風花雪月場面切抜短編   作:飛天無縫

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 皇女様めんどくせえ。だがそれがいい。


皇女様の憂鬱

 エーデルガルト=フォン=フレスベルグはアドラステア帝国の皇女である。

 唯一の皇位継承権の持ち主であり、現在は士官学校に通う生徒として日々を過ごしている。

 

 いずれは皇帝となって帝国を導く身。研鑽に余念がなく、今は新しく迎え入れた元傭兵の教師の下で成長を実感する毎日だ。

 黒鷲の学級(アドラークラッセ)の級長として、そして彼の指導を受ける身として、妥協は許されない。授業に自習に訓練に、どれも手を抜かず己の糧とする。

 充実した日常と本人の真面目な性格も相まって、めきめきと腕を上げていった。

 

 憤懣やるかたない事情によって体に刻まれた力のせいで、学生の身分でありながら周囲を欺き、叔父を始めとした一派と組んでこの世界の闇に関わるという絶大なストレスを背負いつつも、心に秘める誓いを支えに、凛とした姿勢は崩さない。

 時折、殺意にも近い苛立ちに頭を悩ませることも多いが、持ち前の鋼の精神力で心の均衡を保っていた。

 

 そんな彼女であるが、最近になって日常に変化があり、ある悩みを抱えていた。

 端的に言えば──癒し(せんせい)が足りないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 翠雨の節も半ばを過ぎ、夏真っ盛りとなった今日この頃。

 山間にあるガルグ=マク大修道院は比較的涼しい環境だが、それでも照り付ける日差しは夏らしく、眩しくて強い。

 人々の装いもすっかり夏のものへと切り替わり、薄着で過ごす者ばかりとなっていた。

 

 士官学校でも衣替えが行われ、生徒達も夏仕様の制服を着るよう推奨されている。従来の制服より薄手の生地で、色合いも薄く、爽やかな印象の夏服は好評なのだ。

 ガルグ=マクの街で大きな通りから外れて、人の目から隠れるように裏道を歩くエーデルガルトとヒューベルトも、他の生徒と同じように夏服に衣替えしていて、普通の制服よりさっぱりとした出で立ちである。

 

 しかしながら今のエーデルガルトの心情は、とてもではないがさっぱりなどと言えるものではなかった。

 

「はぁ……」

「本日八回目の溜息ですな」

「数えてるの貴方」

「ええ、何せ主の健康管理も我が務めの一部ですので」

「そう。目敏く優秀な従者を持てて私は幸運だわ」

「お褒めいただきありがとうございます。私室であればともかく、人目のある場所でそのようにされますと弱みや悩みを勘繰られます。自重してくださいませ」

 

 小さく嫌味を返したつもりだったが、サラリと流されて逆に窘められる。

 本当に優秀ですこと……一歩後ろを歩くヒューベルトの言葉に苛立ちながら、決して間違ったことを言われたわけではないと理解はできるので、エーデルガルトも大人しく頷くしかなかった。

 休日の陽が昇り切っていない今から、帝国から来た使者と秘密裏に会う予定だ。叔父の下から派遣される相手に不調を気取られるわけにはいかない。気を引き締めなくては。

 

 溜息が増えたという自覚はある。その原因も心当たりはある。

 ベレトと話せてない。ただそれだけのことがエーデルガルトには不満だった。

 しかしながら、何故彼と話せないだけでこうも不満が募るのか、彼ともっと話せれば癒されるのにと考えるのか、その仕組みまでは分からないのだが……

 いや、今はそれよりもベレト、そう、ベレトのことだ。彼のことを考えない日はないのだが、ここ最近はその頻度が急増している。四六時中と言ってもいいくらいに、何をしていてもすぐ彼のことを考えてしまうのだ。

 

 全てはあの模擬戦が切欠だった。

 訓練所で行われたベレトとカトリーヌの手合わせから早や二週間が経過。

 たった二週間。されど二週間。

 その間、エーデルガルトとベレトの会話は激減していた。

 

 模擬戦で己の成長の余地を実感したベレトは、その翌日から生活習慣を大きく変えたのだ。性急とも言える行動は、彼の即断即決な姿勢が表れるようだった。

 

 まず早朝。早起きする彼は朝食前に訓練所へ顔を出し、同じく早起きした生徒の訓練に付き合うのが常だったのだが、二週間前から彼の朝は騎士団に向かうところから始まる。

 ベレトが最初に学ぶと決めたのは重装。そのことをアロイスに相談し、専門家として自分を指導してくれないかと頼み込んだ。

 ベレトに頼られたことで大喜びしたアロイスはこれを快諾。任務を受けていない時には直接教えて、不在の時でも自主訓練できるように自身の権限が及ぶ範囲で騎士団所有の鎧や備品を使えるように取り計らってくれたのだ。

 そんなわけで、ベレトの朝は騎士団から始まるようになったのである。

 

(流石は(せんせい)ね。これまでも防御に優れていたのに、それをさらに磨こうだなんて。私達を、生徒を守るための力を一番に求めるなんて、もうすっかり教師の顔だわ)

 

 しかし引き換えとして、ベレトが早朝に生徒との訓練に付き合えなくなってしまった。当然と言えば当然かもしれないが、それを物足りなく思う者も少なくない。特に他学級の生徒は彼の指導を受けられる機会が限られる。ディミトリなんかは露骨に寂しがっているそうだ。

 しかもそれに加えて、重装訓練後に身形を整えて朝食を取ってしまえば、朝の授業が始まるまで時間に余裕がほとんどない。授業の支度を手伝うついでに──そう、あくまでついでに──雑談を交わす余裕もなくなってしまったのだ。

 憎らしいことに、授業の準備は彼が一人で前日に済ませてしまうようになり、いつの間にかエーデルガルトが手を貸す必要もなくなっていた。会話がなくても、授業前の一時を共に過ごすことさえ最近はできてない。

 ……仕事に慣れてきたようで何よりね、と前向きに捉えるしかなかった。

 

 次は昼休み。午前の授業を終えた生徒達が、午後に向けて英気を養う憩いの一時。

 これまではベレトも生徒と一緒に昼食を取ったり、午後の準備をしながら生徒と雑談したりしていたのだが、ここでも彼は行動を変えていた。

 

 早朝の訓練や授業の準備で削った睡眠を補うように、ベレトは昼寝をするようになったのだ。

 時には中庭の日陰で。時には墓地の木陰で。時にはリンハルトと連れ立って。修道院内で落ち着ける場所を落ち着きなく探して、日によって色々なところで横になる。

 自室の方がよく眠れるのでは、と思わないでもないのだが、彼は驚きの寝付きの良さですんなり寝入って食後の微睡みに身を委ねるのだ。

 

 一度だけ、本当に寝ているのか確かめるために、悪戯を仕掛けようとドロテアが近付いたことがあった。

 その時のベレトは、流石は歴戦の傭兵と言うべきか、ドロテアの指が触れる寸前で飛び起きて逆に彼女の手を取り押さえてみせた。相手が生徒だと気付いたベレトは自分への悪戯の思惑を察し、彼女の額を「めっ」と軽く一突き。

 その日からしばらく、ベレト相手にドギマギするドロテアの姿が印象的だった。

 

(さ、流石は師ね。場所を選ばず睡眠を取って短時間でも効率的に体を休めるから、忙しい日々でも精力的に動けるのよ。ただ頑張るだけでなく休むことも大事だと教えてくれるわ)

 

 授業開始前の予鈴でサッと目を覚まし、素早く教室に戻っていつもの姿を見せるので授業に不備も生まれず、エーデルガルトも生徒の立場からは口を出すこともできなかった。

 

 午後の授業の終わりを告げる鐘が鳴り響き、放課後になればベレトはさらに動く。

 広げていた道具をテキパキと片付けると、挨拶もそこそこに早足で教室を後にする。向かう先はハンネマンの研究室。紋章学の権威から直に理学の研修を受けに行くのだ。

 

 理学に関しては基礎の基礎しか知らず、紋章そのものに至っては完全に無知だったベレトは熱心に聞き入り、そんなベレトの旺盛な姿勢に感化されたハンネマンも指導に熱が入ったようで、放課後の多くを使って研究室で盛り上がる。

 いつしかリシテアやアネットなど他学級からも意欲のある生徒が何人か集まるようになり、授業とはまた方向性が違う密度の濃い講義が行われるようになった。

 

 そうやって足繁く通った甲斐あって、先日ベレトはファイアーの魔法を習得。

 訓練所で初めて的に命中させた時に、無表情のままでも拳を握り締めて成長を実感する彼の姿があったという。

 

(さ、流石は、師、ね。武芸だけでなく魔法の適正もあったなんて。これで彼の戦い方の幅は大きく広がるし、指導の幅も広がって、教師としても頼もしいわ)

 

 そのせいか、最近はベレトが訓練所に行くと、剣を振るより魔法の練習をすることの方が多い。全くやらないわけではないのだが、魔法を中心とした戦術を考えたりしてどうしても二の次になってしまう。

 それまでやっていた手合わせができなくなって、同じく訓練所によく来るフェリクス達は不満そうにしているとのことだ。

 

 極めつけは週末の休日。懸念していた不安が現実となってしまった。

 そう、大司教レアによる信仰の研修である。

 

 やはりと言うか何と言うか、信仰を学びたいとベレトから話を持ち掛けられたレアはそれはもう歓喜して、休日の午前いっぱいを確保。その時間を使って二人きりの研修を実現させたのである。

 休日の朝から大聖堂を訪れるベレトをレアが直接迎え入れて、いそいそと執務室に案内する。そこから先は文字通り、二人きりの楽しい楽しい研修タイム。

 よもや、その、い、いかがわしい真似はするわけないとは思うのだが、あのセテスですら締め出した執務室で、彼と二人きりでお勉強。

 な、なんて羨ましい……もとい、羨ましい……くっ、だめだ、言い直せてない……

 

 そうして休日に集中して学んだ甲斐あって、無事ベレトが回復魔法ライブを習得。

 シルヴァンが女の子とのいざこざで負ったという傷を、昨日見つけたその場で治すことに成功。新たな力に手応えを感じ、またも拳を握って喜ぶ彼の姿があった。

 

(さ、さす、がは、せ、んせい──)

 

『って言えるかあ!』

 

 畳みかけてくる現実に、それまで保てていた流石は師(さすせん)をついに崩してエーデルガルトは自室で叫んだ。若干キャラ崩壊。

 

『どういうことなの!? 私は黒鷲の学級の級長なのよ!? 黒鷲の学級の担任ならもっと私のことを気にかけるべきではなくて師!?』

 

 ベッドの上で枕をバンバン叩きながら不満を叫び散らしたのが昨夜のこと。

 余人には見せられない、皇女らしからぬはしたない姿だったと反省はしたものの、積もる不満が消えたりしたわけもなく。

 エーデルガルトは悶々とした日々を過ごしていた。

 

 性急すぎる! 休日どころか平日の空き時間まで注ぎ込むベレトの行動の変化によって、それまで続いていたエーデルガルトとの関わりが軒並み消えてしまったのだ。

 今となっては多少の挨拶を交わし、授業を受けるだけ。これでは単なる教師と生徒と変わりないではないか。いやまあ赤の他人よりはマシですけども。

 これまでどれほどベレトからの歩み寄りがあって交流ができていたか、エーデルガルトは痛感した。

 

 可能性が残る休日の午後を狙おうにも、ベレトにだって都合がある。彼を慕う生徒はエーデルガルトだけではないのだし、本人にもやりたいことがあるはずだ。

 午後からは恒例の散策は続いており、温室で花の世話を始めたり、大聖堂での合唱練習に参加したり、ベレトの行動力は止まる所を知らない。

 

 それに対して、これまで彼との交流に注いでいた時間がぽっかり空いたエーデルガルトは暇を持て余すようになってしまった。

 無論、自主的な勉強や訓練は怠っていない。習慣として体に染み付いた行動はそのままに、ベレトと共に過ごす時間だけがなくなり、いつの間に彼の存在がこんなにも生活の一部に組み込まれていたのかと愕然とさせられたのである。

 

 これまでは毎日のように食事を共にしていたのに、この二週間、ベレトを伴わずに口にする食堂の料理がエーデルガルトには酷く味気なく感じられた。

 無表情ながらも満足そうに頬張る彼を見ながら食事していたのが遠い昔のように思える。彼と一緒なら薄味の精進料理でさえ、宮廷の豪華な料理よりもずっと心躍らせる美味に感じられたというのに。

 

「はぁ……」

 

 気を引き締めたはずなのに、またも無意識に溜息が漏れてしまう。

 エーデルガルトの心に落ちた影は想像以上に深刻だった。

 

 本日九回目になる溜息が止まらない主の側で、ヒューベルトもまた溜息を吐きたい気分だった。

 

 実は先日、ヒューベルトはエーデルガルトに進言したことがある。そんなに気になるのでしたら先生と一緒に研修を受けてみては、と。

 ベレトと一緒にいられるし、エーデルガルトの成長にも繋がる。連れ立って経験を重ねていけば話題を共有できる。一石三鳥。良い事尽くめではないか。

 できればあの教師とは距離を置いてほしいのですが──そんな本心を押し殺して告げられた忠臣のありがたい提案。それに対するエーデルガルトの返事がこれ。

 

『だ、ダメよ! 皇女である私が師を追いかけ回してるみたいで、その、恥ずかしいじゃない!』

 

 ──こいつめんどくせえ。

 

 果たしてヒューベルトがそんな感想を抱いたかは、彼のみぞ知るところである。

 はて我が主はこうもポンコツだったでしょうか……と口に出さないところに忠誠心の高さが伺えるが、心労の多い彼がちゃんと休めているのか心配になりそうだ。

 

 なお、エーデルガルトがこうしてベレトの行動の変化を細かく把握しているのは、彼女がヒューベルトに命じてベレトの周辺調査をさせたからである。修道院の各所に点在する彼の手駒がベレトの行動を監視、内容をまとめてエーデルガルトに報告してくれるのだ。

 公私混同と言わないであげてください……反論できないから。

 抱えた不満を飲み下し、主の益となるべく粛々と行動する彼が従者の鑑だということだけは確かだろう。

 

 ベレトの方から近付いてきてほしいと願うくせに、自分からベレトに近付くのは恥ずかしがる。二律背反は思春期の常だが、そんな甘ったれたことを言える立場ではないはずなのに。

 どうもベレトが関わるとエーデルガルトは年相応の少女のような甘えが出てくる。鉄の意志で感情を押し殺し、実利を重視した道を選んできたこれまでの彼女を知っているヒューベルトにとって、この数節における主の変わり様は驚きの連続だった。

 エーデルガルトが一般人であれば構わない、むしろ微笑ましく思うべき変化なのだろうが、残念なことに彼女は覇道を往く皇女である。付け入られる甘さは許されない人間なのだ。

 

 事の元凶を『処理』するため、ベレトを暗殺できないかと隙を狙ったことがある。

 当然、エーデルガルトには無断で行った。反対されると分かり切っているし、反対されようと彼女の益になると判断すればそれを断行するのが自分の使命だからだ。

 

 一度ならず数度に渡る暗殺は、その悉くが失敗に終わっている。

 殺意を隠さず近付いた時は、勘付いていないはずがないのに例の無表情を崩さず、元気かどうか逆に気遣われる余裕ぶり。

 薬を盛ろうとしても、大半はエーデルガルトと共に食事していたし、最近になって一人の機会が生まれたので狙えば、やはり無表情のまま口にする前に気付かれて、周囲を騒がせないよう静かに処分してしまう。

 背中を狙うために後ろへ回り込もうとしたら、いつの間にか逆に後ろに立たれた時など、大層驚かされたものである。

 挙句の果てに当のベレトからは「こういうのは久しぶりで良い刺激になる」と評されてしまったのだ。いや刺激ってあんた。

 身を守る術を父親から叩き込まれたにしても程があるのではないか……何を仕掛けても堪えずのらりくらりとかわされてしまい、これ以上は労力の無駄になると判断せざるを得ず、ヒューベルトも手を引くしかなかった。

 

 本音を言えばヒューベルトとて、ベレトを好ましく思っていないわけではない。

 エーデルガルトの命の恩人であるところなどは本当に感謝しているし、対抗戦を始めとした戦場での指揮、日々の指導、普段の生活から見て取れる人徳、多くの面から彼が優れた人材なのは明らかだ。優秀な者は好きだ。主の役に立つ者であれば言うことはない。

 だが、そういう諸々の面を考慮に入れても彼の存在は危うい。天帝の剣を賜ったからには教会側につく可能性が高いのだし、いざという時にエーデルガルトの足を止めてしまいかねない要素は徹底して排除するのがヒューベルトの役目なのだが……

 

(まったく……ままならないものですな)

 

 主と揃って、従者も心の中で溜息を吐く。

 二人の道はまだまだ険しそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

「それではエーデルガルト様、私はこれで……」

「ええ、上手くやってちょうだい」

「心得ております」

 

 ガルグ=マクの街の中、二人は別れる。ヒューベルトは街に残ってやることがあるので、修道院に帰るのは自分だけだ。

 静かに裏通りへ消える従者を見送ると、エーデルガルトは歩き出した。

 使者との対話にそこまで時間はかかっていない。陽はまだ完全に昇り切っておらず、昼食までまだ余裕がありそうだ。

 

 使者からの話は、半分が現状報告、もう半分は遠回しな愚痴みたいなものだった。

 詳細は省くが、アランデル公は死神騎士の扱いに困っているらしい。腕が立つと同時に戦闘狂でもある手駒の手綱を取れず持て余しているとか。

 ざまあみろ──そう思わなくもない。意地の悪い喜び方なのは自覚しているが、久しぶりに胸のすく思いだった。

 

 聖廟襲撃事件の後に炎帝として秘密裏にアランデル公と会い、報告と、今後の方針の相談をした際、彼の次の企てに使わせようと死神騎士を貸し与えた。

 そう、実は死神騎士は炎帝の、自分の配下なのだ。聖廟襲撃も自分は予め知っていた。あの場での戦いは茶番に過ぎない演技だった。

 それでも誤算だったのは、死神騎士の驚異的な強さと、彼がベレトに向けた拘り。黒鷲の学級の生徒達を殺気だけで屈させる実力は恐ろしいものであったし、それを唯一人で相手取ったベレトに大きな関心を寄せたのは、納得すると同時に悩ましいことでもあった。

 

 エーデルガルトは凄惨な人体実験の成功例として、その身に高い潜在能力を秘めている。鍛えていけば、いずれは宿した紋章に相応しい実力を身に付けるだろう。

 だが、未だ道半ば、発展途上の彼女ではとてもではないがあの死神騎士の力と狂気を御することはできない。あの時、殺気を向けられただけで竦み上がってしまい、他の生徒と同じように固まってしまった。紛れもなくあの有り様が現在のエーデルガルトの実力なのだ。

 いざという時に従えられない厄札を手元に置いておけるほど暢気ではいられない。そういうわけで、厄介な死神のことは一時的に叔父に丸投げさせてもらった。彼には精々苦労してもらおう。

 

 かの組織が次にどのような動きを見せるのか。今はまだ立場の低いエーデルガルトに知る術はないが、それなりの時間はあるはず。どんな企みにも負けない力を急いで手に入れなくては。

 学級のみんなも、そしてベレトも、今は精力的に学んでいるのだ。遠からず確かな実力を手に入れるだろう。

 師も、今日も、精力的に、学んで……休日の午前……また、大聖堂に行って……

 

「はぁ……」

 

 またも思考がベレトへと流れ、十回目の溜息を吐いたその時。

 

「さっきの人、たくさん買ってたね茶葉」

「仕入れに来た人だったのかな?」

「修道院の? 士官学校にあんな人なんていたっけ」

「制服だったけど違うのかな。カッコいい人だったねー」

 

 すれ違う二人組の町娘の話し声が耳に入ってきた。

 茶葉で思い出したが、好みのベルガモットティーの茶葉がもうすぐなくなりそうだったはず。せっかく街に来たのだから買い足しておこう。

 ヒューベルトからも指摘されたのだし、いつまでも落ち込んでいられない。気分を変える目的で普段は飲まない茶葉を買うのもいいかもしれない。

 

 気持ちを切り替えて、エーデルガルトは市場へと足を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 袋の山が歩いていた。

 違う。足の生えた袋の山が歩いていた。

 それも違う。袋を山のように抱えた人が歩いていた。

 

 明らかに前が見えていない量を抱え、ゆっくりと歩を進める人物が目の前にいる。

 異様な塊が歩く姿は大層目立っており、何人もの道行く人が二度見している。先ほどすれ違った二人が話していたのはこの人のことか。

 そしてこの人物は、エーデルガルトがよく知る相手だった。

 

 顔を見なくても分かる。大荷物を抱えていても揺らがない足運び、抱える腕は毎日のように見慣れたものだし、チラチラ覗く髪はいつも目で追う色だ。

 

「師!」

「ん? その声はエーデルガルトか」

 

 回り込んでみれば、やはりベレトの顔が見えた。まさかこんなところで会えるとは思っていなかったエーデルガルトは表情を明るくする。

 

(夏服! 制服の師だわ!)

 

 戦場に臨む際の軽鎧でも、教室でよく見る外套を羽織った姿でもない。休日らしいラフな格好として選んだのか、生徒と同じ制服姿のベレトを見るのは初めてだった。

 普段の濃紺でまとめた格好と大きく印象が変わり、上下共新品なのだろう夏服は大きなギャップも生んで別人のように見える。全体的に小ざっぱりとしていて彼の体の細身が強調されていた。

 だが、細くてもその身の力強さはよく知っている。実際これだけ大量の荷物を抱えていても少しも揺るがない安心感があるし、呼ばれて立ち止まる時も重心が全くブレていない。

 今日もまた顔を合わせることなく過ぎてしまうだろうと思っていた休日に、何より見たことない姿のベレトと出会えた幸運に、先ほどまでエーデルガルトの中にあった悶々とした気持ちは跡形もなく消え去っていた。

 

(いい、すごくいいわ師。若いから見た目は同じ生徒と言っても通用するじゃない。教壇に立って私達を導くいつもの姿もいいけど、同じ机に並んで一緒に学ぶのもとてもいいのではないかしら)

 

 脳裏に浮かぶ光景に胸を膨らませる。幻視したストーリーと同じ夏服というペアルックに、否応なく興奮してしまった。

 ……そういう喜色を浮かべたのは一瞬のこと。即座に表情を取り繕って話しかけるエーデルガルト=フォン=フレスベルグ御年(おんとし)十八歳。流石は皇女様、顔を作るのがお上手であります。

 

「ずいぶんな大荷物ね。買い出しでも頼まれたの?」

「ああ、これか? これは私物だ」

「私物?」

「初めての給料で茶葉を買ってみたんだ」

 

 ベレトの返事を聞いて、つい彼が抱える袋の山を見た。開封された形跡のない新品の袋はどれも見覚えがある。このガルグ=マクに来てから自分も利用している茶葉の店のものだ。

 

「……これを、全部師が?」

「ああ」

 

 明らかに個人で消費する量ではない。袋自体は普通のサイズでも数が数だ。いったい何回分の茶を淹れられるのか見当もつかなかった。

 

 そこまで考えて、エーデルガルトは周囲からの視線を感じた。荷物の山を抱えて注目されているベレトに、同じ士官学校の制服を着た自分が親し気に話しかけたのだ。どうしても目立つ。

 

「師はこれから帰るのでしょう? 私も帰るから、一緒に持っていくわ」

「いや、君の手を煩わせるのは……君も市場に用事があるんじゃ」

「いいのよ、急いでする必要はないもの。半分貸して」

 

 返事を待たず、ベレトの腕から袋を半分ほど取り上げて歩き出す。最近は授業の手伝いをすることもなかったので、彼と一緒に何かできるならどんな些細なことでも嬉しかった。

 エーデルガルトの勢いに納得したのか、ベレトもそれ以上は言わず甘えることにしたようだ。山の上半分がなくなってちゃんと前が見えるようになった袋を抱え直し、後に続いて歩き出した。

 

 半分になっても腕いっぱいに抱える量の茶葉に呆れる。これを抱えて修道院まで帰るのは少しばかり骨が折れるだろう。

 

「それにしてもどうしてこんなに? 師ってそんなに紅茶が好きだったかしら」

「いや、そうではないが、今後を考えたら用意しておいた方がいいと思った」

「何かやる予定があるの?」

「……」

「師?」

 

 隣り合って歩くベレトから返事が止まった。即答を旨とする彼にしては珍しくて、重ねて尋ねるエーデルガルトは隣を見上げる。

 

「……今朝、父さんに説教された」

 

 いきなり話が飛んだ。普通は首を傾げるのかもしれないが、ベレトが少々話下手だと知っているエーデルガルトは口を挟まず、彼の言葉に耳を傾ける。

 

「最近のお前は自分のやりたいことに熱中しすぎて、生徒を蔑ろにしてるんじゃないか、と……そう言われて、考えたら、自分の訓練とか、勉強をしてばかりで、授業以外に生徒と関わった覚えが薄い。たぶん、あの模擬戦から俺が、俺のやることが変わって、みんなと話す時間が減ったんだ」

 

 よくよく注視すると、ベレトの目が微かに伏せられている。いつも授業で聞く彼の声が、今は心なしかトーンが低いし、言葉の歯切れが悪い。

 落ち込んでいるのだ。気付かないまま生徒を蔑ろにしていた己の行動を自覚し、尊敬する父にそれを指摘されたことが、どちらも彼にとってショックだったのだろう。

 

「どうすればいいか考えてたら、フェルディナントとローレンツが紅茶を飲みながら仲良く話してるところを見かけたんだ。聞いてみたらあれは茶会というもので、貴族は嗜みとして雑談を交えながら紅茶を楽しむ場があるんだな」

「あの二人が茶会をしているところは私も前に見たことがあるわ。そうね、貴族に限らず、紅茶片手に雑談をする場は交流としては定番よ」

「ああ、それを聞いて思ったんだ。俺も生徒を茶会に招いて交流しようって」

「師が私達を?」

 

 それは、なんて素敵な試みなのだろうか。

 薄れた交流を取り戻そうというベレトの考えに嬉しくなる。そのために選んだやり方が茶会というところも面白い。

 

「それでも、こんなにたくさん買う必要はなかったのではないかしら? 師が一人で使い切れるとは思えないし、店で驚かれたでしょう」

「最初は買うつもりはなかった。けど一人一人に紅茶の好みがあるだろう。色んな種類があると聞いて、対応した茶葉を用意しておきたいと思ったから買える物は全部買った」

「色んな種類って……」

 

 まさかと思い、エーデルガルトは抱えた袋を見る。開けずとも袋表面に記載された字が中身を教えてくれた。

 アップルティーやミントティーなど平民の間でも親しまれている一般的な茶葉もあれば、ラヴァンドラティーやカミツレの花茶などの比較的高級な茶葉もある。ベレトが抱える方の袋をよく見れば、ベルガモットティーやローズティーという貴族御用達の茶葉まであるではないか。

 彼はただ大量に買ったのではない。買える茶葉は全種類揃えたのだ。

 

「こんなに買って、かなりの出費だったのではなくて? よく買えたわね」

「傭兵時代の貯金も使ったよ。足りてよかった」

「……本当によく買おうと思ったわね。安くはなかったでしょうに」

「たしかに無駄遣いするつもりはないが、無駄に貯める趣味もない。使う時に使うのが金だ。それが今日の茶葉だっただけのことだよ」

 

 教師になってから給料が払われてるし金の心配はない──気負った風もなくベレトはそう言う。

 なんとまあ……嬉しいやら呆れるやらで、エーデルガルトはまじまじと彼を見つめてしまった。つまり個人的な貯えを崩してまで茶会の準備してくれたのだ。そうまでして準備してくれることを嬉しく思うし、周到に備える姿勢にそこまでするかと少しだけ呆れを覚える。

 課題に出撃するにあたって、生徒全員に傷薬を必ず一個は持たせるベレトらしいと言えるかもしれない。

 

 値段に関係なく全種類を揃えたということは、それだけ多くの生徒と茶会をしようと考えているのか。エーデルガルトが好むベルガモットティーなど、下手な茶器より高いというのに……

 そこまで考えて、ふと気付く。ベレトは先ほど教えてもらうまで茶会というものを知らなかった。その彼がこうして大量の茶葉を買い込んだということは。

 

「ねえ師」

「なんだ」

「貴方、紅茶を淹れたことあるの?」

「ない」

 

 彼らしい簡潔そのものの答えが返ってくる。

 

「つまり紅茶のことは何も知らないのね。何度も言うけどよく買う気になったわね」

「たしかに思い切った買い物だったが、エーデルガルト達貴族と話していくなら、俺も茶のことを覚えないと。みんなのために淹れると分かっているなら今買ってもいいと判断した」

「ふふっ、ありがとう。そこまで考えてくれて嬉しいわ」

 

 真面目なベレトの態度を嬉しく思うが、本題はそこではない。紅茶を飲むには茶葉だけあればいいわけではないのだ。

 

「ところで、ティーセットはもう買ってあるの?」

「……セット?」

 

 あ、これはさては。

 

「ティーカップやポットとか、ソーサーもスプーンも含めた茶器の一式のことよ」

「そういうのは食堂から借りようかと」

「なるほどね……師、誰かを茶会に招くなら、迎える相手に自分が使う道具を見せることも茶会の醍醐味よ。人によっては使う茶器で相手の格を量る場合もあるわ。茶葉だけ用意して茶器がないのは、貴方に分かりやすく例えるなら、兵糧を重視するあまり装備もなく戦場に向かうようなものよ」

 

 別にフォドラにそういった慣習があるわけではない。他人のティーセットを借りて茶会をしたとしても失礼に当たるなどということはなく、傭兵だったベレトが茶器の一つも持たないのは当然だと少し考えれば分かることなので違和感もないだろう。

 この辺りは皇族らしく、貴族としての観点を持つエーデルガルトならではの助言であり、加えて自分の師に少しでも良い格好をしてほしいという彼女の少女めいた願望が混ざった発言だった。

 

 言い切って、返事がないことを訝しんだエーデルガルトが振り返ると……名状しがたい顔で立ち尽くすベレトの姿があった。

 ガーン──そんな擬音が背後に響いていそうなベレトの表情が見たことないほど強張っている。無表情が常である彼がこうも衝撃を露わにするなんて初めてではないだろうか。

 

「……俺は、そんなことをしようとしていたのか」

「ま、待って、ごめんなさい師、私も言い過ぎたわ」

 

 目に見えて落ち込むベレトを見て慌てる。

 先ほど足りてよかったと言っていたので、恐らく持ち合わせがもうないのだろう。

 真面目なのは結構なことだが、真面目に受け止めすぎるのも問題だ。

 

 そこでエーデルガルトの脳裏に天啓とでも言うべき閃きが訪れる。この状況を逆転させる一手。これを逃す手はない。

 

「大丈夫よ師、ティーセットなら私のを貸してあげるわ」

「……え」

「それに貴方、紅茶のことは何も分からないでしょう? なら私が教えてあげるわ。しっかりしなさい」

 

 目を伏せるベレトの見上げながら励ます。しょんぼりした彼のことをかわいいなどと思う気持ちをなんとか抑えて告げる提案は、エーデルガルトによる紅茶の淹れ方と茶会の指導であった。

 何も分からない手探り状態で誰かを招くより、練習をしてから本番に臨むべきだ。その練習のために自分の持つ茶器を貸して、さらに茶会らしい会話の練習にも付き合ってあげる。完璧な提案だろう。

 

「教えてくれるのか? ……だが本当に何も分からないんだ、完全に一から学ばないといけない。君の休日を俺のせいで潰すわけには……」

「お構いなく。自分の予定を調整できないほど、私は幼くないわ」

 

 自信に満ちた笑顔でエーデルガルトは断言する。実際、予定していたことが遅れたとしても取り戻せる自信があっての提案だ。自負に裏打ちされた笑顔はベレトを納得させるだけの力があった。

 

「それに師らしからぬ発言ね。手探りの独学と指導者がいる教導、どちらが早く身に付くかなんて考えるまでもないでしょう?」

 

 気遣う彼を見上げ、エーデルガルトは得意げに微笑む。普段の授業と違い、生徒の自分が教える側になれると思うと心地好い。

 

「それとも、私では不服かしら?」

「……そんなことはない。ありがとう、助かるよ」

「ええ、任せてちょうだい」

 

 どこか安心したような声でベレトは受け入れ、小さく頭を下げてきた。それを受けてエーデルガルトも鷹揚に頷く。

 こうしてエーデルガルトはベレトと二人きりの、そして彼の初めての茶会相手という機会を手に入れたのであった。

 

 そういえばその夏服はどこで手に入れたのかと聞くと、自室で見つけたので私服として使わせてもらうことにしたそうな。おかしいのは衣装タンスではなく、何故か机の引き出しに納められていて発見が遅れたとのこと。

 

 

 

 

 

 

 

「紅茶って、奥が深いんだな……」

 

 教室にほど近い位置にある中庭で、いつになく疲れた様子でベレトはしみじみと呟いた。

 

「お疲れ様、師」

「君のように滑らかに動けなかった」

「私は幼い頃からこういう教育を受けてきたのだし、身に付いていて当然よ。すぐに追いつかれたら立つ瀬がないわ」

「そういうものか。やっぱりエーデルガルトはすごいよ」

「ありがとう。さ、師も飲んで」

「ああ……自分では味の良し悪しが分からないな」

「初めてにしては悪くないわ。後は慣れていけば自然と上達するわよ」

「そういうものか」

 

 さっそく持ち出したエーデルガルトのティーセットを使い、ベレトが買った茶葉から一つを選んで指導が始まった。

 初挑戦ということで選んだのは、最も庶民的と言ってもいいアップルティー。好む人も多く、まずはこれで紅茶を覚えていくといいとエーデルガルトが選んだ。彼女としても普段は飲まない紅茶で気分を変えたいと思っていたところ。

 そうして始まった皇女による茶会講座は、難航、というわけではないが思った以上に時間がかかってしまった。

 

 全くの初心者であるベレトの手付きが覚束ないのは仕方ない。指示された作業をできるだけ丁寧に進めるので動きが遅かったり、やり忘れたことを指摘されて手順を戻したり、時間をかけすぎて食堂からもらった湯が冷めてしまったので再びもらいに行く羽目になったり。

 普段のテキパキ動く彼を思えば珍しくとも、だからと言って疎む理由にはならず。

 合間合間にエーデルガルトの指示をメモに書き留め、受ける指導に全力で傾注する様子は、むしろこちらのやる気を引き出させてくれた。

 

 ハンネマンの気持ちが少し分かった。こうも熱心に聞き入る姿勢を見せられては、教える側としても気合いが入るというものである。張り切ったエーデルガルトの指導に、ベレトも一つ一つ反応してすぐ行動に移してくれたので、つい熱が入ってあれこれ口に出してしまった。

 師も私達を指導する時はこういう気持ちなのかしら──頭の端で考えながら、目の前で走り書きのメモを読み直すベレトを見つめる。

 ジェラルトの言った通り、教える側としてベレトほどやりやすい相手はいないのがよく分かった。

 

 さて、気持ちを改めて。

 

 やや冷めてしまった紅茶を前にして、講座は次の段階へ進む。

 そもそもベレトの目的は茶会を通じて交流を図ること。となれば必要なのは会話、その話題選びの練習である。

 

「話題か」

「そうね、お互いが内容を共有できる話題なんて話しやすいんじゃないかしら。私と師、どちらも知っているものについて話してみるのはどう?」

「共有できる……どちらも知っている……」

 

 唸るベレトを見ながら紅茶を一口。彼が自分のために考えてくれてその姿を独り占めできるこの空間のなんと贅沢なことか。しかも同じ制服姿、気分はまるで同級生。

 紅茶の香りも味もより良く感じられるというものだ。自然と機嫌が上向く。

 

 しばらく考え込んだベレトは、何か話題を思いついたのか、紅茶を味わうエーデルガルトに向かって口を開く。

 

「実は今朝、天帝の剣が壊れてしまって」

「ん゙っふっ」

「何気なく振ったら刀身が真ん中でポロっと折れて、って大丈夫かエーデルガルト」

「っけほ、けほ……だ、大丈夫よ……」

 

 思わず咽た。いきなり何を言い出すのかこの男は。

 いや、共有できる話題を探してくれたのは分かるが、その内容が不穏過ぎた。

 

「どうしたものかとレアさんに見せたら悲鳴を上げられた」

「けほっ……それは、そうでしょうね」

 

 信じて託した英雄の遺産がこんなに早く壊されたと知ればどう反応するか、想像に難くない。

 

「悲鳴を聞いて駆けつけたセテスさんにも相談して色々試したんだけど、天帝の剣は普通の剣とは構造が違うことが分かったんだ」

 

 レアの悲鳴を聞いて血相を変えて駆けつけたセテスの様子が目に浮かぶ。徒事ではなかろうと武装でもしていたかもしれない。そのセテスに向かって、この無表情のまま平然と相談を持ち掛けるベレトの姿も容易に想像できた。

 騒ぎにはなっていないことから、少なくとも他人の目はなかったと思われるが……朝から起きた大聖堂での珍事を思い、エーデルガルトは初めて彼らに同情した。

 

「あの剣はいわゆる蛇腹剣という武器で、折れたのではなく外れるような構造だったんだ」

「じゃばらけん?」

「エーデルガルトも知らないか。俺も今日初めて知ったけど」

 

 ただの剣ではない天帝の剣は、英雄の遺産としての力のみならず、それ自体が特異な武器としての側面を持っていた。

 

 蛇腹剣とは、刀身が複数の刃で構成された剣で、その内部を通したワイヤーで一つに繋いだ武器である。ワイヤーを引いて剣の形にまとめることで通常の剣のように、またはワイヤーを伸ばして鞭のように、二つの姿を使い分けられる特殊な剣だ。

 剛の剣と柔の鞭。状況に合わせて交戦距離を自在に変えられるという、大変面白い武器である……理論上は。

 と言うのも、刀身が複数の刃による分割構造である以上、剣としての強度を維持することが不可能なのだ。普通の剣のように振って打ち合えばその刀身はポロリと外れてしまい、傾いた刀身が逆に持ち手に向かってきてしまう。これは武器として致命的な問題である。

 他にも、鞭として振って複数の刃をぶつける切削を狙ったとしても、正しく刃筋を立てない斬撃が与えるダメージなど高が知れており、仮に正しくぶつけられたとしても力が乗らず、斬ると言うより撫でるような衝撃しか与えられない。

 それ以外にも様々な問題を抱えており、武器として考えると実用性がなく、言葉を飾らずに言ってしまえば欠陥品なのだ。

 

 しかし流石は英雄の遺産と言うべきか、天帝の剣にはそれらの問題を解消どころか凌駕する性能が秘められていた。

 紋章の力を刀身に纏うことで強度を維持し、並の剣以上の剛性を発揮する。振るうベレトの技量も相まって、的代わりにした鎧を真っ二つにしてみせたという。

 伸ばして使えば持ち主の意思に従って自在に動き、鞭については初心者のベレトでも離れた的へ百発百中の命中率を叩き出した。思う通りに動くので伸ばしながら振り回しても刃筋はきちんと立つから目標を切り裂けるし、剣と同じように力を乗せてぶつけられる。

 不思議なことに、伸ばして使った時に刀身が分割するのだが、分かれた刃の数が明らかに本来の刀身にあった分より多く、長く伸ばせば伸ばした分だけ刀身を構成する刃が増えるのだ。剣の形に戻せば刀身も元通り。分割より分裂構造と言うべきか。

 しかもこの剣、持ち主の意を汲む力がかなり繊細に働くようで、試しに離れたところのテーブルに置いた教本に向けて剣を伸ばしたら、テーブルを傷付けず先端が教本に巻き付いて引き寄せることに成功したのである。ものぐさな人にはとっても便利。

 

「こう、シュイーンって伸ばして、クルって巻いて、グイーって手元に」

「英雄の遺産で遊ばないで……」

 

 天帝の剣の検証の話を興味深く聞いていたところにぶち込まれたおふざけに、エーデルガルトは思わず額を押さえる。表情も声色も変えず平然と話し続けるので心構えができない。

 

「フレンは面白がってたぞ。手を使わず天帝の剣だけで小石をお手玉したら楽しそうにはしゃいでた」

「あの子の感性は独特なのよ……ねえ師、お願いだから天帝の剣を人前で気軽に使わないでちょうだい。レア様じゃないけど、悲鳴を上げる人がいるかもしれないのよ。約束して」

「? 分かった」

 

 君がそう言うなら、とベレトは素直に頷く。聞き分けが良いのは結構なことだが、相変わらず彼の爆弾発言は心臓に悪い。

 

「……待って、師は今朝もレア様のところに行ったのよね。研修はどうしたの?」

「今日は中止になった。悲鳴を上げたら倒れて気絶してしまったんだ。仕方ないから後のことはセテスさんに任せて、空いた時間をどうしようか考えてたら父さんに呼ばれて、後は君に話した通りだ」

「そ、そうだったの」

 

 気絶までするとは相当ショックだったのだろう。

 

 とりあえず、茶会の席で物騒な話題を出すのは控えた方がいいと忠告しておいた。相手次第ではあるが、こういう場では基本的に穏やかな空気を崩さない話題を選ぶように言っておく。

 アドバイスを受けて考え直すベレトを見て、また紅茶を一口。穏やかな空気が大切とは言うものの、こんな思いをさせてくれる破天荒な彼との一時がちょっと楽しくなってきたエーデルガルトであった。

 

 改めて共通の話題を探す中でベレトが思い付くのは、やはり生徒のこと。

 

 リンハルトに教えてもらったのだが、書庫という本に囲まれた場所は眠るのに最適な空間らしい。大量の紙が音を吸収して静穏性が保てる環境が理想だのどうの。

 早朝にやる重装訓練に、少し前からフェルディナントが加わり共に励んでいるという。武器収集の趣味が高じて鎧にも造詣が深い彼から、逆に教わることも多い等々。

 ハンネマンの講義の休憩時間に、メルセデスが作る菓子は絶品だと自慢するアネットからお裾分けされたブルゼンが本当に美味しくて感動したそうな。リシテアが大層気に入っていたので、自分のを一つ譲ってあげたらすごい勢いで感謝された話。

 

 話すベレトは相変わらず無表情だが、話題を選び、時折言葉を前後させながらあれこれ話してくれる姿は、どことなく生き生きしているようにも見えて微笑ましい。

 エーデルガルトの方からも話題を振り、彼が返す言葉に一喜一憂して、それでも話は盛り上がって最後には顔が綻ぶ。

 そんな二人の間には彼が初めて淹れた紅茶があり、余人が立ち入らない二人きりの空間が出来上がっている。

 

 ああ、そうだ……自分はきっとこういう時間が欲しかったのだ。

 ベレトと二人、何も気にせず、視線と言葉を交わし、心安らかにいられる時間が。

 

 以前はまるで心がないみたいだなどと揶揄までされたベレトだが、最近は察しの良い者なら変化を読めるくらいに感情を滲ませることがある。修道院の人々と関わっていく中で、無表情ながらも所作や態度に表れるものがあるのだ。

 そんな彼が率先して生徒と触れ合おうとしてくれる。その心遣いを嬉しく思うし、茶会の相手第一号になれたことが優越感をくすぐり、胸の内が満たされる。

 エーデルガルトのこれまでの人生にはなかった、ごく普通の少女のような気持ちをもたらしてくれるベレトの存在は、やはり特別なものだった。

 

 いつまでもこんな時が続けばいいのに──そんな叶うはずのない望みを想う。

 大修道院を出ても自分の師でいてほしいという願いも、エーデルガルトの勝手な願望でしかないのだ。元々傭兵であるベレトが教師の仕事から離れてしまえば自分との繋がりもなくなる。そうなれば、こうして茶会の席を共にする理由もなくなってしまうだろう。

 何より……この穏やかな日々を、遠からず自らの手で崩すことをエーデルガルトは決めている。そんな自分が抱いていい望みではない。

 

 そうした思いを断つように、正午を報せる鐘が鳴り響いた。

 大修道院中に響き渡る鐘の音が二人の会話を遮る。

 

「そろそろお開きにしましょうか」

 

 カップに残る紅茶を飲み干し、茶会の終わりを告げる。想定よりもずいぶん長く話し込んでしまったようだ。

 

「ご馳走様、師」

「ああ、ありがとうエーデルガルト」

「どうかしら、茶会の流れは掴めた?」

「十分だ。後は慣れていけばなんとかなると思う。ティーセットはどうすれば?」

「次の給料で新しいのを買うのでしょう? それまで貸してあげるわ。大切にしなさいね」

「助かる。必ず返すよ」

 

 テーブルの上を片付ける。楽しい時間は終わり。元の日常へ戻る時だ。

 またベレトと疎遠になってしまうかと思うと、少し寂しくなる。

 

 だがそれでもいい。これからはこうして少しでも触れ合えることが分かった。このささやかな時間があれば自分を慰められる。心安らかに、明日への力にしていける。

 まるで弱々しい乙女のような考えだと内心で苦笑する。そういった気持ちも今までになかったもので、彼と出会って自分は弱くなったのか……

 

 ふと、ベレトが動きを止めていることに気付く。片付けは終わり、もう席を立つだけなのに、止まったまま何か考え込んでいるようだ。

 

「師?」

「……やっぱりそうだ」

 

 考えに納得したのか。一つ頷いたベレトがエーデルガルトに向き直る。

 

「エーデルガルト」

「何かしら」

「俺は君と一緒にいたい」

「え? …………ええ!?」

 

 思わず後退りしてしまった。頬が熱くなっていくのが分かる。

 いきなり何を!? それは告白!? いや流石にそれは!? 何故今言うの!?

 慌てるエーデルガルトに構わずベレトは続ける。

 

「この二週間、自分のことに集中している間は気付かなかったが、父さんに指摘されて考えてからずっと違和感があった。何かが足りないというか、忘れてるというか、そんな気がして……こうしてエーデルガルトと話していてようやく分かった。二週間ずっと、君とまともに会話してなかったんだ」

 

 まるで気持ちを確かめるように、ベレトは思いを口に出していく。向かい合うエーデルガルトに、または自身に言い聞かせるようにはっきりと。

 

「俺個人の勉強や訓練でエーデルガルトに負担をかけたくなかったから、授業の準備とかは自分で済ませるようにしてたけど、それで結局話す時間もなくなって……君は手伝いを申し出てくれたのにそれも断って、自分でできることに俺は満足していた」

 

 街から帰った時のようにベレトが目を伏せているのが分かる。これまでの行いを悔やみ、懺悔するようにエーデルガルトに語りかける姿は、反省して落ち込む子供のようでもあった。

 卓越した戦闘力を持つ傭兵。多くの生徒に慕われる教師。そんな彼も、世間的にはまだ若造と言える一人の人間なのだ。気が回らなかったり、周囲を疎かにすることがあっても仕方ないのかもしれない。

 

 ジェラルトはそれをよく知っていたのだろう。ベレトの父として、師として、彼が間違った方に進まないように引き止めるという役目を果たしてくれていた。そのことにエーデルガルトは感謝する。

 なら、ここから彼を支えるのは級長の自分の役目だ。

 

 いつしか熱くなった頬も、高鳴っていた胸も落ち着いていた。

 

「他の生徒とは一緒にいたけど、君がいなかったことを思い出したら今までが物足りなく感じてしまった。やっぱり俺にはエーデルガルトと一緒にいる時間が必要だ」

 

 と思ったらこれである。

 

(本当に、もう……! いつもいつも、貴方は私の胸をかき乱す……!)

 

 一緒にいたいと思っているのは自分だけではなかった。それが分かって嬉しくてたまらない。耳から飛び込んだ彼の声が頭の中で踊り、胸の内で喜びの種が弾けて静まらない。今すぐ飛び上がりたいくらい嬉しい。

 しかし、そう何度も取り乱すのはプライドが許さない。だらしなく緩みそうになる顔を無理やり落ち着けてエーデルガルトも口を開く。

 

「……それで、そのことが分かって、師はこれからどうするのかしら」

「まず俺の勉強のペースを少し落とす。生徒のために使う時間を確保して、これからは交流を大事にしたい。エーデルガルトともまた茶会をしたいしな」

「あら、次は貴方の方から誘ってくれるの?」

「約束する。次は君の好きな紅茶を淹れよう」

「それは嬉しいわね、楽しみにしてる」

 

 どうしよう。先ほどの茶会で感じていたものより遥かに大きな幸福が湧いてくる。

 顔の緩みを抑えられる気がせず、エーデルガルトは背中を向けた。誤魔化すように空を見上げたり、固まった腕を伸ばしたりするが、彼にバレていないだろうか。

 

「それでエーデルガルト、頼みたいことがある」

「何、師?」

「また前のように授業の準備を手伝ってくれないだろうか。生徒達のことも相談に乗ってほしい。君に余裕があればの話だが」

「も、もちろん構わないわ! 師もできることが増えたのだし、指導方針を見直したりしたいのよね?」

「そうだが……いいのか? 君にも予定があったりするんじゃ」

「言ったでしょう、自分の予定を調整できない私ではないと」

 

 願ってもない申し出を受けてエーデルガルトは勢いよく振り返った。

 ベレトの方から一緒にいられる理由を持ち掛けられ、そのための時間を最優先させる予定を頭の中で組み直す。一瞬で終わり、即答することができた。

 

「なら今からはどうだろう。一緒に昼食を取りながら、いいか?」

「ええ、喜んでご一緒させてもらうわ」

 

 微笑み、二人連れ立って歩き出す。ティーセットを載せたお盆はベレトが持ち、揺らさないよう歩く。

 静かに、穏やかに、彼と二人でいる些細な時がかけがえのないものに感じられて、温かい気持ちに満たされる。朝までに抱えていた憂鬱が嘘のようだ。

 足取りは軽く、油断すれば今にもスキップしてしまいそうなくらいで、浮き立つ自分がおかしくてエーデルガルトは小さく笑ってしまった。どうしたのかとベレトが見てくるが、何でもないと誤魔化す。

 

 ……今でも悩みは尽きない。帝国を背負う宿命。世界の裏に蠢く闇。心に秘める誓い。全てを裏切ることになるための準備。これから先もきっと、この身にのしかかる様々な重さが消えることはないのだと思う。

 それを捨てるつもりはない。すでに秘密裏に動き始めている。今さらなかったことにはしない。してやらない。修羅の道を征く覚悟はもう決まっている。

 

 だがそれでも。

 ベレトと並び食堂に向かう今この時は間違いなく、エーデルガルトは幸せだった。

 

 

 

 

 

 

 

 待つだけで、願うだけで、叶う望みなどこの世にはない。その無情な真理をエーデルガルトは身を以て知っている。

 それでも、胸の片隅に秘める願望──来たる未来でも彼と手を取り、共に穏やかな時を過ごせれば、という夢想──を捨てることは、どうしてもできそうになかった。




 エーデルガルトにはたくさんの背負うものがあるのだし、普通の人と同じような気持ちは持てないかもしれないけど、師と一緒にいる時はただの女の子でいてほしい、と思ってます。
 ついでに、うちのベレトは強くカッコよく見えるように書いてますけど、一人の人間としての人生経験はまだまだ足りてない側面もある、と考えてます。なのでこういうこともあります。

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