セイロス教団の処遇も含めて、かなり動きます。
同盟との決戦を制した帝国。
その勝利を以て今度こそ二国間に渡る和平が正式に結ばれ、フォドラの東と南は足並みを揃えていくことになる。
盟主クロードが起き上がれないほどの重傷を負っていても、補佐に着いたローレンツ監修の下で横になったまま彼は忙殺されることになった。
貴族による議会でまとめられた同盟でそんな盟主がちゃんと仕事ができるのかという不安は、面会などのために動かなくてはいけない時なんかはラファエルがベッドごと持ち上げて安静にさせたまま移動する力業で押し通したのである。
これにより、卓の一角に椅子ではなくベッドが鎮座する会議が何度も罷り通ることになる。
加えて連日のようにリシテアやイグナーツが館を訪れ、こいつに暇を与えてなるものかという勢いで盟主にあれやこれやと仕事を持ち込んでくる。おかげで当分の間クロードは書類に埋もれることになるだろう。
さらにはクロードの身の回りの世話は帝国から派遣されたヌーヴェル侍従隊が務めた。戦場において尚喫茶の心得を忘れないと(コンスタンツェから)太鼓判を押された献身で、快復に生活に仕事にと多方面で彼に尽くしてみせた。
このヌーヴェル侍従隊、献身だけでなくクロードの監視も目的である。
ベレトとエーデルガルトはクロードを信じているようだが、彼の弁の軽さを知っているヒューベルトからすれば「やっぱ逃げよ」と約束を翻していなくなることを危惧するのはおかしいことではなく。
現場で意見を一致させたヒルダの頼みに応える形で彼女の下へ侍従隊を派遣したのだ。
ちなみにヒルダは実家のゴネリル領に帰ることなくクロードの館に居座っている。
東の山脈の向こうのパルミラからの侵攻も
そのような感じで仲間達から厳しい扱いを受けてひーこら嘆くクロードを除いて、同盟は滞りなく和平に向けて動いていた。
一方、帝国はと言うと。
目を覚ましたベレトが数日間寝たきりだった体を鍛え直すついでに、またも生徒を連れてアイスナー式ブートキャンプをやろうかと考えたところ、フェルディナント、カスパル、ペトラの三人がかりで「それはやめておけ」と制止されてしぶしぶ個人で特訓したり。
同盟との連携のために帝都アンヴァルからガルグ=マク大修道院へと一時拠点を移したエーデルガルトとヒューベルトに加え、二国に渡って動く商人団との橋渡し役としてマリアンヌが動き。
また、これまで忌避していたが今後は直接知っていこうと考えたレオニーが活動の場を帝国へ移したことを皮切りに、彼女に続こうとばかりに物だけでなく人の流れも生まれ。
逆に同盟へ赴いたドロテアがミッテルフランク歌劇団の有志を連れて各地で公演を始め、共に行動するマヌエラとハンネマンの広報が帝国の狙いや想定している将来を伝え広めたり。
こちらも着実に和平へと動いていた。
人が動き、物も動き、それに併せて思考も二国間で動く。
戦争という否応なしに敵対してしまう関係から帝国と同盟は大きく変わる。
長く続いた戦乱の終わりをフォドラの民は確かに感じていたのだった。
そんな中、突如として衝撃的な二つの報せが帝国に届く。
一つ目。セイロス教団、崩壊。
天馬の節にガルグ=マクを強襲したセイロス騎士団を引き上げさせたセテスが王国へ戻り、そこに居を構える教団に帰参するなり彼はレアと謁見。
自身が見聞きしたこと、知り得たこと、そしてベレトを信じると決めたこと、固めた決意をレアに伝え、同時にレアの真意が如何なるものか問い詰めると、彼女は怒りを爆発させた。
裏切り者めとセテスを罵るレア。
レアの目指すものを問うセテス。
二人の口論は激化を辿り、ついには互いに武器を抜くに至る。
大司教とその補佐が力を合わせて運営していたセイロス教団は、この事件を機に決定的な亀裂が入るのだった。
あくまでも問い詰める姿勢を崩さないセテスに対し、もはや酌量の余地なしとばかりに殺意を露わに攻め立てるレア。勝敗は始まる前から明らかであり、粘りに粘った末にセテスは倒されてしまった。
しかし血を流し倒れるセテスの前に飛び出したフレンの涙ながらの嘆願に、さしものレアも剣を止める。
裏切りだと責める彼女にも一片の情はあったのか命までは取らず、セテスとフレンを教団から追放する形でこの件を終わらせた。
この事件はセイロス教団の衰退を決定付けた。
今まで教団を真摯に支え続けた大司教補佐を、よりにもよって大司教その人が声高に弾劾し、死闘の果てに追放を命じる。
長い間肩を並べて活動してきた二人を知るだけに、その決裂は周囲の人間に大きな衝撃を与えたのだ。
ここで教団は大きく三つに別たれた。
まず、レアの振る舞いに賛同して教団に残る者。
大司教補佐として教義を重んじ、ガルグ=マクを不当に簒奪した帝国を打倒せんとしていたはずなのに、裏切り者のベレトに絆されてしまうとは何事かとセテスを責める人間は多く、特に教団の高官はその大半がレアに味方した。
取り乱したレアの姿を見て尚も変わらず心酔する者は多く、そのまま彼女に付き従うのだった。カトリーヌとツィリルもここに属する。
次に、セテスとフレンの行動に感銘を受け、二人を信じてついていく者。
セイロス教の中でも存在感のある二人が教団を追放されるのに自分が教団に在籍したままではいられない、と二人を追うように少数の人間が二人に付き従ったのだ。
特にセテスの身を案じた彼らは、フレンからも許しを得て寄り添うように同行して何処へと消えたという。
そして最も多いのが、教団に見切りをつけて離れる者。
元よりそれなりの数の人間がレアの振る舞いに不信感を抱いていたらしい。そういう者からすれば今回の事件は考え直すには充分なこともあり、もはやセイロス教団に未来はないと判断するのも致し方なく。
ごっそり、という表現が相応しいほど多くの人間が教団から離れた。それだけ今の教団を不安に思う者が多かったということである。
これまでのように活動できなくなったセイロス教団は縮小の一途を辿っているとの情報だ。
以上の報せに加え、さらに大きな問題とされるのが二つ目。
──ファーガス神聖王国からの和平会談の申し入れである。
* * *
春の訪れを迎えて久しい竪琴の節。帝国領では穏やかな気風となっているが、オグマ山脈を挟んだ王国では今も風が冷たい。冬に比べれば過ごしやすくても、ピリリとした肌寒さを覚える者も多いのだ。
ベレトとしても環境の違いを感じて身が引き締まる。今回仲間達と共にファーガスに来た目的を思えば正念場とも言えるのだから。
ある日突然、王国から示された和平会談の提案。それは帝国を色々な意味で揺るがせた。
あれだけエーデルガルトと敵対していたディミトリがまさかこんな申し入れをしてくるとは……
だがこれは大きなチャンスである。近付くところから悩ましいと考えていた相手が自分から近付いてくれたのだ。エーデルガルトの目指す理想のためにも、この機を逃してはいけない。
同盟内を巡っていてすぐには動けないドロテアを除いた
会談の場所に指定されたのは王国領、アリアンロッド城砦。【白銀の乙女】という異名を持つ、王国が誇る難攻不落の砦だ。
難所と名高いこの砦に、敵対してきた帝国の皇帝を迎え入れる。襟を開くとも取れる王国の姿勢にベレトは希望を感じていた。
あのディミトリがそこまでして和平を目指してくれているのか、と。
もちろん希望だけではない。この会談に臨むに当たって帝国で行われた会議では、時間がないこともあって意見をまとめるのに苦労したものだ。
それでもエーデルガルトが目指す将来へ大きく近付けるまたとない機会なのは間違いなく、彼女の今までの実績と、同盟との交易が生み始めた富が後押しとなり、他の貴族達にも否とは言わせない形で方針を決めることができた。
そうして臨むことになった和平会談。
同盟との会談に倣ったのか、王国が本気で和平を目指す姿勢を示すためか、出席者の武装がここでも許されていた。
エーデルガルトが発した「武器を帯びた身でも武器を抜くことなく言葉を交わせるようになることこそ平和への道である」という言葉はもう広く知られており、王国の方から会談を持ちかけられた時点ですでに伝えられていた。
これは帝国での会議で争点として取り上げられていたことである。同盟の時とはわけが違い、ディミトリを始めとした王国の苛烈な姿勢は分かっていたからだ。
武装を許すと言っておいて、武装して乗り込んできた帝国勢をそれ見たことか奴らは戦う気だぞと非難する口実にするのでは、という危惧である。
しかし、その危険を承知でエーデルガルトは会談に応じると決断した。今までだって危険はあり、それを乗り越えてここまで来たのだ。王国相手でもやることは変わらない。臆するわけにはいかないのだ。
そこはベレトも同意だった。
エーデルガルトの決意は知っている。仲間達もそこに賛同しており、フォドラの未来を作る今の流れを止めることはできないだろう。
同盟のように王国も帝国と肩を並べて生きていくことは必ずできるとベレトも信じて、生徒の未来を守るために力を尽くそうと決めている。
ただ、彼には別の懸念があった。
「エーデルガルト、後で──」
「
会談の席に向かう道すがら隣のエーデルガルトに話しかけても目線も合わないまますげなく遮られ、歩みも変わらなかった。
これである。
同盟との決戦の後、幾度となくエーデルガルトに話しかけてもその度に向き合えないのだ。会議が迫っているだとか、臣下の報告があるだとか、政策に集中したいだとか、何かと理由をつけてベレトの話を遮ってしまう。
今までの彼女からすれば考えられない態度にベレトは戸惑った。今までのエーデルガルトならどうにか時間を捻り出してでもベレトのことを優先していたというのに、ここ最近の彼女は真逆で、意図して自分との対話を避けているように思える。
最初こそベレトも忙しいエーデルガルトに気を遣って自分の話は後回しにしていたが、こうも続けて断られると理由があるのではと思い……しかし心当たりがなく、戸惑いが残るばかり。
(エーデルガルトと話せない)
そう実感する度に残念に思う他、胸の辺りがキリキリと絞られる感覚があるのが不思議だった。
しかし、会談に集中しなければいけないのは事実。それが分かるのでベレトとしても食い下がれるはずもなく、黙って歩を進めるのみである。
それにしても、とベレトは思う。
砦の内部に立ち入り、通路を歩きながら周囲に多数の気配を感じて。
(見られている)
ただの気配ではない。薄らと殺気が混じる刺々しい緊迫感だ。それも一人二人ではなく、かなり多くの人間がこちらに敵意を向けている。
和平会談という場で招かれた帝国側がこうも敵意を向けられていると、政治に疎いベレトでも理解できる。
明らかに歓迎されていない。それも、何か些細なきっかけさえあれば今すぐ戦闘に雪崩れ込むことも厭わないくらいの強い敵意。
改めて王国の人間が帝国に向ける敵意の大きさを感じるが、背筋を伸ばして席へ向かう。生徒達が怯んでいないのに自分が臆するわけにはいかない。
やがて廊下を抜け、砦の中央に位置する練兵場に出た。そこは今回の和平会談のために設けられた円卓がある場所で、晴れ空が見える開けた空間にはすでに向こう側の面子が揃っていた。
中央の席に着くディミトリ。
その背後に立って控えるドゥドゥー。
向かって右側にフラルダリウス公爵ロドリグ。
隣に座るフェリクス。
反対の左側にはイングリット。
フォドラに写真などなく、肖像画が出回る文化もない。それでもそこに並ぶ誰が誰なのか、五年ぶりに目にする彼らをベレトは一目見て分かった。
(みんな、大きくなっても変わってないな……)
感慨深く思う。生きていてくれたことが喜ばしい。場違いだとしても彼らの顔を見ただけでベレトは嬉しくなってしまった。
しかしすぐに気付く。
久しぶりに会えた生徒に釣られたのか、ベレトの意識は教師のものに寄る。
(ディミトリ、調子が悪いのか?)
テーブルに肘をついてうなだれているディミトリの顔は手に隠れてよく見えない。
ファーガスの王として席に着いていながら背筋は曲がっており、まるで自分の表情を隠しているみたいだった。
指の隙間からこちらを見やる眼光だけは鋭く、敵意は手に取るように伝わる。
五年前の最後にベレトが見たディミトリは憎悪を燃やしてエーデルガルトに襲い掛かった姿だ。あの時の感情を今も抱いているのか。もしそうなら、どんな心地でこの会談を迎えたのだろう。
葛藤。憤懣。ベレトには想像すらできない。それでもこの場を設けることができたのなら希望があると信じたい。
同時に思うこともある。セイロス教団、特にレアがここにいないことについてだ。
先だって入った教団没落の報せは衝撃だったが、それでもセイロス教の影響は小さくない。戦争中である今のフォドラであればこそ求められる存在だろう。
帝国が後押ししている聖人ベレトを中心とした新教団にフォドラの注目が集まっているのと同じくらい、大司教レアが率いる旧教団の存在感は今なお大きいはずだ。
そのレアがこの場にいないとは、王国内で何か問題でも起きたのか。
そう思うのは世情に疎いベレトだからだろうか。想像以上に教団は削られているのか。レアがこの会談に出席できないほど追い詰められているのか。
あるいは──
「まずは、感謝を」
ベレトの思考を遮るように、席に着いたエーデルガルトがまず発言した。
「この度、王国と帝国が向かい合う会談を設けてくれたことに。怨恨深き我々がこうして和平に向けた対話が叶ったこの卓がフォドラを良き未来に導くことを願うわ」
語りかけるエーデルガルトに対し、ディミトリは黙ったままだ。歓迎しているとは言い難い態度だが、少なくとも同じ卓に着くことは認めてくれたのだろうか。
全員が席に着いて、ついに王国と帝国による和平会談が始められた。
と、思いきや。
「先に帝国から示せる案について──」
「茶番はいらん」
口火を開いたエーデルガルトを遮って、初めてディミトリが発言した。
その口調は重く、眼光鋭い彼に気圧されたようにエーデルガルトの声が止まる。
「元より両国の怨恨は容易く消せるものではない。それでも尚、和平を望むと言うのなら、その元凶となるものを解消せねば進む話も進まないというもの」
練兵場に響き渡るディミトリの言葉が場を支配していく。
目線の先にあるのはただ一つ。
「俺から要求するのはただ一つ……エーデルガルト、貴様の首を寄こせ。全てはそれからだ」
怨念の宿る声が叩きつけられた。
ファーガスの王が発した言葉に、この場が一瞬にして殺気立つ。
「いきなり何言いやがる!」
椅子を蹴って立ち上がったカスパルが最初に怒鳴った。
「そんなこと言い出したら和平もクソもないって俺でも分かるぞ! 何のための会談だよ!」
「同感だ。怨恨を乗り越えて手を取ろうとする場で怨恨を吐くとは……騎士の国の王は私情を抑えることもできない若造のままなのかね?」
カスパルに続いてフェルディナントが皮肉を飛ばす。
二人だけではない。
ヒューベルトは殺気を露わに睨み。
ペトラは座ったまま得物に手を添え。
頬杖をついていたリンハルトはテーブルの下の手にこっそり魔力を集め。
怯えっぱなしのベルナデッタも今ばかりは果敢に顔を上げて目で抗議した。
開始と同時に剣呑な空気に満たされ、和平会談とは名ばかりの睨み合いの場になってしまった。
二の句が継げない沈黙を裂いたのはファーガス側の人間。
「……まあまあ、そう結論を急ぐこともないでしょう」
穏やかな声を崩さないロドリグが間に入るように口を開いた。
「陛下、あなたの求めるものは分かりますが、初手からいきなり王手が叶うほど単純な話ではありません。そのために折り合いをつける会談をこうして設けたのではないですか」
「くどいぞロドリグ。王国の意思は決定している」
「そう言いますがね……事は王国だけのものではありません。言われた帝国が頷けるような話でもありますまい」
王国の中でもディミトリに次いで高い地位にいると言えるロドリグだが、話しぶりからして彼は中立にも見えた。
和平を結ぶにあたって様々な意見や政策をすり合わせなければいけないのはベレトにも分かる。二つの国という別々の集団が足並み揃えて動いていくには、どうしても細かいところまで確認し合っていかなければ前に進めない。
ただしそれはお互いが相手の声を受け入れられるだけの信頼がなければ成立しない理屈だ。全面的にとまではいかなくても、妥協などして相手に合わせようとする姿勢がない限り、ディミトリの言葉通り進む話も進まない。
そうは言っても、そのために要求するのがエーデルガルトの首なのでは受け入れられるわけがない。皆の反応も当然である。
だがこの時、ベレトが気になったのはディミトリの態度の方だった。
五年前はあんなにも信頼していた様子のロドリグの提言にさえ取り付く島もない。
しかも傍にいるドゥドゥーは元より、先ほどから誰とも視線を合わせようとしないフェリクス、静かに目を伏しているだけのイングリット、彼らのことも眼中にないかのように気にしていない。
仲間を、周りにいる誰も見ず、エーデルガルトだけを……
その姿をベレトは知っている。
その危うさを身を以て知っている。
そして、そのディミトリが迎える結末をベレトは想像できてしまった。
「……答えを返すわ」
息を呑むベレトを置いて今度はエーデルガルトが口を開いた。
皇帝として、ファーガスの王に毅然と言葉を返す。
「断る。その要求は受け入れられない」
「貴様……!」
「私は死ぬわけにはいかない。フォドラの未来のため、為さねばならない大業を背負うこの身、道半ばで途絶えさせるわけにはいかないのよ」
「ふざけるな!」
静かに返すエーデルガルトに対して、今度はディミトリが怒号で返す。
テーブルを叩いた拳がめり込み、怒りの爆発は目前といった様相だった。
「フォドラの未来、為さねばならない大業、そんな耳触りのいい言葉ばかり連ねて! どれだけのものを踏み躙ってきた! 貴様が犠牲にしてきた多くの命に向けて、同じことを言えるのか!」
「必要があれば、私は言うわ。世界に戦火を広げた罪は私の……この私以外の誰にも背負わせてはいけないもの。その負債を後の世に残してはならないと思うからこそ、私は平和な時代を作ろうと動いているのよ」
「負債、だと……? あの痛ましい光景を、お前は負債の一言で片付けようというのか……!?」
抑え難いのか、身を震わせるディミトリが顔を歪める。エーデルガルトの言うことがまるで理解できない狂言であるかのように、彼の目にはアドラステアの皇帝が狂人に見えるのか。
そしてディミトリは決定的な、最も許し難い行いを糾弾する。
「ならば、ダスカーの悲劇は! あの地で引き起こした惨劇すらも、貴様にとってはただ言葉で流してしまえるようなものなのか! 自分の母親を殺しておきながら省みることはないのか! 答えろエーデルガルト!!」
ダスカーの悲劇。
それは今から9年前、ファーガス神聖王国の北西に位置するダスカー地方で起こった一連の事件のことであり、ファーガスを揺るがせた痛ましい惨劇の通称だ。
異なる言葉を使い、異なる肌を持ち、異なる文化に生きるダスカー人を肩を並べる仲間として受け入れようと考えた当時の王ランベールは、何人もの臣下を連れてダスカー地方へ会談のために赴いたのだ。
そのランベール王がダスカー地方で暗殺された。ダスカー人による大逆事件だと怒るファーガスの騎士達がすぐに征伐を行い、数多のダスカー人を虐殺して一つの地方を滅ぼすにまで至った。
臣下の他、ランベールの後妻であるパトリシアも同行していた。彼女はエーデルガルトの実の母で、同じくダスカーの悲劇の折に行方が分からなくなっており、死亡したとされている。
この五年の戦争が始まる前までは、近年のフォドラで起こった最も大きな争いと言えるだろう。
ディミトリはこの悲劇が起こった原因がエーデルガルトだと考えている。
その理由をベレトは知っていた。
五年前。ガルグ=マク大修道院の郊外で密会している敵をベレトとディミトリは見つけたのだ。
敵とは今では闇に蠢く者と呼ばれる相手、タレスという魔導士、モニカに化けていたクロニエ、そしてその正体がエーデルガルトだった炎帝である。
そこで彼らはこう話していた。
………………
…………
……
『おぬしは我らの最高傑作、汚れた獣の血を薪とし、神をも燃やし尽くす炎なのだから……今こそ、その力でフォドラを洗い流す時。それこそが我らの救いとなる』
タレスの発言により、炎帝とは作られた存在であると同時にタレス達の配下のような立場ではないかと思われたが、そこはいい。
肝心なのはこの後。
『ダスカーで、アンヴァルで、惨たらしい行いを繰り返してきた貴様らに……果たして救いなど来るかな』
これだ。炎帝のこの発言により、ダスカーの悲劇は彼らが引き起こしたもので、その末に炎帝が何らかの特殊な力を施されたのだと知れた。
『全てはおぬしが力を得るためにやったことではないか』
直後のタレスの言葉がそれを補強する。それもあってダスカーの悲劇は炎帝、すなわちエーデルガルトが原因で起こったとディミトリは解釈しているのだ。
……
…………
………………
ベレトとしては炎帝が続けたアンヴァルでという言葉から、明らかになっていないだけで帝国でも王国と同じような悲劇があったのではないかと考えていた。
そして同じく五年前、エーデルガルトと夜に偶然あった際に彼女が明かしてくれた秘密。皇室のフレスベルグ一族の子供達が密かに牢に捕らえられ、人体実験を受けて廃人と化したことをベレトは知った。
成功したとしてただ一人生き延びたエーデルガルトも、僅かでも何かが違えば兄弟姉妹のように心を壊されていたと思うと恐ろしく感じたものだ。
あれこそが炎帝の言うアンヴァルで起こった惨たらしい行いだったのだろう。
つまり炎帝も、エーデルガルトも被害者側であり、ディミトリと同じ立場なのだ。
それを伝えられればディミトリの憎悪は行き先が変わる。ベレト達と志を同じくして闇に蠢く者と戦う仲間になれるはず。
問題はそのディミトリがこちらの話に耳を貸すか。その懸念を解消できるかもしれないのが今回の会談だ。
王国の方から持ちかけてくれたこの機会を無駄にしてはいけない。
こうしてディミトリの方から話題に出した機会を逃すわけにはいかない。
ここからの答え方如何で流れが決まる。
エーデルガルトの対応は──
「知ったことではないわ。過去は変えられない。なればこそ、我々は過去を礎にして未来を見据えなければならないのよ」
──覇王としての断言だった。
「…………はっ、そうか……」
エーデルガルトの返事を聞いたディミトリはうなだれた。力ないその姿は先ほど声高に弾劾したものとは思えない。
「畜生と言葉を交わそうなどと考えた俺が……愚かだったな……」
ひょっとすると、ディミトリは期待していたのかもしれない。エーデルガルトが非を認めて謝罪してくれると。そうすれば自分も彼女の言葉を受け入れて対応を変えられるかもしれないと。
自身の憎悪を義理の姉に向けずに済むのではないか、そんな期待を。
これはディミトリだけが気にしている問題ではない。
故郷を奪われたドゥドゥーは当事者であるダスカー人の生き残り。
主君にして親友でもあるランベール王を失ったロドリグは、王が引き連れた臣下の一人である息子のグレンも亡くしている。
そのグレンはフェリクスの兄であり、イングリットの許嫁でもあった。
誰もがダスカーの悲劇に因縁があるのだ。
そういったファーガス側の想いを歯牙にもかけないエーデルガルトを前に、場の流れは揺るぎないものになりつつあった。
これでは和平は不可能である、と。
それを感じ取ったからこそ──ベレトは動かずにはいられなかった。
「一国の王として貴方には正しい選択を望むわ。フォドラの進む先のぃぶ!」
威厳ある口調を続けようとしたエーデルガルトが突然奇声を上げた。
その原因は隣から伸びたベレトの手。
チョップ。
エーデルガルトの口を強引に止めるため、彼女の頭に手刀を落としたのである。
割と力を入れた一撃だった。
「せ、師!?」
目を白黒させてエーデルガルトは隣に振り返る。目の前の、椅子から乗り出して自分にチョップしたベレトはいつもの無表情だが、まっすぐ見つめてくる瞳は間違いを窘める色があった。
それはエーデルガルトがよく知っている目だった。教師として生徒を導く彼の目。再会したあの日、今の君は間違っていると指摘して進む道を正してくれた時のベレトの目。
「エーデルガルト、今のは違うだろう」
「何を……」
「今の言い方は絶対に違う。君は何のためにここに来た。言い直せ」
和平を結ばんと歩み寄ろうとする相手に対してその言い草は何だ。
相手が喧嘩腰だからと言って君まで同じになってどうする。
言い方一つで捉え方は如何様にも変わるのが会話というものだ。
仲良くしたいなら言葉遣いには気を付けなさい。
ディミトリの態度に釣られて立ち塞がる敵を薙ぎ払って進む覇王の顔に変わりかけたエーデルガルトを、今はその顔をする時ではないと叱りつけたのである。
一瞬でベレトはこの場の中心になっていた。
国と国が向かい合う和平会談。王同士のやり取りに割って入ったベレトは目立つどころではない注目の的。皇帝にツッコミを入れるという暴挙に及べば視線が殺到して当然。
しかし当のベレトはそんな空気など一切気にしていなかった。生徒が目の前で明らかに間違った道に進もうとしているのを止める、その一心だったのだ。
そんなベレトを見て、ヒューベルト達帝国側のメンバーは安心したように息を吐いた他、王国側も似た反応をした者がいる。
ロドリグはどこか感心した風に「ほう」と楽し気に呟く。
フェリクスは小さく鼻で笑いながら、口元を和らげる。
イングリットは詰まった息を大きく吐くと、少し表情が明るくなる。
ドゥドゥーだけは変わらずディミトリの傍に黙したまま動かないが……会談の空気は間違いなく柔らかいものになっていた。
殴られた頭をさすってエーデルガルトは反省する。
(やっぱり師がいないとだめね、私)
今自分は五年前の炎帝に戻りかけていた。ベレトと出会う前の、それこそ力による覇道を歩むしかフォドラを変えることはできないと、他人の言葉に耳を傾ける余裕がなかったかつての頑なな自分に。
同じ過ちを繰り返すところだったと戒め、またも自分を正してくれたべレトへ感謝の念を新たにする。
思えば……最近はベレトと距離を取ってしまっていた。
同盟との決戦の最中に彼が見せた戦いぶりがあまりにも痛ましく、このままでは彼がいつか死んでしまうのではないかと怖くなって。
喪失への恐怖。それはエーデルガルトにとって、切り捨てたはずの弱さの一つだ。失うことを恐れる心を抱えたままでは自身の覇道を歩む足を鈍らせてしまうと考え、皇帝になると決めた時から捨てたつもりだった。
しかしエーデルガルトの決意とは裏腹に、この弱さは消えてなかった。心の奥底に封じられただけでなくなったりなどしていなかった。
ベレトが死ぬかもしれない恐怖に怯え、かと言ってどうしてよいのか分からず、先延ばしにするみたいに彼を遠ざけてしまい、そうして彼を傍で感じられないことでより不安になるという悪循環に陥っていたのだ。
そんなエーデルガルトの心の距離をベレトはあっさり越えてくれる。
いつか約束してくれた通り、どんな時でも大丈夫にしてくれる。
(師がいれば私は大丈夫)
ベレトには傍にいてほしい。この気持ちはもはや揺るぎないものになっていた。
──とは言え、もうちょっと優しい手段はなかったのか。
脳天にチョップだなんて、なんだか悪戯した子供へのお仕置きみたいなやり方。まるで私がいけないことをして師に叱られた子供みたいな状況じゃない。
いや、即座に且つ確実に私の言葉を止めるためと思えば悪くない手段なのかもしれないけれど、それでも、こう、肩を引くとか、口を抑えるとか、そういうことでも言葉を止めるには充分でしょうに。
口を抑える? 師の手が、私の口に触れる? 私の、く、唇に、触れる? それはその、えと、ちょっとあの、口元に当たるなら顎とか頬とか、師の手が私に触れて、それでもって師が私の顔をを引き寄せて──げふんげふん。
妄想に傾きかけた思考を慌てて現実へ向ける。
視線を前に戻すと、急に話を断ち切られて困惑したように目線を泳がせるディミトリが見えた。
彼も自分と同じなのかもしれない。ほんの少しだけ他人の声を聞くことができれば真の道に気付けるはずが、己の中にある答えだけが正しいものなのだと頑なになって視野が狭まっているのか。
であるならば。
「ディミトリ……先ほどの私の言葉、訂正させてもらうわ」
私の方からちゃんと言わなければいけないわね。
「ダスカーの悲劇について、私は何も知らない」
「……何だと?」
「貴方はあの悲劇を私が起こしたものだと考えているみたいだけれど、私は関与していないわ。当時の私は事情があって身動きが取れなかったからそんな命令を出すことなんてできなかったの」
ダスカーの悲劇が起こった時期は、エーデルガルトは兄弟姉妹と一緒に闇に蠢く者に捕らえられて牢に繋がれていた。人体実験を受ける時、肉体改造を施される時だけ外に出されて、その間も他人との会話などなかった。
当然、ランベール王の暗殺なんて誰にも命じていないし、その後に起きたダスカー人の虐殺も認知できるはずもない。
エーデルガルトにとってダスカーの悲劇は本当に『知ったことではない』事件なのである。過去の事例の一つとして流してしまっても無理はない。
ただ、当事者であるディミトリに面と向かって断絶の言葉を叩きつけてしまうと心証が悪くなるのも当然のこと。そこがエーデルガルトには今まで理解できなかったところだ。
ここで言う当然とは、人の弱さを起因とする心の働きだ。
人は弱い。弱いからこそ過去に囚われる。過去に囚われることは人の弱さと言われるが、それはその人がそれだけ過ぎ去った日々を愛しているからだ。愛が深いからこそ人は過去を捨てられないのだ。
同時に、人は強い。心を引き裂くような過去の傷を乗り越えて未来へ歩める強さを人は持っている。傷を忘れるのではなく思い出として心に納め、気持ちを新たにして未来を目指せるのも愛が為せる人の強さと言える。
エーデルガルトは己の弱さを徹底して切り捨ててきたつもりだった。皇帝となってフォドラを導くには弱さは障害にしかならないと考えたから。
そんなエーデルガルトにも捨てたはずの弱さが、すなわち愛が残っているということをベレトが気付かせてくれたのだ。
彼を欲しいと思った。
彼と歩きたいと望んだ。
彼の言葉を欲した。
彼が傍にいてくれればと願った。
この思考は人の弱さに他ならない。それが悪いものではないと知れたことで、弱さと強さをどちらも抱えて人は歩いていけると理解できたのだ。
作られた皇帝という強さしかない存在に変えられたエーデルガルトは、ベレトに出会えたことで弱さを思い出し、人間に戻れたのである。
今、ディミトリは過去に囚われている。家族を、仲間を愛するあまり、人の弱さにしか目が向いていない。人の強さを信じていない。
ある意味では彼とエーデルガルトは似ている。
困難に挫けても立ち上がれる人の強さを信じていなかったエーデルガルト。
過去に縋るあまり他者と手を取り合える人の強さを忘れたディミトリ。
どちらも頑なな姿勢だ。だがエーデルガルトが変われたように、ディミトリも変われるはず。
そのためには、まずこちらから相手を信頼して寄り添ってやらねばならない。
「ねえディミトリ。この世には持つ者と持たざる者の二種類の人間がいるわ」
「……何の話だ」
「私達が目指し得るものの話よ。かつての私は持たざる者が生まれ続けてしまう構造に怒り、それを破壊し尽くそうと考えていた。この考えは私の傲慢が生んだ独善なのだと今なら分かる……師が教えてくれたから」
話すエーデルガルトは自然と微笑んでいた。つい先ほど知ったことではないと傲然と答えた覇王の顔ではない、一人の人間としての自然体で。
かつてのエーデルガルトなら、戦禍に喘ぐ民衆に向けて未来のために命を
だが、その道は自分の頭一つで思い描いただけのものに過ぎない。
弱くても他者と手を取り合い、助け合い、支え合う、そういう力を持つ人もいるのだと何一つ信じていないまま目指した理想。
それがまさか、フォドラに暗黒の時代をもたらしかねない混沌の種だったとは。
事実、エーデルガルトとは全く違う視点の持ち主であるベレトが少し考えただけで問題点を言い当てられてしまう欠陥を孕んでいた。
それに気付けないまま突き進んでしまうところだったと思うとゾッとする。
結局は思い直し、人間の習わしとして次の世代に繋いでいくやり方に切り替えた。そのための信頼を育む方針で、今ある世の中を壊すことなく変えていくという以前よりずっと地味な手段を探りながら。
それは、目標に辿り着くための道筋は一つではない、複数の道を見据えた上でその時その時最適な道を選ぶ、スタートから遠回りしたとしても最後にきちんとゴールできればいい、そんなベレトの教えを思い出したエーデルガルトが己の覇道を改めた結果である。
目指すものは変わっていない。辿る道筋に加わるものが増えただけ。
なら、そこに貴方も。
「私は、持たざる者だったわ」
「貴様が? ……そんなはずがあるか! 理想のためと
「そうでもないの。私は確かに抑えつけられる側で、この世界の流れに翻弄される人間だったわ。けど私だけではなく、本来は誰もが持たざる者と言えるのかもしれないと今は思う」
「どういう、意味だ?」
「どんな人間であれ、誰だろうと最初の最初は何もない。貴族の立場も、血筋の意味付けも、後から纏う衣のようなもの。紋章ですら、調べて発現しなければ無いのも同然。望む望まざるに関わらず、人は必ず持たざる者から始まり、誰かから与えられて少しずつ持つ者になっていくのよ」
「貴様も……そうだというのか」
「ええ。私もずっと持つ者の優しさに支えられて生きてこれた。師や仲間達、周りの頼れる人のおかげでね。そして、私の一番深いところをずっと支え続けてくれた相手へ、ようやく伝えられる」
万感の想いを込めてエーデルガルトは微笑む。
向かい合う義理の弟に感謝を伝えられると。
「あの時……短剣をくれて、ありがとう」
「っ!!」
それは、もはや記憶の彼方に薄れそうな儚い思い出。
10年以上前の子供の頃。帝国内の政争から逃れるためにエーデルガルトは一時王国へ亡命したことがある。
叔父に連れられてとは言え、当時のエーデルガルトは孤独だった。亡命ということで身分を隠さなければならず、知り合いなど一人もいない王国で潜んでいなければならない身。
そんな彼女は偶然、何も知らないディミトリと出会う。
互いが義理の姉弟だと知らないまま、二人はすぐに打ち解けて友人となった。
人目を忍んで一緒に遊び、踊りの練習をしたこともあった。
短かったが楽しい日々がエーデルガルトを励ましてくれた。
そして別れの日。エーデルガルトが急に帝国へ帰ることになり、それを知ったディミトリが大急ぎで用意した贈り物が、なんと短剣。
別れの餞別に贈るにしては物騒なものにエーデルガルトも慌てふためいてしまい、ろくな返事もできずに王国を去ることになってしまった。
以来、二人は会うことはなく。
ガルグ=マクの士官学校に行くまで互いを気にすることもなかった。
「貴方のおかげで、私の心は挫けなかった。貴方がくれた支えが、私を今日まで生かしてくれた」
「……エーデル、ガルト」
「貴方の優しさが最初に私を持つ者にしてくれたわ。ほとんど歳の変わらない子供ではあっても、間違いなく貴方が私を支えてくれたのよディミトリ」
「思い、出したのか」
「ええ。つい最近まで忘れてしまっていたのだけれど。そこはごめんなさい」
「……あの時は、悪かった……今考えても、情けない」
「いいのよ。それに今はあの短剣の意味も分かるわ」
ファーガスでは昔から剣は特別な意味を持つ。
貴族子弟はまず最初に剣を取り、剣術を教わる。
騎士の叙勲を受ける際、国王手ずから剣を授けられる。
様々な武器の中でも剣は特別扱いされるのだ。
そんな気風があるファーガスで、剣とは『未来を切り拓くもの』と考えられる。
ファーガスで生まれ育ったディミトリがエーデルガルトに短剣を贈った意味とは。
「あの時、貴方は言ってたわね。苦しくても負けるな、望む未来を切り拓け、と……おかげでその通りに、私は闇に溺れることなく未来を目指せた。本当にありがとう」
狂気の人体実験に苛まれる中、エーデルガルトが正気を保てたのは短剣という拠り所があったからだ。未来を切り拓く剣が、贈られた思い出が胸にあればこそあの地獄を耐え抜くことができたのだ。
あの時のディミトリの心遣いが確かにエーデルガルトを支えたのである。
「そして今、アドラステアの皇帝としてファーガスの王である貴方に問う。貴族と平民の在り方、紋章の在り方、セイロス教の在り方、それらの仕組みを変革させて持つ者も持たざる者も全てを導いて新しい社会を作らんとするために、我々は手を取り合うことができるはず」
素早く表情を改めたエーデルガルトは話を戻す。
この和平が結ばれればフォドラ三国の協力関係が成り立ち、歴史の転換が叶う。
本来のものから逸脱しつつある流れが確実に変わり、新しい時代が訪れる。
単純なフォドラ統一ではない。帝国と王国と同盟、それぞれの持ち味を活かして文明の発展を加速させるだろう。
エーデルガルトが目標とするセイロス教と紋章の扱いの変化はもちろん、クロードが求めたフォドラの壁の解放も目指せるだろうし、ディミトリが憂いていた虐げられる者達の救済もきっと良い兆しが見えるはず。
期待が高まるというものだ。
「どうか、この手を取ってほしい。私達は敵ではないのよ」
「エーデルガルト……」
「フォドラを導く同志として、互いに──」
「ちょっと待った」
そんな折、熱が乗った言葉を遮ったのはベレトだった。
今度はエーデルガルトの肩に手を置くことで彼女の弁を止めると、そのまま王国側のテーブルを見やる。
「師、今度は何?」
「さっきから気になっていたんだが……」
見上げるエーデルガルトにはあえて答えず、ベレトはジッとディミトリの顔を凝視した。
無表情でもその視線は、彼らしいと言うべきか、相手の身を案じる心配の色が乗るもの。
「ディミトリ、ひょっとして君は
「っ!?」
そのベレトの言葉に誰よりも驚いたのは言われたディミトリだった。
「……何故、そう思った」
「元気がないように見える。ずっと顔をしかめてるし、
次いで言われたことに最も反応したのはずっと静かに控えていたドゥドゥー。
ハッと息を呑んでディミトリの横顔を見つめ、こればかりは黙っていられないと声を漏らす。
「陛下……! やはりあなたは、ずっと……」
しかし、そんなドゥドゥーの声も聞こえないほどディミトリは動揺していた。
睡眠不足も頭痛も、それを周囲にはずっと隠してきたのは実際その通りで。
なのに、まさか五年ぶりに再会したばかりのベレトにこうもあっさり見抜かれるとは思わなかったのだ。
「それに、ちゃんとご飯を食べてるか? 忙しいからと言って携帯食で済ませてたりしないか?」
ベレトの気遣いの言葉は止まらず、それを聞くディミトリの動揺も止まらない。次第にディミトリの上体は椅子の背にもたれることなくふらふらと揺れる。目の焦点も合わないのか、視線までもがゆらゆらと定まらない。
揺らぐ視界の中、意識だけ加速させてディミトリは思う。
(今目の前にいるのは誰なんだ? 本当に俺が憎む仇なのか?)
そう自問してしまうほど心が揺らいでしまっていた。
ひたすらに憎み、いつかこの手で殺してやると決意し、死者に報いるためにのみ生きると覚悟していた自分が、二人から思わぬ言葉をかけられただけで揺らいでしまう事実にも驚いて。
エーデルガルト。
ずっと目で追っていた。
ガルグ=マクで会えた時からあのエルだとすぐ分かって。
だが君は覚えていないようだったから問うこともなくて。
気を遣ったつもりが煩わしく感じさせたようで。
士官学校で見かける君は忙しなくとも楽し気で。
先生と並んでいようと強硬に拘る姿は幸せそうで。
仇だと知った時はもう何も考えられないくらい憎くて憎くて仕方がなかったのに。
今こうして向かい合う君は確かな器が感じられる皇帝に見えて。
俺は君をどう思えばいいんだ。
先生。
ずっと頼もしく思っていた。
戦いぶりも、学校での指導も、日々の関わりも、何故か心惹かれていた。
復讐のために来たはずの士官学校が信じられないくらい楽しい日々になって。
王族という立場で学級も違う俺をただの生徒として見てくれるのが嬉しくて。
いつの間にか胸の内を見せるようになって。
復讐の意思まで打ち明けて。
このまま傍にいて変わらず俺を見ていてくれるんじゃないかと期待して。
お前が仇のエーデルガルトに味方したのを信じたくなくて。
それなのにお前は変わらず先生のままで。
俺はお前をどう思えばいいんだ。
憎悪と信頼の間で揺れるディミトリは、もう自分がどうすればいいのか分からなくなっていた。
いつしか俯いてしまい目も合わせられなくなったディミトリを見て、ベレトは全員に向けて提案する。
「すまない。始まったばかりで悪いが、一度会談を中止できないか? 調子を崩している人に大事な決断を迫ると後悔しそうな気がする。いっぺんに全て決めなければならないわけではない」
「そうですね。思えば帝国のみなさんにはアリアンロッドに到着したその足で会談の席に着いていただきましたし、お疲れの方もいるはず。ここらで少し風を通すとしましょうか」
真っ先にロドリグが応じて賛成した。反対する者もいないようで、各々が大なり小なり体を脱力させるなど自然と場の緊張感が緩んでいくのが分かった。
──このまま進めば。
──本当に会談の空気を入れ替えられたかもしれない。
──本当に和平を目指す話し合いができたかもしれない。
──だが、そうはならなかった。
──そうはならなかったのだ。
気付けたのはエーデルガルトだけだった。
ベレトの叱責を受けて彼の教えを思い出したその視野の広さが、辛くもその危機を拾えた。
視界の端で、会談の場である練兵場の周囲を覆う高所に怪しく動く影を捉える。
訝しく思った時にはその影が大きく振りかぶった巨大な得物が投げられていた。
向かう先は、ディミトリ。
「危ない!」
瞬間、反射的に椅子もテーブルも蹴ったエーデルガルトが襲い来る凶器に向かって跳び上がる。ディミトリとの間に割って入る形で空中で掴み取ることに成功。
着地したエーデルガルトは手に掴んだ得物に目を落とす。そして、愕然。
「そんな、どうしてこれが……!」
その得物は、あえて当て嵌めるなら斧に属する武器だった。
全体の意匠は刺々しく、纏うオーラは禍々しく、さながら英雄の遺産を思わせる。
紋章に呼応して力を発揮するその武器が英雄の遺産ではないことをエーデルガルトとヒューベルトだけが分かった。
この斧がどういうものか知っていたから。
(アイムール……闇に蠢く者がエーデルガルト様のために作り出した紋章武器! こんなものを投げ込むとは!)
無言で唸るヒューベルトは咄嗟に斧が投げられた高所を見上げるが、投げ込んだ張本人であろう影がちょうど姿を消すところ。
消える間際、その影の口元がいやらしく歪むのを確かに見た。
王国にも闇に蠢く者の内通者が潜んでいた。それも、和平会談という国の行く末を左右する場所への侵入が叶うくらい深いところまで。
敵の動きを読めていなかったこと、エーデルガルトの歩く道に邪魔を入れさせてしまったことへの屈辱にヒューベルトは歯噛みした。
だが事態はもう止まらない。
「……くっくっく……く、ははは……!」
うつむき、顔を隠したディミトリが笑声を漏らす。
肩の揺れは増していき、程なくして爆ぜた。
「あっはははは!! はーっはっはっはっは!!」
突然始まった国王の哄笑に周囲は驚いて言葉を失う。
そのディミトリの手が傍らの槍、ブレーダッドの英雄の遺産アラドヴァルを取った時点で後戻りはできなくなっていた。
「ついに尻尾を出したなエーデルガルト!」
「ディミトリ、落ち着いて! これは私の意思ではない!」
「黙れ! どれほど言葉を連ねようと、所詮は倫理など持たぬ畜生でしかないことを貴様は自ら証明した!」
「違う! 私に戦闘の意思はない!」
「その武器が何よりの証だ! 姑息にも甘言を弄してすり寄り、懐に近付いてから牙を剥く、人面獣心の外道めが!」
ディミトリが向けたアラドヴァルの穂先が紋章のオーラを纏い、エーデルガルトの手中にあるアイムールの刃も呼応するかのようにオーラを帯びる。
「待てディミトリ! 今エーデルガルトは君を守ったんだぞ!」
「戯言を……貴様も同じだ、何も変わらん! 何もかも、全て同じだ!」
膨れ上がる殺意を止めようとベレトも口を挟むが、もはや聞く耳を持たないディミトリに届くことはなく。
憎悪が漲る彼の両目には、帝国の人間が敵にしか映らなかった。
「アドラステア帝国の宣戦布告! 我らファーガス神聖王国は受けて立つぞ!!」
和平の決裂を、国王は高らかに咆える。
如何に優しい光が差し込んだとしても、目を閉じた者には意味がなく。
怒りと憎しみを選んだディミトリは闇へと突き進むのだった。
それを待っていたかのように、天から落ちる一条の光線が終わりを告げる。
アグネアの矢──全てを焼き尽くす最強の炎熱魔法。
爆炎が場を満たした。