを見た。
(まさか……)
「──リカバー」
発動されたのは回復魔法。白光に乗せて伝わる魔力が対象の活力を癒す。
注がれた癒しの魔力を感じたのか、ドラゴンがどこか困惑した様子で首を回し、
「……
自身の調子を確かめられたのか、力強い羽ばたきで高度を上げた。
「
一際大きな咆哮を放つ姿は誰が見ても元気いっぱい。今にも墜ちてしまいそうだったのに、力強い飛行はまるで飛び立ったばかりのよう。
間違いなく、今し方ベレトが使った魔法のおかげ。
目の前で何が起きたのか。理解したエーデルガルトは先ほどとは別種の震えを覚えた。
(何てことなの……!?)
彼が使ったのは白魔法のリカバー。
初級のライブより使うのが難しい中級の回復魔法である。
ライブは切り傷や腫れなど表面的な怪我を治す程度の効果で、熟達した魔法使いが魔力に物を言わせて骨折を治してみせることもあるが、あくまでも怪我を治すことが主体の魔法だ。
それに対してリカバーは、ライブの効果に加えて対象の活力さえも取り戻させる高位の魔法である。かけられた側は外傷だけでなく体力まで元通りになるという、まさに回復魔法の神髄とも言うべき効果を持つ。
ちなみにもう一つ中級にリブローという回復魔法があるが、こちらはライブの効果を遠くまで届かせる遠距離回復で、範囲は勝るが効果はリカバーに劣る。
エーデルガルトが驚いたのは、ドラゴンに乗ったままの不安定な状況で高度な回復魔法を使ったことに、ではない。
ガルグ=マク大修道院に来るまで魔法をほとんど知らず、教師生活の合間にしか鍛錬できていないのにも関わらず、リカバーという高位の魔法を使えるほどベレトの白魔法の腕が上がっているという事実。
即ち、彼にそれだけの才能が秘められていて、ガルグ=マクで──レアの下でその力が花開いたという事実に、である。
「エーデルガルト、手綱を」
「え、ええ」
手を向けたベレトに手綱を渡す。元気よく羽ばたくドラゴンは操作する人が代わっても動揺はしない……というかテンションが上がって気にしてないだけか。
「よしよし、問題ないようだな。このまま頼むぞ」
「
ベレトが手綱を持ったままの手でドラゴンの首を撫でると、嬉しそうな声で一鳴きしたドラゴンは高度を上げた。出発した時と同じ勢いで加速を繰り返し、高速飛行を続ける。
結局、休ませることなくドラゴンを回復させて飛行を維持できてしまった。
これこそがベレトの考えにあった自信の理由だろう。飛行で最短経路を進むだけでも大幅な短縮になるのに、途中でドラゴンを休ませる必要もないとなれば道中の時間もさらに大きく縮む。
この手段を取るためには飛行術と白魔法をどちらも高いレベルで両立させなければいかず、他人にはとても真似できまい。ベレトだからこそ可能な力技である。
しかし、目の当たりにしたエーデルガルトの胸に生まれたのは感心ではなく、心細さだった。
ガルグ=マク大修道院にやって来て初めて学ぶ魔法。それも教師の仕事の合間にしか自身の訓練はできなかったはず。
現に黒魔法は、エピタフの資格試験に合格できたとは言え、ファイアーとサンダーの初級魔法しかベレトは使えない。下手に上級に手を出すよりも、基礎である初級の技を使いこなすことに彼は重きを置いた。
なのに白魔法は中級のリカバーを使うほど腕を上げている。注げる時間には限りがあったのは間違いないのに、その短い時間でこうも力をつけたのは白魔法の適性……即ち、信仰の才能があったということに他ならない。
平民の彼が。
傭兵として生きてきた彼が。
セイロス教との関わりなんてなかった彼が。
(師……貴方はどこまで、人間から外れてしまうの……?)
目の前にいるはずのベレトが酷く遠い存在に見えてしまい、エーデルガルトは抱きつく腕に力を込めた。
その背中に顔を埋め、少しでも彼を感じたくて。
太陽が赤くなりかけた頃。無事にアンヴァルに辿り着いた二人は都市部を越えて宮城までドラゴンを飛ばすことにした。
通る予定のない大型のドラゴンが飛んできた時は見張りの兵達が何事かと騒ぐのが見えたが、ドラゴンに着けられた鞍の腹部分にセイロス教を示す模様が描かれているので、大修道院からの使者だと判断されて騒ぎになることはなかった。
それでも城の中庭に直接降り立った時は、一体何事か、誰がやってきたのか、そう警戒する何人もの衛兵に取り囲まれた。
先にドラゴンから降りたエーデルガルトの姿を見た彼らが皇女の帰還に驚く傍ら、間から進み出てきた者達が膝を付く。
「殿下、お待ちしておりました」
「予定よりかなり早くなったわ。支度は?」
「若様の指示により、すでに手筈を整えております。今からでも可能です」
「流石ね、助かるわ」
進み出てきた彼らとは知った仲である。
ベストラ家の私兵、つまりヒューベルト直属の手駒だ。
天馬の節に入り、いよいよ事を起こす時が近いとしてエーデルガルトより先んじてアンヴァルに戻ったヒューベルトが動き出していたのだ。
丸一節も先生の授業が受けられないとは少しばかり寂しくなりますね──そんな風に嘯いて分かれた従者は、ここで先に下準備を進めていたのである。
ドラゴンが来たと知った瞬間、こんな時に来るのは主のエーデルガルトだと、そしてこんなやり方で来るのは彼女に力を貸したベレトだと判断して、即座に動いたのだろう。
余計な横槍が現れる前に手駒を中庭に向かわせ、ヒューベルト自身も動いているはずだ。
「すぐに儀式を行うわ」
「ご案内いたします。あのドラゴンは一旦こちらで預かりましょう」
「頼むわね。
背後でドラゴンを労うように撫でていたベレトを呼ぶ。
「ドラゴンはこの者達が預かるわ。貴方は私と一緒に来て」
「俺も行っていいのか」
「ええ。言ったでしょう? 付き合ってほしいって」
ドラゴンの手綱を渡したベレトがついてくるのを確認して、エーデルガルトは先導役に続いて歩き出した。
勝手知ったるアンヴァル宮城も、一年近く離れていたこともあって妙に懐かしい。大修道院の質素な作りとはまるで違う内装は帝国が誇る権威を示すもの。久しぶりに歩く城内の豪奢な廊下はエーデルガルトにとっては馴染みの光景である。
だがその廊下を、まさかベレトを伴って歩くことになろうとは……自分についてくる彼を意識して浮つきそうになる気持ちを抑えた。
肩越しに振り返ってみると、そのベレトが忙しなく視線を動かしながら後ろを歩く姿が見えた。
これは好奇心で周囲を観察しているのではなく、歩きながら経路を確認しているのだ。彼の授業でエーデルガルトも教わったことだ。初めて訪れる場所に来た時は逃走経路などの道筋を確認しながら奥へ進むように、と実際に大修道院のあちこちを生徒に歩かせたことがある。
あの授業も面白かった。生徒一人一人の性格上、普段は足を運ばない場所にも行くことになったので、歩き回りながら知らなかった道を発見した興奮でいつになく級友と話したものだ。あれは勉強と言うより半ば遊び気分で学べた授業だったか。
こんな時でも平常運転のベレトに釣られ、つい緩みそうになる顔を引き締めてこれからのことを脳裏に描く。
今からエーデルガルトがやろうとしていることは複数の意味を持つ。
一つ、決起。これをやってしまえばもう後戻りはできない。動き出した事態は必ずフォドラに戦乱をもたらすだろう。
二つ、独立。組織から言われるまま指示に従うしかなかった立場から、ある程度ではあるが対等に近付ける。完全にとは言えないが、それでも物申せるようになる。
三つ、決別。これまでとは全く違う地位に就くことで、周囲の人間との関係は一変する。級友とも、臣下とも、背後の師とも。
それでいい。戻る道など自分には必要ない。
自分には前に進む道だけあればいい。
それが、彼がいないと分かり切った道でも。
先導役の男に従って誰にも邪魔されないまま辿り着いた大扉を開き、玉座の間に立ち入ったその時、エーデルガルトは改めて決意を固めた。
僅かな護衛に守られる玉座の人影を認め、思わず眉が歪む。
深い皺は年齢以上の老いを感じさせ、血色の悪い肌と相まって壮絶な苦労を背負ってきたことを表している。こちらに気付いて曲がった背を正そうとゆるゆると体を起こす姿は、そこに座るにしてはあまりにも覇気というものがない。
誰がそれを責められよう。この人はずっと戦ってきたのだ。権力闘争に敗れ、貴族達の傀儡にも等しい立場の屈辱と無力感の中、我が子が次々と人体実験によって命を落とす絶望を味わって尚、今まで生き延びてきた。
彼こそがイオニアス=フォン=フレスベルグ。皇帝イオニアス9世。エーデルガルトの父親である。
「お父様! ……無理なお願いをして、申し訳ありません」
早足で近付くエーデルガルトを見てイオニアスは小さく笑みを浮かべた。やつれ果てた表情から彼の体力の限界を見て取り、その身を押してここへ来てくれて感謝に頭が下がる。
「そのお体では玉座に座ることも大変でしょう。ですが……」
「いいのだ、エーデルガルト。儂に残された時は少ないと……理解しておろう。ならば……今しかないのだ……」
「……感謝します」
久しぶりに会ったのに挨拶することもなく事を急く二人は分かっている。
今しかないという言葉通り、動き出す好機が今なのだと。
その最初の一歩──皇位継承の儀。
皇女エーデルガルトが帝国の頂点、皇帝となるための儀式だ。
「玉座の間で帝冠を授かる……でなければ、帝国の皇位継承の儀は成立しない。かつてセイロス聖教会の司教が担った見届け役は、師が務めてくれましょう」
隣に立つベレトを見やる。現皇帝の前に立ったというのに臆した様子もなく、いつもと変わらない無表情のままだ。
だがエーデルガルトは彼の視線に相手を気遣う意識を感じた。
目の前に座る人物が帝国の皇帝なのは分かっているだろうが、恐らくそれ以上に今にも倒れそうな顔色の父を案じてくれているのだろう。こんな時でも調子の変わらない人である。
ベレトの気遣いはありがたくとも、今はそれを気にしていられる余裕はない。そして彼が望まずとも、彼の立場は極めて有用なのだ。悪いがついてきたからには存分に利用させてもらう。
神祖の加護を受けて髪と目の色が変わったベレトに、レアは新しい兵種の資格を授けた。ニルヴァーナと呼ばれるその兵種はセイロス教団が認めた聖人の称号であり、ベレト以外にこの資格を持てる者はいないと言い切っていた。
つまり今の彼は正式な意味でもセイロス教団の要人という立場で、本人がどう思っていようとセイロス教の代表としてこの儀式に立ち会う資格を持っているのだ。
大はしゃぎしたレアが聖人をイメージした礼服をベレトに贈ったりしたものの、襟が大き過ぎて視界が遮られるのを嫌がったベレトには不評だったのは、少しだけ……ほんの少しだけ、胸のすく思いだったのは内緒である。
というか、それと一緒に彼に贈った神祖の服とやら、あれはいったい何なのだ。脚も腕も大きく露出する作りで、装飾も含めれば神秘的と言えなくもないが、布地の少なさからして肌着と言っても通用しそうではないか。夏ならともかく今の季節は寒いし、そもそも女神をイメージした服ならあれは女性用ということになるし、恥ずかしさを気にしない師がもしあれを私服代わりに使うなんてことになったとしたらあの格好で大修道院の中を走り回ったり授業のために教壇に立ったりあまつさえ訓練で生徒と向かい合ったり──
「エーデルガルト……?」
──げふんげふん。
不思議そうな父の声に慌てて意識を戻す。
危ない危ない。またいつものように妄想にふけるところだった。
表情を引き締める。いよいよこの時が来た。
ベレトがセイロス教公認の聖人となった時、袂を分かつことは決まった。だからエーデルガルトは今回のことを計画した。皇位継承の儀にベレトを同伴させることを。
建前は、大司教が同席していなくても儀式に正当性を持たせ、体面的な意味でもその権威を確たるものにできると考えて。
本音は、今回の儀式を彼に見守ってもらうことで少しでも自分を奮い立たせる理由にするため。
たぶんヒューベルトには本音がバレているだろうが……
何より、あの組織の主導で皇帝の座に据えられるのではなく、己の意志で皇帝になるという事実が大切だった。
流されたのではなく、誰に従ったのでもなく、自分で決めたこととして。
「私は、帝国の全てを継ぎます! 全ての人のために!」
力強く言い切り、玉座の前に膝を付いた。
目の前に跪く娘を、どこか痛ましそうに見たイオニアスだったが、すぐに気を取り直した。
エーデルガルトの決意が固まっているなら応えなくてはいけない。何もできないと思っていた情けない身でも、せめて娘の足枷になってしまうことだけは避けたい。
最後の力を振り絞って皇帝は立ち上がる。震える足で皇女の前に立つと、鷲の足を模った冠を掲げた。
「これを……」
「……」
「エーデルガルト=フォン=フレスベルグ。赤き血と白き剣の盟約において、双頭の鷲を頭に戴く汝を、新たな皇帝とする! ……その覚悟はあるか!」
「フレスベルグの名と古の盟約に従い、フォドラを導き、民の安寧を図るため、その座に君臨することを誓います!」
儀式自体は簡素なものである。文言と共に冠を授けられたエーデルガルトは、今この瞬間を以て正式にアドラステア帝国の皇帝となった。
頭に冠を乗せられると同時に絶大な重みを感じる。一国の頂点に立ち、大陸の未来とそこに生きる臣民を背負う責任は、一人の少女が負うには大きすぎる重圧だ。
しかし彼女がその身を折ることはない。
(我が名はエーデルガルト=フォン=フレスベルグ……このために生まれ、そうあれかしと育てられ、そして作り出された皇帝。その道を歩む覚悟を私は持っているのだから!)
立ち上がったエーデルガルトを見て安心したように力を抜き、イオニアスは玉座に腰を落とす。今し方皇帝ではなくなった男がそこに座るのを咎めるような者はこの場にはいない。
「……これで、皇位継承は済んだ」
「はい」
「ああ……結局、儂はお前に何もしてやれなかったな……」
名実共に役目を終えたイオニアスの顔は、生気は薄くてもどこか満足気だった。
皇帝でありながら貴族達の横暴に手も足も出せない立場に彼の心は追い詰められていた。心に釣られて体も衰えていき、今では辛うじて命を繋いでいるだけの有様。それでも、一人生き残った娘のために何かをしてやれないかと思い、耽々と機を窺う日々を生きてきて、ついにそれが叶ったのだ。
これでもう思い残すことはない。そんな心境だった。
そうして力を使い果たしたように萎れた声を漏らすイオニアスを見るとエーデルガルトは堪らなくなる。父がどれだけ戦ってきたかを知っているから。
「もう……もうよいのです、お父様……私はお父様の目と拳に救われたのですから」
歩み寄り、イオニアスの拳を両手で包み込む。
「お父様が私を想って向けるその目を、私は信じていました。お父様が固く握った拳から血が滴るのを、私は見ていました。私が血を流している時、お父様もまた血を流しているのだと知っていました」
それがどれだけ自分の心を支えてくれたか、少しでも伝えたくて包む手に力を込める。貴方がいたから今日まで私は生きてこれたのだと感謝を伝えたくて。
だから最後に──最期に、成長した自分の姿を見せたい。貴方の娘は大きくなりました、と。
最早イオニアスは永くない。体力も気力も尽きた彼は生きるための最低限の活力さえ枯渇している。久しぶりに会ったエーデルガルトの目からも明らかなのだし、それは周囲の者にも見て取れるだろう。
何より、勝手に皇位継承の儀に及んだことで怒った組織がすぐにでも手を下すのが予想できる。エーデルガルトやヒューベルトのように
分かっていたことだ。自分も父も全てを承知で動いたのだ。
だからこそ彼が憂いなく逝けるように、ここで少しでも安心させたかった。
「ありがとうございます、お父様」
「……エーデルガルト?」
微笑むエーデルガルトを見てイオニアスは僅かに目を見張る。娘はこうやって笑う子だったか?
皇女として背筋と伸ばし、威厳を見せるように振る舞う姿は知っていた。自負を込めた笑みは若くして固めた決意の表れだったのは察せられた。
しかし、こうして穏やかに微笑む姿は見たことがない。無邪気に笑っていた子供の時とも違う。まるで一足飛びに大人になったような柔らかい雰囲気で……
「エーデルガルト」
「ああ、師……放置していて悪かったわ」
「儀式とやらはこれで終わりか?」
「ええ。待たせたわね」
そんな時に後ろから話しかけてきた男。
娘が連れてきたその若者は驚くことに大司教レアと同じ髪と瞳をしていて、なんと儀式に立ち会わせる代理人の資格があるという。エーデルガルトが「せんせい」と呼ぶのなら、彼は士官学校の教師なのか。
皇族の会話に割り込んでくるのが不敬であると思わないのか、緊張した様子もない自然体に見えた。エーデルガルトも特に言及せず、むしろ親し気に対応している。
彼は一体?
ベレトのことを知る由もないイオニアスにとっては当然の疑問が浮かぶ。儀式を急ぐべく些事は流していたが、それが終わってようやく他に意識を向ける余裕ができて気になってきた。
「お父様。彼はベレト=アイスナー。士官学校に昨年就任した教師です」
「はじめまして、陛下。
「そなたが……今年度の黒鷲の学級を、エーデルガルトを指導しているのだな」
エーデルガルトの紹介と、進み出て一礼するベレトを見て理解する。
彼は平民だ。所作からして荒事の中で生きてきた気風がある。それでいて静かな佇まいと、礼節を意識するだけの教養が感じられた。同時に、皇族相手でも必要以上に緊張しない自然体にその器の大きさを感じ取れる。
士官学校の教師に強者がいる。そんな噂を微かに聞いた覚えがある。恐らく彼のことだろう。
「師、お父様は退位なさってこれからは私が皇帝なのだから『陛下』は私への呼称になるから注意してね」
「それもそうか。そうなると君のお父さんにはどういう尊称を使えばいい?」
「先代の皇帝ということで『先帝陛下』が分かりやすいかしら」
「分かった、ありがとう」
そうして話すベレトが改めてイオニアスに向き直る。
エーデルガルトとの気心が知れた会話を聞いて目を白黒させていたイオニアスは、そこで初めてベレトの顔を真正面から見た。
無表情である。今し方話したエーデルガルトに朗らかな笑顔を向けていたわけでもなく、一見すれば酷く無機質な顔。
しかしイオニアスはそこに不思議な感慨を覚えた。
「先帝陛下に申し上げます。貴方の娘さんは、とても良い子です」
というか、呆気に取られた。
「ほう?」
「せ、師っ?」
今度は何をやらかす気だこの人、と慌てたエーデルガルトを余所にイオニアスは興味深く目を見張る。
「皇女という忙しい立場でありながら、黒鷲の学級の級長として日々を立派に過ごしております。勉学にも訓練にも優れた成果を出し、課題においても率先して陣頭に立ち、級友から頼りにされるなどの人望もあります」
「なるほど……それで?」
「生徒を指導していく中で、自分の勉強不足をよく感じます。そんな時にも娘さんが細かく補佐してくれるおかげで、未熟な教師がこれまでやってこれました」
「ふふっ……口出しする生徒は煩わしかったかな?」
「いいえ。俺はエーデルガルトに何度も助けられました。教師の仕事を務められたのは彼女が支えてくれたからこそです。感謝しているし、尊敬しています」
静かに語るベレトの話を聞いて、イオニアスは久しぶりに……本当に久しぶりに楽しい気持ちになった。心が湧き立つなどいつ以来だろうか。
背後でハラハラとした顔で見ているエーデルガルトがおかしくて自然と頬が釣り上がり、自分が笑顔を浮かべたことに驚いた。
「だから、大丈夫です先帝陛下。貴方の娘さんは強く、大きくなりました」
「……そうか」
ベレトの言いぶりを聞いてイオニアスは理解した。彼は自分の死を察している。
遠からずこの世を去る父親に向けて、教師として最後に伝えたかったのだろう。
娘さんは大丈夫です、と。その心遣いが嬉しかった。
「急に何を言い出すのよ師!」
「生徒の親に会ったらやっておきたいことだったんだ。こういう三者面談」
「面談って……」
「前からやりたいとは思ってたんだ。親御さん相手に、生徒が学校でどうしてるか、俺がどう見てるか話すのって。エーデルガルトがすごいって自慢したりとか」
「ああもうやめてちょうだい、恥ずかしいわ!」
気付けば玉座の間にらしからぬ和やかな空気が広がっている。心なしか周りに控える者達の視線も、ほっこりと言うか何と言うか、微笑ましい光景を見守るような雰囲気があった。
そんな視線を向けられる二人の様子、褒めちぎるベレトと照れるエーデルガルトを見てイオニアスは自然と納得した。
(ああ……なるほどな)
くつくつと笑いが溢れてきて、自分がまだ笑うことができたのかと再び驚く。
腐っても今日まで皇帝だった身である。力を振るう機会は取り上げられても、人を見る目だけは肥えた。
「エーデルガルト……良き人に出会えたのだな」
「お、お父様っ?」
何やら別の意味で父を安心させることになったエーデルガルトは慌てた声を出してしまう。変な意図を受け取られてしまってそうで。
──勘違いなさらないでください。私は師をそういう意味で紹介しようとしたのではなくて。いや師はすごい人だから紹介するのは吝かではありませんけれど。でも別に私としてはその手の話を持ってきたつもりはないのです。そもそも師は私とそういう関係にある人ではなくてですね。いやでも嫌っているわけではなくてむしろ好ましく思っておりますと言いますか──
一瞬で頭に浮かんだその言葉を口に出そうとしたのだが、そうはならなかった。
背後で閉めてあった大扉が開かれて慌ただしく玉座の間にやってきた人物に、それまで満ちていた空気は押しやられてしまった。
「陛下! 寝所を抜け出して何をなさっているのですか!」
詰問するような口調で詰め寄ってくる男を見て、エーデルガルトの心は急速に冷めていく。
彼女にとって『敵』の一人なのだから。
ルードヴィヒ=フォン=エーギル。現在の帝国を牛耳る六大貴族の一角であり、帝国の宰相を務めるエーギル公。
エーデルガルトの兄弟姉妹を悍ましい実験で滅ぼした組織の協力者。同時に、父の立場を貶めた一派の筆頭でもある。憎む理由は幾らでもあった。
そうして冷めた視線を向けるエーデルガルトに、ずかずかと玉座に近付いてきてからようやく気付いたエーギル公は目を丸くした。
「これは……エーデルガルト殿下ではありませんか? いつこちらに?」
士官学校にいるはずの彼女の来訪を知らされてなかったのか、今初めて気付いたようで驚きを露わにしている。
その鈍さに呆れてしまう。ドラゴンで飛んでくるという、あれだけ派手な動きを察知していないのか。宮城に降りてからも特に身を隠していたわけでもなく、多くの者がこの姿を目にしていたというのに……これが帝国の舵を取ると豪語するエーギル家の当主かと思うと頭が痛い。
冷めた視線をそのままに、エーデルガルトは冷厳と告げた。
「宰相、呼称が間違っているわ。私は殿下ではない。『陛下』と呼びなさい」
「なっ……ま、まさか!?」
またも遅れて気付いたのか、エーデルガルトが被る冠がようやく目に入ったように目を見開いたエーギル公が愕然とする。
揺るぎない帝位の証が頭上にあるということは。
「……ただ今を以て、アドラステア帝国の皇帝はエーデルガルトになった」
後押しするようにイオニアスが事実を言う。
継承の儀はすでに終わり、誰にも覆せない決定だとして。
「文武百官を招集して布告の準備を進める。宰相、お前には……」
「……更迭を命じる。外部との連絡はしばらく断ってもらうわ」
イオニアスの言葉を次いで、今度はエーデルガルトが通達する。
皇帝として最初の命令。彼女が備える威厳を余すことなく発揮して告げられたその言葉は、齢二十に満たない小娘のものとは思えないほどの重みを持って放たれた。
「そんな……まさか……!?」
衝撃を受けたようによろめき、エーギル公は後退る。
士官学校にいるはずのエーデルガルトがアンヴァルにいて、自分の知らない内に皇帝になっていたなど、帝国を掌握していたつもりの彼にとっては信じられない思いなのだ。
まだ幼いと思っていたエーデルガルトが。
押さえつけられると思っていたイオニアスが。
まさかここまで表立って歯向かうとは。
どうせ逆らう者などいないだろうと単身玉座の間に乗り込んだのもまずい。命令に対して反論しても後押ししてくれる味方がいないのだ。周りに控えているのもイオニアスの護衛と、後はヒューベルトの子飼いだと分かる。
つまりエーデルガルトの命令に逆らえる状況ではないということだ。
そもそも皇帝の命令に面と向かって逆らえるかどうか考えている時点で上下関係が狂っているのだが……
今まで散々好き勝手してきた身として反発心が生まれるが、状況が悪すぎた。抵抗できる余地がない。
「……承知、いたしました」
一礼と共に拝命するしかなかった。
皇帝として発した命令である。エーデルガルトの性格からして撤回はない。
更迭とはつまり、宰相を罷免されるということ。これは決定事項だ。
あまりの凋落にエーギル公は目の前が真っ暗になる思いだった。
と、そんな彼に近付く一人の影。
「貴方がエーギル公ですね」
「……なんだ貴様は?」
「はじめまして。黒鷲の学級の担任を務めております、ベレト=アイスナーです」
「なぁ!?」
大司教レアと同じ色の髪と瞳を持つ男が一礼する姿を訝し気に見やり、次いで名乗りを聞いて仰天してしまう。ある意味エーデルガルト以上に予想外の人物なのだ。
噂と時折息子から届く手紙でその存在は知っていたが……
「御子息のフェルディナントを指導している身として、こうして会えたのならお話をと思いこの場を借りて御挨拶を」
「そ、そうか……」
「御身が大変であるとは存じます。しかし僭越ながらフェルディナントのことを話せるのは今しかないと声をかけさせていただきました。少しだけお時間を頂戴したく思います」
「むぅ……許そう。そなたの見立てで息子はどうだ?」
「素晴らしい子です。勉学にも訓練にも率先して誰よりも意欲的に取り組み、そして実績を出しております。大修道院の内外問わず他人を助けて回り、自分だけではなく周囲の人間をまとめて高みに押し上げる彼の姿勢は、学級の垣根を越えて多くの生徒に良い刺激を与えています」
「ほほう、流石はフェルディナント。貴族として励んでいるようだな」
「はい。フェルディナントは常々口にしています。貴族とは斯くあるべし、上に立つ者として人々の規範になるのだと。有言実行を体現して、同時に思いやりを忘れない素晴らしい子です。彼から学ぶことも多く、共に訓練する時は身が引き締まります」
「うむうむ、そうであろう。そなたのような息子をよく見ている者に指導してもらえて、あれも幸運だな」
困惑していても、息子のフェルディナントには甘いエーギル公は無視できずベレトの話を聞くことにしたのだが、担任教師の彼が好評を語るおかげで暗くなっていた気分が上向いてきた。
緊迫していた玉座の間にまたしても和やかな空気が流れたのである。
暢気に面談(今度は生徒がいないので二者面談)を始めたベレトを見て、イオニアスはおかしそうに、エーデルガルトは溜息交じりに笑ってしまった。
「面白い男だな……ああいった者がいると、場の空気を変える良い刺激になる」
「師はそこまで考えていないと思われますが……」
感心するイオニアスとは違い、間違いなく天然故の行動であると分かるエーデルガルトには力が抜ける光景だ。
いくら常人より視野が広いと言ってもベレトには政治の心得などない。況してや帝国の政的事情など知るはずがない。先ほど自分に言ったのと同じように、親御さんに向けて生徒の自慢話がしたかっただけだろう。
同じくベレトに振り回された者として同類に思えたのか、敵視していたエーギル公に対して僅かに……ほんの僅かにだが親近感を覚えたエーデルガルトであった。
仮にも今まで帝国を支配してきた六大貴族の一人なのだ。地位を取り上げた後も、せめて無体な扱いはせずにおいてやろう。その後どうなるかは彼次第だ。
──図らずも、ベレトの天然さとエーデルガルトの気紛れな温情によって身を滅ぼす未来を回避したエーギル公が、意外な形で活躍するのはずっと先の話である。
「ベレトだったか、あの男には……いや、もう余からは何も言うまい。思う通りにやりなさい。その行く先が帝国と、お前の未来を照らすことを祈ろう……」
「お父様……」
「エーデルガルト……いや、エル……この国を、このフォドラを……頼んだぞ……」
「……はい!」
満足そうに微笑むイオニアスに深く一礼だけしてエーデルガルトは歩き出す。
今生の別れになるであろう父へ、応えるのは一言だけで充分だ。
差し当たってベレトの話を切り上げさせるべく、彼の方へと向かった。
(本当に帰れてしまったわ……)
朝日が水平線から顔を覗かせた頃。二人を乗せたドラゴンは無事ガルグ=マクに帰還した。
アンヴァルとガルグ=マクの片道が凡そ半日。つまりベレトがその気になってドラゴンを飛ばせば一日でフォドラを縦断できてしまうということ。
つくづくとんでもない男である。改めて彼の常識外れぶりを感じ、エーデルガルトは少し笑ってしまった。
ドラゴンを厩舎に返しに行くとツィリルが出迎えた。早朝に帰ると教えてあったので驚く様子もなく、彼がドラゴンの状態を調べている横でベレトが労いの肉を持ってくるなど動く間、エーデルガルトも労うように撫でてやる。
賢いのか、それともベレトに平伏している影響か、エーデルガルトの手に鼻をすり寄せて「
そんなこんなで厩舎を離れ、寮に向かう時にはすっかり陽が昇っていた。
「エーデルガルト、お疲れ様」
「
歩きながら言うベレトに心から感謝する。彼の協力がなければこうも上手く事は運べなかった。
簡単な食事休憩を取った後にアンヴァルを出発したのは、既に日は沈んで月が見える頃だった。そこから一晩かけてガルグ=マクに帰ってきたのだ。
夜間の飛行は日中よりも気を遣い、アンヴァルに行く時ほど急ぐ必要はないということもあって途中で一度地上に降りて仮眠を取ったりなどしたが、それでもこの移動速度は破格である。
もちろん、帰りの道中でもドラゴンが疲れたらベレトがリカバーで回復させて、仮眠する時以外はひたすら飛び続けたからこその高速移動なのだが。
しかし流石にこの速さを基準に考えてはいけないだろう。飛行術はまだまだ訓練中のエーデルガルトでもそれくらいは分かった。これはベレトにしかできない例外である。
彼が将来帝国に来てくれれば、いざという時に使える強力な切札になりえるのだろうが……
またしても未練がましい考えが浮かび、エーデルガルトは頭を振る。早くこの未練を断ち切らねばならないのに、まだ甘えが抜けないのか。
「これで私はアドラステア帝国の皇帝……もはや立ち止まることは許されない」
人目を避けて細い通りを歩きながらエーデルガルトはぽつりと呟いた。小さいが隣のベレトだけは聞き取れる声。
それは彼女の中で消えることなく残る憂鬱と、今後は一層増す責任への使命感に挟まれた心が、思わず漏らした弱音なのか。
自身に言い聞かせるようなその呟きが聞こえても、ベレトはすぐに反応できなかった。
「聖墓での儀式を終えたら、帝国に戻るわ」
「それは……忙しないな。弧月の節には学校の卒業式があると聞いてるが、出られなさそうか」
「恐らくね。詳しくは言えないけど、やらなければならないことが山積みなの。時間はいくらあっても足りないし、少しでも早く手を付けたいのよ」
「皇帝ともなれば今以上に大変だろうな。今までもエーデルガルトが皇女の務めを果たしていたのは知ってるけど、それ以上に責任も増えるか」
「ええ。きっと師が想像する以上にね」
虚実を織り交ぜながら話すエーデルガルトの弁は、ベレトにとって未知の内容である。それどころかフォドラの誰にも理解できないだろう。
皇帝としての責任だけではない。エーデルガルトが歩もうとしている覇道。フォドラに戦禍を広げることになってでも叶えたい彼女の理想。
そして……それらによる不安。
どんなに決意を固めようが、険しいと分かり切っている道に進むことへの不安がなくなるわけではない。エーデルガルトとて一人の人間である。不安に押し潰されそうになり、重圧に身が震える思いだ。
それでもやはり引き返すつもりはない。これを思う度に自分に言い聞かせるのだ。例え一人になっても歩みを止めることはないと。
もうベレトに頼ることはできない。今回のアンヴァル往復で助けられたことを最後の関わりにして、これからは別の道を進むことになる。
ベレトは今後、教団と寄り添っていくのだろう。正式な位を得るのか、はたまたレアの私兵か。どういった形になるかは分からないが、少なくとも神祖の加護を受けた彼が進む道はエーデルガルトから離れていくものだ。
故に、胸に抱えるこの思慕は秘めたままにしておかなければならない。
最後まで彼に伝えないまま。
「貴方とも、それでお別れかもしれないわね……」
甘えを消すべく絞り出した声はどうにも力が乗らなかった。
最後だというのに締まらない自分に情けなさを覚えつつ、ベレトの反応を見るために横を向いたエーデルガルトは彼が歩みを遅らせていることに気付く。
振り返ると何やら思案しているベレトが足を止めたところだった。釣られて自分も立ち止まり、思わず彼を見つめてしまう。
ふと、胸に奇妙な予感が湧いてくる。
またしてもベレトが何か突拍子もないことを言うのか。
知らず、高鳴る胸を抑える。
「血を流している、と言ったな」
「え?」
「儀式が終わってすぐの時、君が父親に向けて言った中に」
切り出されたのはアンヴァルでのこと。
私が血を流している時、お父様もまた血が流して──あの下りが背後にいたベレトにも聞こえていたのだ。
「師、悪いけどそのことは……」
「過去に何があったかを詮索する気はない。前に教えてくれた君の家族のことと紋章のことを思えば、察するに余りある」
以前エーデルガルトはベレトにだけ話したことがある。
眠れずにいた二人が夜中に偶然会った時、外の空気が恋しくなった話を。
当代のフレスベルグ家には11人もの兄弟姉妹がいたのだが、第9子に当たるエーデルガルトを除いて全員が身を滅ぼしている。それは彼らが体を刻まれ、造り変えられるという凄惨な人体実験の果てに、ほとんどが廃人になってしまったからだ。
ただ一人生き残ったのがエーデルガルトであり、その結果として彼女の身にはベレトしか持っていないとされた炎の紋章が宿った。生来持っていたセイロスの紋章と合わせて二つの紋章を持つ特異な存在へと改造されたのである。
フォドラを統べる無比の皇帝には強力な紋章が必要……この歪んだ価値観のために宮城の地下で鎖に繋がれていた時期があったのだと、そんな帝国の呪われた真実を彼に明かした。
唯一の成功例として生き残ったエーデルガルトは誓ったのだ。
自身の家族と、多くの見知らぬ人々、そして未だ定まらない未来へ。
愚かしい犠牲を二度と生まない世界を創る。そのための皇帝になる、と。
そう話すエーデルガルトの前で、証拠として見せられた彼女の炎の紋章を目にしたベレトは珍しく驚きの表情を浮かべた。
『その紋章……君も俺と同じ模様を?』
『そうよ。むしろ私こそ驚いたのよ? まさか師も同じ実験を施された私の同類なのかと。貴方の方は生まれつきの紋章と分かってさらに驚かされたけどね』
浮かべた紋章を消して彼の様子を窺った時、いつになく緊張したのを覚えている。
『俺にエーデルガルトの気持ちが分かるとは言えないけど……話してくれてありがとう。それだけは言っておくよ』
なのでベレトが自分の話を否定も追及もせず、抱えた事情を打ち明けたエーデルガルトにただ感謝してくれたことが嬉しかった。
とある深夜にあった偶然の内緒話として、誰も知らない二人だけの秘密である。
あの夜以来、エーデルガルトは自分とベレトの間にだけ存在する不思議な繫がりがあるように思えた。現金なもので、これまでは憎悪の対象の一つだった炎の紋章への印象も少しだけ良くなったのだ。
「それに君はそういう過去をもう受け止めているんだろう?」
「……そうね。過去は過去よ。変えられないし、変える気もないわ」
「ああ。エーデルガルトならそう言うと思った。だから俺からはこれだけ言いたい」
向かい合う二人がいるのは大修道院の通りの一つ。
背の高い生垣に遮られ、余人の目もない空間はさながら二人だけの聖域。
「君が何を急いでいるかは分からない。皇帝になるにしても、あんな風に何かから隠れるようにして儀式を強行するのは普通じゃないだろう。政治に疎い俺でもそれくらいは分かる」
「……っ」
冷たい空気に包まれた場は静かで、その声はよく通る。
心臓の鼓動がうるさい。ベレトから投げかけられる言葉が、怖い。
今までとは違う。エーデルガルトはもう動き出してしまった。立場も関係も全く違うものになってしまった。その自分へ向けられる言葉は、例え内容が以前と同じでも今だと受ける意味合いはどうしても変わってしまう。
彼は何を考えた? どう感じた? 私のことをどう思った?
今までだって何度も頭に浮かんだことが、こんなにも怖くなるなんて──
「別に、それはいい」
「……え?」
「急がなければいけない事情があるなら、それでもいい。俺が君に言いたいことは前に言ったのと変わらない。俺はエーデルガルトを助けたい。手伝えることがあるなら手伝うよ」
だから今回誘ってもらえて嬉しかった。そう言って微笑むベレトはかつての彼とは見違えるほど柔らかい表情で、その背後から差す朝陽が生垣を抜けて後光のように目に映る。
「辛いことがあればまた頼ってくれ。助けに行くから」
「師……っ」
「大丈夫だよエーデルガルト。大丈夫じゃなくても大丈夫にするから、大丈夫だ」
──知らなかった。
進む足を阻んでくる躊躇いを、優しい言葉で払われる嬉しさを。
恐怖で固まる心を、柔らかい眼差しで解きほぐされる喜びを。
往く道に待ち受ける不安を、光で打ち消される幸せを。
私は知らなかった!
ベレトの言葉にどんな根拠があるか、エーデルガルトには分からない。彼にどんな力があってどんな手段を取れるか、知らないことはまだまだ多い。
それでも、ベレトなら信じられる。彼が口にする言葉なら信じられる。具体的な公算も方策も必要ない。彼が大丈夫だと言ってくれさえすれば!
ああ、ああ!
師! 私の師!
貴方と出会えてよかった! 貴方が見てくれて嬉しかった!
向けてくれる目が! 言葉が! この想いが、私の宝!
ありがとう師! 本当にありがとう! 私は今、最高の幸せ者だ!
だから──揺らぐな。
我が名はエーデルガルト=フォン=フレスベルグ。アドラステア帝国の皇帝。
道を違える彼とは共にいられない。
感情を隠せ。寸毫たりともこの想いを気取られるな。
「……ふふ、そうね。何か問題が起きても、師はいつだって大丈夫にしてきたものね。知っているわ」
「そうだったか?」
「ええ。困ったことがあれば師に相談するわね」
この想いを秘めて、歩いていける。
他の生徒に見つかる前にベレトと別れ、朝食前に身支度を整えるために自室へ向かう途中、誰にも会わずに済んだのは行幸だった。
ベレトに背を向けて小走りする最中から顔が歪むのを抑えられなかったから。
音を立てないように寮内を静かに進み、自室のドアを閉めた瞬間が限界だった。
入るなり、エーデルガルトはベッドに倒れ込む。顔を枕に押し付けてシーツに噛みつき、喉から飛び出そうとする嗚咽を無理やりにでも堪える。
靴も脱がず、服にしわができるのも構わず、小さな子供のように縮こまった。
もう、無理なのだ。この先、あの温かな光が自分に向けられることは二度とない。
当然だ。彼が差し出す手を、今から自分は払おうとしている。それはずっと前から決めていたこと。彼と出会う前からそのために動いてきた。今さら進む道を変えたりしない。こうなることは決まっていた。
これから先、自分は何度も思うだろう。彼が隣にいてくれればと。頼りたくなるだろう。縋りたくなるだろう。そういう未来が容易に想像できてしまう。
それは今まで歩んできた道への裏切りだ。そんな中途半端な覚悟など自身の野望の妨げにしかならない。言葉にも態度にも絶対に出してはいけない。
だから──誰にも言えない。
ヒューベルトにも、他の臣下にも、級友にも。
誓いを胸に、進み続けると決めたのだから。
だから──今だけだ。
誰にも見られない、聞かれない、ここでだけ。
ほんの少し、この想いを噛み締めるだけだから。
「……せん、せえ……!」
帝国の皇帝でもない。頼れる級長でもない。
エーデルガルトがただの少女として過ごす僅かな、その最後の時間は。
止まらない涙と、口元から漏れる熱い吐息だけが共にあった。