ただ一度だけでも、その領域に踏み入った。
それはとても価値のある事で────
ナギトは、あの時の感覚をずっと反芻している。
「ん?」
ずっこけた。太刀は手からすっぽ抜ける。
それはあまりにもイメージとかけ離れた事で。転んだ本人から疑問の声が漏れた。
先月の特別実習でのダメージからナギトが復帰したのは実技テストの時期だった。
級友たちは3人組、あるいは4人組でサラに挑み、勝ち星をあげていた。
ナギトは単独でサラと勝負する事になったが、これまでの事や先月ヴィクターといい勝負をした事実を加味しての差配だ。
身体は幾分かなまってはいたが、気合十分のナギトは太刀を抜いて勝負を仕掛け────ずっこけたのだ。
当然のように、サラの勝利で実技テストは終わる。
ナギト・シュバルツァー、絶不調の始まりである。
☆★
アリアンロードに受けた傷は思いの外深かった。アリアンロード配下の戦乙女による応急処置、エマによる“おまじない”……そしてトリスタにかつて《
復帰する事はできた、が。
「う、おぉっ!?」
剣が弾き飛ばされる。気を取られた一瞬で鼻先に切っ先を突きつけられて敗北。
「あら」
「おお」
「パトリック…!」
「なん、だと……?」
「あ、はっ……勝った本人が一番驚いてどーすんのよ」
何の後遺症もなく復帰はしたのだが、あり得ないレベルの不調がナギトを襲っていた。
最初は剣を振らない期間…ブランクがあったからだと思われたそれだが、ある程度時間が経っても一向に感覚が戻る気配はなかった。
「いや…それはそうだが………」
なんならフェンシング部でパトリックに負ける始末だ。パトリックは入学当初、ナギトに完敗したせいで後の部内戦では無自覚に萎縮して実力を発揮できずにいた。
そんな状態のパトリックにさえ負けてしまうのがナギトの現状だ。
「どうやら調子が悪いという噂は本当のようね」
「代わりなさい」とナギトの手から弾かれた模造剣を拾い上げたフリーデル。ナギトの調子が悪いという話は院内でもにわかに語られているようだ。
フリーデルはいつものようにパトリックに圧勝し、伸びかけた鼻っ柱を折ってやる。パトリックは慢心するにはまだ早いようだった。
フリーデルやロギンスからもアドバイスを受けるが、ナギトの不調は一向に良くはならず、部活も終了の時間を迎える。
寮に戻ったナギトは夕食を摂ると、授業の予習復習に取り掛かるが、集中できそうにない。
「露骨に焦ってやがんな。……実技テストがボロボロだったのがそんなにショックかよ?」
同室のクロウが唐突に声をかけてきた。ベッドの上でグラビア雑誌のページをめくりながら、だ。
「ん〜、ショックというか何というか……」
クロウを向いたナギトは、自分の悩みが言語化できていない事に気づいた。それこそクロウの言う通り“焦っている”のだと自覚する。
「ま、気持ちはわかるぜ。今まで当然にあったもんが煙のように消えちまった時の不安や焦りはな」
「嘘くせー含蓄」
「お前な……」
真面目くさった顔のクロウに“らしくない”とツッコミを入れてみる。
クロウはため息をつくが、その発言が虚勢だと看破していて、ナギトもそれは承知していた。
降参するように「はあ」と息を吐いて、言葉を続ける。
「確かに俺は不安だよ。……俺は記憶喪失になってから、なにもかも失ってゼロからのスタートだった」
それは、紛れもない独白であった。
「目覚めてから1年と9ヶ月……俺は多くの、大きな力を、得た」
クロウの視線はまっすぐにナギトを見ている。
「それはきっと、あり得ないレベルの成長の速さだった。……それに納得できるだけの背景はあったけど、こうなってしまったからには、不安が芽生える」
ナギトは語る。己の不安、己の弱みを。
同級生には語れぬそれは、今は級友であれど先輩であった男には語れてしまう。
「───得るのが速いなら、失うのも速いんじゃないかって」
ナギト・シュバルツァーの価値は“強さ”にしかないから。
それを失ってしまえば、ナギトは生まれた意味を無くすも同然。
───そんな強迫観念が己の内側から滲み出している。
「……ま、そりゃ不安にもなるわな。 積み上げるは難く、崩れるは易し……ナギト、お前は積み上げるスピードが尋常じゃなかった。だからそれが崩れるのも常人より速い。記憶がないから余計に不安は加速する。なんせ、自分の積み上げるスピードに、何の根拠も見出せないからだ」
クロウの指摘は的を得ていた。まさしくその通りだった。
ナギトは以前、自らの成長速度の速さを“《剣鬼》と呼ばれた以前の実力を取り戻しているから”だと思っていた。それは納得できる根拠だったが、《帝国解放戦線》の《R》……新たに《剣鬼》を名乗る人物が現れた事で揺らいでしまった。
ラウラに諭された事で自らの過去が《剣鬼》である事などどうでもいいと結論したが、それとはまた向きの違う話だ。
「んで、記憶はどうなんだよ。なんか思い出した事はあんのか?」
「まあ…ちょくちょくと。過去、会った事のある奴に出会うとフラッシュバックみたいなんが起きる」
「へえ、例えばどんなだ?」
「…《身喰らう蛇》とかって秘密結社の連中に関する記憶が多いな。たぶん記憶に残るイベントだったんだろうと思ってる」
「なるほどな。他には?」
「あとは………敗北の記憶」
思えば、ブルブランやヴァルターに関する記憶は本人に出会わないと思い出せなかった。ブロマイドを見た《銀》──リーシャは例外として、本人の情報が一切なく思い出せたのは、記憶を失う前のナギトが敗北したらしいあいつだけだ。
クロウは続く言葉を待っていた。ナギトは苦い気持ちになりながらも口を開く。
「そいつも結社のやつなんだが───、確か《剣帝》とか言ったかな」
思い起こす、《剣帝》の姿。
しなびた銀髪。
血に濡れる黒衣。
閉じられる赤い瞳。
「───ッ!?」
頭が、痛い。
「おい、大丈夫か?」
急に頭部を押さえたナギトにクロウが寄る。ナギトの意識は急速に現実に回帰する。
「───クロ、ウ……?」
幻と現実の焦点があった。
心配げなクロウに「大丈夫」と答える。《剣帝》の姿を思い出そうとして、誰か別の人物が脳裏をよぎった。
クロウはため息をつくと、肩をすくめた。
「ま、最近いろいろあって疲れが溜まってんだろうよ…さっさと休め。特別実習までもう時間がねえ…今のままだと先月みたいに怪我するかもだぜ?」
「…うん、そうだな。もう寝るわ」
クロウの諫言に従う事にしたナギトはノートを閉じてベッドに潜り込んだ。
「ああ、そうしろそうしろ。───なんせ今回の実習は頼れる兄弟分と離れ離れなんだからな」
☆★
第6回目となる特別実習、A班の行き先は鋼都ルーレ。B班の行き先は海都オルディスだ。
A班メンバーはリィン、アリサ、クロウ、フィー、マキアス、エリオット。
B班のメンバーはエマ、ラウラ、ユーシス、ガイウス、ミリアム、ナギト。
シュバルツァー兄弟、初の別行動である。
サラ曰く、ナギトとリィンのコンビネーションを全員が見ているし、クラスメイト間の軋轢も先々月の実習で解決して、それも先月の実習で確認できたためらしい。
ナギトとしては実習先でもリィンにフォローしてもらえるなら心強かったわけだが、わがままをいうわけにもいかなかった。
そうして迎えた特別実習1日目の朝。
同室のクロウをニードロップで起こして準備をする。文化祭の出し物の件で昨夜は遅くまでエリオットと激論をかわしていたのを知っていた手前、手荒な真似はしたくなかったが、これがナギトとクロウの正しい距離感だった。
現時刻8:30。9時に学院のグラウンドに集合するように言われているⅦ組はロビーで集合した後、軽くトリスタを回ってから学院に向かった。
9:00───グラウンドに到着したⅦ組を待ち受けていたのは、空を駆ける大いなる影。上空に姿を見せたそれはやがてグラウンドに降り立つ。
リベールの異変を解決するのに協力したオリヴァルト皇子が帰国の際に搭乗した、リベールの白い翼“アルセイユ”────今グラウンドを占拠しているのはそれより巨大で、なおかつ紅い。
その飛空艇から姿を見せたのは皇子オリヴァルトとその護衛であるミュラー・ヴァンダール。さらにはヴィクターとトヴァルまでもが、その艦からⅦ組を見下ろしている。
驚愕するリィンたちにオリヴァルトはにっこり笑って「これなら帝都でのお披露目も成功しそうだ」と言った。
どうやらⅦ組はこの飛空艇の処女飛行──帝国全土でのお披露目に同道させてもらう形でルーレとオルディスに送り届けてもらう事になっていた。
そしてⅦ組の面々は搭乗する事になる。ラインフォルト社、ツァイス中央工房、エプスタイン財団が協力してつくり上げた皇族の船、アルセイユⅡ番艦───高速巡洋艦カレイジャスに。
全長75アージュ、最大船速3000CE/hに装甲、迎撃武装を備えるカレイジャスの艦長を務めるのはヴィクター・S・アルゼイド。
正規軍、領邦軍のいずれにも属さない第三の風たるこのカレイジャスの指揮をヴィクターに執ってもらう事で抑止力となってもらう狙いを説明される。
その後は見学という体でカレイジャス艦内を見て回る。文化祭の出し物について意見を交わすエリオットとクロウに若干の意見を挟みつつ。ナギトはリィンと共に甲板に出た。
「おっ、やっぱ風があるな」
「さすがに防風はしてあるみたいだけどな」
カレイジャスの甲板では風が強い。空の上を高速で走っているのだ、是非もなしというもの。
リィンの言葉に適当に返事をして「で?」と切り出した。
「ナギト……大丈夫なのか?みんなも心配しているが……」
それは未だ治らぬナギトの不調を慮った発言であった。
「んー、まあそうだよなー」
これまでの実習の調子であれば何の問題もなかった。しかし今は不調も不調…絶不調である。そこに義兄弟として意思の疎通も上手いリィンのフォローもない。さらに言えば今回行くオルディスは貴族派トップのカイエン公爵家の拠点である。《鉄血の子供たち》の一員であるミリアムを連れて行くには難しい場所である。その点については考えがあるとサラは言っていたが……
「まあ……なんとでもなるんじゃない?」
「随分楽観的だな……」
「明日にゃ明日の風が吹くってやつさな。何もB班は俺だけじゃない、頼れるお仲間がいる……何とかなるだろ」
「でも……今回の実習先はオルディスだろう。ルーレもそうだが、四大名門の本拠地だ。迂闊な真似はくれぐれも控えてくれよ」
「わかってるって。それにこっちの班にはアルバレア公爵家の次男がいるし、なんなら《光の剣匠》アルゼイド子爵の娘もいる。貴族派も簡単に手出しはできないと思う」
加えて、今回はカレイジャスのお披露目もある。領邦軍には“悪い事したら空から《光の剣匠》がやってくるぞ”という脅しが効くようになるわけだ。
「……わかった。気をつけろよ、ナギト」
「おうよ、お前もな、リィン」
まだ色々と言いたい事はあったリィンだが、全部うまく躱されそうな気がして引っ込める。ナギトの危うさについては帝都での実習でマキアスが指摘した通り。当時はナギトがⅦ組でもトップを張る実力があったから良かったものの、今のナギトは正直クソ雑魚である。前までのように振る舞っていては痛い目を見るはずだ。
しかし、ナギトからすればそんな事は百も承知という所なのだろう。いつもと変わらず──否、いつもより兄貴然とした笑顔を見せるのは心配をかけさせまいとする心意気か。
カレイジャスがルーレに到着する。A班一行はB班の面子と言葉を交わすと振り返る事なく艦を降りた。
東から西へ。カレイジャスはルーレからオルディスまで真っ直ぐに飛行する。やがてオルディスの空港に着陸した。
ブリッジでヴィクターやオリヴァルトらと挨拶を済ませると、B班とサラは共にカレイジャスから降りる。
空港内を歩いていたところで、後ろから「ナギト」と声をかけられて振り返ると、ヴィクターが追ってきていた。
ラウラは不思議そうに「父上?」と呟くが、ヴィクターはサラに目配せすると、サラはナギトを除くB班一行を引き連れて先に進んだ。
「ナギト…すまぬな。先に謝っておくとしよう」
「え、なんです?怖いんですけど」
「うむ。仔細は話せぬが、此度の実習…そなたを災難が襲う事だろう」
「え”」
「うっかり口を滑らせてしまってな……まあ、先月の意趣返しとでも思ってくれれば幸いだ」
先月の意趣返しと言うと、ナギトがラウラに“「愛してる」”とか言ってヴィクターを惑わせた件だろう。カレイジャス艦内でも学生の内は云々と釘を刺されたものだったが。
「……正直わけわからんですけど了解です」
ナギトは唸りながらもヴィクターの言葉に理解を示す。ヴィクターは「では」と挨拶すると踵を返してカレイジャスに戻って行った。
その後ナギトはサラたちと合流すると、その足でカイエン公爵家城館へと向かう。というのも、今回の実習ではカイエン公爵家城館を拠点として実習活動を行うからだ。
どうやら学院の常任理事であるルーファスの口利きで公爵家城館を宿代わりにする事が決まったらしい。嘘か真かカイエン公爵──クロワール・ド・カイエンも快諾したのだとか。
公爵家城館前に着く。壮麗華美なこの屋敷がナギトには魔窟に見えてならない。
「なんとも……難しい実習になりそうだ」
ナギト自身の不調。リィンの不在。ヴィクターの予言する災難。カイエン公爵家城館を拠点とする意味。
悪条件の揃う特別実習の総決算が、今まさに幕を上げた。
黎の軌跡Ⅱの情報が続々と公開されてきてオラわくわくすっぞ!