噂──それは、クロスベル総督となったルーファス・アルバレアに代わり、ギリアス・オズボーンが、トールズ士官学院の常任理事につくという噂だ。
理由としては、碧の大樹の出現と消滅の混乱後のクロスベルを治める立場は多忙を極めるだろうという事で、クロスベルが落ち着くまでの代理としてオズボーンが常任理事を引き受ける、というものだ。 総督より多忙だと思われる宰相が代理とは、笑わせるなという話ではあるのだが、あのギリアス・オズボーンならもしや……と思ってしまうのだ。
ギリアス・オズボーンが常任理事になったらトールズがめちゃくちゃになるだろう事は目に見えている。 故に、その噂を真実にするわけではないのだ。
この噂の出所はまず間違いなくオズボーン本人だろう。では何故オズボーンがこんな噂を流布したのか?それは、ナギト・シュバルツァーに対する合図と脅迫だ。
煌魔城での取引……今後、ナギトの友人知人に悪い影響を与えないという条件の引換として「ここでは言えないが、あとで使いを寄越せ」と言ったのだ。言わば、この噂こそがオズボーンの使いなのだ。そして、脅迫でもある。それは単純に、この使いに応じなかった場合、オズボーンがトールズ士官学院の常任理事になるということ。
要は、学院をめちゃくちゃにされたくなければ来い。というわけだ。
ナギトは明日、行く事を決意しそのまま眠りにつく。
☆★
翌日の朝、ナギトは起きるとサラに事情を説明する。宰相に会いに行くとなれば、授業をサボる名目は立つだろう。 「卒業できないわよ」などと脅されたものの、なんとか承諾を得て列車に乗り込み、帝都ヘイムダルに到着した。
バルフレイム宮に繋がるドライケルス広場で、宮殿を守る衛士に名乗り、要件を告げると、しばらくしてクレアがやってきた。
クレアは「ようこそ、お待ちしておりました」と慇懃に頭を下げた。 ナギトも同様に「いえ、お待たせして申し訳ない」と応える。
「案内します」と言うクレアの後を追い、バルフレイム宮に足を踏み入れる。 オズボーンの執務室に行くまでの、長いようで短い道のり。その間で、ナギトはクレアに話したい事があった。
「クレアさん、リィンがオズボーン宰相の息子だって気づいてましたか?」
クレアは「雰囲気や話し方でなんとなく」と言う。それを言わなかったのは、リィンに嫌われたくなかったからなのかどうかは、知る由ではない。
「リィンは隠されていた、と思うでしょうなあ」と、ナギトが嫌みったらしく言うと、クレアは悲しそうに「嫌われちゃいますね」とこぼした。
“《氷の乙女》とまで言われたあんたの鉄面皮はどうした”と喉まで出かかったナギトは、なんとかそのセリフを飲み込み、代わりの言葉を用意する。
「まあ、素直に謝れば許してくれるんじゃないですかね?俺も協力しますよ、兄弟分たちが悲しむ顔は見たくないですから」
にこやかにそう言える自分に、リィンの影響を感じた。あの人たらしの手管がわかってきた感じがする。
クレアは感謝を伝えると「そういえば」と話を変えた。
「ナギトさんは閣下に何を与えるおつもりですか?」
それこそが、今日の本題だった。しかし、クレアにとり、それは未だ知らなくてもいい事だとナギトは判じて「さあ?」と誤魔化す。
「あなたならわかるんじゃないですかね? というより、俺はもう答えを言っちゃってますけど」
それでもヒントだけは残しておく。それがナギトのやり方だ。 「ここですね?」と宰相の執務室前で立ち止まり、クレアに確認を取ってノックする。 「入れ」という声が聞こえてからドアノブをひねり、「それでは」と敬礼するクレアに、ナギトは茶化したように答えを言った。
「それじゃあまた。ばいばい、お姉ちゃん」
執務室に消えるナギトが残した言葉に、クレアは確信を得た。ナギトがオズボーンに突きつけた条件の引換に差し出すものは───
☆★
「よく来た。ナギト・シュバルツァー……煌魔城以来だな」
赤色の豪勢な絨毯に、壁には値が張りそうな絵画、調度品は華美ではないが、その造りと醸す雰囲気から大した逸品だとわかる。大きなガラス張りの窓からは帝都の景色が一望でき、その支配者である事を実感させるようだった。
「……ずいぶんと手の込んだ使いを寄越したもんだな。テスト代わりのつもりか?」
会話のキャッチボールが成立しないナギトの言動に、オズボーンは苦笑する。どうやら自分はこの男にとって嫌われるという次元を通り越したところにいるらしい。
「私とお喋りをするつもりはないか。まあいい、では建設的な話題に入ろうではないか」
ニヤリ。オズボーンは笑った。
「そうだ。噂の流布は試験のつもりだ。……ふむ、いささか話が飛躍したな。まずは確りと言葉で表してもらおうか、ナギト・シュバルツァー。 煌魔城での取引……君の条件を飲む私が飲む代わりに、君が私にくれるものはなんだ?」
ナギトは、応える。
「俺が《
悩んだ末の結論──ではない。これは初めから考えていたことだった。煌魔城での取引……クロウを含むⅦ組メンバーに対し、手を出さない事を誓わせるための条件。それがナギト・シュバルツァーの鉄血の子飼い化だ。
ギリアス・オズボーンにしてみれば、破格の取引だった。木っ端を十人前後見逃すだけで、この男を手駒にできるのだから。
「ようこそ。歓迎しよう、ナギト・シュバルツァー」
深い笑みを浮かべるオズボーンに、ナギトは鋭い視線を向けたままだ。
「初めに断っておくが、俺はあんたの手駒にはなるが、絶対服従になるわけじゃない。それは理解しておけ」
それにトールズ卒業後はどうなるかわからない身だ。オズボーンならそこまで見通しそうなのが怖い所だが。
オズボーンはほくそ笑む。それでは「いつか裏切る」と宣言しているようなものだ。優しいのか?いや、易しいのだと。
「よかろう、承諾した。細かい事は、もはや言うまい。三月までトールズ士官学院に在籍するつもりなのだろう? であれば、四月からここに来るといい。情報局の方で雇ってやろう」
「それについてはお断りする。働き口くらいは自分で見つけるさ。もちろん《子供達》としてのオーダーは受け付けるがな」
「警戒が強い事だ。そんな事では交渉など上手くはいかんぞ?」
「大きなお世話だ。それはレクターさんの役目だろうが」
売り言葉に買い言葉。ナギトはオズボーンのペースにはまりかけている事を自覚しながら、そのやり取りをやめることはしなかった。このまま軽妙に言葉を交わしてこの場から立ち去りたかったからだ。
「……仕事があれば呼び出す。私に用があればこの番号にコールするといい」
オズボーンは数字が羅列するメモ用紙をナギトに手渡した。「一国の宰相とのホットラインとは。恐れ入る」とナギトは肩を竦めるが、オズボーンの雰囲気は、鉄血宰相と呼ばれるそれに変化していた。
「迎えが来たようだ。それではまた会おう。《
同時にドアがノックされ、クレアが入室してくる。どうやら《緋玉の騎兵》というのがナギトの《子供達》としての渾名らしい。 物騒な名だ、と思いつつナギトは執務室を後にする。
またクレアと共に話しながら歩き、バルフレイム宮を出て街を抜け、列車に乗り込む。
すでに時刻は夕闇が差し迫る頃合いだった。