ー同棲初日 ケイの寮 夜
「それじゃあ、お邪魔します!」
河野さんが小さなバッグを持って部屋に入ってきた。いつものように自然な笑顔で、特別な緊張感もない様子だった。
「え、えっと…狭い部屋だけど」
私の方が明らかに緊張している。心臓がドキドキして、手のひらに汗をかいていた。
「全然狭くないですよ。一人暮らしにしては十分広いじゃないですか」
河野さんが部屋を見回している。その何気ない仕草にさえ、私は意識してしまう。
密閉空間だからか、ふわりと香る河野さんシャンプーのにおいが部屋に充満して、普段から過ごしている部屋のはずなのに、まるで人の家のような感覚になった。
「あの…寝る場所なんだけど、ごめんねベッド一つしかなく」
「あ、僕は床で大丈夫ですよ。そんなに固くなさそうですし。毛布とかお借りできれば」
河野さんがあっさりと言う。
「そ、そんなわけにはいかないわよ! 男の子はベッドを使って」
「でも、悪いですし...あっ! なら、二人でシェアしますか! ベット結構おっきいですし!」
河野さんの天然な質問に、顔が熱くなる。
無垢な笑顔で恐らく妥協策として出しただけなんだろうが....
「わ、私はソファでいいわ」
「...そうですか? じゃあお言葉に甘えて...」
結局、私がソファで寝ることになった。すでに風呂も食事もお互い済ませていたということもあり、すぐに寝床についた。
でも正直、ベッドで寝ていても眠れなかったと思う。
(…河野さんが、私の部屋に…)
暗闇の中で、河野さんの寝息が聞こえてくる。ベットとソファの部屋が違うとはいえ、静まり返ったタイミングでは嫌でも聞こえてしまう。
だが、聞こえるのは穏やかで規則正しい呼吸音。河野さんはあっという間に寝てしまったようだ。
(ま、当り前よね。私になんてなんとも...)
ドキドキした気持ちが少しむなしい形で落ち着きを取り戻し、私も眠りについた。
ー翌朝
目が覚めると、キッチンからいい匂いが漂ってきた。
「おはようございます、ケイさん」
河野さんが朝食を作ってくれていた。
「お、おはよう…作ってくれたの?」
「はい。せっかく泊めてもらってるんですから、これくらいは」
食卓に並べられた朝食は、私が普段食べているものより遥かに豪華だった。
かつ、栄養バランスが整った素晴らしい献立だ。盛り付けも気合が入っている。
「すごい…料理上手なのね...ってあれ、食材とかはどうしたの?」
「ふふっ、実は昨日の夜こっそり荷物に潜ませてました。サプライズ的な」
「悪いわね...。いや、でもすごい。うまいじゃない。家族とかによくつくってるとか?」
「...それもありますけど、ちょっと諸事情で昔ごはんつくってた人がいて...ちょっとわがままだったので決まって朝ごはんお願いされていた時期に気が付いたらうまくなっていました」
「そ、そうなんだ! へえ、河野さんも隅に置けないね!」
「...もう昔の話ですよ。俺、そいつもう嫌いですし!」
誰だろう、いつもの千代美の話じゃない。家族じゃないだれか...。
でもなぜか嫌な気持ちはしない、秘密を共有してくれた喜び、恐らく千代美も知らない秘密を知れた優越感が恐らくあったのだろう。仮ではあるが初めて恋人らしい話ができた気がした。
「さて! じゃあ食べましょうか! 夜は私が作るからね!」
「ほんとですか! 楽しみです!」
「まっ。仮ではあるけど恋人だしね。共同生活の基本は支えあいだよ!」
「おぉ、勉強になります」
冗談交じりに余裕ぶった私に何の疑問も持たず、返事をする河野さん。
でも私の心の中では、建前ではない本当の気持ちが育ち始めていた。
ー夜 作業時間
「この部分の歌詞、どう思います?」
机に向かって一緒に歌詞を考えているうちに、自然と距離が縮まっていく。
同棲を始めてしばらくすると、私と河野さんの接点が増えた分、お互いのパーソナルスペースなるものが狭まった気がする。
「うーん…もう少し感情的な表現があってもいいかも」
「感情的って…例えば?」
私たちの肩が触れそうなほど近い距離で、河野さんが真剣に考えている。
ふわりと香る柔軟剤のようなにおい、きれいな髪、真剣な眼差し。すべてが私の中でキラキラとしている。
自分でもわからないくらい急激に彼に夢中になっているようだった。
そんなこともあり、まじめに考えてくれている河野さんに対して、私は全くと言っていいほど集中を欠いていた。
「ケイさんって、どんな時に胸がドキドキしますか?」
突然の質問に、心臓が跳ね上がる。
「え? な、なんで?」
まさに今だ。見透かされたのかという焦りと戸惑いで鼓動が早くなる。
だが、それは杞憂に過ぎなかった。
「あー、いやほら、歌詞に使えそうかなって思って。リアルな恋愛感情があった方が説得力あるじゃないですか。多分そういうところも評価対象だと思うんですよね」
河野さんは本当に純粋に音楽のことを考えているだけだった。
「そ、そうね! 確かに! じゃ、じゃあちょっとそこら辺の要素を入れてみましょうか」
でも私は、今まさに胸がドキドキしていることを言えるはずもなかった。
「うーん...ここの音程はもっと...あれ? 河野さんは...」
歌詞に関しては協力できる河野さんだったが、ギターに関しては知識がないため、私が担当だった。
好きな音楽ということもあり、随分集中してしまったようだ。時計は22時を指していた。
河野さんがいつの間にか私の隣ですうすうと寝てしまっていた。
ミミズにようになった文字で書かれた歌詞の候補と握ったままのペン。
最近部活の方も忙しかったから、きっと疲れているだろうに、健気に私の横で作業してくれていたようだった。
(...寝てていいっていったのに。ほんとに優しい子)
河野さんの穏やかな寝顔を見ていると、胸が温かくなる。
外見だけいい人ならなら私はきっと今の状況だったとしてもなんとも思わなかっただろう。
顔だけいい男の人なんて、大学を探さなくても嫌というほどいる。
何度も告白もされ、部活動を理由に断っていたが本当は違う。...本当になんとも思わなかっただけだった。
だが、彼は違う。
彼の内面に触れるうち、性格を知るうちに、言動を感じるうちに私はどんどん彼に惹かれていった。
そんな河野さんを見ているうちに、私の中で確信に近い感情が湧き上がってきた。
(…私、本当に河野さんのことを…)
でも同時に、罪悪感も押し寄せてきた。
(...私、彼のこと利用してるってことよね)
ミスサンダースの称号が欲しくて始めた仮の恋人関係。
でも今の私は、それを口実に河野さんと一緒にいることを楽しんでいる。
そんな事実に日を追うごとに気づかされていくのだった。
ー千代美の訪問
「うーい、ケイ、調子はどうだ?」
洗車道がオフということもあり、今日は久々に千代美も遊びに来た。
河野さんはお昼の買い物に出ているときだった。
「はーい、千代美! すっごく順調よ! 歌詞も半分くらいできたし! ほんと河野さんさまさまよ!」
「そうか、そりゃよかった。ん? あれって...」
ふと部屋にあるお揃いのマグカップが目に留まったようだ。
千代美の表情が少し険しくなる。
「あー!これ? せっかく恋人役なんだからと思って私が買ったのよ! まずは形から入らないとね! カモフラージュってやつ?」
「...この部屋って誰かほかの部員とか大学の友人とかくるのか?」
「えっ? うーん、来ないかなぁ。基本的に私以外住んじゃだめだしね」
「...お前、もしかして」
千代美の鋭い視線が私を見つめる。
「な、なに?」
「いや、なんでもない。ただ、お前の表情が何となく違うような気がしてな」
ドキリとする。千代美に気づかれてしまったのだろうか。
「気のせいよ。私たちは目標のために頑張ってるだけ!」
でも、その言葉を口にしている自分が嫌になった。
(私、嘘ついてる、親友もだましてる)
「...そうか。じゃあ私はこの辺で帰るよ。午後から練習あってな。頑張れよ。...あ、そうだこれ、河野が好きなお菓子だ。差し入れとしてあげるよ」
「おー! ありがとう! 助かるよ!」
でも、その言葉を口にしている自分が嫌になった。
(私、嘘ついてる、親友もだましてる)
千代美が帰った後、河野さんが買い物から戻ってきた。
「えー! ちーちゃん来てたんですね! 会えなくて残念です」
河野さんの屈託のない笑顔を見て、胸が締め付けられる。
(...この人は何も知らない)
千代美の気持ちも、私の本当の気持ちも。
いつしか生活すべてのドキドキは罪悪感で塗りつぶされていった。
ーー
「ケイさん、最近元気ないですね...大丈夫ですか」
河野さんが心配そうに声をかけてきた。
「そう? そんなことないわよ」
「でも、昨日からずっと考え込んでる感じで…」
河野さんの優しさが、かえって私を苦しめる。
「もしかして、僕が泊まってることで迷惑かけてますか? なら歌詞もある程度できてきましたし俺は...」
「そんなことない!」
思わず声を荒げてしまう。
「むしろ...その...」
言いかけて、私は口を閉じた。
「…何でもないの、ごめん、今日はちょっと早く寝るわね」
「は、はい! お、おやすみなさい...」
(言えるわけがない)
「一緒にいると楽しい」なんて、口が裂けても言えない。
河野さんの困ったような表情を見て、私はますます自分が嫌になった。
(…私、最低ね)
河野さんの優しさを利用して、千代美を裏切って、それでも河野さんと一緒にいたいと思ってしまう。
(…でも、もうやめられない、目的はあるのだから)
自分の気持ちに正直になればなるほど、罪悪感も深くなっていく。
でも、河野さんと過ごすこの時間は、本当に幸せだった。
たとえそれが偽りの関係だったとしても。
ー6日目 朝
「あ、おはようございます」
いつものように河野さんが朝食を作ってくれている。
「今日はケイさんが好きそうだと思って、今日はフレンチトーストにしてみました」
私の好みを覚えていてくれた河野さんに、胸が熱くなる。
「あ、ありがとう。私の好みよくわかったわね」
フレンチトーストは厚めの食パンに耳が付いたまま。そしてメープルがかかっている。
私が一番好きな組み合わせだった。
仮の恋人なのに、なんでこんなに自然に気遣ってくれるのだろう。
「明日は頑張ってくださいね! 二人でこんなに一生懸命作ったんです! きっといいところまで...いや優勝しますよ! ミスサンダースも近いですね!!」
河野さんが気合のこもった言葉でエールをおくる。
えいえいおーとかわいい掛け声で応援してくれている彼の姿をみて、今は負の感情しか浮かばない。
「そうね...」
大会が終われば、この関係も終わる。
(...それでいいのよ。もともと契約関係みたいなもんだし)
でも心のどこかで、終わってほしくないと思っている自分がいた。
(…私、本当に狡い)
河野さんの笑顔を見つめながら、私は自分の複雑な気持ちと向き合っていた。
罪悪感と幸福感。建前と本音。友情と恋愛感情。
すべてがごちゃ混ぜになって、もう何が正しいのかわからなくなっていた。
ー大会当日
「ー河野が倒れた!? 病院はどこだ!! すぐいく!」
大会を見に行くために向かっていた千代美のスマホに涙声のケイから電話がくる。
ケイが話し終わる前に、千代美は病院に駆け出すのだった。