「では、まほのことを少し教えてもらおうか」
母が静かに言った。
「は、はい」
河野が緊張した声で答える。
「率直に聞かせてほしい、まほについてどう思う?」
「え?」
河野が困惑した声。
「まあ、なんだ。親しいものから見るまほの印象を教えてほしい。長所でも欠点でもいい」
「ええっ...っと」
河野が少し考える沈黙。
障子の向こうで──
私は思わず身を固くした。
(母上...何を)
「そうですね...」
河野がゆっくり口を開いた。
「まず、素直じゃないです」
「ほう」
母が頷く気配。
「あと...抱え込みすぎます」
「一人でなんとかしようとして、限界まで言わなくて」
「そうだな」
「それと...」
河野が少し笑った気配がした。
「甘いものを食べてる時だけ、表情が全然違います」
「ほう、よく見ているな...」
(か、河野め...!)
私は障子の向こうで顔を押さえた。
「あとは……」
河野がまだ続けようとしている。
(まだあるのか)
「昔、戦車の模型を抱えて寝ていたとか」
「よく知っているな」
「みほさんから...聞いちゃって」
(みほ...あいつ河野に何を...)
障子の向こうで私は頭を抱えた。
「ふふっ...緊張すると、右手だけ少し震えます」
「それは初耳だ...よく見ているな」
母の声に、感心の色が滲んだ。
「研究の発表前とか、大事な場面の前とか。まほさんも緊張するんだって驚いちゃって」
河野が静かに言う。
「そういう時、まほさんはいつも一人で深呼吸してるんです。誰にも見せないように、廊下の端で」
「...」
「僕はそれを、何度か見ていました」
「...そうか」
母の声が、少し沈んだ。
河野が続ける。
「僕はそれを見るたびに...支えてくれる人が必要だなって思っていました」
沈黙。
障子の向こうで──
私は、息が止まった。
(...河野)
「....そうか」
母がゆっくり言った。
「まほはな、完璧に見えるだけで、人間らしい一面もあるんだ」
「...そうですね」
「河野さんの言ったことは全部当たっているが」
母が少し間を置いた。
「私から見ると、まだまだある」
(...まだあるのか)
「頑固だ」
「はい」
「意地っ張りだ」
「はい」
「心配をかけまいとして、平気なふりをする」
「...本当にそうですね」
「泣き顔を絶対に見せない」
「...はい」
「甘え方を知らない」
「...」
「そして」
母が少し苦笑する気配。
「助けてほしい時ほど、『大丈夫だ』しか言わない」
「昔からそんな感じなんですね...」
河野が苦笑いする声がした。
「...そうだな。いつからだろうな」
母が静かに続ける。
「転んでも泣かない子だった」
「そうなんですか」
「他の子が泣くような場面でも、まほは唇を噛んで立ち上がって」
「...」
「『大丈夫です』とだけ言う」
「...まほさんらしいですね」
「そうだな」
短い沈黙。
「あとは...ふふっ」
母がさらに続けようとした。
(ま、まだあるのか...!)
「料理が壊滅的だ」
「え!?、そうなんですか!? 意外ですね」
「一度だけ作ろうとしてな。台所がひどいことになった」
「へえ...!」
(母上...!! 話の流れ的にそれはおかしくないですか!)
「みほの方が、よほど上手い」
「そうなんですね...面白いからメモしとこう」
(するな)
「あと、負けず嫌いが過ぎて、将棋で負けそうになると急に眠くなる」
「そうなんですね」
「...それがまたかわいかった」
母がふっと笑う気配がした。
「ゲームで負けそうになると欠伸を始めてな。わかりやすい子だった」
「かわいいですね」
「そうだろう」
(か、かわいいとはなんだ!!)
障子の向こうで私は限界に近づいていた。
「まほさんにそれを言ったら、怒りますよ」
「ほう、よくわかったな。あの子は『かわいい』と言われるのが一番苦手だ」
「なんで知ってるんですか」
「言ったことがあるからだ」
「どうなりましたか」
「三日間口を利いてもらえなかった」
「...流石ですね」
(流石ですね...?)
しばらくして
母の声が少し変わった。
「...だがな、河野さん」
「はい」
「私はあの子が...誇らしくて仕方がない」
障子の向こうで──
私の手が、止まった。
「欠点を並べたが」
母が静かに続ける。
「簡単に思いつく程度しかない...あの子は、よくやっている」
「...」
「転んでも立ち上がる」
「誰かに頼らない」
「一人で背負えてしまうから」
母の声が、少し震えた。
「だから私は...それに甘んじた」
「...」
「言わなくてもわかっていると思っていた」
「でも」
母が続ける。
「最近、それが間違いだったと気づいた」
「...間違い、ですか」
「言わなければ、伝わらない」
母が静かに言った。
「頑張ったな」
「よくやっている」
「お前のことが誰よりも大切だ、と」
障子の向こうで──
私は、唇を噛んだ。
(...母上)
「しほさん」
河野が、静かに言った。
「それ...まほさんに、言いましたか」
沈黙。
「...言っていない」
「...言い方がわからなかった」
母が珍しく、言葉に詰まった。
「まほが...あまりにも完璧にこなすから」
「今更、こんなことを言ってもと思ってしまっていた」
「しほさん」
河野が真剣な声で言った。
「伝えるべきです」
「...河野さん」
「今更じゃないです」
河野が続ける。
「まほさんはきっと、ずっと待っていると思います」
「待っている...?」
「誰かに言ってほしかったんだと思います」
「頑張ったな、って」
「...」
「まほさんは強い人です。でも...」
河野の声が、少し沈んだ。
「強い人ほど、そういう言葉に飢えていることがある気がして」
「...そうか」
母が、深くため息をついた。
「私は...不器用だな」
「しほさんだけじゃないですよ」
ふふっと笑い声が聞こえる。
「まほさんも相当不器用です。似てます、お二人」
「...それは褒めているのか」
「もちろんです」
短い沈黙の後──
母が、小さく笑った。
「伝える、か」
「はい」
「わかった」
母が頷いた気配。
「ありがとう、河野さん。まほを呼ぼ──」
ドン。
「...まほ? 盗み聞きとは感心しないな」
「...」
障子が、盛大に倒れた。
その向こうに──
西住まほが、正座していた。
目が赤い。
鼻も赤い。
頬も赤い。
完璧に、全部バレていた。
「...まほ」
母が静かに言った。
「...はい」
「どのくらい、聞いていた」
「その...最初から」
「そうか」
「料理の話は...余計だったと進言します」
「本当のことだ」
「...」
河野が、そっと目を逸らした。
視線の置き場に困っている。
耳が、赤かった。
「まほ」
母が、立ち上がった。
「はい」
「こちらに来なさい」
私は立ち上がれなかった。
足が、震えていた。
母が、私の前に歩いてきた。
そして──
ゆっくりと、私の隣に座った。
「まほ」
「はい」
「聞こえていたか」
「...はい」
「なら」
母が、少しだけ視線を逸らした。
珍しく──
照れているように見えた。
「改めて言うのも、らしくないが」
「...はい」
「お前が...誇らしい」
母の声が、わずかに揺れた。
「いつも頑張っているのも、一人で立ち向かっているのも、全部...見ていた」
「...」
「見ていたのに、何も言わなかった」
「それは、私の過ちだ」
母が、私を見つめた。
「まほ」
「...はい」
「もっと、頼れ」
「え...」
「一人で抱えなくていい」
母上が続ける。
「私でも」
「河野さんでも」
「みほでも」
「誰でも頼っていい」
「お前は、ひとりじゃないんだから」
「...」
「だが、私はお前の今までの生き方を、否定するつもりもない」
母の声が、柔らかくなった。
「一人で背負って、一人で立って、一人で戦ってきた」
「...」
「まほ」
母が、真っ直ぐに私を見た。
「よく、頑張った」
その瞬間──
私の中で、何かが崩れた。
「...っ」
「ずっと、一人でつらいときもあったろう」
「本当に...よく、頑張った。まほは私の誇りだ」
「...母上」
声が、震えた。
「...っ...母上!」
涙が、止まらなかった。
子どもみたいに泣いた。
母が、黙って私の背中に手を置いた。
何も言わずに、ただそこにいてくれた。
しばらくの間──
茶室に、私の泣き声だけが響いた。
河野は──
部屋の隅で、静かに正座していた。
目が少し赤かった。
気づかないふりをした。
(...まったく)
(この人は、本当に)
河野がそっと目を拭うのを、私は涙越しに見ていた。
(...ありがとう)
言葉にはならなかったけれど。
きっと──
届いていると思った。