ベレトの未熟さが浮き彫りにされます。
胸が揺れている。
とくん、とくん、と一定の拍子で続いている。
感じたことがないことなのに不思議と違和感はなく、むしろ安心する。
最初に感じたその揺れがベレトの意識を浮き上がらせた。
これは何だろう?
胸の奥にあるもの、これは、そう、心臓だ。それが内側からろっ骨を叩いてくる。存在を訴えるのではなくそこに在ることが当然なのだと、苦しさのない自然な穏やかさを感じる心臓の動き。
つまりこれが、
(鼓動?)
心臓を持つ生き物が当たり前に行う生命活動の一つ。全身に血を巡らせる命の証。
二十年以上ずっと鼓動がないまま育ってきたベレトが初めて胸の内側に感じたその動きは奇妙な感動を彼に与えた。
普通の人間ならまず覚えることのない、鼓動があることへの感慨。血に乗って体中へ熱も巡らせるような動きが自分にもある。普通の出自ではない自分が他の人間みたいに生きていることを実感する。
命があるものの権利として。
そうすると、はて何故この状態に、という疑問も生じる。
記憶を辿ると最期の瞬間が浮かび上がる。自分は確かに死んだはずだ。
自らの手で胸を切り裂き、紋章石を取り出してレアに差し出した。そこから倒れてエーデルガルトが駆け寄ってきて……その先がはっきりしない。
胸に作った傷口から命が漏れ出ていく感覚だけ覚えている。なのであの後すぐに自分が死んだことは理解できた。
もぞもぞと手を動かして胸を触ると、明らかに質感の違う肌があるからそこに大きな傷跡があるのが分かる。
つまり記憶通りのことをやって自分は倒れて死んだはず。
自身の死をぼんやりとでも思い返せているのもおかしな話である。他人の参考にできる内容ではなさそうだ。
(相変わらず手本になれてないな)
しかし胸に当てた手に伝わる鼓動が生を実感させる。
死んだ自分がこうして思考できているのなら今は生きているわけであって。
分からないならこれ以上考えても仕方ないと判断してベレトはさっさと起きることにした。
(ここはどこだろう)
開いた目が捉えたのは知らない天井だった。壁も、窓も、見える範囲の調度も、どこも高級感が見て取れる室内である。けっこう広い。
そして遅れて気付いたが、すぐ近くに人の気配があった。
「ふんふんふーん♪ ふっふふっのふーん♪ ふーんふふんふんふーん♪」
鼻歌混じりに動く人影に目を向けると、こちらに背を向けて掃除している女中がいた。若い少女のようだ。
隠れようとか考えていないことが明らかな人物がすぐ近くにいるのに気付くのが遅れるとは、自分が完全に寝惚けていると反省したベレトは思い切って体を起こす。
幸い、体は問題なく動いてくれた。
手のひらを見つめながら握り開き。
肘と肩を大きく回し。
首を左右に振ったり倒したり。
体の端から柔軟して支障なく動いてくれるか確かめつつ、女中の様子も観察する。
「んーんっんー♪ んーんーんー♪ んーんんーんー♪」
鼻歌は続いており、手にしたハタキの動きは淀みない。
楽しそうな後ろ姿を見ながらベッドから出たベレトは今度は立って動きを継続。
真横に傾いて体の側部を左右に伸ばし。
膝を曲げずに腰を支点に前後に倒れて屈伸。
片脚をベッドに乗せて股を大きく広げる開脚。
ちょっと固くなってるかな、と感じながらまた女中の様子を観察。
「るーんるーん♪ るっるーるーん♪ るったらー……ら?」
目が合った。
「……」伸脚するベレト
「……」固まる女中
「……」組んだ両手を後ろに伸ばすベレト
「……」固まった女中
「……」上半身を捻るベレト
「……」固まったままの女中
沈黙が続く。
一人黙々と柔軟をするベレトと、動きも表情も固めたままの女中。
どこか痛々しい空気を変えたのは実に暢気な一言。
「おはようございます」
「あ、はい、おはようございます」
「お仕事中ですか」
「え、まあ、へい、仕事、です」
「邪魔してしまいましたか」
「いえ、そんな、もう終わるとこで」
「お疲れ様です」
「や、その、お構いなく、と、いうか、うい」
マイペースに柔軟しながら言うベレトに辛うじて相槌を打った女中だが、折よくというか、もしくは逃げへ切り替えたのか、もう退室するらしい。
雑巾などの道具を拾い集めてそそくさと扉へ向かう彼女を目で追って、とりあえず見送ろうかと思いまた一言。
「掃除がんばってください」
「ふぇぁ!? わ、ど、どうも、ありがと、ござい、ます」
ビクッと肩を跳ねさせるも慌てて一礼してから女中は部屋を出ていった。
随分若い子だったが、新人なのだろうか。仕事しながら鼻歌をする余裕があるところから慣れた雰囲気があるように見えたのだが。
柔軟を続けながらベレトは思考する。
部屋の作りに覚えがあると記憶を辿れば、五年前にエーデルガルトに案内されたアンヴァル宮城のものと一致した。ここはあの城内の一室だろうか。自分は今帝都にいるのか。
なら近くにエーデルガルトか、もしくはヒューベルトがいるかも──と続けようとしたところで部屋の外の声がここまで聞こえてきた。
「せ、せせ、せん、先輩! 先輩先輩先輩!」
「静かにしろお馬鹿! ここがどこだと思ってんの!」
「や、あの、な、中! お部屋、中で!」
「声抑えろっつの! で、部屋? 今日も任せたけど、何かあった?」
「べ、べべべ、ベレト様ががががが!」
「うん、先生さんが寝てるね。いつも通りあんたが部屋の中やるって言ったじゃん」
「おおお、お、起きました!」
「……あ?」
「起きたんですよ、ベレト様が!」
「……あの方がお目覚めになられたって?」
「そうなんですよ起きたんですよお目覚めですよ!」
「ま、待て、とにかく大声出すな、落ち着け」
「こういうのって誰に言えばいいんですか! 報告ですか! 陛下呼びますか!」
「だから落ち着けっての! いきなりそこ行くな!」
「そっか上司だ先輩じゃだめだ早く早く呼ばないと!」
「いいからまず落ち着けお馬鹿ぅわ!」
がん ばしゃん ずり がしゃ! がちゃん ぐぁわらあん!
会話の途中から気になって扉に歩み寄っていたベレトは騒音と同時に部屋を飛び出すことができた。
そこで見えたのは、先ほどの若い女中が涙目になって床に落ちた長剣の前で尻餅をついているところと、聞こえた声によれば先輩に当たる若干年嵩の女中が傾いた全身鎧を押さえて踏ん張る場面だった。
掃除用具であろう雑巾や箒は散乱しており、ひっくり返ったバケツの水をたっぷり吸った絨毯と濡れた床も見える。
(大変そうなことになってるな)
どうもあの若い女中を焦らせてしまったようだ。
察するに、
・掃除の仕事で組んでここに来ていた先輩女中にベレトのことを言って
・上司に報告しようと駆け出したら
・足元に置いてあったバケツを蹴って中の水をぶち撒けてしまい
・足を滑らせて壁際に並んでいた展示用の全身鎧に激突し
・その衝撃で倒れてきた全身鎧から守ろうと先輩が咄嗟に間に入って支えるも
・鎧の手に納まっていた長剣の方はそのまま倒れてしまって
・目の前に落ちた長剣の大きな音に驚いて身を固めてしまった
といったところか。
よし、と小さく頷いたベレトは素早く駆け寄り、片手で全身鎧を押し戻すともう片方の腕で先輩女中の背中を支えた。
「ほわっ? 何、誰?」
自分が全力で押さえても傾きを止めるのがやっとだった全身鎧を片手で軽々と元の位置に戻した男の登場に、先輩女中は大いに慌てた。
「突然すみません。危なかったので手を出しました」
「あ、いえいえ、助かりました!」
「怪我はありませんか」
「はい、大丈夫です、ありがとうございます!」
「せ、せんぱぁい……」
「ああそうだモナ、あんた思いっきりぶつかったじゃん! 大丈夫?」
「今、さっきの、報告、えと、あたし……」
「いいよもう、私も一緒に謝るから。怪我ない? ないね、ならよし。立てる?」
「すみませ、あの、腰、抜けて……」
「あちゃあ……まあ大きな音が出たし、危なかったから仕方ないけど」
「立てなさそうですか」
「ああさっきの。お構いなく、この子は私が……あの、その肩に担いだのは」
「絨毯が濡れていたので、絞って干すために持っていこうかと」
「丸めたの今!? 重いでしょそれ一人で運ぶのは!?」
「そちらの人も、動けないなら一緒に運びます」
「いやいやそんな無理しないでくだ、わ、どっちも担いだ」
「先輩、あたし今すんごい運ばれてる感じします」
「暢気か! なんか、すみません、モナまで一緒に」
「先に彼女を連れて行きましょう。服も濡れてるし、着替えられる部屋はどこに?」
「お願いします~。先輩、ベレト様を案内してあげてください」
「分かりました、すぐご案内しま……待って、ベレト様?」
「はい。俺はベレトです」
「先輩も知ってるでしょ。お部屋で寝てるの見たことあるじゃん」
「……先生さん、ご本人様?」
「はい。本人です」
「も~先輩しっかりしてくださいよ。さっき起きたって言ったじゃないですか」
「遅いわ分かるかあ!!」
ベレトの肩に担がれたせいで目前の高さにあった若い女中の尻を先輩女中がすごい勢いで引っ叩いた。フルスイングだった。
「なるほど、先の騒音はそういうわけだったか」
「騒がせてすまない」
納得したように笑うアロイスの前で、ベレトは小さく頭を下げる。
元の寝ていた部屋に戻って二人だけの場である。
騒音と大声のせいで早々に人目を集めたベレト達。他の女中が何事かと思い、警邏の兵士にまで詰め寄られる中、彼らの上司に当たるアロイスが現れたことでこの場を収められた。
眠るベレトの守護を務めるのがアロイスだったのは幸いだった。
聞けばここはアンヴァル宮城の敷地内にある離れの館で、アロイスはここに勤める人員の長を任されたという。戦争が終わって
その人柄もあって来たばかりでもアロイスは女中も含めた働き手一同とすぐに仲良くなれたそうだ。
ちなみにアロイスの家族である妻と娘も一緒に来ているとのこと。ガルグ=マクに居させてもよかったが、共に移った方がアロイスも心置きなく務めに励めると判断されたとか。
「それにしてもあのようなことがあって、しかも貴殿の体まで回復するとは……」
「俺も驚いた。もう戻らないと覚悟していたから」
「まさに奇妙奇天烈摩訶不思議であるな!」
ベレトの身に起きた奇跡を思うと瞠目してしまう。
一度死んだベレトが蘇っただけでもありえないことなのに、深く傷ついていた体までもが回復していた。
髪と瞳の色が元通りになっただけではない。痺れて力が入らなかった腕も脚も、潰れて失われた右目までも治り、元の健康と言っていい体を取り戻していたのだ。
死からの蘇生は通常の回復とは違ったのだろう。言うなれば肉体の再構築。傷を塞ぐのではなく新しい体へと生まれ直した、と表現できるかもしれない。
かつてアルファルドが計画した神祖復活の儀式を応用して、死んだベレトを命を呼び戻すという外法の技。まさかユーリス達がこのようなことを画策していたとは。
何よりもレアがそれに協力したことが驚きだ。彼女にも思うところがあったのだろうか。
ともあれ、死からの復活は喜ばしいことである。
ベッドに腰かけたままベレトは自分の手を見る。握り締めても痺れたりしない。手だけでなく足も、体のどこも問題なく力が入る。両目があるのでよく見える。
込めれば込めた分だけの
斃れる前を覚えているせいか、その差に妙なギャップを感じてしまいそうだ。
(と言うより、余分なものが取り除かれてスッキリした感じがする)
鏡を見て髪と瞳が元の暗色に戻ったことを自分の目で確認してある。神祖の加護、ソティスにもらった力が消えているのを実感する。
変化してからずっと感じていた力が漲ってくる感覚、あれがない。
あの力があったからソティスの存在を感じられて彼女が消えた寂しさを埋めている面があったのだが、なくなってしまったものは仕方ない。
いつまでも甘えるでないわ、という彼女の声が聞こえてきそうだ。
力がなくなったことを惜しむ気はない。
それどころか漲る力によって底上げされていた分が消えたことで、適切な身体操作のためにする微調整が必要なくなったとも言える。
つまり今の状態こそが本来の──
「時に先生、本当に体は大丈夫なのだな?」
「? ああ、問題ない。むしろ快調なくらいだ」
「そうか……」
思考しているところをアロイスに訊ねられてベレトは顔を上げた。
問題ないと返事をすると、硬い表情をしたアロイスがじっと見つめてくる。
「であれば、もうよかろう」
「?」
「先生、先に言っておく。すまない、どうか耐えておくれ」
「何の」
ことだ──そう聞き返そうとしたベレトの言葉は途切れた。
凄まじい衝撃がベレトの頭を襲ったから。
とてつもない勢いが真上から見舞われて体が折れる。問答無用にベッドから叩き落とされて床に転がったベレトは受け身も取れず突っ伏した。
痛みに目を白黒させながらなんとか体を起こして見上げると、目の前に立って見下ろしてくるアロイスがいた。
朱に染まる顔は怒りに満ちているのが誰の目にも明らかだった。
殴られたのだ。アロイスに。
唖然とするベレトを見下ろしてアロイスが口を開く。
「何故殴られたか、分からぬか?」
固まったベレトを見て戸惑っているのが分かったのだろう。怒りを滲ませつつも言い聞かせるような口調だ。
普段の快活なアロイスからは想像もできない姿にベレトは困惑するしかなかった。鬼のような気迫で睨む顔は見たことがない。気さくに声をかけてくる普段の彼とは別人みたいだ。
ただ、怒気を感じても害意がないことだけは分かる。彼が自分を痛めつけようなどと考える人間ではないと知っている。
「分からぬのだな。貴殿の行いで一体何が起こったのか」
言葉が出ないベレトを見て、小さく息を吐いたアロイスは手を伸ばした。ベレトの胸倉を掴み上げて強引に立たせる。
「貴殿が死んだことで私達が何を思ったのか、分からぬかと聞いたのだ!」
「何をって……」
「私が、私達がどれほど驚き嘆いたか……どれほど悲しむことになるか考えなかったのか!」
鼻が触れそうなほど眼前に迫ったアロイスの怒鳴り声がぶつけられた。
困惑が治まらないベレトの目に映るアロイスは怒り心頭に見える。彼がこれほどの感情を訴える姿はやはり見たことがないもので、普段の彼との差が違和感となって混乱を誘う。
だが目を逸らさず見つめると、アロイスはただ怒りに顔を歪めているのではないと分かった。
眉を曲げ、歯を食いしばり、首から上に力を入れて、まるで何かを堪えるように。
「悲しむ……?」
「そうだ! 私はもちろん、貴殿の仲間、生徒! 貴殿を心の支えにする多くの人が嘆き、悲しみに胸を締めつけられた! 特にエーデルガルト殿の取り乱しようは見ていられないものだったのだぞ! あの涙は、あってはならないものだった!」
耐えている。怒りに釣られて悲しみまで口に出さないように。一度でもそうなってしまえば打ちひしがれて、心が折れてしまいそうだから。
それでも言わなければならないことを口に出すから、顔を歪めてまで言うのだ。
「ベレトよ! はっきり言わせてもらうぞ! あれは決して、やってはならない間違いだ!」
アロイスは怒っているのではない。ベレトを叱っているのだ。
しかし、それならそれでベレトにも言い分はある。
「待ってくれ。あれは仕方なかったんだ」
ベレトがセイロス教の中心にされて担ぎ上げられていく流れは、エーデルガルトが目指した世界と対立するものだ。昔と変わらない、あの子が積み重ねてきたものが無駄にされてしまう展開だ。
そんなことがあってはいけない。あの流れは今変えないと手遅れになりかねないもので、そのためにはレアを落ち着かせて助けなければいけなかった。
だからベレトは行動するに至ったのだ。全てを守るために、命を懸けて。
必要なことだった。ベレトはそう主張する。
「そんなことは関係ない!」
「え?」
その主張をアロイスは一刀両断した。
「肝はそこではないのだ!」
「じゃあ何が」
「貴殿のあの行いが必要だったか否かはこの際どうでもよい! 何故、誰にも相談しなかったのかと問うている!」
そう言われて、ベレトの頭が真っ白になった。
考えもしなかった。自分の事情を、自分が歩もうとする道を誰かに言うなど、相談するなど思いつきもしなかったから。
だって自分の立場は、胸の奥に紋章石が埋め込まれたこの体は、人の手に余る問題だから。こんな事情を明かされたところで混乱が増えるだけだ。徒に他人を騒がせて足を止めさせるなんて、そんなことをしている余裕はない。
エーデルガルトのために、仲間達と一丸となっているところにこの事情を打ち明けて動きを乱してしまうなんて……
「考えもしなかった、そうなのだな?」
言葉を止めたベレトの顔を見ただけで判断できたアロイスはさらに踏み込む。額で額を押されてよろめいたベレトを、胸倉を掴んだ手で改めて立たせてさらに詰める。
「それは貴殿の驕りであるぞ」
「俺はそんな」
「行動が物語っているのだ。どうせ言っても無駄、相談しても意味がない、話したところで何もできない、貴殿の行いはそう断じているも同然なのだよ」
「っ、違う、そんなつもりじゃ」
声量こそ落ち着いたもののアロイスが語る内容は意識を殴りつけているようなもので、丁寧に切った言葉一つ一つにベレトの瞳が揺れた。
思考の裏にあった本心を暴かれているような心地にされてしまう。しかも、ずっとベレトを見てきたアロイスが言うからこそそれが真実なのではと思わされて反論できなくなる。
「確かに、貴殿ほどのことはできなかったかもしれん。貴殿がやったような、それこそ命を懸けた行動には踏み切れなかったかもしれん。だがしかし!」
胸倉を掴む手に力を込め、再びベレトと額を突き合わせてアロイスは吼えた。
「それでも貴殿は、我々を頼るべきだったのだ! 事情を打ち明けて、相談するべきだった! そうしなかったことで貴殿は、共に背負うことも、共に苦難に立ち向かう機会すらも我々から奪ったのだぞ!」
「っ!?」
「後から知らされたところで、何故気付けてやれなかったのかという後悔しか残らない! 力になれなかったと、支えてやれなかったと、虚しい思いをさせることになるのが分からんか! 答えろベレト!」
勢いに押されたベレトの背が壁に当たり、逃げ場のない形でアロイスの訴えが叩きつけられる。
ベレトは何も言えなかった。言われた通りだと思ったからだ。
あのアロイスがこれほどまで声を荒げて詰問してくること自体が事の深刻さを表している。普段からよくしてくれる彼の歪む顔がベレトの胸を抉った。
ベレトにとって、アロイスは兄みたいな存在だ。
兄弟というには歳が二十以上も離れているので違和感があるように思えるが、ベレトのことを兄弟同然の相手と言って憚らないアロイスの言を素直に受け入れていた。
家族に当たる存在としてジェラルト傭兵団がいたのとは別のところに、それまで完全に見知らぬ人間だったにも関わらず、本当に兄が弟に向けるような親愛を注いでくれるアロイスのことをベレトはありがたいと思っている。
それは二人がジェラルトに育てられた者という共通項があるからこその仲であることは承知しており、父に感謝するのと同じく兄貴分への尊敬も抱くものだ。
ジェラルトが暗殺されてセイロス騎士団が総力を挙げて敵を捜索していた時、騎士の中で誰よりも捜索に熱を上げていたのがアロイスだった。昼夜を問わずガルグ=マクの周辺を練り動き、彼が率いた部隊は最も広い範囲を受け持っていた。
その経験が後でやった五年間のベレト捜索に役立ったそうだが、それはさておき。
五年経って再会した時も大いに喜び、それからも騎士として自分の部下という立場に納まって尽くしてくれる。それも妻子ごとセイロス教団を離れてまで。
ただ兄と自認するだけでここまでしてくれる人がいると思うほどベレトは世間知らずではない。
こんなにも父を敬愛し、その息子の世話を焼くアロイスを、すごい人だとベレトは心から尊敬している。
そのアロイスがここまで言うから、あの行いは間違っていたのだと他でもないアロイスに突き付けられたからこそ、自分の行動に対する自信が揺らいでしまうのだ。
ああでもしなければエーデルガルトも、レアも、みんな守れなかった。
その一心でやり切ったはずなのに、今になって他にやりようはなかったのかなどと考えてしまうのは無責任ではないか。
一度そういう思考が浮かぶと消えなくなった。
「皆を守りたいと思う貴殿の決意、それは素晴らしいものだ。私も人々を守る騎士として常に己に問う覚悟、それを抱く貴殿を誇りに思う」
ベレトの揺れる瞳を見て、どんな思考に至ったのか察したのだろう。一転してアロイスの声色が落ち着いて目付きもいくらか和らぐ。
「しかし貴殿はまだ分かっておらん。その決意は貴殿だけが抱くものではない」
「……あ」
「貴殿が皆を守りたいと思うように、周囲の仲間も貴殿を守りたいと思うのだ。力になりたいと、支えたいと、困難が立ち塞がっているなら共に乗り越えたいと、そう考えるであろうことが分からなかったのか」
その落ち着かせた声でさらに続ける。
ベレトの未熟な心を切開して、彼の行動の意義に切り込む。
それを聞いたベレトの目は一層見開かれた。
当たり前のことなのに、言われるまで気付けなかった自分に愕然としたのである。
誰にだって守りたい何かがある。
自分の命であったり、または家族であったり財産であったり、信念や尊厳のような形のないものであったり、大切であればこそ守るために戦うことも厭わない。
襲い掛かる理不尽に抗うために。身を脅かす恐怖に屈さぬために。誰もが当たり前に戦うのだ。
ジェラルトはベレトを守るためにガルグ=マクを出奔した。傭兵に身をやつし、セイロス教と関わりを持たないように立ち回りながらベレトを育ててくれた。
傭兵仲間もベレトを守っていた。家族の情で見守りながら付き従い、死を承知で決戦にまで付き合って目的を果たすために戦ってくれた。
生徒達も同じだ。未熟なベレトを教師と認めてくれて、士官学校の中で何かと世話を焼いて支えてくれた。あの日々を守ってくれたのはみんなだった。
ソティスは融合してまでベレトを守った。消えてしまうわけではないと言っていたが、もう会えなくなると覚悟して力を託し、闇から逃してくれた。
そもそもシトリーが紋章石を譲ってレアが埋め込む処置をしなければ産まれた時点でベレトは生きていない。本当に最初の時から二人が守ってくれた。
(なのに、俺は……)
守りたいと言い張るばかりで、自分が守られていることも分かっていなかった。
たくさんの人に守られていたのだ。気付いていなかっただけで、ずっと。
この命は自分の勝手で失っていいものではなかった。
何が、俺の判断で使います、だ。そんな権利なんてなかったんだ。
もっとみんなに返せるものがあったかもしれないのに。
そんなことにも気付かずエーデルガルトを守ることしか考えていなかった自分のことがとてつもなく恥ずかしい存在に思えて、ベレトは身を震わせた。
そのベレトへさらなる猛追をかけるべくアロイスは言葉を止めない。
「エーデルガルト殿は泣いていたぞ」
「っ!」
「ヒューベルト殿も、目の当たりにした仲間は誰もが悲しみに打ちひしがれていた。あのような光景を作ってでも貴殿が守りたかったものは何だ? あの涙にそれほどの価値があったと胸を張れるのか?」
「……」
「誰かを守りたいという決意が尊いものであるのはな、その人の命だけではなく心も含めて未来を守るためのものだからなのだ。ではベレトよ、貴殿の行いはエーデルガルト殿の心を守れていたと言えるものか。もう分かるな?」
「…………違う……!」
震える声でベレトは断じた。
今度はアロイスの言ったことに追従したのではない。自分の心に浮かんだものが強烈な罪悪感となって胸を締めつけたからだ。
(思い……出した!)
死の直前。最後に見た光景。
エーデルガルトの腕の中で死にゆくベレトの目に映った、泣きじゃくる一人の女の子の姿を。
泣いていたのだ。強い皇帝ではなく普通の女の子の顔で、二度と手が届かなくなる恐怖に震えて泣き喚いていたのだ。
(守れてないじゃないか!)
エーデルガルトのためにやったことがエーデルガルトを悲しませた。自分の行いは彼女を追い詰めるものだった。あの子の未来のために善かれと思ってやったことが悪しきものとなってあの子を苛んだ。
なんという本末転倒。なんという自己満足。相手のためだと言いながら、考えていたのは自分本位な押し付け。
それで彼女を泣かせておいて、どうして胸を張れるというのか。
何よりベレトの胸を刺したのは一つの事実。
アロイスに指摘された今になるまで全く自覚できていなかったこと。
(俺が、教えたことなのに!)
五年の眠りから覚めたベレトは、再会してはしゃぐエーデルガルトを諫めた。
このまま戦争の果てにフォドラを統一できたとして、その先に未来はないと。
世界を変革させるために皇帝になって立ち上がったエーデルガルト。
その手段として、武力でフォドラを統一して帝国の支配を以て紋章至上主義の社会を作り直すという、自身の代で全てを塗り替えることを目指した。
そんな強行とも言える姿勢を改めるようにベレトは教え諭したのだ。
無自覚な捨て身。
自分のやりたいことをやり切ってしまえば後はどうなっても構わない。
そんな破滅的な姿勢を勇気とは呼ばない。
ベレトが説き伏せて思いを改めたエーデルガルトはすぐに手段を変えてくれた。理想のために辿る道筋を描き直した。
彼女が変化を受け入れてくれたからこそ未来は続いたのだ。
(でも俺がやったことは……)
無自覚な捨て身──胸を抉って紋章石を取り出すなんて、紋章石によって生かされていた体がそれを失えば命がないなんて当然のこと。
自分のやりたいことをやり切ってしまえば後はどうなっても構わない──これで自分が消えてしまっても周囲の仲間があの子を支えてくれる。
そんな破滅的な姿勢を勇気とは呼ばない──命と引き換えにして事を成し遂げるのは最後の足掻きではなく思考放棄に他ならない。
自分の言ったことが全て自分に返ってくる。
逃れようのない現実がベレトにのしかかった。
「俺、は……俺は、何てことを……!」
死にたくなるほどの後悔がベレトを襲った。
両手で顔を覆い、全身を震わせる。足から力が抜け、壁に背中を預けることもできない体が床に崩れ落ちる。
胸が痛い。信じられないほど速く強く脈打つ心臓が血を巡らせているはずなのに、青褪めていくのが分かるほど顔が冷たい。
悲しみではなく悔恨の涙がベレトの目から溢れた。
これまでの人生で数多く経験してきた失敗も失態も、一つ一つ原因を突き詰めて納得して受け入れることで生きてきたベレトにとって、後悔というものは無縁だった。
日々を生きるために成長を余儀なくされる傭兵には後悔などただの邪魔である。若い身空で戦いに関わるベレトは足を止めることもなかった。
しかし今、絶対に目を逸らしてはならない現実にぶつかる。
エーデルガルトを守りたかったのに。
よりにもよって自分があの子を傷つけた。
後悔に囚われることなく生きてきたベレトにとって、その事実は決定的に自身を打ちのめす敗北と言ってもいいものだった。
肩を震わせるベレトはいつもの彼とは別人のように哀れに見えた。
そんな彼の胸倉を掴む手を放して、今度は肩に手を置いてアロイスは話しかける。
「時として、守るために命を懸けて戦わなければならないことはある。私自身も騎士として人々の盾にならんとする身だ。そうせねばならぬ時は覚悟して戦おう」
だがな、と一呼吸置いてアロイスは続ける。
互いの仲に亀裂を作ることになったとしても、これは自分のような大人が言わなければならないことだと思って。
「そのような時であっても、守る相手にはその旨を伝えておくものだ。その人の命と心をどちらも守るために。その未来が健やかであるよう願って」
「っ……」
「ベレトよ。貴殿はエーデルガルト殿ときちんと話せていたか? 話せていなかったのであろう。もし話せていれば、彼女はあのような涙を流さなかったはずだ。あの慟哭は貴殿が強いたものだと心得よ」
肩に置かれた手が辛うじて自分を繋ぎとめてくれるもののように思えて、振り払いもせずベレトは崩れた体のまま震えた。
鎮まらない心臓の鼓動が、生まれて初めて覚えた自罰の証のようだと思いながら。
とりあえず主人公復活はめでたい。