ー大学院棟 西住まほ研究室
「失礼します」
ノックの音の後、扉が開いた。
「河野か。よく来た」
私は論文から顔を上げて、彼を迎えた。
河野が、いつものように控えめな笑顔で入ってくる。
「お邪魔します! 今日も資料整理、手伝わせてください」
「ああ、頼む」
月に何度か、河野はこうして私の研究室を訪れる。
最初は戦術データ整理の手伝いを頼んだだけだった。
それが、いつの間にか定例になっていた。
(...なぜだろう)
他にも頼める人間はいる。
大学院生も、戦車道部の後輩も。
でも、私は河野を選んだ。
理由は、自分でもよくわからない。
「あっ、この前の試合、見ましたよ」
河野が作業を始めながら話しかけてきた。
「...そうか」
私は少し視線を逸らした。
「すごかったです。まほさんの指揮、完璧でした!」
「いや、まだ改善点がある」
私は短く答えた。
完璧という言葉に無意識に拒否反応を示していた。
確かに、試合結果だけ見れば圧勝だった。
相手チームを完封し、一方的な試合展開。
観客は歓声を上げ、解説者は絶賛した。
でも──
「西住、完璧だったぞ。うん、何の文句もない!」
試合後、監督がそう言った。
ただそれだけ。
「流石だな、西住流。いつも通りだ」
チームメイトたちも、そう言った。
当然だという顔で。
(...ああ、そうか)
(周りにはきっとこれが当然なのだ)
勝って当たり前。
完璧で当たり前。
西住流の師範代として
大学選抜のリーダーとして
全てにおいて、完璧であることが求められる。
それが、私の役割だから。
「えー! そうですかね? 特段問題点なんて...」
「...それが問題なんだ」
私は資料を見つめながら呟いた。
「強すぎることが?」
「違う。私が...」
言葉に詰まる。
(何を言おうとしている)
勝って当たり前。今までだってそうだった。
それなのに何が不満なのか。
「まほさん?」
河野が心配そうに顔を覗き込んでくる。
その距離の近さに、少しドキッとした。
「...いや、何でもない」
私は慌てて視線を逸らした。
(おかしい。私は何を...)
「まほさん、最近、少し疲れてるんじゃないですか?」
河野が優しく言う。
「大学院の研究と、戦車道の指導と、両立は大変でしょう」
「いや、問題ない」
私は即答した。
それが、私の答えだ。
常に、そう答えてきた。
「無理しないでくださいね。無意識に疲れてることだってありますから」
しかし河野はそう言って、温かいお茶を淹れてくれた。
その気遣いに、胸が少し温かくなる。
(...本当に不思議な男だ。少しだけ、肩の力が抜ける気がする)
ーその夜 西住家
「おねえちゃん、今日の練習試合の映像送るね」
みほからメッセージが届いた。
大洗女子の練習試合の映像だった。
みほの指揮は、相変わらず独特だった。
教科書通りではない柔軟な戦術。
仲間との連携を重視した、温かい戦い方。
(...みほは、楽しそうだ)
みほの笑顔が、画面に映っている。
仲間たちと喜び合う姿。
失敗しても、励まし合う姿。
(私には、ない光景だ)
私の試合後は、いつも同じ。
「お疲れ様でした」
「流石です」
それだけ。
喜びも、感動ももはやない。
ただ、当然の結果として受け止められる。
だが、それでいい。当主として当然の結果だ。
(...それでいいんだ)
私は西住流の師範代。
感情に流されてはいけない。
常に冷静で、完璧でなければならない。
でも──
携帯を見ると、母からのメッセージが届いていた。
「試合結果みました。問題ありません。次の全国大会、優勝は当然として、全試合完封勝利を目指しなさい」
私は、ため息をついた。
(優勝は当然...か)
そう、当然なのだ。
西住まほが勝つのは当然。
だから、褒められることもない。
当たり前のことなのに、私も少し疲れているかもしれない。
「まほ...その、大学院の研究はどう?」
「...論文は順調に進んでいます」
「そう。西住の名に恥じぬよう、変わらず優秀な成績を収めなさい」
「はい」
いつもの会話。
期待されているのはわかる。
でも、それは同時に──
(重い)
西住流の看板を背負い手本でなければならない。
大学選抜のリーダーとして、チームを勝利に導かなければならない。
大学院生として、優秀な成績を収めなければならない。
(...当たり前だ)
(これが、私の役割なのだから)
でも、最近──
胸が苦しい。
何かが、重くのしかかっている。
(疲れているのか?)
(いや、そんなはずはない)
ベッドに横になり、天井を見つめる。
(...河野)
ふと、彼の顔が浮かんだ。
「無理しないでくださいね」
あの優しい声。
心配そうな表情。
(...あの人といると)
(少しだけ、ありのままでいられる気がする)
でも、それを認めるのが怖かった。
西住まほが、誰かに頼るなど
西住まほが、弱さを見せるなど
ー決して許されないことだから。
ー翌日 戦車道部練習場
「西住先輩、次の練習メニューを教えてください」
後輩が尋ねてくる。
「ああ。まず基本機動から...」
私は淡々と指示を出す。
完璧な指示。
無駄のない練習メニュー。
「流石、西住先輩」
「ですね」
後輩たちが感心する。
でも、その目には──
(当然だという顔)
(西住まほなら、できて当たり前だという顔)
「西住、ちょっといいか」
監督が呼んでいる。
「次の大会もお前に全権を任せる」
「...はい」
「期待してるぞ。西住流の実力、見せてくれ」
期待。
重圧。
「優勝以外は認めない、我々は勝つべくして勝つんだ。いいな」
「...承知しています」
私は頭を下げた。
(優勝以外は認めない...か)
それが私に向けられる言葉だ。
いつもそうだった。
胸にちくりと刺さった棘はじわじわと深くなっていくのだった。
ー大学院研究室
「西住さん、論文の進捗はどうですか?」
教授が尋ねてくる。
「順調です。来月には提出できます」
「そうか。君なら問題ないだろう」
教授が満足そうに頷く。
「西住流の次期当主だけあって研究も優秀だね。ほんと、期待しているよ」
「ありがとうございます」
また期待。
また西住流という看板。
(...どこに行っても、この扱いか)
私は、まほじゃなく、西住流の当主としてみられる。
一人の人間としてではなく。
西住流という看板として。
廊下を歩いていると、空き教室から学生たちの会話が聞こえてきた。
「西住まほ先輩、すごいよね!」
「うん。戦車道も研究も完璧!」
「えーでも、なんか近寄りがたくない? 不気味っていうか」
「わかるわかる! 完璧すぎて、人間味がないよねー! ロボットみたい!」
私は足を止めた。
(人間味がない...か)
そう見えるのだろう。
いつも冷静で、感情を表に出さない私はロボットなんだろうか。
でも、それは──それだ。
西住流が、感情に流されるわけにはいかない。
私は、そう自分に言い聞かせて歩き続けた。
ーその夜 自宅
携帯に、みほからメッセージが届いた。
「お姉ちゃん、今度の日曜一緒にお茶しない?」
私は少し考えてから、返信した。
「すまない。大会の準備があるから」
「そっか...残念。また今度ね」
みほの返信には、寂しさが滲んでいた。
(...すまない、みほ)
でも、私には時間がない。
大会の準備、論文の執筆、チームの指導。
やることは山積みだ。
(...いつから、こんなに余裕がなくなったのだろう)
鏡を見る。
そこには、疲れた顔の自分がいた。
目の下に、うっすらとクマができている。
(...疲れている)
でも、認めるわけにはいかない。
西住まほが、疲れたなどと言えるはずがない。
(頑張らなければ)
(もっと、完璧にならなければ)
でも──
心の奥底で、小さな声が聞こえた。
(...もう、疲れた)
(少しだけ、休みたい)
その声を、私は必死に押し殺した。