時代遅れの幻想郷では正体不明の噂が広まっていた。“稗田阿求が知らない妖怪がいる”と。
創想話の方が雰囲気良さげにしてあります
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御阿礼の子はなんでも知っている、という話を知って少年は彼女を負かしたいと思ったのだった。九代目御阿礼の子はすんとした佇まいで少年を見つめていた。問答を続けるうちに何も言えなくなるだろうと少年は思っていたが、かの少女阿求は少しの遅れもとらずに話始めた。もう話は十を軽く越えていた。
少年が聞いたのはどれも妖怪のことについてだった。聞いたことのある妖怪や見たことのある妖怪について、片っ端から聞いた。名前が分かるのも、分からないのもある。分からない時は、特徴を言っていく毎に阿求が幾つもの妖怪の名前を挙げ、だんだんと数が減ってくる。気がつくと、妖怪の名前は特定されてもう妖怪の説明に入っている。
「まだ聞きたいことはありますか?」
「……」
少年はついに黙り込んだ。
阿求にただ「知らない」「分からない」とだけ言わせたい。それだけの欲が、叶わなかった。
それもそのはず、御阿礼の子というのは幻想郷の莫大な歴史を見て覚えているのだから、数年生きた程度の少年は知識量では敵いやしない。阿求も十数年生きた程度の娘だったが、身体が弱い代わりに記憶力は人の何倍もあった。そういうわけで、阿求に知らないことはない。本人はそう自負している。
「あ、あの……」
「はい」
「こんな妖怪を知っていますか」
少年の切り口はいつもこうだった。
畳の上の明暗が夕暮れを告げている。これで話は終わりだろう。阿求は少年の言葉を待った。しかし、少年は難しい顔をして身体をかちこちに硬直させ、何も言わなかった。足だけが別の生き物のように揺れている。
阿求は分かっていた。少年が、自分を困らせたくてこのように何時間も話続けていることを。こんなに顔を突き合わせていれば嫌でも分かる。だがかといって、邪険に扱うこともできず「知らない」とも稗田の名にかけて言えない。
「……」
少年は黙っていた。
「……日が暮れます。今日はうちへお帰りなさい。お母様が心配していますよ」
「……」
「明日も来ていいですから」
「……」
「……」
阿求は困ったように微笑んだ。少年は阿求の重なった白い手の、人差し指の二番目の関節ばかりを見ていたが、ちらりと阿求の顔を見て顔を赤くした。うんともすんとも言わず、ただ口を固く結んだ。
少年は汗をかいていた。
「阿求さま」
「はい」
「……阿求さまも、知らない妖怪はいますか」
「……いませんよ」
阿求は少年の頭を撫で、立ち上がらせると玄関まで送った。少年はもう意気消沈してされるがまま歩いていた。
明日はもう来ないだろう。阿求は内心ほっとしていた。幾ら幻想郷の住民に情報を提供することも役目だとしても、一人の子供に何時間も付き合っていられない。稗田阿求は知らない妖怪なんていない。
玄関で少年が振り向いて、言った。
「本当に?」
あどけない顔をしていた。本当に純粋な質問だった。阿求は、答えなかった。
○
稗田阿求が知らない妖怪がいる、と広まり始めたのは少年との談話を終えて一週間したのちだった。
ふざけ半分で彼女に真偽を聞きに来た者に阿求はそんなことあるわけない、と言った。
「そんなことあるわけない、ねぇ」
目の前の博麗の巫女は呆れたように阿求を見た。阿求は普段の見た目のわりに大人びた表情は剥がれ、睨むように畳の目を数えている。
「なんでこんなことになったわけ?」
稗田家の大きな屋敷。二人だけにしては広すぎる和室だった。阿求は少年との一件のことを霊夢に話した。
へぇ、と霊夢は頷く。
「阿求はその目で見てきたんでしょう?なら、知らない妖怪なんて居ないんじゃないの?」
「まさか。幾ら私でも全ての妖怪を知っているわけがありませんよ。特に、最近新しく入ってきた外国の妖怪とか……珍しい妖怪とか……」
「じゃ、なんで知らない妖怪なんか居ないなんて言ったのよ」
「それは……」
阿求は気まずそうに目を逸らした。
人というのは、問答を繰り返していくと必ずそこに答えられない問いが生まれるものである。阿求はそれを知っていた。自分にも、答えられない問いがあることを。
しかし人というのは、問答を繰り返していくと意地が生まれるものである。聞かれる度に揺らぐ自信もまた、そうである。
「……“知らない”と言いたくなかったからです」
「あっきれた」
「そんなこと言わないでください。普段はそんなことなくても、一度意地を張るとなかなか言えなくなるものなんです。そもそも、霊夢さんを呼んだのはその先の話です」
「その先?」
「はい。稗田阿求の知らない妖怪がいる、という話が妙な尾ひれを付けて噂になっているんです」
切り替えて話す阿求は流石だ。
霊夢もあっけからんとして話を聞いた。今回阿求が霊夢を呼んだのは、博麗の巫女としてだ。そも、二人はそれ以外の関係はほとんどない。
「夕刻、日が沈むまでの間、一人の時に目の前に現れ『私は誰か』と聞く妖怪がいるそうです。その妖怪が私の知らない妖怪と言われているんです」
「私は誰か……?妙な質問ね」
「まあ、質問に答えられなくても今のところ特に害はないようですが、一部の人間の間では答えられないと喰われるとかいうおまけもついてるそうでして」
幻想郷の中で噂というのは、ただの噂ではない。妖怪は人間の恐怖心から生まれる。合理的な説明が不可能な異常現象が、正体不明が妖怪を作り出す。
妖怪に名前が付いているのは、その正体不明を無くすためとも言える。分からないから怖いという図式を緩和する。
「阿求はその妖怪が何か分からないってことよね?」
「ええ、私の知る限りでは……」
「まずいわね」
正体が分からないということは、不安を煽るには十分だ。また、噂は真になる可能性がある。
「うーん……分かったわ。なんとかしてみるから」
「私のせいですよね、この噂」
「ま、まあ、気にすることないわよ。あんたが何と答えようと噂は広がるんだもの」
「……」
霊夢が慌てて励ますように言ったが、阿求は難しい顔をした。
○
数日後、人里の貸本屋に行った際に阿求は興味深い話を聞いた。最近噂になっている話で、主に子供たちの間で広がっているようだ。
「用意するものは鏡だけで、なるべく全身が映るような大きい鏡がいいんだって。それで、鏡に映る自分を見ながら『お前は誰だ』と言い続けると狂人になっちゃうらしいのよ」
貸本屋の娘の小鈴は阿求の返した本を点検しながら阿求に噂を教えてくれた。噂は侍女も教えてくれるが、小鈴に聞いた方が手っ取り早い場合もある。彼女は子供たちにこの話を聞いた話らしい。
実践しやすいこともあって、噂はよく広まって程よく怖がられている。
「おかしな話ね」
「なにがおかしいの?」
「いや……」
阿求は右手を口元に当てる。
「前の噂は『私は誰か』で今度は『お前は誰だ』でしょう?何かおかしいと思うのよね」
「たしかに……ちょっと変ね」
小鈴は小首を傾げた。
噂の操作はそれほど難しいことではない。子供でも容易く出来る。今回の二つの噂も操作されている可能性は存分にあるということだ。
「でも、気にすることないんじゃない?」
「楽観的ね」
「阿求が考えすぎなのよ。所詮噂だもん」
「されど噂、ね」
阿求の言葉に小鈴が曖昧に笑った。
○
その日の夕方、人里の外と中を隔てる門の近くで中年の男が を見た。
男は外で用事を終わらせてきたばかりであった。突然目の前現れた は顔はよく見えなかったが、人の形をしていたという。農夫のような格好をしていたが、男か女かはっきりとは分からない。そして、 は噂の通りにこう聞いた。
「私は誰か」
男は噂のあいつか、と思った。
この妖怪の対処法は噂では広まっていない。男は何も答えられず、黙っていた。噂はまちまちで、質問に答えられないと食い殺されるという噂もあったため何も言うことが出来なかったのだ。
事前に対処法が知られていない妖怪に出会った場合、何も言わず走って逃げるのが得策である。
しかし、男は逃げられなかった。
体が重くて言うことを聞かない。恐怖からではなく、足の先から痺れきった後放心したように体が一切曲がらなかった。倒れることも叶わず、次第に、恐怖が競り上がってくる。
「私は誰だ」
男は から目が離せなかった。「私は誰だ」夕暮れの陽は眩しく、傾きが早い。「私は誰か」男は声を「誰だ」出そうとして「誰だ」痰がか「誰だ」ら「誰」み「誰だ」咳き込「誰」んだ。「誰だ」
しわが「誰」れたこ「誰だ」えだ「誰だ」った。
「私は誰か」
男は答えた。
「……分からない」
の口元が男からかろうじて見えた。にやにやと気持ちの悪い笑みがある。
「そう、分からない方がいい」
男が気がつくと辺りはもうすっかり暗くなっていた。目の前にあの妖怪はおらず、体は自由に動いた。
○
「え?『分からない』?」
「そうなのよ。なあんかきな臭いわ」
一番最初の噂『稗田阿求が知らない妖怪』の質問の対処法についての話だった。数日調査を進めた霊夢が阿求に報告をしていた。
因みに霊夢が案じているのは正体不明の妖怪鵺の存在であったが、今回は特に関係ない。
「『私は誰か』という質問をする妖怪には『分からない』と答えること。これが稗田阿求が知らない妖怪の対処法らしいわよ」
「……」
阿求は瞼を落とし睫毛の影を作る。唸りながら頭を抱えているのは、記憶を思い出そうとしているようにも見えた。「……どうしたの?」
「……最近、これと同じような状況がありましたよね」
「同じような状況……?あったっけ?」
「もしかして覚えてないんですか?」
責めるような阿求の言葉に霊夢は口元をヒクつかせる。
「少年が私に知識勝負を挑んできたことがそもそもの噂の始まりです。“知らない”と言わせるためにね」
「あ」
「妖怪が言う『分からない方がいい』っていうのも、分からないと言わせるためではないでしょうか。因みに、狂人になるという噂を知っていますか?」
二つ目の噂は鏡に映る自分に向かって『お前は誰だ』と言い続けると狂人になるというものだ。
霊夢は一応頷いた。
「鏡に向かって『お前は誰だ』と言う行為と『私は誰か』と問いかける妖怪の行為は酷似しています。双方とも目の前にいる人物に自分の存在を問う質問をしているんです」
「うーん……確かに」
「二番目の噂の結末はこうです。段々と自分の顔が他人の顔に見えてくる。なんだか変に見える。他人が家に侵入している。常に見張られている。自分の真似をする。知らない誰かが、目の前にいる」
「……」
淡々と繰り返す阿求の言葉に霊夢は生唾を飲み込んだ。
「最初の噂の結末はこうです。この妖怪を知っているのかも知れない。分からない。覚えがない。誰か。誰なんだろう。だれって?だれのことを聞いているのか。分からない」
「……な、なんかさっきと違うわよ」
「いいえ。二つの噂の結末は同じ。“自分が誰だか分からなくなる”んです」
霊夢は頭を掻きむしって髪の毛をボサボサにさせた。おおよそ話が難しくなってきたことに対して気が落ち着かないのだろう。
「つまり、噂が広まれば人間でも妖怪でもない が生まれるということではないでしょうか」
「それって大変なことじゃない!」
「ええ。でも、上手くいけば解決する手はあります」
阿求は考え込んで唇を噛んだ。
○
再び稗田家に訪れた少年は緊張したように背筋をよく伸ばしていた。目の前には九代目御阿礼の子である稗田阿求が以前と少しも変わらない佇まいで座っている。あの日からずっとそこに座っているようだ。
「阿求さま」
「はい」
「最近噂になっている妖怪、知っていますか」
「私は誰か、と聞く妖怪のことですか」
「……そうです」
「なら、知っていますよ。噂ですが」
「あれはなんという妖怪なのですか」
少年は耳に朱を注ぐ。口を固く結んでいた。阿求の視線は滑るように落ち、少年をさらうと畳を見る。瞼を静かに閉じ、たっぷり時間をかけて開いた。
「……分かりません」
「……!」
少年の口角がゆっくりと上がる。阿求の目が揺れていた。「ただ……」
阿求の声に、少年は初めて少女の顔を真正面からじっと見た。射抜くような目をしている。
「貴方もその妖怪の名を忘れてしまったのではありませんか」
○
阿求はその妖怪を「名無し」と名付けた。
そして、阿求の知らない妖怪は総称して「名無し」と呼ばれるようになった。世には名無しが溢れた。名前のない妖怪は名が失われたわけではなく、元あった名の上に新たな名が貼り付いた状態にあった。その新しい名を悪用した悪戯も増えたが、最近広まっていた噂はすっかり消えた。
新しい噂が広まったのだ。
稗田阿求は何でも知っている、と。