温泉郷。皇族と所縁のあるシュバルツァー男爵家が治める領地ユミルの別称である。 ユミルには鳳翼館という温泉宿があり、その温泉は皇族御用達──そんな決まり文句がナギトの頭に浮かんだ。
というのも、温泉に浸かってからすぐに、疲れが抜ける。癒されていく感覚を覚えたからだ。
思えば、あのトリスタ防衛からずっと気を張りっぱなしだったのかもしれない。
その自覚と宣伝文句とが“癒されている”と身体が反応する理由なのではないか。などと考えてみたりもした。要は幸運の御守りを持った瞬間から幸運を感じてるようなものだ。プラシーボ効果とも言う。
湯に浸かり背中を石に預けて、大きく息を吐く。
「ぷはー」
目を瞑り、だらしなく口を開けて空を仰いだ。
そんな様子に、Ⅶ組の男たちは苦笑しつつも、ナギト・シュバルツァーの帰還を実感した。
ナギトとリィンの手合わせの後、ユミルに戻ったⅦ組一行は手配されていた依頼の解決に取り掛かった。
鳳翼館で起こる不可思議な事件。それを解決するために───Ⅶ組一行は温泉に入っていた。囮捜査というやつだ。事件が発生するのは露天風呂らしく、男子と女子に分かれて交互に温泉に入り、犯人の出方を見る事になったわけだ。
いつものように談笑する。その最中に生じた間隙を縫うようにしてエリオットが口を開いた。
「そういえばナギトはトリスタでリィンを逃してからずっと貴族連合にいたんだよね。何をしていたの?」
それは何気ない疑問だったのだろう。何気ない疑問だったかもしれない。 だが、それに対する答えは致命的だ。Ⅶ組の絆に亀裂を入れるに足るものだ。少なくともナギトはそう思っている。
「秘密」
だからナギトは笑ってごまかした。
「わざわざ隠す程の事なのか?」
それにマキアスが突っ込んで来る。 ナギトはゆっくり瞬きをすると大きく息を吐いて、それから真剣な目で対面する男たちを見た。
「そうだよ。わかるだろ?」
ナギトの短い言葉に僅かに表情が硬くなったのはユーシスだ。彼はこの中で唯一、ナギトが貴族連合にいた頃の活躍を知っている。
「ここで聞きたいなら聞かせてやる。だが、その前に覚悟してもらう必要がある」
湯に浸かって気が抜けた表情から一転、聞き返す事すら躊躇わせる迫力がその言葉にはあった。 “覚悟”───そのワードが意味する所を皆が少なからず理解した。
ナギトは貴族連合でスパイをしていた。Ⅶ組に戻った時に有益な情報をもたらすためだ。しかし有益な情報というのは信用されなければ得る事はできない。
ならば、ナギトが信用を勝ち取るためにやった事柄とは。想像は容易だ。
全員の沈黙を確認してナギトは続ける。その“覚悟”の重さが如何なるものなのか、語る。
「聞けば、俺とお前たちの関係は変わるだろう。少なくとも、お前たちの中にある“ナギト・シュバルツァー”という男の顔が変わるはず。これまでと同じように接する事が出来なくなるかもしれない。それでも良いなら、語ろうか」
詳細は何一つ口にはしていない。 ただ話すだけで、自分たちの中にあるナギトへの認識が変わるという事を告げられただけだ。 Ⅶ組としてこのメンバーが集まってからすでに九ヶ月程が経過している。その間に培った絆が、育んだ友情が、ナギトが貴族連合にいたたった一ヶ月半の出来事を語るだけで壊れてしまうかもしれない、と。そう言われたのだ。
湯に浸かっているはずなのに、なぜか薄ら寒く感じた。裸の付き合いをしているはずなのに、どこか衣服を着ているより壁があるように思えた。
淡い期待は打ち砕かれ、希望は是正された。“ナギトならば”というⅦ組の抱く期待が現実に上塗りされる。
しん、と静まり返った場で次に口を開いたのはマキアスだった。
「やはり……君は傲慢だな。帝都の実習の時も言わせてもらったが。…………何でもひとりで決め過ぎ、背負い過ぎだ」
その言葉に、全員が呆気にとられた。いち早く正気を取り戻したのはユーシスだ。
「その通りだ、この阿呆が。ふざけるな…という話だな。他人の問題には軽々しく踏み込むくせに、自分の問題にはそうやって踏み込むに躊躇わせるハードルを設ける」
「そうだよ。特に僕なんかは父親が《紅毛》のクレイグなんだよ? ナギトがもし仮にそれをやっていたとしても軽蔑なんてするもんか」
ユーシスに続き、エリオットまでもがナギトにそう言う。
「ナギトの背負う重荷……どうか俺たちにも分けてくれないか」
そして、ガイウスがそう締め括った。
そんなⅦ組男子の総意にナギトはくつくつと笑った後、「オーケー」と顔を上げた。
「わかったよ。そのうち話させてもらうよ。Ⅶ組のみんなの前で」
やはり自分はⅦ組の連中を侮っていたのだとナギトは自戒する。武でも、智でも、心でも。
マキアスにユーシス、エリオットにガイウス…もちろんリィンだってナギトの想像を簡単に超えてくる。面白い程に、嬉しい程に、いとも容易くナギトの想定を飛び越える。
「俺の、軌跡をさ」
そう言ったナギトの表情は晴れやかに見えた。憑き物は落ちずとも、陰は薄まった。
それを見てとったリィンは義兄弟の喜びに、己もまた頬を緩ませるのだった。
やがて露天風呂にミリアムが恥ずかしげもなく入って来て「そろそろ交代」などと抜かす。 どうやら長く入っていたらしく、女子連中が痺れを切らしたようだった。
その後、鳳翼館の事件は犯人は魔獣ヒツジンだったという事が判明。
悲鳴が上がった露天風呂に急行したナギトとリィンに風呂桶がぶん投げられるなどという珍事はあったものの、ヒツジンは退治されて依頼は無事解決されたのであった。
そしてまた、ナギトは単独行動にカレイジャスを降りた。
☆★
“善”と“正義”の違いを考えてみる。
“善”とは───簡単だ。善いこと、善い行いだ。
人を助ける。生き物を助ける。それらが例え、許されざる悪だとしても。その善性をもって助ける。それが“善”。
ならば“正義”とは───正しきを助け、悪を誅する。それが正義──正しい行いだ。
許されざる悪を斃し、裁き、誅する。
善と正義の違いは、悪を赦すか裁くか。───そう定義する。
「──ふう」
なんて、冗長な思考は現実から目を背けるための麻薬だ。
畢竟、善と正義の違いなぞどうでもいい。自分が正義でも悪でもいい。
ただ、そう。
Ⅶ組は悪であってはならない。Ⅶ組は正義の味方でなければならない。Ⅶ組は英雄にならなければいけない。
それが、ナギトの出した答えだ。
しかし、それでも良心の呵責はある。なんせ自分のやってる事は無辜の民の血を流させる事に繋がるからだ。いくら自分たちのためだと言っても、さすがに心は痛みもする。しかし、それを押してもやらなければならない。 Ⅶ組が全員で笑っていられるためにも。
「俺たちは、正義の味方になる」
思考がぼそりと漏れ出る。すれ違った男性がぎょっとしてナギトを見た。「いえ何でも」と会釈して、帝国時報社を出た。
また、呟きながら。
「正義の味方になるために、悪を為す」