大団円に向かうにしても波はまだありますよ。
「陛下、こちらは同盟のエドマンド家より送られました──」
「後で確認するわ、そこに置いておいて」
「ゴーティエ辺境伯からスレン族についての報告書を──」
「次の会議での議題に加えましょう」
「フォドラの首飾りへの陳情に対してホルスト卿より──」
「面談は受け付けてないわ、書面に整えるよう伝えて」
「フリュム領の統治は安定を見せております。以前と比較した資料がこちらで──」
「次の段階へと進められそうね、精査しておくわ」
「将来、陛下の婚姻を──」
「却下、帰らせなさい」
持ち込まれる仕事を次々と片付けていく。毎日のように執務室で手と頭を働かせ、訪れる使者や報告の受け答え、そして大量の書類を捌いていく。
連日、エーデルガルトは職務に没頭した。
早いもので戦争が終わってから二週間が経っている。
この日もエーデルガルトは朝から執務室に籠って皇帝の務めを果たしていた。昔とは違い帝国内のことだけでなくフォドラ全体に目を配ることになっても、その器量で変わらず仕事をこなしていく。
頭を痛める馬鹿が現れたりしても一刀両断する彼女の手腕は、周囲からは頼もしい皇帝として何も問題なく見えただろう。
五年も続いた戦争を終結に導いた皇帝。今後その力は政治にも活かされると期待が高まるというものである。
傍に仕えるヒューベルトには違うものに見えていたのだが。
「ふぅ……今日は他にないのかしら」
「お疲れ様ですエーデルガルト様。主だったものは片付きました」
「そう。なら明日はベルグリーズ領へ向かいましょう」
「グロンダーズの穀倉地帯の件でしたか」
「今後のために食糧の安定は急務。そして軍需が低下していく分、農業への導線をベルグリーズ伯には命じてある。もうヘヴリング伯と共同で事業を進めているでしょうし、これからは私も加わらないと」
余人を下げた執務室でエーデルガルトは首を鳴らしながら次の仕事のための書類を探す。ヒューベルトが捌いたものの中から必要な分だけ抓み上げると素早く机に並べて整えた。
戦争が終わったこれからのフォドラでは人口の増加が見込める。社会がきちんと安定するまでは今しばらくかかるが、戦死者の数は想定されたものより遥かに少なく、三国の下でフォドラは様変わりしていくことになるだろう。
戦争がなくなったのだから軍関係に人も財も注ぐ必要はなくなる。民の働き口を他に用意しなくてはならないし、何より人口が増えるならその分の食糧供給は必須。
ベルグリーズ領にあるグロンダーズ平原に広がる穀倉地帯はフォドラの食糧を支える基盤の一つだ。今後のためにも早めに実情を確認しておきたい。
今まで軍務に向けていた力を今後は治世に傾けなければならない。そう息巻くエーデルガルトの姿勢に対してヒューベルトは意見しない。
宮内卿の身としても今まで通り皇帝に仕える意思は変わらないし、フォドラの安定のためにやるべきことは山積みだと分かっている。
ただ、彼女の従者としての意見は口に出す。
「正式な訪問になります。支度を整えるまで急いでも丸一日ほど見込めますな。出立は明後日としましょう」
「先方には早天馬を飛ばせばいいじゃない。時間を無駄にしないで──」
「そのようにして陛下が戦時中と変わらない調子で動けば周囲にいらぬ誤解を与えます。皇帝が急いで動かなければいけない事態が起こっているのかと、不安を覚える者がいないとも限りません」
「……」
「時間を無駄にするのではありません。余裕を見せることも時には肝要です」
拙速は巧遅に勝ると言われるのは戦場での話だ。政治となると別である。
もちろん素早い判断ができるに越したことはないが、その判断基準が戦時とは違うというだけのこと。
皇帝は確かに帝国の頂点に立つ存在だ。その気になれば国の全権を動かせる。
だが戦時と平時ではそこの空気感が全く違う。下手をすれば皇帝の独断専行と見なされて支持が揺らぐことになりかねない。
それは
そしてそれ以上に言葉に込められた従者の心遣いが聞こえる。
働きすぎです。一日くらいお休みくださいませ──その声を聞き取れないエーデルガルトではなかった。
「……分かったわ。それまで少し息を入れさせてもらうわね」
「恐れ入ります。支度はお任せください」
一礼したヒューベルトが茶を手配させると言い残して退室すると、エーデルガルトは大きく息を吐いてソファに深く腰掛けた。
程なくして訪れた侍女に紅茶を用意させると下がらせて、一人静かにカップを傾ける。淹れたばかりのフレスベルグブレンドの香りが室内に広がった。
執務室に静寂が訪れる。
日中は皇帝がいるこの部屋に多くの人が詰め寄せる。公的な謁見であれば玉座で迎えるが、公務の多くはこの執務室で受け付けることになる。
書類捌きに勤しむエーデルガルトの仕事は多い(それもヒューベルトによって無駄な分を大半弾いて残ったもの)が、彼女と顔を合わせるための訪問も多く、それもまた皇帝の仕事の一つなのだから拒むわけにもいかず。
面と向かって書類を渡されたり、口頭で報告を受けるくらいはいい。報告のふりをした相談は受け付けてないし、おかしな通告は即却下である。
まったく腹立たしい。何が婚姻だ。戦争が終わっていくらも経っていないのに気が早すぎるではないか。
まだ社会は全然安定していないのだ。やるべきことは山積みであり、今は自分が周囲を率いていかなければならない。いずれは他の誰かに任せたり役目を割り振ることを予定しているがそれも将来の話。今は自分がやらなくてはいけないのだ。
同盟とはもっと連携を密にして、王国の支援は始まったばかりだし、教団の存続についても考えて、後は隣国への備えは止めてはならないし、平民の声はもちろんとして貴族の意見もたくさんあるのだから……
ほら、気にかけるべきことはいくらでもある。そこに私の婚姻なんて、そんなことは今考えるようなことではない。
というかそういうことは相手が必要じゃない。適当な貴族の誰かを宛がわれるなんて冗談じゃないわ。私だって昔と違って考えてないわけじゃないの。相手にするなら彼以外ありえない。そうでないならこの話はそこまで。私にはせんせ──
「……っふう」
一息、思考を止める。
静かな部屋で少し余裕を持てばエーデルガルトの頭に浮かぶのは一人だけだった。
──ベレトは生きていた。
あの時、炎に包まれた戦場で彼は斃れた。
傍から見れば、己の心臓を自ら抉り出して怒れる竜に捧げて鎮めるという、まるで神話の一説にでも描かれていそうな場面の再現とも言える行動をしてみせたベレトは死亡した。
実際には彼が胸から出したのは心臓ではなく体の中に埋め込まれた紋章石だったのだが、臓器に達する重傷と夥しい出血があったのは間違いなく、人間が死に至るには充分な理由だ。
抱き上げたベレトの身から命が抜け落ちていくのをエーデルガルトははっきりと感じた。確かにあの時ベレトは死んだのだ。
慟哭するエーデルガルトを引き剥がして、竜から人の姿に戻ったレアを確保して、そこでようやく戦いが終わったことが確定して戦争終結に向けて動く中、予想だにしない事態が訪れた。
誰も触れないように安置したベレトの遺骸と、別人のように大人しくなったレアの身柄。この二つが突如姿を消したのである。
犯人が分かるのは早かった。ご丁寧に犯行を知らせる手紙が残されていたから。
ユーリス、バルタザール、コンスタンツェ、ハピ。
手紙にはこう記されていた。
『先生のことは俺達に任せろ』
手短にこれだけ。詳細は何もなく、額面通りに受け取るしかなかった。
戦争を終えた直後にこのことを公表してしまえば収拾に更なる時間と労力を要してしまい、戦勝に湧く人々に余計な混乱を招きかねない。騒ぎにならないように事件を隠し、戻ると信じて待つしかなかったのだ。
戦いの終わりを狙いすましてこのような暴挙に及んだからにはユーリス達が周到に計画したことであると想像できた。彼の性格からして勝算のない行動は取らない。レアまで巻き込んだ彼らには明確な狙いがあると判断した。
終戦を報じたりする他、帝国領内に待機させていた王国軍をまとめ直して王国に送り返す必要があったし、今後の支援計画を概要だけでも決めたりなどやるべきことが次々に重なり、ベレトの行方を追う余裕がなかったという事情もある。
ディミトリと顔を合わせた僅かな時間でも彼と仲間にだけはベレトの死と現状を教えたことで、ファーガスにもこの戦争の結末を共有できた。
このことは密書に認めてクロードにも伝えてある。彼ならこちらから言わなくとも勝手に探るだろうし、秘密主義の彼ならこの情報をいたずらに広めず仲間内だけで共有する。
ベレトを慕っていた生徒のみんなには、この事態を知る権利と義務があると判断してこちらから教えた。
まるでもう終わったことのように、過去の出来事だったように割り切って行動しているように見えるかもしれない。
かつてのエーデルガルトならそうできたのだろう。過去は過去だと思い出にして、未来の礎にして、今後のフォドラのためだと覇王になり切ることができた。
今はもうできない。
彼女が動きを止めなかったのは、立ち止まればうずくまって何もできなくなる自分が想像できたからだ。悲しみに暮れ、歩みを止め、腐っていくことしかできなくなると分かっていたからだ。
そんなのは嫌だった。あの強かったベレトですら父ジェラルトの死に耐えられず、うずくまってしばらく足を止めてしまったのだ。今の自分では一度でも折れたら立ち上がれなくなるかもしれないのが怖かった。
(私は、弱くなった……)
数日の後、四人の手によって戻ってきたベレトは息があった。
死んでいた人間が蘇った。そんな奇跡に仲間達が湧き上がる中、エーデルガルトは心から喜べていない自分がいることに気付く。
コンスタンツェが構築したという儀式。
灰狼の学級による決死とも言える血の提供。
女神再誕の儀を執り行っていた青海の節と同じ時期。
そしてレアが協力したらしい最終調整。
ガルグ=マクの地下アビスで行われたベレト蘇生の一連の行動、それらに関する話もほとんど覚えていない。興味深そうに何度も頷いて聞くリンハルトと、彼以外には理解できない内容を自慢げに語るコンスタンツェがやけに興奮していたことだけ記憶している。
それよりもユーリスから渡された一つのレポートがエーデルガルトの意識を奪ったから。
あいつの言いつけなんかもう知るかと溢して渡されたレポートはベレトの出生の秘密が記されたもの。彼の依頼によってユーリスが調べた情報がまとめられていた。
お前は知る権利と義務があるとユーリスが言うそれに目を通して、エーデルガルトは絶句した。ベレトが背負っていたものを、彼が見ていた未来を垣間見て。
ベレトはただ、守りたかったのだ。全てを。
エーデルガルトを。生徒を。仲間を。そしてレアを。
エーデルガルトとて馬鹿ではない。ベレトが陥っていた状況は理解していた。
セイロス教の聖人として大司教に代わる中心と見立てられて人々から注目されていた状況は、確かに過去のフォドラと同じものだ。
それは一朝一夕で変えられるものではない。社会の仕組みと同様に少しずつ変えていくもので、仲間と一緒に、臣下と協力して、人々を導いていきながら変えていけばよいもの。
エーデルガルトはそう考えていた。ベレトが傍にいればきっとできると何も不安はなかった。
当のベレトとはそのことを話せていないのに。
ベレトが見据えていた未来。きっとそこにはみんながいた。
エーデルガルトだけではない。クロードもディミトリも、レアもいたのだ。
戦いの厳しさを誰よりも知る彼が誰も死なせたくないと願った。ありえないはずの未来のために全てを擲って戦った。その末に本当に望んだ未来を掴んでみせた。
その未来の光景に自身が立てないことを承知で。
なんて愚かなことを! 守りたいからと言って守るために彼が命を散らしてしまうなら、そんな未来なんて欲しくなかった!
そう思うと同時に、なんて彼らしい優しさなのかと納得もしてしまう。思いもよらない手段で新しい道を切り開き、周りの人を仰天させながらいつの間にか希望を手にする、そんないつもの彼を思わせて。
ベレトはどこまでもベレトのままだと、変わらない彼のままだと知っていたのに。
そうまでして何もかも出し尽くしたベレトを、エーデルガルトは一度も見舞っていない。
今ベレトはアンヴァル宮城の一室で眠っている。息を吹き返しても起きないまま、何日も目を覚ましていない。
胸に大きな傷跡こそ残ったものの、塞がったそこ以外は元通りで身体は健康そのもの。静かに眠る姿は授業の合間の休み時間で見かけた時と同じもので、今にも目を開けそうだ。
ベレトが生きて戻ってきたことは確かに嬉しい。
だが、戻ってきたベレトを喜んで迎えていいのか。そんなことをしていい資格など自分にあるのか。エーデルガルトには自信がなかった。
だって……彼はあんなに傷ついたのだ。文字通り命を、全てを捨てて戦ったのだ。
そうまでさせてしまったのが誰なのか、明らかではないか。
(私……よね)
エーデルガルトを選んだからベレトは帝国に味方して戦った。
彼のことだから国の違いを意識したわけではないのは間違いない。それでも選択の結果として帝国の力になる道を歩むことはすぐに納得していた。
五年前の仮設陣地で話した時も狼狽えた様子はなく、普段通りの彼のままだった。
エーデルガルトを助けたいからベレトは他の生徒とも戦った。
他学級の生徒と敵対関係になることは承知して彼は選択したのだ。その上で生徒を死なせない道筋を探り、見事に生かすことができたのは彼の尽力の成果と言える。
代償として死にかけることになったのも本人は覚悟していただろう。
エーデルガルトを守りたいからベレトは全てを捨てて戦った。
身近で見守っていた少女も、家族同然のジェラルト傭兵団も、己の命さえも犠牲にして、エーデルガルトごと守りたい人みんなの未来を繋いだ。
彼がそこまでした理由が自分なのだ。
斃れた時に彼の髪の色も、確認すると瞳の色も翠から彼本来の暗色に戻っていた。
それは命と同時に神祖の加護までもが失われてしまったことを意味しており、聖人の身からただの人間に戻ったということ。
五年前に変化した際、ベレトが語ってくれたことを思い出す。
ソティス。神祖の心そのものだという少女。ベレトにしか見えない彼女が消えるのと引き換えにして手に入れた加護が失われたのなら、それはそのソティスとの絆さえも犠牲にしたということになるのではないだろうか。
こんなにも尽くしてくれた彼に、私は何をした? 何ができた?
甘えて、頼りにして、導いてもらって、いつもしてもらうばかりだった。
それなのにベレトが話しかけに来た時、エーデルガルトは拒んで距離を取った。大切な相談がしたかっただろうに話を断って、するべき話し合いができなかった。
肝心な時に彼の力になれなかった。
どうしてか? 私が怯えたからだ。
彼が遠いと感じて、一方的に怖がったからだ。
向き合おうともせず、自分の考えに囚われて、身勝手な結論に行き着いたからだ。
(だから
誰にも相談できなかった。するわけにはいかなかった。
紋章石を埋め込まれた体はセイロス教の教えが規範となるフォドラでは禁忌の塊と言っても過言ではない。そんな身の上を語れば、程度の差こそあれ、確実に混乱が生まれる。
ユーリスに口止めしたのも分かる。
仲間達を信用するしないの問題ではない。この事実を知っただけでも危険になる。そんな可能性なんて無い方がいい。彼ならきっとそう考える。
だからベレトは一人で決めたのだ。自分が消えることで全ての人を守る道を。
私は、私だけは、こんな私を選んでくれた彼を拒んではならなかったのに。
(私が
ああ、やっぱり私は、ただいるだけで彼を苛んでしまう酷い存在なんだ。
そのくせ彼が生きていることを喜んで、傍に置きたがる卑しい女なんだ。
だというのに彼を見舞うこともしないで、悩むばかりの弱い人間なんだ。
「どうしようもないわね……」
「ほぉんと、みっともない」
突然、耳元に吐息が当たり──反射で体が動いた。
バネ仕掛けのようにソファから跳ねさせた体を捻り、声がした位置から相手の頭部を想定した高さに合わせて手刀を振り抜く。
しかし空振り。背後には誰もいない。
「危ないわね、今の目を狙ったでしょ? あれの教育の成果ってやつ?」
再び背後から聞こえた声に、勢いよく振り返る。
エーデルガルトしかいなかった執務室。そこに一人の女がいた。
胸元が大きく開いたドレスと艶やかな美貌が匂い立つような色気を醸し出す。机に腰を預けてこちらに笑みを寄こす姿は敬意も遠慮もないことは明らか。
音もなく現れた女に敵意が湧く。
コルネリア、そう呼ばれる女がそこにいた。
元は帝国に所属した学者であり、20年ほど前に王国に渡ると王都フェルディアの下水道整備を強く進言して当時の脅威だった疫病を食い止めたことで、人々からは聖女と称えられ、ランベール王からも重用された才女。
ファーガス王国で長らく王の側近として活動していた女傑である。
そのコルネリアが何故帝国に、皇帝の執務室に現れたのか。
エーデルガルトとしては困惑することではない。彼女の正体を思えば狙いは透けて見える。
この女は見た目通りの人間ではない。
王国で聖女と呼ばれてそれに相応しい活動をしていた彼女は、いつしか言動も態度も別人のように変わり、かつてのものとはまるで違う振る舞いをするようになった。
そういう豹変をしてみせる存在をエーデルガルトは知っている。
闇に蠢く者。仇敵たる組織の一員が本来のコルネリアを亡き者にしてその立場に潜り込む。叔父のアランデル公と同様、のうのうとフォドラの明るみを歩く闇の人員であると。
「立ち入りを許した覚えはないわ。去りなさい」
「冷たいわねぇ。一応味方なんだから、そう尖らないでよ。戦争に勝ったんだからお祝いくらいさせてちょうだい」
「味方? 笑わせないで」
馴れ馴れしい態度を崩さないコルネリアの動きに警戒しつつ足を動かし、壁に掛けられてあった剣を手に取る。飾りの一つである儀礼剣と思わせてしっかりと実用に耐える業物の刃を抜く。
皇帝の庭に入り込んだ侵入者にかける慈悲はない。敵を前にしているならそこは戦場と同じ。
そう。こいつは敵だ。
セイロス教団打倒という共通の目的があったから肩を並べていただけで、この組織の本質は敵であるのは最初から分かっていた。
レアが大人しく投降したことで教団も取り抑えられた。滅ぼすしかないと思っていた相手が矛を収めてくれたからこちらも武器ではなく手を差し伸べられた。
これはベレトが繋いでくれた希望。本来ならありえなかったであろう未来だ。
しかしそれは闇に蠢く者からすれば到底受け入れられない結末である。
やつらはセイロス教団を疎ましく思い、特に神祖の眷属であるレアを討つことに執着していた。単純な敵意では表し切れない憎悪が根底にあると感じられた。
遥か昔に神祖ソティスによって地の底へ追いやられた者の末裔として。
その憎悪を利用できると思い、利害が一致していたからこそエーデルガルトは彼らと手を組んだのだ。
当の組織に踏みつけられる存在だったエーデルガルトが利用価値を示したからこそ組織も協力する姿勢を見せた。実情は便利な駒扱いで、顎で使われる日々だったが。
しかしベレトが現れたことで事情は一変。
闇に蠢く者の思惑以上にベレトに寄り添い成長するエーデルガルトは彼らを出し抜いて皇帝の地位を得る。組織の力を頼ることなくガルグ=マクを落とし、余計な手出しをしたアランデル公の権力を取り上げ、ほぼ自分達の力だけで帝国をまとめて戦線を五年間維持してきた。
この独立とも言えるエーデルガルトの動きは闇に蠢く者の想定を超えるものだっただろう。
おもしろくなかったに違いない。操れると見下していた駒が勝手に首輪を外したにも等しい行いは、飼っていた犬が生意気に噛みついてきたようなもの。
調子に乗るこちらを抑圧しようとしても悉くを撥ね退けられる。
組織の力を貸さなくても帝国は着実に成果を上げて国力を強めていき、逆に両者の分断が進んでしまう。威圧しようにも皇帝と懐刀によって活動は次々に邪魔されてしまう。
アランデル公が釘を刺しにガルグ=マクへ来た時には帰還したベレトに鼻白んでしまって何も効果がなく、同盟との決戦後には全く介入できないまま存続が決まり、アリアンロッドに光の杭を落としても主要な人物は皆生き延びる。
衝突が確実と思われた王国でさえ、実際に軍を動かしてタルティーン平原で向かい合うところまで行っておきながら直前で停戦になり、和解と言っても過言ではない決着。
挙句の果てに王都フェルディアが半壊する状況になったのに人的被害は非常に少なく、最大の標的であるレアは捕虜という名の保護観察扱い。
闇に蠢く者からすれば大層おもしろくない結末である。
だから、今だ。
抜いた剣を突きつけて宣告する。
「あなた達が何を考えていようと、今さら私が迎合する理由はない。大人しくしていれば対応も考えてやれたものを……不用意な動きを見逃すほど私は甘くないわ」
戦争が終わり、これから新しいフォドラが始まろうとするこのタイミングで接触してきた闇に蠢く者。どう考えてもろくな狙いはない。
やつらが地上とそこに生きる全ての人間に向ける悪意はよく知っている。凝り過ぎて糸を引いていそうなほど粘ついた意志はエーデルガルトが心から軽蔑するもの。
悍ましい人体実験。人種の根絶。国を乱し、人を人と思わない外道の所業。
あの組織には何かを守り育てる力はない。あるのはただ侵し、腐らせる闇だけだ。
最後通告を伝えて剣を構えるエーデルガルト。妙な動きを見せれば斬り伏せることも厭わない気配が執務室に満ちる。
それはつい先日まで戦場に立って軍を率いた皇帝に相応しい気迫。
五年前までの抑えつけられる側だった未熟な皇女はもういない──
「クククク……クカカカカっ」
「……何がおかしい」
「クヒヒヒヒ……いやね、笑っちまうでしょこんなの」
──はずだった。
「惚れた男にビビッて会いにも行かず、うじうじと一人でぐずついてるガキが一丁前にイキがってたら、そりゃ笑いもするさ」
「っ!?」
剣を向けられたことに反応せず、威圧もどこ吹く風と言わんばかりに笑うコルネリアが返した言葉は、エーデルガルトの強者の仮面をあっさりと剥がした。
手元が震える。威圧が崩れ、部屋を満たしていた緊迫感が霧散する。
揺れる剣先が心の乱れを表していた。
「クハっ、顔色が変わったねぇ! 図星かい?」
「黙れ!」
咄嗟に怒鳴るも、一度乱れた心は戻らない。
鋼の誓いを失った少女にはもう寄る辺がないから。
「かわいそうにねぇ、あんなに頑張ったのに肝心の女はビクついてんだから、男が体張ったってのに報われないのは見てて辛いわぁ」
「黙れと言っている!」
跳びかかる。テーブルを飛び越えて一息に斬りつける。
しかし空振り。確かに刃が届いたはずなのに、コルネリアの体が幻だったように霞んで消える。
「でもお前さんはそれくらいがちょうどいいよ」
「っ!?」
背後から再び耳元に囁かれてエーデルガルトは再度剣を振った。今し方飛び越えたばかりのテーブルごと斬る大振りに、ティーカップなどの乗っていたものが床に転がり落ちる。
またも空振り。直前まで誰もいなかった背後にはやはり誰もいない。
「かわいそうな男にイキがる女。お似合いの組み合わせじゃん」
「どこにいる!」
「見てて辛いくらいの方が見世物としちゃおもしろいもんだ」
「出てきなさい!」
「よかったねぇ皇帝陛下、何もかもあんたに都合よく進んでさ」
「っ、やめて!」
何度も何度も背後から囁かれて、その度に剣を振ったり勢いよく振り返ったりしても敵を捉えられない。そうして動く度に部屋の調度が斬られ、書類が散らばる。
繰り返される嘲弄と反論できない自分にエーデルガルトの精神はたちまち追い詰められていく。
そう、ずっと前から分かっていた。
私が頼ればいつだって師は助けてくれた。時には私が何も言わなくても察した師は自分から声を掛けてくれたり手を貸してくれた。詳しい説明をされなくても、危険な状況でも、絶対に私を見捨てなかった。
そんな師に私はいつも甘えていた。頼って、縋って、縛り付けて、彼がいなければ生きていけない弱い人間だった。
なのに私は何も返せない。師からいつももらうばかりで、彼に益となるものを何も返せていないままここまで来てしまった。
都合よく、本当にその通りだ。私は師を都合よく利用しているだけだ。力も、人生も、命までも利用してばかり。
こんな体たらくだというのに私の口から出るのは手前勝手な大言壮語。フォドラのため、人々のため、未来のため、
思考が逸り、息は荒く、動悸が激しくなる。過呼吸のせいか、執務室で一人暴れるエーデルガルトの視界はいつしか靄がかかったように白く濁っていた。
いや、違う。実際に室内に白い煙が漂っている。壁が見えなくなるほど濃い白がどこからか湧いてきて部屋に広がる。
だが焦燥感に支配されたエーデルガルトは異常に気付けない。頭の中は今にも破裂しそうな自虐で満たされており、視界の白に別のものを幻視してしまう。
(師!)
守るために背を見せるベレト。
頬に手を添えてくるベレト。
首を傾げるベレト。
手を差し伸べるベレト。
頭を撫でてくれるべレト。
どれもエーデルガルトが欲したもの。
なのに今は全てがエーデルガルトの胸を刺すもの。
剣を取り落とし、手を伸ばそうとしかけてビクリと体を震わせると頭を抱え、嫌々と首を振りながら後ずさる。
「それでいいんだよ。情けない女で」
「それでいいんだよ。都合のいい駒で」
「それでいいんだよ。哀れなケモノで」
それでいい──それでいい──それでいい──それでいい──それでいい──
こだまとなって響く声が延々と耳元を這い回る。
繰り返される言葉を否定できない怒り。敵の姿を捉えることもできない焦り。自覚してしまう己の情けなさ。高まる緊張が呼吸を速めていき、
「あ……っ」
張り詰めた糸が、切れた。
意識が薄れていく。限界が近いと判断した脳が心を守るための防衛本能で肉体の働きを止める。
膝が折れ、体が前のめりに倒れていく。勝手に落ちるまぶたが視界を奪う。
どうして私はこんなに弱いの。
強くなったと思ったのに、まだ弱いままなの。
師がいないと何もできない弱いだけの子供のままで。
情けなさに涙が出そうになる。だがそれを表に出すことは許されない。
どんなに弱くても、愚かでも、それだけは許されない。
彼の最後の言葉を聞いたから。
『なかないで』
泣かない。泣くものか。泣くことだけは私は絶対にしちゃいけない。
私にそんな資格はない。弱いなら、強くならなくちゃいけないんだ。
師の指導は正しいから。彼の言いつけを守れば私は強くなれるから。
(師……私、泣かないよ……)
その想いを最後に、エーデルガルトの意識は闇に落ちた。
倒れ伏したエーデルガルトを見てコルネリアは思う。
(こいつ、別人じゃないだろうね?)
頭では分かっていても疑う気持ちが生まれてしまった。
我々の手で作り出された最高傑作。そう聞いている。
トップであるタレスを始めとして、何人もの同志が口を揃えて絶賛し、事実それに相応しい性能を備えて様々な戦いを制してきた。
戦闘以外でも政治に交渉に成果を出してこの大地を主導する存在へ成長したのは間違いない。
このまま放っておけばフォドラの中心となって、人々の上に君臨する傑物として語られるようになるのだろう。
そんな評価と、目の前で倒れた相手を見て、どうしても印象が一致しない。
(脆すぎだろ)
直接見た今でも信じられない。
──本当にこれがあのエーデルガルト=フォン=フレスベルグなのか。
心があまりにも弱い、と。
適当に
まるで幼い少女みたいに。
成人を越えた女が、それも多くの修羅場を経験してきた
確かに幻覚作用のある薬は使った。意識を奪う睡眠用の薬と合わせて煙にして部屋に充満させたことでこうして楽に昏倒させられた。勘付かれて逃がさないために言葉で動揺を狙ったところはある。
だがそれにしたってここまで簡単に事が運ぶなんて……
「ま、所詮はケモノ。体ばっか育った小娘だったってことかねぇ」
白い煙を消したコルネリアは隠形を解いてエーデルガルトに歩み寄ると、髪を乱雑に掴んで顔を覗く。
掴み上げた際の揺れのせいか、その閉じた瞳の端から一滴の涙が零れた。
「悲しむこたぁありませんよ陛下。あんたの身はこっちでちゃんと有効活用してやるから、安心して