うエレボニア帝国、ノルディア州辺境の領地ユミル。シュバルツァー男爵家の治めるこの地は皇帝家とも縁深く、温泉郷の名で知られている。それに加え、アイゼンガルド連邦にほど近い北の大地であるため、冬には雪の降り積もる土地である事も有名だ。
その年も、良く雪が降っていた。
だからであろう。彼が、生きていたのは。
☆★
「これは……っ!」
テオ・シュバルツァー。ユミルを治めるシュバルツァー男爵家の当主であるこの男は、今や忘れ去られかけている貴族の義務を体現する者の一人であり、善政を敷く彼は領民から人気を得る人物であった。
昨日の夕刻、ユミルの地に轟音が届いた。それは土砂崩れや雪崩れを想起させる轟音であり、ユミルは一時期警戒態勢、年配の方々は避難すらしていた。が、およそ4時間に渡る警戒も杞憂だったようで、山に積もった雪がユミルを襲う事はなかった。
轟音の原因を突き止めるべく、翌朝テオは山を登りーーーそして、それを発見したのだった。
「まだ脈はある………リィン、こっちに来てくれ!」
崩れた崖を形成していた土、降り積もった雪の中に埋まっていたのは、20歳前後の男だった。死体かとも思ったテオだったが、脈はかろうじてある。
「父さん!人が埋まっているのか!?」
テオに同行していた息子リィンの助力もあり、テオはその男を救出する事に成功する。
しかし、その男はまだ脈こそあるものの瀕死の状態である事は明らかであった。雪に埋もれて一晩を過ごしたのだから当然だ。むしろ良く生きていてくれたと言うべきだ。
「衰弱している……郷まで急ぐぞ、リィン!」
テオはその男を背負うと、ユミルの郷に急ぐ。リィンは先導し、行く手を阻む魔獣の類を切って捨てーーーーーー。
その男は、ユミルの郷にある七曜教会の礼拝堂に預けられる事となった。
☆★
目蓋が開く。意識は半覚醒で、身体中が痛む。
「ぅ……ぁ……」
声なき声が漏れる。およそ雑多な中では聞き取れるはずもない音。しかしその男が声を出した場所が静謐な礼拝堂で、しかも室内にシスターがいた事もあり男の目覚めは無事に察知された。
シスターは男の意識の有無を確認した後、教区長に報告するとシュバルツァー男爵家に走った。
しばらくすると、一人の少年が男の部屋へと足を踏み入れた。
その男児こそリィン・シュバルツァー。ユミルを治めるシュバルツァー男爵家の長男であり、男を助けた人物の一人だ。
同じく男を助けたシュバルツァー男爵家当主テオは室外で、男の容態を教区長から聞いている。
「良かった、目が覚めたんだな」
そう言いながら近づいてくる少年に男はベッドに座ったまま柔和な笑みを浮かべて謝意を述べる。
「ありがとう。お前が俺を助けてくれたんだってな。おかげで命拾いしたよ」
「いや、いいんだ。雪山で死にそうな人を放っておけるわけがないしな。俺はリィン・シュバルツァー。君の名前は?」
自己紹介をしたリィンは男の名前を問う。しかし少し困ったように笑んで「悪いな」と言う。
「俺の名前を教える事はできないんだ」
「え…?それはどういうーーー」
「リィン」
二人のやり取りを遮るようにしてテオが入室してくる。眉根を寄せて厳しい表情…というよりは驚愕を隠そうと表情を作っているように見える。
テオの姿を認めた男は「助けて下さりありがとうございました」と頭を下げる。
「困っている人がいれば助けるのは当然の事だ。それよりも、その…本当なのかな……?」
テオが教区長から聞き、言い淀むセリフを男は何ら躊躇う事なく言い放つ。
「はい。俺は記憶喪失です」
「まあ失ってるのはエピソード記憶だけみたいですけどね」と軽々に言うが、聞いたリィンとテオはやはり表情を歪ませていた。
“名前を教える事はできない”という先程の言葉は文字通りの意味だったのだ。知らないのだから、教える事ができないのは道理だ。
「どこか行く当ては……いや、それすらもわからないのか」
先に教区長から記憶喪失について聞かされていたテオはいち早く正気を取り戻し、問いかけようとするが失言だったと理解して言葉を引っ込める。
「そうですね……どうしてユミルに来ていたのか…それだけでもわかればありがたいんですが……」
記憶はまるで白紙。どうして自分がわざわざユミルくんだりまで来ていたのか。黄金の軍馬を掲げるエレボニア帝国。広大な版図を持つこの国でもユミルは田舎の方だ。“温泉郷”と呼ばれ皇族ゆかりの地ではあるものの、用もないのにわざわざ訪れる意味はない土地だ。
それとも温泉道楽として湯に浸かりに来たとでも言うのだろうか、記憶を失う前の自分は?ケーブルカーを使えばいいものを、アイゼンガルド連峰を越えてユミルに到ろうとするとはよほどのマゾか修行馬鹿くらいのものだろう。
そんな自分の思考に辟易する男に、テオが「君が記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない物がある」と言った。
☆★
「これは……太刀ですか」
礼拝堂を出てシュバルツァー男爵家の邸宅に入った男が見せられたのは一振りの太刀であった。
男は太刀を受け取るとすらりと抜き、剥き身の刀身を見やる。
「ふむ……一見して名工が打ったようには見えない鈍ですが……刃こぼれ一つない。不思議な太刀ですね」
外に出て軽く太刀を振ってみた男は「うん、手に馴染みますね」とにこやかに笑う。
「これは俺ので間違いないみたいですね。ありがとうございます」
抜いた時と同じようにスムーズに納刀した男はにこやかな表情から一転、肩を竦めて「でも、記憶は戻らないみたいですね」とため息を吐く。
「淀みない太刀筋……もしかしたら君は八葉一刀流の使い手なのかもしれないな」
八葉一刀流の初伝を授かるリィンは太刀という大陸西部ではあまり見かけない得物にシンパシーを覚え、その使い手ではないかと勘繰る。
「確かに、このユミルにはたびたびユン殿も訪れている。君が太刀を使う以上、八葉一刀流と関係はありそうだ」
リィンの言葉にテオも八葉一刀流の開祖という好々爺の顔を思い出しながら頷く。
「八葉一刀流…ユン・カーファイが興した東方剣術の集大成でしたか。ならそこから俺の正体を探ってみるのもありかもですね」
光明が見えた、というような男の顔にリィンもテオもいたたまれない気持ちになる。
記憶を無くして、名前さえも失って、辛いはずがないのに。
自分たちに心配をかけまいとわざと明るく振る舞っている。
「…父さん」
リィンの呟きに「ああ」と答えたテオは男に正面から向き合い、提案をした。
「記憶喪失で、自分の名前さえ忘れて……さぞ心細いだろうに我々に世話をかけさせないようにする君の心意気は買おう。しかし当てもなくミラもなくしては旅も長くは続かないだろう。…どうだね、怪我が治るまでとは言わない、ユン殿が訪れた時に君を紹介するのでもいい……それまで我が家に世話になるつもりはないか?」
「そんな、悪いですよ」と男は言うが、テオの言う通り路銀もない旅路では行き倒れコース直行なのは間違いない。あるいは魔獣を狩り、入手したセピスを売ってミラにするのもいいが自分は太刀の振り方さえ忘れてしまっているのだ。ユミルの渓谷を越え、アイゼンガルド連峰に踏み入れる頃には瀕死になるかもしれない。
となればやはり最善はテオの提案に乗っかる事だ。
男の思考はすでにそちらに傾いていた。「悪いですよ」なんて言いつつも自分は死ぬわけにはいかないという使命感に突き動かされて。
「すみませんが、お世話になります」
こうして男はシュバルツァー家に世話になる事になったのだった。
☆★
「しかし、そうなるといつまでも“君”という呼び方もしていられないな」
礼拝堂の教区長に男をシュバルツァー家で預かる旨を伝えて、邸宅への帰り道でテオが言う。
「そうだな……どうにか名前だけでも思い出せないのか?」
「うん、無理だな」
リィンの問いに即答する男。これまでどうにかひり出そうとしたもののうんともすんとも言わない記憶。しかし名前さえ思い出せればそれを皮切りに全てを思い出せるような確信はあった。……だからこそ名前を思い出すという行為に厳重なロックがかかっているような気もするが。
「ならば、“ナギト”というのはどうだ?」
「ナギト、ですか。……どことなく東方風の響きですが……うん、気に入りました。ではそれでお願いします」
テオの提案にこれまた即答する男ーーーもといナギト。
「うむ、それではこれからよろしく頼むぞ、ナギト・シュバルツァー」
「おっと、まさかのシュバルツァー家入り。しかし了解です。こちらもお世話になります、親父殿。…それにリィン兄様」
軽妙にやり取りを交わすナギトとテオ。ナギトに“兄様”呼ばわりされたリィンは思いっきり顔をしかめる。
「兄様はやめてくれ、鳥肌が立つ。というか、俺が兄貴なのか!?」
「まあほら、リィンの方がシュバルツァー歴長いし、歳もそう変わらんならどっちが上でも下でも構わんだろ?」
「それは別に構わないけど…というかシュバルツァー歴ってなんだ!?ああもう父さんも笑い過ぎです!」
記憶を無くし、名前を失い、剣技も忘れ、使命さえ闇の中。
すべてを失った男の物語は幕を開けた。
あれ、なんか短くなっちゃった感。
たぶん書き始めてから半年くらい放置してたから考えてた事を忘れてる定期ですな。
でもまあ書くべき所は書いたはずだからいっか、という惰性。
創の軌跡めっさ面白かったです。
やっぱ軌跡シリーズいいよな〜と思いながら、久々にノリで投稿。たぶん次回まで間が開きます。