ー食堂
職員室から戻ってきた私たちを見つけると、河野さんがぱたぱたと駆け寄ってきた。
心配そうな表情を浮かべながら、少し息を切らしている。きっと心配でずっと待っていたのだろう。
「あっ! だ、大丈夫!?」
私は「ありがとう、大丈夫だったよ」と声をかけようと口を開きかけた。
しかし、河野さんは私の前を素通りして、真っ直ぐに千代美の元へ向かっていく。
「ちーちゃん! 怪我してない? 痛いところはない?」
「ああ、大丈夫だ。心配かけたな」
河野さんは千代美の手を取り、傷がないか確認するように見つめている。
千代美も困ったような、でもどこか嬉しそうな表情を浮かべていた。
「本当によかった...あんな大きな人と喧嘩して、もし怪我でもしたら...」
「私のことより、お前が無事で何よりだ。ったく昔から相手を選ばずに突っ込むから...
」
「えへへ。なんでだろ」
二人の間に流れる温かい空気。まるで私など最初からそこにいなかったかのように、二人だけの世界が出来上がっている。
(...そうよね、当たり前よね)
私は一歩下がり、二人のやり取りを見つめていた。
(河野さんにとって大切なのは千代美。私はただの「仮の恋人」なんだから)
頭ではそう理解している。この状況は予想できたはずだし、むしろ望ましい展開のはずだ。
二人の仲が深まることと、私は一切関係ない。
むしろ親友が幸せになるのだ、祝福すべきことだ...
それなのに、なぜだろう。
胸の奥で何かがチクチクと痛む。
河野さんが私を素通りして千代美に駆け寄った瞬間、まるで透明人間になったような...そんな寂しさを感じてしまった。
「あ! ケイさん!」
ふと河野さんがこちらを振り返る。慌てたような表情で、千代美の手を離した。
「すみません、ついちーちゃんのことばかり...ケイさんも大丈夫でしたか?」
申し訳なさそうに駆け寄ってくる河野さん。
「え? ああ、うん...私は何ともないから」
「よかった。職員室に呼ばれたって聞いて、すごく心配だったんです」
にっこりと笑顔を向けてくれる河野さん。でも、さっき千代美に向けていた表情とは明らかに違う。
(...これでいいのよ。これが普通なの)
私は自分に言い聞かせる。
(私はただの友達。千代美が特別なの)
「ハハッ! あなたこそ大丈夫? 怖かったでしょ」
「正直怖かったですが...ちーちゃんが守ってくれたので!」
またも千代美の方を振り返る河野さん。その眼差しには信頼と...もっと深い何かが込められているようだった。
「当然のことをしただけだ」
千代美も照れたように頭をかく。
(...そうか)
この瞬間、私は理解した。
河野さんにとって千代美は「守ってくれる人」で、私は...何だろう?
「仮の恋人」? 「友達」? それとも...
(私って、河野さんにとって何なんだろう)
その問いに答えは出ない。でも、一つだけ確かなことがある。
さっき河野さんが私を素通りしていった時、私は...寂しかった。
「ケイ? どうした?」
千代美の声で我に返る。
「ぼんやりしてるけど、大丈夫か?」
「あ、ううん。ちょっと疲れただけ」
「そうか...今日はもう練習も終わりだし、早めに帰るか?」
千代美の気遣いに、河野さんも心配そうな顔をする。
「ケイさん、無理しないでくださいね。今日は色々ありましたから」
優しい言葉をかけてくれる河野さん。でも、なぜだろう。
その優しさが、かえって胸の奥の痛みを深くしていくような気がした。
(...私、どうしちゃったんだろう)
自分の気持ちがよく分からない。
ただ一つ言えるのは、この「もやもや」が、簡単には消えてくれそうにないということだった。
ー翌日 戦車道練習場
「ケイさん、お疲れ様です! 今日も暑いですね」
いつものように屈託のない笑顔で挨拶してくる河野さん。
昨日までなら「お疲れ様」と普通に返していたはずなのに、今日は何故か心臓がドキンと跳ね上がった。
「あ、うん...お疲れ様」
慌てて視線を逸らす私。なんだこの反応は。
「あ、そうそう! ケイさん、昨日は本当にありがとうございました」
そう言いながら河野さんが一歩近づいてくる。いつもより近い距離に、また心臓が跳ねる。
「え? 私は何も大したことしてないけど...」
「いえいえ! 心強かったです」
にっこりと笑う河野さん。その笑顔を見つめていると、胸の奥がキュンと痛んだ。
(...何これ。昨日まで普通だったのに)
「そ、それより! 今日の練習メニュー確認しないと」
話題を変えようと慌ててファイルを開く私。しかし河野さんは気づいていないようで、さらに近づいてくる。
「あ、それ重そうですね。持ちますよ」
「え? いや、大丈夫だから...」
「遠慮しないでください。僕、マネージャーなんですから」
そう言って河野さんが私の持っているファイルに手を伸ばした瞬間、私たちの手が触れ合う。
「「あっ」」
電気が走ったような感覚に、思わず手を引っ込めてしまう。
「あ、すみません! びっくりさせちゃいましたか?」
慌てる河野さんを見て、さらに動揺する私。
「い、いや...ちょっとびっくりしただけ」
(なんで今日はこんなに意識しちゃうの?)
「ケイさん、顔赤くないですか? 熱でも...」
心配そうに顔を覗き込む河野さん。その距離の近さに、また心臓が大きく跳ねる。
「の、ノープロブレム! 今日はちょっと暑いし。火照っちゃたかな...ハハッ」
「そうですか? でも無理は禁物ですよ」
優しい声でそう言う河野さん。その優しさが、昨日まで感じたことのない特別な感情を呼び起こす。
(...これって、まさか)
ー休憩時間
「はい、ケイさん! 冷たいお茶です」
休憩時間、河野さんが缶のお茶を差し出してくる。
「あ、ありがとう」
受け取る時に再び指先が触れそうになり、慌てて缶だけをひったくるように取ってしまう。
「...?」
河野さんが不思議そうな顔をする。
「ご、ごめん。ちょっと急いでて」
「そうですか? でも、ゆっくり休んでくださいね」
そう言って河野さんは他のメンバーの所へお茶を配りに行く。
その後ろ姿を見つめながら、私は自分の感情と向き合わざるを得なかった。
(...私、河野さんのこと...)
認めたくない気持ちが心の奥底から湧き上がってくる。
(でも、河野さんは千代美のことが好きで...)
ラブコンテストまで1週間が切った。
出会った当初より、なぜか二人の関係性はぎくしゃくしている気がした。