戦場では色んな人の色んな思いが蠢いているのです。
ズルいと思いました。
だって私はずっと頑張ってきたのです。
それはもう、振り返ってみても他に何も言えないくらい頑張りました。
人間を導いて。
人間と戦って。
人間を抑えて。
人間を諭して。
私が頑張らないといけないから、ずっと頑張ったのです。
言葉に尽くせないほど大変でした。
だって、人間は愚かで、すぐ争う方に流されて、いがみ合い、少し考えれば手を取ればいいと分かるはずなのに助けを拒み、そうして互いを傷付けていく。
こんなのおかしい。人間はおかしい。幼かった私でも理解できるのに、どうして人間はこれほどまでに愚かなの。
だから考えて、手を尽くして、言葉も尽くして、宗教を立ち上げて、それを基に国を興して、そこからようやく人間をまともに導けるようにして。
本当に大変でした。投げ出したいと何度も思うくらい大変でした。
でも、そんな人間をお母様は愛していたから。
愚かでも愛しいのだと、憤る私をなだめて愉快そうに笑っていたから。
だから、私もお母様に倣うことにしました。
慈悲深いお母様を真似て、お母様みたいに人間を導けるように。
全てはお母様を取り戻すため。
あの盗人を討ち、この手に
私の頭を撫でてくれたお母様の手を思い出して、嬉しかった。
やっと取り戻せて、これで終わったのだと本懐を遂げて、嬉しかった。
でも、私は欲張った。
愚かな人間のように欲が生まれた。
──お母様に会いたい
死んだ者は蘇らない。その法則が、世界が定めた理が、私は納得できなかった。
まだお母様を取り戻せていないと私は自分を言い含めた。
私のやるべきことはまだ終わっていないのだと。
そして私は秘密裏に研究を始めた。
闇に蠢く者によって作られた紋章の仕組み、それによる紋章石にも目を付け、逆に利用できないかと思い立った時は天啓を得た心地だった。
誰にも明かせない。生き残った同族にさえ言えない。そんな孤独な道でも私は構わなかった。
お母様に会うために頑張ると決めたから。
隠れて行う研究は想像以上に進まなかった。
誰にも頼れない。全て一人で考えなければならない。歩みは遅く、これでいいのかと不安に苛まれない時はなかった。
それでも僅かずつ形を帯びていくことが救いで、お母様に会える日が近付いている実感が励ましになっていた。
器を一人、また一人、作り出す度に情が湧くのを見て見ぬふりをして。
そして
私がどんなに頑張っても理想には届かないのだと思い知らされるようで。
そうして諦めが頭を過ぎった頃、彼女が子供を授かる事態になって心底驚いた。
まさかと思うと同時に、これこそがと期待が生まれた。
お母様が自ら生まれようとしている。私の頑張りに応えようとしてくれている。
胸が弾む心地など久方ぶりで、その日が待ち遠しかった。
自身の所業から目を逸らして彼女を見守る内に、今までになかったほど情が移っていくのを感じていた。
訪れた出産の日。
生まれた赤子が男児だったこと。母体が急激に衰弱したこと。
予想外の状況だったこともあってか、彼女の頼みを聞き入れてしまった。
死にゆく母親として、今際の際の最後の想いを、無碍にできなくて。
その体を切り開いて、紋章石を赤子の体内に移植する。他ならぬ私自身が禁忌と定めたことを、生まれたばかりの子供に施す。
思い出したように罪深さに震えた。
だからこそ、この子供は守らなくてはと思った。
作品ではなく一人の母親となったシトリーから託されたものを私は捨てられない。
だからこそ、大火事で子供が姿を消した時は焦った。
焦燥が抑え切れず、再び諦めが頭を過ぎるようになり、もう嫌気が差してきた。
だからこそ、あの子供が成長して帰ってきたのを見て確信した。
運命が私の背中を押していると。
──お母様に会いたい
やっぱりお母様は私を見放さなかった。
私の願いを、私の頑張りを見ていてくれたのだ。
成長したあの子供、いえ、青年は私の期待に応えるように次々と実績を上げて、それがなんだか応援されて張り切るお母様のようで、まるで本当にお母様が帰ってきたみたいに思えて。
この子なら私の願いを叶えてくれる。きっと私の求める器になってくれる。
焦りはなく、私の心は穏やかでいられた。
見守って、交流するようになって、二人きりの茶会の席にまで着いたりして。
本当に久しぶりにはしゃぐ自分が新鮮で、つい話し込んでしまう。
彼が聞き上手なせいか、私もあれこれと口に出してしまって何度も話が長引いてしまったり。
同族にも明かせなかった胸の内を彼にだけは知ってほしいと欲に駆られて。
二人きりで話していると不意に
『レアはすごいな』
そう言って、彼は
『……どうしたのですか、急に』
『話を聞いてて思った。レアはすごい』
『もう、いやですわ。子供のように言わないでください』
『それは関係ない』
『え?』
『たくさん頑張って、色々と成果を出して、努力してきた人は褒められるものだ』
席を立って、私の
『すごいぞレア』
頭を撫でてくれたのだ。
『な……どうして』
『頑張った人はこんな風に褒めるものだ。父さんも俺を褒めてくれる時はこうする』
『そ、それは、貴方が小さかった頃の話でしょう?』
『いや、今でも父さんはよくこうする』
『今でも!? ジェラルトは何を考えて……』
言いながら手を止めず
『頑張ってきたんだな』
微笑んで、私の頭を優しく撫でてくれた。
『……っ』
『よしよし』
『……あの、そろそろ……』
『ん、もしかして気に障ったか? 嫌だったら謝る』
『いいえ、そうではなくて……』
『何かあったか』
『……二人の』
『ああ』
『……二人きりの時だけ、誰にも見られていない時……また、してくれますか』
『分かった』
ずっと褒めてほしかった。
ずっと頭を撫でてほしかった。
ずっと、ずっと、頑張りを認めてほしかった。
涙が浮かびそうになる目を伏せた私のおねだりを当たり前のように受け入れて撫でてくれる彼の手が、嬉しかった。
私はずっと頑張ってきた。お母様に会うために、ずっと一人で。
その努力を理解してもらえた気がした。もちろん全てを話してはいない。曖昧な言い方で誤魔化したところも多い。それを気にしないで率直に認めてくれたのは彼の気遣いもあっただろう。
だから嬉しくて。
もっと欲しくなって。
彼を求める気持ちが生まれて。
──ベレトに会いたい
待て。
何だこれは。
違う。
私はずっと
──お母様に会いたい
そうだ。私はお母様に会いたいのだ。お母様に会うために頑張ってきたのだ。
ベレトはそのための器だ。お母様を降臨させるための肉体。
その彼がお母様みたいに私を褒めてくれた。
──ベレトに会いたい
彼に会いたい。
だって、初めてだったから。
私を褒めて、認めてくれた人。
私の頭を撫でてくれた人。
私を理解してくれた人。
お母様じゃないのに、お母様みたいな人。
──お母様に会いたい
それは今も変わらない。ずっと願ってきたのだから。
でも今はそれと同じくらい
──ベレトに会いたい
そう思ってしまう。
なのに。
彼はエーデルガルトを、人間を選んだ。
よりにもよってお母様の遺体そのものである天帝の剣を私に向けて。
私を拒んで。愚かな人間を選んで。
私を認めてくれたのに。
そんなの、ズルい。
だって、貴方はお母様に会ったはずだ。
神祖の加護を得たからには、お母様の心に触れたはずだ。
髪も瞳も私と同じになったのが確かな証。
私が会いたくて、会いたくて、ずっと頑張ってきたのに。
その私を差し置いてお母様に会って。
だというのに、何事もなかったような顔をして。
──お母様に会いたい
ずっと頑張ってきた私より選ばれたベレトが憎らしい。
エーデルガルト、あなたも同じだ。
どうしてベレトはお前を選んだのですか。
彼は私と一緒にいるべき、いや、いなくちゃいけないのです。
彼が私を褒めて、私が彼を見守って、お母様みたいに一緒にいるべきです。
あなたじゃない。
私だ。
本当は私なんだ。
ベレトは私の傍にいるべきなんだ。
許せない。エーデルガルト。
許せない。人間。
お前達はいつもそうだ。
私が欲しいものを奪い、やりたいことを邪魔する。
ベレトを返せ。
ベレト。
私のベレト。
返して。
──ベレトに会いたい
憎らしやベレト。
憎らしやエーデルガルト。
私はずっと頑張ってきたのに、私の欲しいものを奪っていった。
ズルいと思うは当たり前のことなのです。
だから私はここに来た。
取り戻すために。戦うために。
それなのに……
「前衛が崩されます! 押し切られる!」
「丘から突進してきた一団が止まりません!」
「敵の火計がもう一度来ます! これ以上は、耐えられない!」
帝国軍は強かった。
タルティーン平原を進む敵を背後から突くはずが、急に反転したと思えば恐ろしい勢いでこちらに突撃してきた。
まさか王国軍を無視して全軍をこちらに差し向けてくるとは予想外で、私達は完全に押し負けてしまった。
セイロス騎士団が以前より大きく数を減らしてしまっていることを差し引いても、これほど圧倒されたのはそれだけ敵の攻撃が凄まじかったからだ。
三方向からなる波状攻撃。防御する余裕すら与えない攻撃力は敵ながら舌を巻く。
「……くっ、皆の者、撤退です! ただちにフェルディアに向けて退きなさい!」
もはやこれまでと声を張り上げる。全滅だけは避けなければならない。
騎士団を林の奥へ撤退させて、私は敵を睨む。
おのれエーデルガルト。
ネメシスの討滅に尽力してくれたフレスベルグの祖、その末裔に裏切られるとは。
あまつさえベレトの顔を見ることなく敗走させられるとは。
口惜しいがここで斃れるわけにはいかない。
だから今だけは退く。今だけだ。
「次こそ……必ず……!」
取り戻すのだ。私の欲しいものを、全て。
それは一瞬の出来事。
空中にいるベレトが振り下ろした天帝の剣をディミトリが受け止めたことで生まれた微かな空白。
「この期に及んで……」
剣が狙ったのはディミトリの横顔。そのまま剣が迫れば受け止めた籠手ごと確実に頭部を切り裂いて、その命を奪えていたはず。
迫ったのが剣の腹でなければ。
「俺を舐めるなあ!!」
逆側から力の限り振られたアラドヴァルが迫り、空白の中でベレトは咄嗟に体を前に押し出し左腕をかざして身構える。
穂先をかわすことはできたが、猛烈な勢いでぶつかる槍の柄が彼の腕に食い込んで有無を言わさずその骨をへし折った。
そのまま薙ぎ払われてしまい、受け身も取れずベレトは泥の上を転がる。辛うじて剣は手放さなかったが、勢いが止まっても骨折の激痛で体を起こすのが遅れてしまった。
その遅れが明暗を分けた。
一筋の閃光。
橙色の光を纏うアラドヴァルの穂先がベレトの右脚を貫き、その体を濡れた地面に縫いとめた。
「っが……!」
激痛に身を固めたベレトを更なる追撃が襲う。
投げたアラドヴァルを追い、飛び掛かったディミトリが逆の脚を踏み砕いたのだ。
全体重を乗せた足が減り込み、踏まれたベレトの脚があらぬ方向へ曲がる。
「あああああ!!」
立て続けの深刻なダメージに、堪らずベレトは絶叫した。僅かな間に形勢が決する負傷は彼の精神にもヒビを入れる。
「弱くなったなぁ先生……!」
悶えるベレトを見下ろしながら、ディミトリは壮絶な表情で嗤う。
「かつてのお前なら、痛みに喘いで動きを鈍らせることなどなかっただろう。【灰色の悪魔】と呼ばれた傭兵時代のお前なら、とっくに俺を斬って捨てられたはずだ。あんなにも強かったお前が、今や見る影もない……生き恥だな?」
先ほどの天帝の剣の一振りだけではない。この戦闘の最中、ベレトの攻撃は幾度もディミトリの命に迫り、その度に避けていた。
偶然ではありえない。間違いなくベレトはわざと外したのだとディミトリには理解できた。
ベレトは手加減している。最初からずっと彼から殺気を感じないのである。
愚かしい。甘いと評する他にない愚行だ。
互いに命を奪い合う戦場に来ておきながら、何故敵に手心を加える。この期に及んで生徒を相手にしているつもりか。今まさに死闘を演じている敵同士、殺そうとしない理由がない。
意味が分からない。故にディミトリは確信する。
かつては【灰色の悪魔】とすら呼ばれ畏怖された熟練の傭兵が、大修道院で多くの生徒を鍛え導いてくれた尊敬すべき先生が、無様に落ちぶれてしまったのだと。
「反論できまい。実力で言えば恐らくお前の方が上だったはずだ。にも関わらずこうして倒れているお前の姿が現実を物語っている。弱くなってしまったんだよ、先生」
「ぐ……ぎぃっ……!」
嗜虐に表情を歪めてディミトリは続ける。嬲るようにベレトの脚に刺さったアラドヴァルの柄を揺らし、わざと捩じりながら引き抜く。
更なる激痛に呻くベレトは残された右手で天帝の剣を握り締めた。
その所作が仇となり、逆にディミトリの目を引いてしまう。
「ああそうだ……お前の授業でも教えていたことだったな。戦闘中、自身の攻撃が終わっても敵の反撃に備えて心構えを崩すな、と。残心というやつだ」
見下ろす先は、残る右腕。
「敵に反撃の余地を残してはいけないよなあ!」
振り上げた足で再び全体重をかけて踏み抜く。狙ったベレトの右腕を容易くへし折り、泥に減り込ませた。
「がああああああああああ!!」
加えられた激痛が、魂も消えよと言わんばかりの叫びを絞り出させた。
四肢を潰され、いよいよベレトに後がなくなる。
これ以上はもうだめだと天刻の拍動を発動させようとするも、硝子を割る音が響くあの独特の感覚が訪れない。それよりも体の痛みとは違う、目玉の裏を掻きむしられるような苦痛と気持ち悪さがベレトを苛んだ。
使い切ってしまったのだ。もうベレトに天刻の拍動を使う力が残されていない。
この死闘の中、ベレトは幾度もディミトリを殺すのではなく倒そうと試みた。彼の手で致命傷を受けたり、または勢い余って彼に致命打を与えてしまったり、時間をかけすぎて王国軍との合流を許したり、その度にベレトは時を遡って戦いを最初からやり直してきた。
その数、16回。すなわち生死が決着となる通常の戦いであればベレトはすでに16回分もの戦闘経験を得ていることになる。
だがこれはそういう単純な勝負ではない。ディミトリを翻意させなければ意味がない。だからベレトはやり直した。回を負う毎にディミトリの動きに対応しながら訴え続けた。
手段を変えた。立ち回りを変えた。交える言葉を変えた。
何度も、何度も、信じた道を探して。
それでも……変えられない。何度繰り返しても望む結果に至れない。
まるで運命が語り掛けるように。お前は何もできないのだと。
絶望が心を侵す。
「どうした先生? 泣いているように見えるぞ」
ディミトリが覗き込んだベレトの顔は止まない雨に打たれて目元も濡れている。歯を食いしばる表情と相まって、言われた通り泣いているようにも見えた。
違う。泣いてなんかいない。そんなことはしていられない。
決めたんだ。あの子を守ると。君を助けると。
まだどちらも為せてないじゃないか。
動け。立て。止まってる暇なんかないだろう。
目指す未来は見えている。それに向けて進むだけだから。
生徒の命も、心も、道も、守るために──
「ぐっ……く、ああぁ……!」
そうしてどれだけ決意を昂らせても肉体が追いつかない。ベレトの意志に反してその体は微かに捩れるだけ。あらぬ方向に曲がった腕と脚が痛々しく揺れる。
右手がしぶとく握る天帝の剣は未だに光を灯しているものの、今の彼にとっては慣れ親しんだ重みが鉄塊の如き負担となっていた。
そんなベレトを見下ろして低く嗤いながらディミトリがアラドヴァルを構える。
「今のお前は地を這う虫にも等しい。殺すことは容易かろう……」
もはや趨勢は決した。喉に突き付けられた穂先は、後一押しで首を貫き、彼を殺すだろう。
「……だがな」
そこまで言うや否や、ディミトリは途端に表情を憤怒に染めて吼える。
「それでは俺の気が治まらん!!」
突き込まれたアラドヴァルは狙いを外し、ベレトの首を掠って泥濘を陥没させた。
痛みを堪えて見上げるベレトの視界には、怒りだけでなく、抑え切れない悲哀に染まるディミトリの顔が映っていた。
「エーデルガルト!! ああ忌々しいあの畜生め! やつに騙されたことが悔やまれてならない! あの女さえいなければ、お前は弱くなったりなどしなかったのに! どうやって騙された、どうすればお前は元に戻れる、どうしても納得できないんだよ先生! お前がこんなにも哀れな存在に変えられてしまったことが腹立たしくて仕方ないんだ!!」
濡れた金髪を掻きむしり、ディミトリは怒声を吐き散らす。狂気染みた声音は激情の度合いを表しているようで、あの好青年がこれほどの闇を抱えていたと気付けなかったことを、ベレトは今さらになって申し訳なく思った。
苦痛に喘いでなどいられない。何かを言わなければと思った。
滲む視界の中、自分でも何を言いたいのか分からないまま呼びかけ、
「ディ、ミ……」
「だから考えていたんだ」
急に口調を落ち着けたディミトリに声を遮られる。
まるでページをめくっただけで場面が切り替わるように、それまでの激した表情が一瞬で落ち着いたものに変わる、異様とも言える態度の急変。
陶然とした口調で彼は宣言する。
「帝都の門に晒すか、父祖の墓前に添えるか、どちらを先にするか決めかねていたがその前に……あの女の首はまずお前に見せよう」
「っ!?」
さながら信徒が神より託宣を受けたが如く、そうすることが至上の使命であるかのようなディミトリの言葉に、ベレトは顔を引きつらせた。
あの女。それが誰を指すのかは明らかである。
「確かな証を見れば、お前もきっと正気に戻れる……全てが間違いだったという明確な答えを突きつけられれば、また元のお前に戻れる……ああそうだとも、俺が救ってやるよ先生」
エーデルガルトを殺す。今まで以上に形を帯びた殺意がディミトリから迸るのをベレトは見た。
それだけは許さない。それを阻止するためにここに来たのだ。
しかし逸る意志に反して体は動かせない。激痛だけならまだしも、骨折という物理的な問題がベレトの動きを阻害する。
「待、てよ……!」
「そこで大人しくしていろ先生。今俺が教えてやる。生徒の俺がお前に教えてやるからな……すぐに分かるさ、己の過ちに」
もう時を遡れない。ディミトリを止められない。彼が行ってしまう。
手を伸ばすことすらできないベレトを置いて、嗤うディミトリが背を向ける。視界に映る背中がゆっくりと遠ざかっていく。
言葉も力も出し尽くしたベレトにできることはもう何もない。
体にへばりつく泥のように、無力感が全身を包んでいた。
ここだ
今この時が運命の岐路
ここで動けなければ、俺は永遠に失ってしまう
なのに……動けない
どれだけ力を入れようとしても体が言うことを聞いてくれない
腕も、脚も、痙攣するばかりで引き攣ったように震えて
痛みなんて堪えればいいだけなのに、自分の体なのに、立ち上がれない
だめなのか
俺は結局助けられないのか
生徒を守るのが教師なのに
命だけじゃなく心も守りたいのに
ここで行かせてしまうと取り返しのつかないことになるのに
ディミトリ
俺は君を助けられないのか
俺は君を変えられないのか
誓ったのに、みんなを守るって
これが俺の運命だっていうのか……!
【何をしておるか、おぬし】
!?
【勇んで飛び出して、それでその様か】
……
【分かっておるだろうな】
……ああ
【天刻の拍動はあくまで時を遡るのみ、運命を変える都合の良い力ではない】
知ってるよ
【変えられるとすればそれはおぬしの選択、弛まぬ人為に他ならぬ】
分かってる
【ならば立て、ここで動かねばそれこそ何も変わらん】
分かってる!
さっきから動こうとしてるんだ!
でも……立てないんだ
俺だって動きたいのに、動けないんだよ
【助けるのではなかったのか?】
そうだけど……
【生徒を守るのが先生なのであろう?】
そうだよ!
俺は守りたいんだ!
そのためにここまで来て!
なのに動けない……!
ここまで来たのに……やっぱり、俺じゃあ……
【では、諦めるか?】
……
【そこで倒れたまま、あの者を行かせると?】
……
【やつは殺すじゃろう。おぬしが守りたかった人を全て、その矜持ごと踏み躙って】
……!
生徒が……
仲間が……
俺の大好きなみんなが……!
【あの娘など、真っ先に殺されるであろうな】
……エーデルガルト!
【おぬしが立たなければそうなるのだぞ】
……嫌だ!
だめだ!
そんなのはだめだ!
絶対にさせない!
約束したんだ!
守るって!
俺はあの子の師なんだから!
【ならば立て! 俯くな!】
……ああ!
【臆する暇などおぬしにはないぞ!】
ああ!
【己が魂への誓いを吼え立てい!】
俺は!!
みんなの先生だ!!
生徒を守る先生なんだ!!
エーデルガルトも、ディミトリも、みんなみんなみんな!!
俺の大好きなみんなを守るんだ!!
傲慢だろうが知ったことか!!!
身の程知らずが何だって言うんだ!!!
もう誰も父さんのように死なせないと、そう決めたんだ!!!
【そうじゃ、それでよい!
げに愛しき人の子よ! 願いに、欲に、その命を燃やせ!
もはやこの世は神代に非ず、我ら神々の権勢はとうに黄昏を迎えた!
未来は既に人のものよ!
そしていつの時代も、立ち上がった者のみが新たな未来を作り出す!
なればこそ、その足で踏み締めよ!
おぬしの手で血と憎悪の宿命を覆せ!
この大地の呪われた運命を、人は自らの手で打ち破れると証明するのじゃ!】
やってやるさ!!
そのために俺はここまで来たんだから!!!
【なあに、おぬしが寝坊助だということはよく知っておる。
起き上がる手助けくらいはしてやろう。感謝せいよ、ベレト?】
ありがとう……ソティス
振り返ったのは偶然だった。
予感がしたわけではない。強いて言うならこの場を離れる最後に見やって、その無様な姿をせせら笑ってやろうとしただけだ。何かしらの気配に反応できたわけではなかった。
故に、歯を食いしばりもしない、全く身構えていなかったところに横面を殴り飛ばされたディミトリの受けた衝撃は、精神的にも計り知れなかった。
「……っぶ、あ……!?」
そうして泥を転がる勢いで飛ばされ、ろくに受け身も取れない困惑に包まれながら彼が捉えた光景は、その心を打ちのめした。
夜闇を思わせる外套と軽鎧。色が変わって光を湛えるような薄緑の髪。どちらも泥に汚れて本来の姿には遠くとも、ベレトが立っていた。
いるとすれば彼しかいない。そこまでは理解できた。その出で立ち以外は。
腕も、脚も、間違いなく潰した。四肢を壊されて尚も立ち上がり、あまつさえ敵を殴り飛ばせる人間がいるわけがない。
しかし現にベレトは立ち上がり、ディミトリを思い切り殴ってみせた。
その困惑に対する答えが、視界に映る彼の状態だ。
ベレトの体の至るところに橙色の光がある。それはディミトリもよく知る、英雄の遺産が紋章と呼応して放つ力の発露。紋章から力を注がれて発揮する、強大無比な威力を意味する魔性の輝きがベレトの全身を覆っている。
そう、覆っている。それはベレト自身が遺産のように光を纏っているのではなく、鎧でも服でもない、殴った手とは逆の右手にある天帝の剣の光。
天帝の剣は蛇腹剣。ワイヤーで長々と伸ばされた刀身がその身に巻き付き、持ち主の意のままに動く力の通りに、自力では動かせなくなったベレトの体を外付けの力で操り人形の如く無理やり動かしているのだ。
「お前、それは……!」
「ディミトリ……」
理解に次いで表情を驚愕に染めたディミトリにベレトは呼びかける。
震える声色は、しかし雨音にも負けずはっきりと耳に届いた。
「俺は変わってないよ……五年前から、何も変わってない……」
薄汚れた顔を向けるベレトは、悪魔と呼ばれるような人間では決してありえない、静かながらも力強い意志を滲ませた笑顔を浮かべていた。
「士官学校に……大修道院に来てから、君達の教師になってからずっと……俺が守りたかったものは、あの時から何一つ変わってないんだ……!」
言葉も力も出し尽くしたなら、その後はどうするか。
命と魂で語るしかないでしょう。