紅花ルートを抜けて最初の山場。
しばらくして。
俯いていたベレトが顔を歪めながらもゆっくりと立ち上がり、何度も目を拭う姿を見てアロイスは微笑んだ。
「もうよいか?」
「ああ……アロイスさん、本当に、すまなかった」
「分かればよい。貴殿は反省できる人間であると信じておるぞ。今後の行動で示してくれれば私からはもう何も言うまい」
背中を叩いてくるアロイスに何と返せばいいかベレトには分からなかった。
思えば、彼には面倒をかけっぱなしだ。
初めて会った時から目をかけてもらい、重装の指導に始まり、兄を自称して大修道院では何くれとなく世話を焼いてくれた。
アロイスを通じて知った相手も多い。カトリーヌやシャミアなどのセイロス騎士団に所属する人もそうだし、顔の広い彼が引っ張ってくれたことで知り合いになれた教団の人もいる。右も左も分からない大修道院の生活では本当に助けられた。
五年間の行方不明にも挫けることなく捜索活動を続けてくれて、ベレトが帰還した今では部下の立場で
ここまで来ると主君に忠義を捧げる騎士と言っても過言ではない。
そんなアロイスがベレトの死を悲しまなかったわけがない。こうやって叱りつける裏で彼がどれほど嘆いたかなんて少し考えればすぐ分かったはずだ。
こんなことも自分はできてなかったのだ。返す返すも愚かしい限りである。
いったいどうすれば彼に報いることができるだろう。
(いや、今言われただろ。行動で示す。それしかない)
これからの自分次第ということだ。
何としても胸に刻まなくてはと思い、ベレトは口から漏れそうになった嗚咽を無理やり飲み込んだ。
深呼吸を繰り返して息を整えるベレトを見たアロイスはおもむろに切り出す。
「それで先生、エーデルガルト殿に会いたいのだろうがしばらく待ってほしい。今の彼女は公務の真っ最中であろう。報告はするがすぐこちらに来るのは厳しいはずだ」
「分かってる。皇帝の仕事を放り出すわけにはいかない」
ベレトが誰よりも会いたい人は現在仕事中である。
皇帝の務めを無視できるほどエーデルガルトは責任感がない人間ではない。少なくとも今日やるべきことを終わらせるまでは仕事から離れられないだろう。
皇女だった頃から責務を疎かにしない姿を何度も見た。それでベレトの誘いを断ることもあったのだし、今も皇帝としての仕事に取り組んでいるはず。
戦争が終わったばかりなのもあって今は特に忙しいのは想像できる。
少なくともベレトの方から無理に押しかけて彼女の邪魔をするつもりはない。
頷くベレトに、今度は先ほどとは違う意味で神妙な表情でアロイスは申し出る。
「そこでだ。貴殿には先に会ってほしい御方がいる。まずはそちらを頼みたい」
「先に? あ、生徒のみんなは」
「はは、残念だが彼らもするべきことのためにここを離れている。ヒューベルト殿は城内にいるがエーデルガルト殿の補佐に従事しているのでやはりここには来れん」
「そうか……じゃあその人って」
「レア様に会ってほしいのだ」
決戦の終わりにそれまでとは別人のように大人しい態度で投降したレア。
セイロス騎士団の総大将でもあった彼女が敗北を宣言したことで戦争は終結し、そのまま教団ごと帝国軍に降って捕縛される身となった。
その後すぐにベレトと同時に姿を消したことでまさか彼女の仕業かと思われたのだが、ユーリスの置手紙のおかげで騒ぎになることはなく、数日で生き返ったベレトと一緒に戻ってきたので再び帝国に捕らわれた。
大人しい態度は続いていてまた捕虜の身になること自体は受け入れたレアだが、その際に彼女は一つの条件を提示してきた。
『ベレトが目を覚ましたら、最初に自分と話をさせてほしい』
他の全てを受け入れる代わりにこの一点だけは譲らない。そう主張するレアの言葉をエーデルガルトは認め、彼女をアンヴァルへ連行して今に至る。
戦争の根幹の一つであるセイロス教団の大司教レアがいないと進められない話も多くあり、戦後処理をするにあたって彼女の役目は重い。(いないならいないで仕方ないが、いるならいるで活用できる)
主張した通りレアは持ち込まれた話に全て向き合い、一つも責務を投げ出したりしなかった。
エーデルガルトとの対話も、ヒューベルトとの交渉も、他の貴族との面談も、どれも粛々と対応してみせる。時には迂遠に書面上で、時には言葉で直接責められることがあっても静かな受け答えを崩さない。
そして主立った責務を終えたレアは、また必要な時が来るまでは待機させるということでベレトを寝かせた館にほど近い場所へと移された。
戦争の敵対者でも捕虜となれば無体な扱いは許されない。特に大司教であるレアの身柄となればそれはもう神経を使うもの。
そこで彼女を監視する指揮官として、面識もあって気心も知れているアロイスが選ばれたのだ。一度は敵対した身でも彼なら自然とレアを尊重できるし、決して不穏な振る舞いはしないと信用できた。
ベレトの警護とレアの監視。アンヴァルに移ったアロイスは見事に務めを果たしていた。
そういったここまでの流れがあったので、投降する際に提示された条件の通りベレトが目覚めてすぐ──先の説教を挟んで──話す機会をレアは得られたのだ。
そうしてレアが館へ連れてこられ、ベレトの部屋で一対一で向かい合えた……まではよかったのだが。
「……」
「……」
ベッドと椅子に座った二人が何も言わないまましばらく経つ。
部屋に通されてからレアは一度も口を開くことなく、椅子に座って俯くとその姿のまま固まってしまった。
二人だけで話をさせてやるべく、案内したアロイスは席を外している。なので誰かが場の空気を変えるとかはできず、室内に静寂が訪れていた。
そうして沈黙を貫く彼女の姿がベレトにはなんだかおもしろく見えた。
何しろ口こそ開かないものの視線はチラチラと何度もこちらを窺っており、俯いたままそんなことをするものだからその度に上目遣いでおっかなびっくりチラ見してくることになるのだ。
威厳ある姿や慈愛を湛えた表情の印象が強いレアがそんな風にしているのが珍しくて、ベレトは微笑ましい気持ちになってしまった。
ただ、レアとしても雑談目的で来たわけではあるまい。
アロイスからは彼女の強い要望でこの場を用意したと聞いている。投降する条件として提示したのなら真面目な話をするためなのだろう。
大修道院でしていたような私的なおしゃべりも楽しかったが、今はその時ではないのだ。
なのでベレトの方から切り出す。
「レア」
「……はい」
呼ばれた彼女の肩が微かに震えるのを見たベレトはできるだけ普段通りの声を意識して話した。
「君が俺にしていたことは知ったよ」
「っ……」
「母さんの紋章石を俺に移したこと。俺に心臓の鼓動がなかった理由も。炎の紋章の由来も。俺に天帝の剣を託した事情も」
ユーリスのレポートとジェラルトの日記帳から得た過去の情報。それらが示唆するレアの狙い。知りえた事実があの行動に至ったのだと話す。
責められると思ったのか、俯いたレアの肩がさらに縮こまって震えが増した。もう自分の足元しか見えていない彼女にベレトは続ける。
「ありがとう」
「……え?」
「レアが母さんの頼みを聞いて俺に紋章石を移してくれたから、死産になるはずの俺は生き延びることができた。レアが俺を重用してくれたから、生徒に会えて、仲間が増えた。二重の意味で、君は俺の恩人だ」
最初からベレトはレアを責めるつもりなんてなかった。
ずっと彼女に感謝を伝えたかったのだ。
ベレトの目には、レアの一連の行動は誰にも明かしていない独断に見えた。
会ったばかりの自分を教師に取り立てたのは突然のことで、寝耳に水の話だとセテスは言っていた。その他に教団の誰も、騎士団の者も、大修道院ではベレトのことは全く知られていなかったから当初は疑惑の目で見られるのも珍しくなかった。
その事実がレアの秘密を物語っている。セテスみたいな側近にも、フレンみたいな近しい者にさえ教えていなかったのだ。仄めかすことすらしていなかったからこそ、カトリーヌやツィリルみたいに最初は懐疑的な対応をされた。(アロイスは例外だろう。ジェラルトとの縁があるとは言え、あそこまで友好的な態度は彼の懐の大きさによるものなのでここでは除外して考える)
すなわち、シトリーの死因も、赤子のベレトに鼓動がないのに生きている理由も、レアは全てを誰にも言わず抱え込んでいたのだ。今までずっと、一人で。
その姿勢にベレトは覚えがあった。
本当は言わないといけない。
でも、言えばきっと止められる。
だけど、やらないと目的を達せられない。
だから黙ってやり抜く。
苦しいけれど、最後まで。
奇しくもそれはエーデルガルトを守るためにベレトが一人で決意したことに酷似していた。
もちろんアロイスの説教を受けた今はそれが独りよがりだったと分かる。
ただ、ベレトとて逡巡が丸きりなかったわけではない。誰にも言えないのはやはり苦しいものなのだ。それを長い間抱えるならなおさら。
二十年以上もの間、誰にも明かすことなく秘密を抱えていたレアはいったいどれほど苦しかっただろうか。
そして事はベレトだけに納まらない。
神祖復活を願って炎の紋章石を肉体に埋め込む。その禁忌はシトリーにも、さらにその前にも恐らく前例がいる。
レアの正体がセイロス教の始まりから生きてきた神祖の眷属であるのなら、同じ禁忌の実験で作られた前例が何人もいるはずだ。そして何人もいるということは、それだけ何度も失敗が続いてきたということ。
悩んだはずだ。苦しかったはずだ。このまま続けていいのかと自問もしただろう。
それでも誰にも明かさないままシトリーを作るまで一人で実験を続けてきたレアが何を思っていたか、ベレトには何となく分かるのだ。
後ろめたい、そんな引け目があったに違いないと。
同時に、そういう後ろめたさを押し殺してでも神祖復活を悲願として歩み続けてきたのだと。
そのレアがガルグ=マクを訪れたベレトを熱烈に迎え入れ、何かと気にかけて声を掛けたりするなど、大司教がただの平民の傭兵に向けるには重い期待の理由が明らかになった今、彼女の態度を思い返せば見えてくることがある。
きっとレアは、ホッとしたのだ。
これが最後だと。ベレトを最後にできると。今度こそ最後にしてくれと祈りにも似た切実な気持ちでベレトを見守っていたのだろう。
髪と瞳の色が変わったベレトを見て、ついに長年の悲願が叶うと喜んで。この後ろめたさから解放されると安堵して。
だからこそ敵対したベレトにああも憎悪を向けた。
愛と憎しみは表裏一体と言われる。可愛さ余って憎さ百倍。期待が大きかったからこそ裏切られた衝撃も大きかった。
聖墓でエーデルガルトを守るために剣を向けたベレトへ抱いた失望と怒りがどれほどレアを苛んだか。それからの彼女の振る舞いを見れば想像に容易い。
孤独は辛い。死別して置いていかれる恐怖は苦しい。アロイスに叱られてその事実を思い出したベレトは思うのだ。
シトリーに愛情を注いで接していたレアは、他の実験体のことだって無下に扱ったりしなかったのではないか。後ろめたさだけでなく、失敗する度に孤独と恐怖が増していたのだと察せられる。そういう状況が何年続いたことか。
レアがいつからこの実験を始めたのかまでは分からない。どれくらいの失敗を重ねてきたのかも不明だ。しかし彼女が眷属として永い時を生きてきたのなら、その状況は数百年続いていたと見込んでもおかしくない。
想像を絶する孤独。それを誰にも言わず、ずっと一人で抱えてきたのだ。
そんなレアが、シトリーが出産の負担で命尽きそうになっているその時にベレトを救うための行動を起こしてくれた。
これを感謝せずして何とする。
「レアが救ってくれたから俺はここにいる。母さんの心と俺の命を君が守ってくれたんだ。今までずっと。本当にありがとう」
誰が責めたとしても、ベレトの心にあるのはレアへの感謝だった。
しかし、レアの方がその感謝を受け止められるわけではない。そうするための余裕が彼女にはなかった。
「違う……違うのですベレト」
「何が?」
「私は、あなたに感謝される謂れはないのです。私がやっていたのは決してあなたを守る行いではなかったのですよ……」
自分の悲願は神祖ソティスの復活。死にゆく母の頼みを聞くとか、息のない赤子を救うとか、断じてそういった善意から起こした行動ではない。どこまでも利己的で、他者を助けるようなものではなかった。
「こんな私に感謝を受ける資格などありません……あなたを見限って殺そうとした私に、そんなことを言わないで……!」
そう言ってレアは再び俯いてしまう。絞り出すようなか細い声はよく知られる大司教としての威厳あるものではない。まるで幼い少女が罪の重さに震えるように怯えている。
今までに見たことのない姿だった。
ひた隠しにしてきた罪過を、明らかに自らが罪深いと感じている行いを白日の下に晒され、当人であるベレトに言及されることを彼女は恐れている。
だが、この場を望んだのはレア自身である。責められることは覚悟していたに違いない。それでも足を運び、こうして対面することを選んだ彼女をベレトは責める気になれない。
なので空気を変えるために別の話を振る。
「レア、君は神祖ソティスの眷属なんだな」
「……はい」
「それは俺が知ってるソティスと同一人物なのかな」
「っ、やはりあなたは会ったのですね、彼女と!」
急に顔を上げてレアは身を乗り出した。合わせた彼女の瞳に狂おしい想いが宿るのが見えて、それだけ強い意志があったのだと思わせる。
「会ったと言うか、傍にいたんだ。一年近く」
「傍に?」
「ガルグ=マクに行くことになる直前、ルミール村でエーデルガルトを守ろうとした時にあの子が目を覚まして俺に力を貸してくれたんだ。その時から俺にだけ見える姿で一緒にいたよ」
「……待ってください。『あの子』とは、どういうことですか。彼女は、私のお母様はもっと」
「やっぱり君の母親なんだな。でも俺が知ってるソティスは小さな女の子なんだ」
「そんなはずは! 神祖ソティスは私の母です! 幼子であるわけが!」
「神とその眷属が途方もない時を生きるのは想像できるけど、誰だって大人になる前は子供だよ」
思い浮かべるソティスの像に大きな差があると察したベレトは、一度擦り合わせるべきだとレアを宥めた。
まずベレトはソティスとの関わりを語ることにした。
ルミール村で自身の内面で初めてソティスと言葉を交わしたこと。
小さな女の子が不思議な力で助けてくれたこと。
以来ずっと心が共に在ったこと。
現実に姿を表してもそれは自分にしか見えてなかったこと。
ソティスには記憶がなかったこと。
ザナドに懐かしさを覚えるくらいのあやふやな手掛かりしかなかったこと。
見た目にそぐわない態度は歳の離れた姉みたいな振る舞いだったこと。
何者なのか出自を探る気は薄かったこと。
傍にいるのが嬉しかったこと。
唐突ではあったが、家族が増えたような気持ちでソティスを見ていた。尊大な口調でもこちらを案じて日々寄り添ってくれた彼女はベレトにとって大切な存在だった。
しかしその日常もジェラルト暗殺を機に終わり、封じられた森で暴走してしまったベレトを救うためにソティスはその身を懸けた。
融合して力を託すとソティスは消えてしまう。もう姿は見えず、どこにもいない。
死ぬわけではないと彼女は言った。消えたのではなくベレトと存在が重なったことで文字通りの一心同体となったソティスは変わらず助けてくれる。
五年の眠りから覚めた時も、ディミトリとの戦いで諦めそうになった時にも、あの子の呼びかけがあったから動けたのだ。久しぶりに聞けた声が嬉しかった。
ベレトにとって、髪と瞳の色が変わって神祖の加護を授かった証明になった体よりも、ドラゴンと意思疎通できるようになった能力よりも、あの声こそが自分を奮い立たせてくれるものだ。天刻の拍動などの力を得ても満足に扱えなかった自分の背を叩いて檄を飛ばすソティスが目に浮かぶようだった。
まるで姉のような、家族みたいな、相棒とも言える存在が自分にとってのソティスなのだとベレトは語った。
「そん、な……」
話を聞くレアは唖然とした表情になっていた。
ソティスが幼い子供というだけでも信じられないのに、記憶がなくレアのことも知らなかったのだと聞かされて頭が真っ白になりそうだった。
あんなにも求めていた母が自分を覚えていない。他ならぬ本人と接していたベレトがそれを証言する。その事実はレアの足元を崩すものだ。
ただ、同時に理解もできた。どんな命も生まれたばかりは未熟で当然。ベレトの中で目覚めたソティスは本当に幼い女の子としての意識しかなかったのだ。
肉体ごと現世に復活したわけではなく、心だけがベレトの中に同居していたようなもの。そう考えると、エーデルガルトとベレトを助けられる力があっただけでも僥倖と言えるかもしれない。
そして融合を果たしたソティスは力だけをベレトに託して消えてしまったと聞き、レアは虚ろな表情で項垂れる。
学級課題にかこつけて聖墓へ案内したベレトを神祖の御座に座らせて、全く変化がない彼に後は何が足りないのかと焦っていた自分が愚かしい。
変化がなくて当然だ。あの時点でソティスはもう消えていたのだから。
言うなれば、幅が違う剣と鞘を揃えて何故上手く入らないのかと首を傾げていたようなもの。
当然である。ベレトとソティスは別の存在なのだから。
その揺るぎない事実を今になって認識してしまったレアは言葉を失った。
「なあ、レア」
俯く自分を呼ぶ声にレアが顔を上げると、まっすぐ見つめてくるベレトがいた。
「俺はソティスにはなれないよ」
言われたのは当たり前の現実。それはレアにとっては残酷な宣告でもある。
ソティスはもういない。
母にはもう会えない。
死んだ者はもう戻らない。
今まで目を逸らしていた現実を改めて突きつけられる。
この世に生きる全ての者に科せられる理が、長年追い求めた悲願が決して叶わないものなのだと示していた。
顔をくしゃりと歪ませるレアに、ベレトはこう付け加えた。
「だから、別の何かになれないかな」
「……え?」
微かに潤んだ目で見たベレトは微笑んで続ける。
「同じソティスに縁がある者同士、俺と君に繋がりがあるのは確かだろう。俺は人間として生まれたけど、少しだけ神祖の眷属になってたようなものだし、レアとは親戚みたいな関係だと言えるかもしれない」
「あなたと、私が……?」
「俺は君の母にはなれないけど、別の形があるんじゃないか」
一度は殺意まで向けた自分にかけられた穏やかな言葉はレアの心を柔らかく包み、その意思を温かい熱で解きほぐした。
何故、そんなことが言えるのですか。
何故、私を許せるのですか。
何故、あなたはそんなにも優しいのですか。
疑問が止まない胸ごと包み込まれるような心地に、困惑と、それをも溶かしてくれる安心感を覚えて、レアは我知らず口を開く。
理由などない。根拠などいらない。ベレトがただベレトであるだけで他に何もなくても認められる関係性を。
「おにいさま……」
「え゙」
この時のベレトの表情はちょっとした見ものだった。
穏やかに微笑んでいた顔から、どこか硬い引きつった顔へ。
どうすればいいか分からず困って固まることはこれまでもあったが、これはそのどれとも違う。
間違いなく彼が人生で初めて浮かべる『引いた』表情であった。
レアの発言をいくらか弁護させていただく──弁護と言ってる時点で台無しだという指摘は勘弁してほしい──言い訳として、彼女の生い立ちを考えてもらいたい。
レアの正体がセイロスその人であり、かつて神祖ソティスが最後に生んだ眷属であることはもうご存知の読者も多かろう。
母のソティスをどれだけ慕っていたとか他の先に生まれた眷属との関係とかそういうのは置いといて、ここで重要なのはレアが最後に生まれたという部分。
そう……彼女は、末っ子なのである。
末っ子の妹分が親族の中で親以外に見る相手と言えば自分より年長の兄や姉くらいのもの。
母を求めて千年以上たった一人で足掻いてきたレア。母の、家族の温もりを求めて長きに渡り孤独と戦ってきた彼女が、その志が果たせないものだと諭されると同時に現れた親族とも言える相手のベレト。
それがレアの中で兄という形に納まった……もとい、納まっちゃったのだ。
故のおにいさま呼び。
何もおかしいことはない。
いやおかしいよ。
どうしてそうなるのさ。
しょうがないじゃんなっちゃったんだから。
もしこれが劇の脚本などであれば力業にも程がある展開に観客から不満が噴き出して陳情の一つや二つでも上がりそうなものだが、あいにくとこれは現実。この場には二人しかいないので誰にも流れを止められない。
とは言え、それを聞いたベレトが困惑に包まれるのは当然なわけであって。
(そう来たか)
顔も脳も固まってしまうのも無理はない。
ただ、そこはマイペースぶりに定評のある我らがベレト先生である。
(まあいいか)
いいのかそれで──そんなツッコミを入れられる誰かがここにいれば話は違ったのかもしれないが、繰り返すがあいにくと室内は二人きり。
一瞬で硬直から脱したベレトが一息で表情を穏やかなものに戻すとおもむろに手を伸ばして、
「がんばったんだな、レア」
彼女の頭を優しく撫でるのだった。
自身の口から思わず出た呼び方にレアも驚いたのだが、当のベレトがあっさり受け入れたことで浮かびかけた違和感もすぐに消えてしまう。
本当の兄のように撫でてくれて。
本当の妹を見るような眼差しを向けてくれて。
どうあってもソティスには会えない。母の温もりは二度と手に入らない。それでも目の前にいるベレトは、レアが何よりも欲した家族の愛情を示してくれる人だった。
「う、ぅうう……うあ゙あああぁぁぁ!」
耐えられなかった。こみ上げる呻きのまま倒れ込むようにベレトへ抱きつく。
ベッドに座るベレトの腹に顔を埋める形で彼の背に腕を回すと、レアは身を絞るように泣いた。
「わ、わだし、がん、ばりまし、だ」
「ああ」
「ずっ、ど、ひ、ひどり、で」
「ああ」
「ざみ、ざみし、がっだ、わだ、し、の」
「ああ」
「ごどもだぢ、みん、な、い、いっでじま、ああ、あ゙ぁああああ」
言葉にならなかった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになる顔を隠すように彼の腹に押し付けて、声にならない声でレアは喚いた。
そのレアの背中をあやすように手を置いてベレトは相槌を打ち続けた。
それはきっとこの千年余りの間、同族にさえ一度も見せることのなかったレアの心の発露だったのだろう。
童女さながらに泣き喚く彼女は、背に振れる手が確かな温かさを伝えてくれるのが分かり、安堵の中で募った寂しさを絞り出すのだった。
長い長い慟哭が落ち着いたのは日が傾こうとする頃だった。
服をぐちゃぐちゃにしてしまったと恐縮して謝るレアが、これくらい平気だと笑うベレトの言葉でまたしても目を潤ませかけたところ、それ以上の言葉を交わす前に起きた騒動で二人の対話は中断させられた。
館の扉がけたたましく開かれる音が響くと、荒い足音で駆け込んだ兵士がアロイスにした報告が事態を動かす。
その報告をアロイスから伝えられたベレトとレアは一様に顔に焦燥を浮かべた。
『エーデルガルトとヒューベルトが姿を消した』
皇帝の執務室が襲撃に遭ったように荒らされていてエーデルガルトがどこにもいない。それだけでも事件だというのに、領地訪問の準備を進めていたはずのヒューベルトまでもがいなくなった。
公的な業務をしていたのだから行方が分からなくなるなどありえない。何より執務室の惨状と、皇帝と同時に宮内卿が消えるという異常事態。
二人が誘拐されたのは明白だった。
アンヴァル宮城の厳重な警備の中でこうも密やかに要人二人をかどわかす、そんな真似をしてみせる相手には大いに心当たりがある。
(闇に蠢く者……!)
どくん──心臓が唸る。
胸の中で高鳴るその音は、ベレトが知らない感情をもたらすものだった。