風花雪月場面切抜短編   作:飛天無縫

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 フレン主役回。なのでレトエデ表現は少なめです。
 なかなか大変な目に遭いますが、うちのベレト先生が担任を務める黒鷲の学級に加わるとはこういうことです。
 ついでにこの世界線での授業風景もお届けします。授業参観の気持ちでどうぞ。


箱入り娘、いざ授業へ 前編

「わたくしを、先生の学級の生徒にしてくださらなくって?」

 

 その一歩を彼女は自ら踏み出した。

 

「どうだろう、フレンのことを頼めないか?」

 

 後押しもされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 壮絶な後悔が待っているとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、フレンは朝からご機嫌だった。

 足取りも軽やかに、鼻歌でも歌い出しそうな心地で修道院の廊下を歩く。目指すは食堂。一日の元気の源である朝食を食べて、この後の授業に備えるため。

 そう、授業。教団に箱詰めされた生活は昨日でお終い。今日から自分は一人の生徒として、憧れの士官学校に通えることになったのだ。

 

 前節にあった、自身が不逞の輩に(かどわ)かされるという事件。

 セテス曰くこの身を流れる血を狙った犯行などと恐ろしい目に遭ったが、その結果としてこうして念願の学校生活を送れることになったのなら、あの時の恐怖は帳消しされるというもの。

 兄の不安は尤もではあるが、彼が言う隠遁生活に戻るのはごめんだった。身を潜めたとしても危険はあるなら騎士団の目が届く修道院にいる方が安全だ、というフレンの主張が通り、より安心するよう救出の立役者であるベレトの学級への所属が決まって万々歳。

 結果良ければ全て良し、なんて言葉もあるではないか。

 

 死神を思わせる異形の騎士を退け、颯爽と助けに来てくれたベレトの雄姿を思い出す。まるで物語に登場する勇者のようで、そんな彼の下で自分も教えを受けられると思うとフレンの気持ちは天井知らずに舞い上がった。

 

 そんな調子で食堂にやって来たフレンは早速配膳所へ向かう。いつもはセテスが間に入って二人分を受け取り自分に渡してくれるのだが、今日から自分も一人の生徒として行動すると宣言し、心配そうに見送る兄の視線を背に受けてここまで来たのだ。ここでちゃんと一人でも朝食を済ませて、心配も何のそのと身を以て示してやらねばなるまい。

 しかも、今日の朝の献立はフレンの好物のフィッシュサンド。先日行われた釣り大会から持ち込まれた大量の魚を消費すべく連日魚料理が振舞われており、魚好きのフレンはここ数日の食事の度に気分が盛り上がっていた。

 旬の魚と一緒に挟まれた野菜、そこに仄かな酸味を混ぜた美味を思い出し、彼女の腹が空腹を訴えてくる。今日の授業に向けて気合いを入れる意味でも、しっかり食べなくては。

 

 すでに朝食を終えたらしき生徒とすれ違いながら進むフレンだったが、その途中で彼女に元気よく声をかける者がいた。

 

「よう、フレンじゃねえか、おはよう!」

「まあ、おはようございますカスパルさん。朝食はもうお済みですの?」

「まあな。食い終わって今から着替えに行くとこだ」

「早いのですわね。もしかして、わたくしが遅いのかしら」

「そうでもないって。授業まで時間に余裕あるし、パパっと食っちまえよ」

 

 今日からフレンの同級生となる黒鷲の学級(アドラークラッセ)のカスパル。訓練所の常連として、そして今年度で一番声がうるさい生徒として有名だ。

 彼を始めとした黒鷲の学級の生徒達はフレンを快く迎え入れてくれて、いざ学級に加わる運びになっても緊張せずにいられた。

 

「ほらリンハルト、早くしろって」

 

 不意にカスパルが近くに座っている者に話しかける。彼がせっついたのは同じ黒鷲の学級の生徒、リンハルトだった。

 

「君ほど早食いしないんだよ僕は……」

「お前が遅いんだって。また置いてくぞ?」

「今日はきつい日だからしっかり噛んで食べたいの」

 

 彼らしいマイペースで返事しながらフィッシュサンドを咀嚼している。それでももうほとんど食べてしまったようで、手に持った分が最後な辺り、彼なりに急いで食べたのかもしれない。

 

 この二人の仲の良さはフレンも知っており、同じ学級の仲間として一緒に授業に臨めると思うと嬉しくなった。

 これまでは修道院内で生徒とすれ違ったりしても自分とは別の所属でしかなく、同じ場所で生きているのにどこか遠い存在に感じてしまって少し寂しい気持ちがあったのだが……これからは違う。自分も生徒になって学校に通うのだ。あの賑やかで若々しい集団に自分も所属するのだ。

 改めて湧き上がる感慨に、フレンは思いを新たにする。

 

(足手まといにならないように、わたくし頑張りますわ!)

 

 完食して席を立つリンハルトと並んで配膳所に向かう。お盆を持った彼が行くのは返却所なので途中までは雑談(フレンが一方的に意気込みを語るだけ)交じりに歩き、別れ際に思い出したようにリンハルトは口を開いた。

 

「ああそうだ、フレン」

「はい、なんでしょう、リンハルトさん」

「これは僕なりに親切で言うんだけど、あんまり朝ご飯を食べない方がいいよ」

「え?」

「普段の半分か、それより少ないくらいがちょうどいいと思う」

「あの、それはどういう……」

「リーンハールトー! はーやーくー!」

「はいはい、今行くって。それじゃあフレン、また後で」

「あ、リンハルトさん、ちょっと……ああ、行ってしまいましたわ」

 

 今度こそ置いていかれると思ったのだろう。振り返らずカスパルを追いかけて食堂を出るリンハルトの背中を見送り、フレンは立ち尽くした。

 

 リンハルトがあんな忠告をした理由。恐らく今日の午前、黒鷲の学級がこれから行う授業は外でやる全身運動訓練だからだろう。毎週必ず一度は行われる訓練にフレンは参加初日に当たってしまったのである。

 先ほどカスパルが着替えに行くと言っていたのは学校から支給される訓練服のことだ。丈夫さも然ることながら、半袖半ズボンの動きやすさを重視した格好で、フレンも朝食を終えたら着替えるつもりだった。

 

 お腹いっぱいに食べてたくさん運動すれば気持ち悪くなってしまい、その後の授業に支障をきたすかもしれない。リンハルトはそこを気遣ってくれたのか。

 どうするべきか……あのような忠告をされておいてそれを無視するのは、良い子のフレンにはどうにも抵抗があった。しかし授業に向けてきちんと食べておかねばならないのも事実で、好物の献立を控えるのも勿体ないという気持ちも強い。

 

 配膳所の近くでむむむと唸っていると、今度は別の生徒が声をかけてきた。

 

「おはようフレンさん」

「あ、モニカさん、おはようございますですわ!」

 

 背後からかけられた声に元気よく応える。朗らかな挨拶をしてきたのは、フレンと同じく今日から黒鷲の学級に加わることになったモニカだった。

 

 モニカは前節のフレン誘拐事件の時に一緒に助け出された少女だ。その縁もあってか同じ時期に黒鷲の学級に加わり、共に学ぶことになった同期の生徒とも言える。

 ただし彼女は事情が特殊で、前年度に士官学校に通っていた生徒であり、昨年行方不明になっていたのだが先日の事件で発見された経緯がある。すでに一度学校に通いはしたものの卒業はまだという変わった経歴の持ち主なのだ。

 その彼女は今日から学級に加わるも、毎節の課題には手を出さずに卒業まで通う特別枠として扱われることになった。なので他の生徒より関わりが薄くなるかもしれない。

 それでも、自分は一人じゃないと思えば同期の参加は嬉しいものである。

 

「あら、今日はエーデルガルトさんと一緒ではないのですね」

「そうなの。朝、部屋に行ったんだけど、授業前は先生と準備するから先に行くって断られちゃったの」

 

 頬に手を当ててモニカは残念そうに溜息を吐く。

 士官学校に復帰することになってからの彼女は何かと同級のエーデルガルトについて回り、いつの間にそこまで仲良くなったのかと驚くほど親し気な空気を纏っているのだ。

 責任感が強い級長としては、懐いてくるモニカを邪険にすることもできなかったのだろう。その相手をするエーデルガルトを、フレンも何度か見ている。

 

 とは言え、それまで続けていた務め(義務ではないようだが決して他人に譲ろうとはしない)を放り出すつもりはないようで、率先してベレトの補佐を行うエーデルガルトは授業となれば何を置いても彼の近くに陣取る。

 今だってそういう仕事があるわけでもないだろうに、授業の準備を手伝うという口実で朝から誰よりも早くベレトの近くにいようとする。

 そこは私の場所よと態度や行動、全身で主張するのだ。そんなエーデルガルトを見ると、フレンはどうしても微笑ましさが先に立ってしまい、二人の仲を想うと胸が温まった。

 

(エーデルガルトさんは、先生のことが大好きなのですわね)

 

 帝国の皇女が持つ可愛らしい一面を思い出し、自然と笑いが零れる。

 ただ、フレンのように考える者ばかりではないようで、モニカとしては自分がエーデルガルトの側にいられないのは不満らしい。食堂の壁越しに学生寮がある方を見つめている。

 

「……余計なこと洩らしてねえだろうなあの嬢ちゃん」

「? モニカさん、何か仰いまして?」

「ううん、何でもないよ」

 

 モニカが何事かボソッと小さく呟いたような気がして尋ねるも、朗らかに否定されたので気にしないでおく。

 

「それで、フレンさんは何を考えてたの?」

「あ、そうでしたわ! 先ほどリンハルトさんから朝ご飯の忠告を受けましたの」

「朝ご飯の?」

「はい。なんでも、今日はあまり食べない方がいい、と……普段の半分より少ないくらいがちょうどいいと仰ってましたわ」

「ふーん、なんだろ。この後は全身訓練があるから控えておけってこと?」

「恐らくそうかと……今日もせっかくのお魚料理で、どうしようか悩んでいたんですの。わたくし、お魚大好きですので」

「そうなんだあ。まあ私は普通に食べるけどね。フレンさんも好きなように食べたらいいんじゃない?」

 

 それでいいのだろうか……モニカに連れられて配膳所の待機列に並んでも考え続けるフレンは首を傾げた。

 

 結局、フレンは朝食にフィッシュサンドを堪能した。

 一応リンハルトの忠告を聞き入れ、しっかり食べようと三切れ注文する予定だったところを二切れに控えておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝食を終えて、訓練服に着替えたらいよいよ授業に臨む時。

 集合場所に指定されたのは訓練所ではなく、修道院どころか街の外、外側にある外壁正門前なので意識して早めに出たのだが思ったよりも時間がかかり、到着したのは予定時刻の鐘が鳴る直前だった。

 と言うのも、修道院の外へ足を踏み出したことがないフレンはモニカに連れられて門前まで来たのだが、道中の街を見るだけでも目を輝かせるフレンの歩みがその都度止まってしまい、どうしても時間がかかってしまったのだ。

 

 これまではフレンが修道院から出ることを頑として認めなかったセテスのせいで、単なる街並みですら新鮮な風景に感じられるのは果たして良いことなのか悪いことなのかは分からない。

 ただ、そのせいで案内役のモニカが溢した「箱入りウゼ」という小さな呟きが誰の耳にも届かなかったことは幸いだったのだろう。

 

 門前にはすでに他の黒鷲の学級の生徒が集まっており、準備運動として思い思いに体を動かしていた。

 ベレトも来ており、エーデルガルトと何事か話している。足元にある二つの大きな袋は授業で使う道具だろうか?

 

 二人の到着に気付いたエーデルガルトがベレトに一言断って近寄ってくる。途端にモニカが目に見えて表情を明るくした。

 

「エーデルさん、さっきぶり!」

「ええ、先ほどぶりねモニカ。フレンも一緒に来たのね、おはよう」

「はい、おはようございますですわ、エーデルガルトさん」

 

 フレンも朗らかに挨拶を交わす。流石は皇女と言うべきか、同じ訓練服姿なのにエーデルガルトはただ立っているだけでも凛々しい。

 堂々たる佇まいは同じ女としても尊敬できるもので、フレンも密かに憧れていた。

 

「先生とは何かお話してましたの?」

「大したことじゃないわ。今後の授業に必要なものの相談とか、鷲獅子戦のこととか、彼の仕事について少しね」

「まあ、エーデルガルトさんは本当に先生のお手伝いをされているのですね。生徒なのにお仕事までされてすごいですわ」

「そうでもないわ。私は級長ですもの。(せんせい)の補佐をするくらい手間でもないの。それにこういう経験はいずれ皇帝になった時にきっと役に立つのよ」

「ねえねえエーデルさん」

 

 フレンと話すエーデルガルトの横からモニカが腕に抱き付いてくる。距離感が近過ぎることに緊張してしまうのか、エーデルガルトの肩が僅かに強張るのが見えた。

 

「先生と話してたのって本当に授業のことだけ? 他に話すことってないの?」

「他にって……私は生徒で彼は教師よ。それ以外に何かある?」

「えー、例えばー、誰にも言えない秘密の話、とか」

「まっ、先生とは親密な話をなさる仲なんですの!?」

 

 前から気になっていた二人のことが聞けるのかとフレンは目を輝かせる。

 何しろエーデルガルトとベレトの仲の良さは、士官学校どころか修道院でも噂が流れるくらい有名だ。帝国の威信を背負う皇女が、側仕えの従者のヒューベルトよりも彼に心を許しているのではと人伝に聞いた時は驚いたものだ。

 その相手がレアやセテスも注目しているベレトだというのだから驚きも一入(ひとしお)。フレンとしても興味をそそられる人が、まさか皇女と恋仲になったりするのかも!? まるで物語の登場人物を見ているようでドキドキしてしまうではないか。

 

「そういうのはないわよ……それよりもうすぐ授業が始まるわ。少しでいいから体を動かしておきなさい」

 

 呆れたように首を振るエーデルガルトが、真面目な顔でフレンとモニカを見る。

 

「二人共、説明せずともすぐ分かることでしょうけど……覚悟しておきなさい。師は優しい人だけど、指導は厳しいわよ」

 

 含みのある言い方をすると、モニカの腕を外してエーデルガルトは再びベレトの下へと戻っていった。

 そういうのはないと今まさに言ったばかりなのに、そうすることが当たり前のようにベレトに近付くエーデルガルトの背中を見て、フレンは目を瞬かせた。

 

 程なくして修道院の鐘の音が響き、授業の開始時刻になったと報せる。生徒達は素早く街道の端に集まり、ベレトの前に整列した。

 生徒が全員揃っている(リンハルトもベルナデッタもいる)ことを確認したベレトは、一つ頷いて彼らを見渡す。なお、彼も生徒と同じ訓練服姿に着替えている。

 

「それじゃあ今日の授業を始めるが……その前に、フレンとモニカは今日から参加するということで、始める前に俺の授業方針を説明しておこう」

 

 他のみんなは今さら聞くのも退屈だろうから適当に聞き流してくれ──そんな風に言うベレトだが、生徒達は姿勢を乱すことなく静かに列を維持しており、彼の教育が行き届いていることが窺えた。

 

「俺は傭兵として生きてきた。だから物事に対して傭兵としてのやり方を基準にして考えがちだ。だがこの士官学校では俺のやり方はどうも異質らしくてな。なので少なくとも授業中はあまり深いところまで掘り下げず、できるだけ基礎を重視して教えることにしている」

 

 教師に就いた当初、生徒達へ何をどう教えればいいかとベレト自身も急いで学ぶため、セテス、ハンネマン、マヌエラにより士官学校の理念や方針を大まかに叩き込まれた際に、傭兵の時と同じ調子で教師をやっていたら遠からず問題になると彼らに引き止められた。

 今さら身に染み付いた生き方を捨てることはできないにしても、それをそのまま生徒に教えたりすればいずれその成長を阻害しかねない。生徒の方から望むのならまだしも、血生臭い主義が合わない者もいるだろう。

 

 そこでベレトは、自身が持ち得たものの中でも基礎中の基礎、つまり『身に付けさえすれば確実に多くの分野で通用する力』を重視して教えていくことにしたのだ。

 これは彼が受けてきた『地盤無くして城建たず』というジェラルトの教えでもあるという。どんな職種でも最初は基礎的な力こそが肝要であり、そこさえ身に付いていればその後は身に付けた生徒次第で一足飛びに飛躍も狙える。

 故に、士官学校の普段の授業においてはややくどいくらいに基礎を教える。今年の黒鷲の学級ではそんな方針を立てたのだと説明した。

 やる気のある生徒は他に個別指導も受け付けるとのこと。

 

 説明を聞いてフレンは感心した。元傭兵という異例の出自であるベレトがどのような教育をしているかずっと気になっていたが、想像以上に堅実な内容ではないか。

 どんな突飛な授業になるか、後から編入する自分がついていけるか、少しだけあった不安もこれなら杞憂に終わりそうだ。

 そんな彼女が顔色を変えるまで後数分。

 

「君達に教えられるのはこの一年しか……いや、残り半年くらいか、それしかない。俺の授業で身に付けたものを基礎としてこの先役立ててほしい。その一つが今からやる『走ること』だ」

 

 全ての人間(体を欠損したとかの例外を除いて)は持って生まれた二本足を用いて生きていく。

 であるならば、その人生において如何なる時も歩くこと、走ることを切り離して考えることはできない。誰であろうと、時に戦い、時に逃げ、どんな時でもその両足で踏ん張って生きていかねばならないのだ。

 これは戦場に生きる傭兵でも、商売に生きる商人でも、はたまた政治に生きる役人でも変わらない共通の理である。

 

 この士官学校には貴族も平民も分け隔てなく通い、学ぶことが奨励されている。ならば教えることは貴族平民関係なく、将来は軍に行く生徒も商人になる生徒も、どんな者であろうとも必ず役に立つ、そんな力。

 その一つが走ること、即ち、足腰の強さ。

 戦場では疲れた時に足が動くかどうかで生死が決まる。商売で儲けを出したければ利益を求めたり要人と面会するために西へ東へ走り回る。特殊な例を出すなら、貴族が領民を守るために現場へ急行して、敵の前で踏ん張らなくてはいけない場合だってあるかもしれない。それらを支えるのはいつだって本人の足腰なのだ。

 それを鍛える。誰が、どこに行こうと生きていけるように。そのための力を。

 

 そういう説明を聞いてふむふむと頷くフレンの隣で、モニカは内心うんざりしながら表情を取り繕っていた。

 自分が組織から施された教練に比べれば、士官学校で受ける教えなど子供の遊びみたいなものだろうに。しかも今からやるのは基礎だと言うではないか。

 そんなごっこ遊びに付き合わなくてはいけないと思うとあくびが出そうになるが、潜入している身でボロを出すわけにはいかず、こうして真面目に授業を受けなくてはいけない。

 

(今さら訓練ごっことか、怠いっつーの……)

 

 口には出さず胸の内でぼやく。怪しまれるわけにはいかず、表面上はフレンと同じように感心した目でベレトを見るが、内心では溜息を吐きたくて仕方ない。

 億劫な気持ちを隠して任務を全うすることが敬愛する組織の長のためになると自身に言い聞かせて、何も知らない出戻り生徒をモニカは演じる。

 そんな彼女が顔色を変えるまで後数秒。

 

 一通り説明したベレトは、次に実際の訓練内容について話す。

 やることは非常に、そして──非情なまでに単純だった。

 

「このガルグ=マクの街の外壁に沿って外周を走る長距離走をやってもらう」

 

(…………外壁に沿って?)

 

 てっきり街道を走るものだと思っていたフレンとモニカは数秒理解が遅れた。

 

 ご存知のように、ガルグ=マク大修道院は山間の高所に位置している。空気は澄んでおり、周囲には平地や荒れ地、森と小川、自然豊かな環境が広がっている。

 街を覆う外壁は大部分が森に囲まれていて、当たり前だがそこに整地された道などない。

 その外壁に沿って走るとは即ち「森の中を走れ」ということである。

 

 ガルグ=マクの外周を考えてみてほしい。市街を始めとして修道院がある高台を大きく囲む外壁は、それはもう長く伸びて一帯を覆っている。それに沿って走るなら、単純な距離だけでも相当なものだというのに、大半は森で足場も悪く、一部は岩肌が露出している切り立った崖まである。

 そんな環境を訓練服だけ身に着けた体一つで走れと言うのか?

 

「だがいきなり二人にみんなと同じ基準を求めるのは酷だし、かと言ってみんなの方を二人に合わせても折角の訓練が薄くなる。互いの内容が離れ過ぎても足並みが揃わなくなる。なのでフレンとモニカは二周、他の生徒は四周走ってもらう。これが今日の訓練内容だ」

 

 二周? 今、二周と言ったか?

 一周するだけでも気が遠くなりそうだというのに、それを二周?

 しかも他の生徒はその倍?

 この新米教師は本気で言っているのか?

 

 唖然とするフレンとモニカだったが……大半の生徒達は歓喜に包まれた。

 今日のベレトがとっっっても優しく見えたのだ。

 

「っしゃあ! 今日は十周走らなくていいんだな!」

 

(じゅっしゅう!?)

 

「ベレト先生、温情ありがとうございます!」

 

(おんじょう!?)

 

 歓声を上げる生徒達を見てフレンは困惑する。慄くばかりだった訓練内容、それが彼らにとっては大喜びするくらい優しいものなのか。

 

「よかった……これなら今日は、ちゃんと昼飯を食える……!」

 

 中には噛み締めるように呟いて喜びを露わにする生徒までいて、驚けばいいのか怖れればいいのかフレンには分からなくなってきた。

 流石に黙っていられなくなったのか、隣からモニカが進み出て抗議する。

 

「ま、待ってください先生! そんな、走るにしたって森じゃなくて街道を使えばいいじゃないですか! わざわざ危ないところを走る必要はないでしょう!?」

「問題ない。滝を登ったり、谷を渡ったりすることはないのだから、基礎の範疇だと判断する」

「え?」

「ん?」

 

 食ってかかるモニカの質問にサラリと即答するベレト。意見と言うより価値観の違いに首を傾げる二人を見て、フレンは何とはなしに理解する。

 この人にとってこの授業内容は相当優しく加減してあるのだ、と。

 

 この時のフレンの理解は間違っていない。

 竪琴の節にやった最初の訓練では、貴族平民関係なく、それどころか体力の有無さえ区別せず、ベレトは学級全員に外周五周を言い渡したのだから。

 

 ベレトから見れば士官学校に上がったばかりの、それこそ尻に卵の殻が付いているかいないかくらいの違いしかなかった生徒達は等しく雛鳥のようなものだった。

 加えて言えば、当時の彼も彼で生徒に教えるための適切な加減がまだ分かっていなかったこともあり、教師になり立ての頃は訓練とは名ばかりの阿鼻叫喚の風景も珍しくなかったのである。

 

 それに比べれば今日の沙汰はかなり優しいと言えるのだろう……比べることができるなら。

 

「さて、思ったより話が長くなってしまったがいいかげん始めよう」

「よっしゃあ! 先頭は俺だー!」

「待ちたまえ、先頭を走るのはこの私だ!」

「みんな、気合いを入れなさい! 行くわよ!」

「「「「「おおおおお!!」」」」」

「ま、待って、待ってください置いてかないでー!」

 

 ベレトが話を締めた途端、整列していた生徒達が一斉に動き出した。

 先を争って飛び出すカスパルとフェルディナントを先頭に、エーデルガルトの気勢に導かれて全員が走り出す。置いてきぼりにされかけたベルナデッタが慌てて追いかけていくのを最後に、黒鷲の学級の面々は森に飛び込んでいった。

 フレンとモニカを残して。

 

「……え?」

「……あれ?」

「何をやってる。二人も走れ」

「いやあの、急に言われても、っていうか合図とかないんですか!?」

「説明するべきことは説明した。複雑な内容でもないからやることは分かるだろう」

「それでも、こう、よーいドンとか、構えてとか普通はあるでしょう!?」

「いちいち身構えなければ始められない人間に育てるつもりはない。戦いは戦うと決めた時から始まる。この訓練も同じだ。走るという内容を分かって、授業時間になってるなら走っても問題ない。むしろ君達への説明が終わるのをみんなはわざわざ待っていてくれた。君は敵に不意打ちされた時に相手を卑怯と謗るのか?」

 

 言葉通りに傭兵としての考え方を基準に進めてる。いや、ベレトにとってはそういう心構えさえも本当に基礎的なことなのか。

 

 スラスラと続くベレトの言葉を聞いてモニカは押し黙る。

 確かに……確かに彼の言うことは分かる。工作員として潜り込んでいる自分にもそういった心得はある。だがそれは戦場のような特殊な場合での話であって、少なくともモニカにとって、こんな平和ボケした修道院での日常にまで持ち込む理屈ではなかった。

 

 顔を盛大に引き攣らせるモニカを前にしても表情を変えず、平然としているベレトを見て認識を改める。

 こいつは、ヤバい奴だ。このフォドラで学校の教師にしていい奴じゃない!

 

「も、モニカさん! 早く、わたくし達も行きませんと!」

「状況はいつだって君を待ってくれないぞ。行け、時間が勿体ない」

 

 焦って走り出すフレンと、変わらぬ無表情でせっつくベレト。二人に急かされて覚悟を決める。今ここにいる自分は出戻り生徒。学級に加わっておきながら授業を拒むわけにはいかない。

 

「……獣が、調子に乗りやがって……! ……やってやるよ、クソが……!」

 

 せめて聞こえないような小声で、地が漏れた捨て台詞だけ吐き捨てて、フレンの後を追うように走り出す。もう後ろ姿も見えない黒鷲の学級と先行したフレンに続き、モニカも森へ飛び込んでいった。

 

 全員の出発を見送ると、ベレトも自分の仕事を始める。ここで待ち構えて生徒の周回を数えるだけなんて、そんなのは教師のやることではない。彼も彼でやるべきことがあるのだ。

 

 ちなみにベレトの耳はモニカの捨て台詞をちゃっかり拾っており、獣呼ばわりされたことも聞こえていた。

 まあ世の中には畜生という悪態もあるのだし、畜生は獣のことだし、あれは彼女の口から無意識に零れてしまった悪態の一種なのだろう。普段は猫を被っていて、本性はきっとはすっぱな性格なのだろうな──といったように気にせず、あれをモニカの個性の一部としてあっさり流してしまったのである。

 

 差し当たって、いつものように近場の井戸へ向かって冷たい水を汲むため、持ってきた袋の片方から大量の水筒を取り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ走るだけでここまで気を遣ったのは初めてかもしれない。

 森の中を走るフレンは始めこそ勢いよく駆けていたが、時に草に足を滑らせ、時に木の根に爪先を引っかけて、何度も転ぶ内に足元を気にしながら走るようになり、今度は前方を疎かにして伸びた枝に顔をぶつけ、次いで木の幹に正面衝突し、途中から涙目で走るようになった。

 

 これまで半年近くもの間、黒鷲の学級が走り続けてきたことが幸いして、外周によく使われる道筋がまるで獣道のように森の中に残っており、先行した生徒達を追いかけるための道が分からなくなるということにはならなかった。

 木々の隙間から見える外壁を頼りにせずとも迷う心配がなくて安心かと思いきや、道を気にするより、前にも、右にも、左にも、ついでに下にも注意を払いながら走るのは想像以上に神経を使い、どうしても速度は落ちた。

 

 だが、すぐにまともな注意を払えなくなった。それどころではなくなったのだ。

 

「ひっ……ふっ……ふぇ……ひぐ……」

 

 状況が違えば嗚咽にも聞こえそうな弱々しい息遣いで走るフレンは、何も知らない人が見れば心無い者から逃げるいじめられっ子のようだった。

 

 何のことはない、単純に疲労である。

 激しい運動をしたのなんてずーっと昔のこと。数えるのも億劫になる月日をセテスに守られてきたフレンは、有体に言えば運動不足だったのだ。

 そんな彼女にいきなりやらせる量の運動ではないのだろうが、授業として受け入れて一度走り出したからには根が真面目なフレンに投げ出すという選択肢はなく、こうして必死になって足を動かし続けるしかなかった。

 

 モニカは自分より足が速かったようで先に行ってしまい、一人で走るのは最初こそ心細さがあったのだが、すぐにそんなものを感じる余裕がなくなってしまったのだ。

 

 それでなくても方々に注意を払いながら走るのはとてつもなく神経を使い、フレンの体力を加速的に削っていった。まだ一周目の半分くらいしか走っていないのに、息も絶え絶えで前を見るのも辛い。

 これほど消耗してしまっているというのに、早くも彼女を周回遅れにする生徒も現れたのだから驚きである。

 

「フレン、しっかりする、します! 前、向いて走る、です!」

 

 息荒く走るフレンの背後から声をかけたのはペトラだった。そのまま並走してきて顔を覗き込んでくる。

 

「あ、ぺ、ペトラ、さん……速い、ですわ……」

「息、たくさん吸う、吐く、繰り返す。風の精霊、走る助け、もたらします。貴女、より走れる、できます!」

 

 ブリギットの教え方だろうか。流暢にフォドラの言葉を話せなくとも、区切りの多い彼女独特の言い方で単語を連ねて助言をくれる。

 ペトラの伝えたいことを察して、いつの間にか浅くなっていた呼吸を深く繰り返してみた。ほんの少しだが苦しさが和らいだ気がする。

 隣を見れば意思が伝わったおかげか、嬉しそうに笑うペトラの顔。

 

「ペトラ、さん、なんだか、楽しそう、ですわ……」

「はい! 森の中、走る、気分昂揚、楽しくなる、なります!」

 

 見るからに溌溂とするペトラは本当に楽しいのだろう。まだまだ余裕がありそうな彼女の様子を見ていると、若者の体力は底知れないものだと感心すると同時に、自分の体力の無さが情けなくなってきた。

 

 お先、失礼する、します!──加速したペトラが先へと走っていき、彼女の姿が見えなくなるのを皮切りに、二周目に入ってフレンを周回遅れにする生徒が続々とやってきた。

 

「頑張れフレン! 先はまだ長いぜ!」

「か、カスパル、さん……」

「俺も頑張るからよ! また後でな!」

 

 元気よく笑う余裕すら見せてカスパルが追い抜いていった。

 

「フレン、顔を上げて走りなさい」

「あ、エーデル、ガルト、さん……」

「背筋を曲げると余計苦しくなるわ。ペースを維持するのが大事よ」

「おや、余裕ではないかエーデルガルト! 私は先を行かせてもらおうか!」

「貴方はいちいち張り合わないで、自分の走りに集中しなさい!」

「それは失敬、そうさせてもらおう! フレンも頑張りたまえ!」

「フェル、ディナン、ト、さん……」

「ああもう! フレン、私は先に行くわ、そのまましっかり走りなさい!」

 

 先を争うようにエーデルガルトとフェルディナントも追い抜いていった。

 

 そこから次々に他の生徒に抜かされていく。

 黙々と走るヒューベルトは無言のまま横を通り過ぎていった。

 普段は書庫に籠ったりして体力がなさそうに思えたリンハルトも、追い抜く時にフレンを一瞥すると、息を荒くしながら追い抜いていく。

 他に声をかけてきたのはドロテアくらいだった。

 

「フレンちゃん、頑張って! 先はまだ長いわよ!」

「は、はい……ドロテア、さん、すごい、ですの……」

「もちろん! 体力なくて、歌姫やってられますかっての!」

 

 頑張ってねー、と追い抜いていくドロテアの背を見送る。

 

 ああ、今の時代を生きる若者達の、なんと生き生きした姿か。自分のような者がこの中に混ざって授業を受けていていいのだろうか。

 疲れのせいで悲観的な考えが浮かび、思考と一緒にのしかかってくる。曲がりなりにも動かせていた体が重く感じて、徐々にフレンの足が止まってきてしまった。

 

 しかし、停滞は許さないと言わんばかりに彼女に檄を飛ばすものが現れた。

 

「止まるなフレン」

「ひゃ! せ、先生……!」

 

 今にも止まりそうだったフレンの背を押したのは、いつの間にか隣に並んだベレトだった。

 

 驚いて顔を向けると並走するベレトがいた。

 大樹の節にやった対抗戦の顛末はフレンにも伝わっており、細身の体からは信じられない体力の化物という彼の評価も兄の口から聞いている。

 その評価に違わず、走っている彼は無表情を崩さず、汗一つかいていない平然としたいつも通りの姿。体中に括り付けた大量の水筒をガチャガチャと揺らしてペースを維持している。

 

 ……水筒?

 よくよく見ると肩や首に掛かる紐に繋がる水筒がざっと見て十以上、彼の体から下げられている。もしや中には水が入っているのか。その重さを抱えたまま走っているのか。

 

 不思議に思っていると、ベレトがその水筒を一つフレンに差し出してきた。

 

「走りながら飲め」

 

 足を止めそうになるフレンの背に手を添えて立ち止まることを許さないベレトに従い、仕方なく走りながら水筒の口を開ける。呷ると冷たい水が出てきて、水分を求める喉に当たり生き返る心地だ。

 が、勢いよく口に流し込んだ水が行き場を間違い、思い切り咽てしまった。

 

「げっほ! げほ、けほ!」

「ぶつかるぞ」

「けほっけひゃう!?」

 

 咽て注意を忘れたフレンの肩を引き寄せ、前方にある木からベレトが守る。

 ただ走るだけのはずが、気にするべきことが多くて目が回りそうだ。

 

「フレン、喉に水を流し込んで飲むのは走りながらだとどうしても難しい。一度口に含んで留めてから少しずつ飲むんだ。呼吸は鼻でしろ」

「うう……先に、言ってほしかった、ですわ……」

「すまない」

 

 口の端から零れる水を拭うフレンの恨み言に、ベレトは一言謝るだけだった。

 

 授業前に見た荷物袋の中身は水筒だったのか。冷たい水は恐らく井戸で汲んだばかり。それを抱えて生徒と同じく外周を走って水を届ける救助役をしているのだろう。

 ……彼も生徒と同じように外周を走るのか? それも荷物を抱えて、生徒を助けながら?

 一体どこまで負担を背負うのか。というか教師なのに生徒と同じことをやって疲れないのか。

 

 今度は咽ないように気を付けて少しずつ水を飲み、人心地が付いたフレンは水筒をベレトに返した。受け取った水筒を肩にかけたベレトがもう一度背中を支えてくる。

 

「いいかフレン。苦しくても、遅くなってもいいから足を止めるな。どんなに遅くても前進を続けていれば必ず目標に近付ける。止まることだけは、やっちゃだめだ」

「はい……は、走り、ますわ……」

「じゃあ俺は先に行く。頑張れ」

 

 最後にフレンの背中をポンと軽く叩き、ベレトは急加速していく。見る見る内にその姿が遠ざかり、木々に紛れて見えなくなってしまった。

 フレンから見れば全力疾走にも思える速さでよく森の中を走れるものだ。悪路も水筒の重さも物ともしないあの動きは、傭兵時代に培ったのか、ジェラルトに鍛えられたからか。

 

 教師であるベレトまで外周を走るのは、フレンにやったように水を届ける救助役もあるが、実はそれだけではない。

 フレンは気付かなかったが、大量の水筒に紛れてベレトは剣と弓で武装しており、ガルグ=マク周辺の警戒行動も担当していた。

 

 発端は彼が教師に就任してさほど経たないある日。フェルディナントと一緒に外出した際、二人が小型の魔獣に襲われたことがあった。

 ……本当はフェルディナントが一人でも魔獣を討伐してみせると息巻いて自分から魔獣(二体)に挑み、危ういところをベレトに助けられたという、控えめに言っても自業自得な出来事だったのだが、生徒の自尊心をわざわざ傷付ける必要はあるまいと詳細は伏せて、ベレトは教団に「修道院からそれほど離れてないところで魔獣と遭遇した」とだけ報告した。

 ガルグ=マクの近隣はペガサスナイトによる警邏係が巡回していて、魔獣などの脅威は早々近付けるはずはないのだが、小型の魔獣となれば森に紛れて見落とすこともあるかもしれないと考えたベレトは、自分も外周ついでに警戒しよう思ったのだ。

 

 これは個人で勝手にやっているわけではなく、ジェラルトとセテスに相談して決めたことだ。

 

『教師の片手間でもお前が巡回してくれりゃあ、こっちとしちゃ助かるぜ』

『生徒を指導する本分を疎かにしなければ、民衆を守る奉仕活動として認めよう』

 

 人手不足な騎士団の切ない内情を知る二人からお墨付きをもらったベレトは、今日もこうして救助役兼警戒役兼もしもの時に生徒を守る護衛役を務めているというわけだ。

 生徒が授業に集中できるようにするためなら、こうやって警戒するのも自分なりの教師の仕事だろうとベレトは思っている。一人で担当する範囲じゃないだろと突っ込んではいけない。

 

 そんな事情を知る由もないフレンは、ベレトも走っているのだから自分がこれ以上遅れるわけにはいかないと真面目に考え、必死になって足を動かした。

 森を抜けた先、荒れ地では砂礫に足を取られてまた転び、草地では走りやすいかと思えば遮る物がない日差しに焼かれて汗が噴き出し、しかしベレトの言葉通り足を止めないことだけを考えてとにかく走り続ける。

 

 そうして何とか一周目を走り、出発点である外壁正門が見えてきた。

 これでようやく半分。これを後もう一回。そう思うと気が滅入りそうになってくるが、一周できたのだから二周だって、と自分に言い聞かせて前を向き……奇妙な物を見つけて眉をひそめた。

 

 正門から伸びる街道、そこに走る道筋を遮る柵を作るように細長い杭がズラリと並んでいる。

 近くまで寄ってよく見ればそれは訓練用の槍だと分かった。何本も刺さって並ぶその根本にはベレトが持っていたのと同じ水筒が置いてあることから、この槍は彼が用意したのだと察せられた。

 しかし、何のために? 無視して通り過ぎるわけにもいかないと思い、つい走る勢いを緩めて並ぶ槍を見る。

 そこでフレンはようやく、槍に紛れて立てられた小さな看板に気付いた。そこにはこう書かれている。

 

【半分走った生徒は残り半分は槍を持って走れ。水分補給は各自任意で】

 

 ──悪魔か。

 

 聞いてない。後半がさらに大変になるなんて一言も聞いてない。

 今日の訓練は走るだけではなかったのか。授業前に見た二つの荷物袋、片方が水筒でもう片方は大量の槍が入っていたのか。

 

 看板と並ぶ槍のもたらす威圧感にフレンの足はすっかり止まってしまい、膝に手を着いて荒く息を繰り返すしかできない。

 足の裏がジンジンする。脇腹がズキズキ痛む。髪は乱れて汗で肌に張り付く。

 一周走ってこの有様だと言うのに、もう一周をさらに厳しい条件で走らなければいけないのか。

 

 武器を持って動くのは、何も持っていない状態と比べてとてつもなく動きにくい。

 剣を帯びれば腰が動く度に揺れるし、斧を持ち歩けば重量で純粋に動きが鈍る。弓を使うなら矢筒から矢が零れないような動きを常に心掛けねばならない。

 そして槍は長い。訓練用の槍は比較的短い方だが、それでも他の武器より携行性が悪く、背負っても手に持っても気を付けないとあちこちにぶつかるだろう。当然、槍を持って森の中を走るなど最悪である。

 フレンも一応槍術の心得はあるが、修道院内の訓練所で兄から教わった槍はある程度の自衛ができるくらいの習熟度でしかない。

 

 愕然としていると背後より誰かが走ってくる。ノロノロと顔を向けると、エーデルガルトに肩を貸してもらいながらモニカがやって来るのが見えた。

 どうやら気付かない内にフレンは追い抜いてしまったらしい。だが一周目を終えた今まで見かけなかったが……

 

「フレン、どうしたの?」

「エーデル、ガルト、さん……モニカさんを、どこで……?」

「途中で倒れていたのを拾ったのよ」

 

 息も絶え絶えに問うフレンのところまで走り、それ以上にぐったりしたモニカをその場に下ろしてエーデルガルトは大きく息を吐く。二人と違い、息は多少乱れていてもまだまだ体力に余裕がありそうだった。

 

「草むらに隠れるように倒れていたから見えにくくて、もし師まで気付かないままだとずっと倒れていたかもしれないからここまで連れてきたわ。森の中に放置するのは危ないでしょう」

 

 自分まで遅れることを承知で足が遅い生徒に手を貸してあげたのは、偏に級長としての責任感故か……あ、違う。ベレトの見落としを手助けできたのが誇らしくてならないと言わんばかりの満足気な顔だ。

 ぜえぜえと息荒く口も利けないモニカに水筒を一つ拾って渡してあげると、エーデルガルトはフレンに向き直る。

 

「それで、立ち止まっていたけど何か分からないことでもあった?」

「この、槍って……どうして、先生は、初めに、言って、下さらなかったの……?」

 

 ズラリと並ぶ訓練用の槍を見やるフレンは不思議で仕方なかった。

 

 ベレトは黒鷲の学級の担任教師であり、その指導をする身ならば授業内容をきちんと説明する義務があるはずだ。内容も教えず指導するなどできるとは思えない。

 この外周訓練、フレンとモニカは二周、他の生徒は四週走るという想定があり、それに合わせて各々がペース配分を考えて動くだろう。それを崩すことになる要素を後から追加するなんて理不尽ではないか。

 

 そう思ったフレンはやや不満そうな声を絞り出す。ところがエーデルガルトはそれを聞いても納得したように頷くだけだった。

 

「そのことね。師らしいやり方だわ」

 

 それどころか小さく笑ってみせる。ベレトらしいとはどういう意味なのか。

 

「フレン、大抵の事態は放っておくとどんどん状況が悪くなっていくわ。想定通りに進む保証なんてないし、自分から働きかけない限り、最初の想定が悪い方向に崩れるなんてよくあることよ」

 

 何もしてないのに状況が良くなるわけがない。生きていればいつだって前触れなく理不尽に襲われるものだ。傭兵だったベレトは特に世の中の理不尽を理解している。

 それに抗える逞しさを身に付ける場こそこの学校。理不尽を知り、それに抗う術を教えるのが教師の役目だとベレトは考えているのだ。

 

「苦しい状況に追い込まれた人が、挫けることなく立ち向かえる心の強さを鍛えることもこの授業の一部なのよ。それも別の意味で足腰の強さなのだから」

 

 そもそもこれは授業であり訓練である。苦しい状況なんて当たり前。それを乗り越えるための指導なのだ。

 何より、エーデルガルトは信じているのだ。ベレトの指導が自分達を必ず強くしてくれると。

 

「さあ二人共、残り半分も走りなさい。私も今から残り二周を走るわ」

 

 水筒を一つ手に取って呷るエーデルガルトの姿と言葉に、フレンは頭が下がる思いだった。

 

 基礎を重視すると言いつつ、多岐に渡る土台を生徒に仕込むベレトの指導方針。

 彼の授業を十全に理解し、力強く応えるエーデルガルトの逞しさ。

 

 それに比べて自分はどうだ?

 学級に入れてほしいとお願いしたのはこちらなのに、満足についていくこともできずに疲れて遅れて、授業の意味も分からなくて不満を覚えて。

 

 劣等感に苛まれるフレンを余所に、水を飲み終えたエーデルガルトが水筒と入れ替わりに槍を引き抜いた。

 そんな彼女へ、ようやく口を利ける程度に息を整えられたモニカが手を伸ばす。

 

「ま、待って、エーデルさん……私も……」

「悪いけど、私も師の授業を受けてる生徒なの。補佐にかまけて自分自身のことを怠るわけにはいかないわ」

 

 二人も頑張りなさい!──力強い声を残し、槍を手にして颯爽と三周目を走り出すエーデルガルトの背中は何とも凛々しい後ろ姿だった。

 

 負けていられない、などと上等な対抗心が沸いたわけではない。

 それでも動けたのは、遠ざかるエーデルガルトの背中に、自分を追い抜いていく生徒とベレトの背中を幻視して焦りに追い立てられたからだ。

 

「ふっぐ……っく……っぐ、くにゅにゅにゅ……!」

 

 何やら奇妙な唸り声を出したと思えば、フレンは勢いよく水筒を手に取ると一気に呷った。喉を鳴らして水を飲み干し、空の水筒を放り出して槍を一本引っこ抜く。

 

「や、やってやりますですわー!」

 

 やけくそ気味の叫びを響かせて、フレンは槍を片手に二周目へ突入した。

 

 今まで修道院という箱庭の奥で蝶よ花よと守られてきたフレンにとって、いきなりかけられた過剰な負担は容赦なくその体を蝕んだ。

 結果、フレンは生まれて初めて吐いた。

 朝食べた好物の成れの果てである吐瀉物を前に、自分が食べ物を粗末にしたのだという申し訳なさを疲れで回らない頭へ叩き込まれ、その場で崩れ落ちた。

 

 ちょっとだけ。

 ほんのちょっとだけ。

 フレンは、ベレトのことが嫌いになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 疲れで人が死ぬことはない。そう分かっていたとしても、フレンは一瞬、自分がこのまま死ぬのではないかと怖くなってしまった。

 けひゅーだのこひゅーだの、聞いたことない呼吸音が先ほどから絶え間なく喉から響いている。果たしてこれは自分のものなのか自信がなかった。

 

 どうにかこうにか外周二周を走り終え、朝集合した正門近くの草地に倒れ込んだフレンはそこから一歩も動けなかった。

 カラカラに乾いた喉は水分を求めて止まず、縋り付くように掴んだ水筒を呷ればまたも咽てしまい、激しく咳き込んでさらに体力を消耗。

 仕方なく走っている時と同じように一度口に溜めてから少しずつ水を飲む。嘔吐して酸っぱい味が気持ち悪かった口内を洗い流せて多少は落ち着けた。

 

(落ち着けるわけありませんわ!)

 

 口は呼吸で忙しいので胸の中で叫ぶ。

 フレンの永い人生でここまで息を切らしたことはない。最後の力でギリギリ肺を動かせているようなもので、うつ伏せに倒れたままそれ以上全く動ける気がしなかった。

 

 黒鷲の学級はずっとこれをやってきたのか。ベレトが修道院に来たのは大樹の節の末の頃。教師になって本格的に授業を始めたのは竪琴の節から、生徒達はずっとこうして彼に鍛えられてきたのか。

 各学級の授業は担任の性質が表れると言うが、ベレトはその無尽蔵の体力を基準にして黒鷲の学級を体力お化けの巣窟にしようとはしていないか?

 

 倒れたまま首を巡らせると、少し離れたところにモニカが倒れているのが見えた。やはり自分と同じように疲弊し切っていて、荒い息を繰り返して動く様子はない。

 昨年度から行方知れずで、長い間囚われの身でいた彼女もすっかり体力がなくなっていたのだろうと思われる。

 走り切った努力を同期と称え合いたいところだが、今だけは誰のことも後回しにして回復を急ぎたかった。

 

「フレン、しっかりしろ」

 

 そんなところに声をかけたのは正門に戻ってきたベレト。相変わらず水筒をカチャカチャと鳴らしながら走り寄ってきて、ぐったりしたまま目だけ向けるフレンを覗き込む彼は少し汗をかいている程度でほとんど息が乱れていない。

 噂に違わぬ化物ぶりを見て、彼は本当に人間なのか疑わしく感じてしまう。

 

「せん……せ……」

「しゃべらなくていい。そのまま横になっていろ。今ライブをかける」

 

 外周を走っている最中に転んだりぶつかったりしたせいで、フレンの体はあちこちに擦り傷があった。疲れで本人はあまり自覚できていなかったが、幾つか血が滲んでいるところもある。

 水で濡らした布を使い、それら一つ一つを丁寧に拭って綺麗にすると、ベレトは手をかざして回復魔法のライブを使って癒し始めた。

 

 レア手ずから研修を行った信仰の指導により回復魔法を習得し、実際に使うことでより習熟できるのは武芸も魔法も同じだと体感できたベレトは、こうした訓練でも積極的に魔法を取り入れるようになった。

 もちろん自分より生徒を優先して使わせるのだが、セテスの妹への溺愛ぶりを考えると他人をフレンに近付ける機会はできるだけ減らした方がいいと考えられる。なのでフレン相手はベレトが担当して、他は信仰専攻の生徒に任せることにしたのだ。

 今も倒れて動けないモニカの方にも走り終わった生徒が駆け寄っていき、一人、二人、三人……なんかもう寄ってたかって回復魔法が使われている。脱力して動けないモニカはされるがままになってライブの白い光に囲まれていた。

 

 傷はどれも小さいものばかりで、魔法を使うことにそこまで慣れてないベレトの魔力でも問題なく治すことができた。

 親しんだ癒しの光に当てられてフレンも僅かに活力を取り戻したようだ。少しずつ呼吸が落ち着いて、身を捩る程度は体を動かせる。

 

「先生、ありがとうございます……助かりましたわ」

「フレンも頑張ったな、よく走り切った。えらいぞ」

 

 走っている間は悪魔と思わしきベレトの所業に慄いたフレンだったが、こうして終わらせた後の手当てや、頑張りをちゃんと褒めてくれるのは嬉しいものだ。

 乱れた髪を梳くように撫でるベレトの手を感じて目を閉じる。男性に頭を撫でられるのは兄の手しか知らなかったが、ベレトの優しい手付きは沁み入るように心地好かった。

 

 多少は落ち着けたフレンは、ベレトの手を借りて体を起こすと次の指示を聞いた。どうやら午前の授業はまだ終わりじゃないらしい。

 

「次は柔軟運動をやる」

「じゅうなん、ですの?」

「筋肉を強く固く鍛えるのとは別に、支える筋を伸ばして関節をしなやかにする運動のことだ。これをすることで体の各部分が捻りに強くなって怪我を減らせる。ほら、ちょうど向こうでやってるような感じで」

 

 ベレトが指差した方を見ると、走り終わって息を整えた生徒達が次の行動のために体格の近い者同士で二人一組になったところだった。

 片方が股を開いた状態で座り、もう片方が相手の背中を押す、開脚。

 そこから片膝を閉じて逆の足先に手を伸ばし、伸ばされた手を片方が引く、伸脚。

 うつ伏せの片方が後ろへ腕を出し、もう片方が引いて背を反らす、海老反り。

 授業では恒例なのだろう。各々が組んで自発的にこなし、苦し気な呻きを出しながら関節を伸ばす面々を見てフレンは恐怖した。

 

(あんなの、痛いに決まってますわ!?)

 

 半年続けた成果が表れたのか、信じられないほど関節を伸ばしている生徒もいて、あそこまでやって体は壊れないのか心配になってしまう。

 

 ああ、そんなに股を割って、裂けてしまうではないか!?

 ひぃ、そこまで体を捻っては骨が外れるのでは!?

 だめだめ、それ以上やったら死んでしまう!

 

 戦慄に震えるフレンだが、目の前で柔軟運動をする生徒達は慣れた様子であり、する方もされる方も平然と続けている。

 そして気付くのは、今から自分も同じことをするという事実。背中側へ回ったベレトの手で柔軟を強いられようとしているのだ。

 

「で、でも、あの、わたくし、ドロテアさんみたいにああやって脚をパカーって開いたり、ペトラさんのように体をペターって地面に着けたりできませんわよ!?」

「あの二人は特に柔らかいからな、あそこまでやらなくてもいい。それでも体を動かすのに最低限求められる柔軟性がある。それを伸ばすためには余計な力が入らないよう体を疲れさせてからやるのがいいんだ」

 

 それは予め逃げる力を奪うために疲れさせるのでは?

 邪推してしまうフレンに頓着せず、その体にベレトの手が伸びる。

 

「それじゃあ始めるぞ」

 

 そして、地獄が始まった。

 

「待って、せ、先生! 待ってください! そこは、ああ、そこはそんな曲がるところではありませんのよ! き、聞いてくださいます!? 伸びるー! 伸びますわ先生! ああ、ちょっと、待って! 痛い、痛い! あーだめですわ! それはだめなのですわ! あー! あーーー!! あ゙ーーーーー!!!」

 

 少しだけ。

 ほんの少しだけ。

 フレンは、またベレトのことが嫌いになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後に、修道院で過ごした思い出を振り返った時、士官学校に加わった日々を述懐したフレンはこう語る。

 

「正直とっても、とーっても後悔してますわ! 本っ当にもう先生ったら酷かったんですのよ! 聞いてくださる!? わたくしが痛いって叫んでもやめてくれなくて、放してって言っても止めてくれなくて、もうだめって泣いても全部無視して酷いのですわ! 指導は厳しいと聞いていましたけどあんなに扱かれるだなんて想像できるはずないでしょう!?」

 

 声を荒げて不満をまくしたてる彼女は、普段の淑女然とした嫋やかな姿とは別人のようで大層驚かれたのである。




 書き始めた当初の想像を遥かに超える長さになってしまったので二つに分けることにしました。今回はアニメで例えるとAパート。後編へ続く。

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