撮影スタジオに着いた頃には、カチューシャはもういつもの顔に戻っていた。
そして河野が固まった。
「...でかい」
「当然よ」
「...人が多い」
「当然よ」
「...あの機材、全部カメラですか」
「そうよ」
明らかに委縮している河野の様子に少し驚きを覚えた。
(...へえ、意外とかわいいとこもあるのね)
カチューシャが、スタジオの入口をくぐった。
その瞬間だった。
さっきまでざわついていたスタッフたちの動きが、一斉に止まった。
「K様、おはようございます!」
「本日はよろしくお願いいたします!」
全員が、背筋を伸ばして頭を下げた。
年上のベテランスタッフまでが、深々と。
(...すごい)
河野は、カチューシャの半歩後ろで、思わず目を丸くした。
「おはよう。今日もよろしくね」
カチューシャは、軽く手を上げただけだった。
それだけで、スタジオの空気が動き出した。
その空気が、また一瞬だけ止まった。
スタッフたちの視線が、カチューシャの後ろの河野に集まった。
「...え、男の子?」
「うそ、マネージャーって男の子なの?」
「現場に男の子がいる...」
ひそひそ声が、さざ波のように広がっていく。
河野は、慌てて頭を下げた。
「河野と申します。今日からお世話になります。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします!」
一拍、間があった。
「...か、かわいい」
「いいね、フレッシュ...」
「あ、あの、こちらこそ、よろしくお願いします!」
先輩スタッフたちが、なぜか一斉に背筋を正した。
頬が、ほんのり赤い。
(...なんでみんな、顔が赤いんだろう)
河野は、首を傾げた。
ーーーー
衣装合わせが始まった。
スタイリストが、恐縮しきった顔で衣装を当てていく。
「K様、こちら、いかがでしょうか」
「袖が長いわ。2センチ詰めて」
「はっ、はい! ただいま!」
「次のシーンのセットは」
「たった今確認してまいります!」
カチューシャが、スマホで確認事項を処理しながら、河野を呼んだ。
「河野」
「はい」
「ランチは現場近くのイタリアンを個室で。私と主要スタッフ5名、あとあなたで7名」
「え? 俺も入るんですか」
「マネージャーでしょ。当然よ」
「...そういうもんなんですね」
河野が、電話をかけに部屋の隅へ向かった。
その途中、大きな機材ケースの前で、河野は足を止めた。
「あの、これ、運びますか。ちょうど手が空いてるので」
「あ、いいのいいの」
近くにいた照明スタッフが、さっと機材ケースを持ち上げた。
「重いから、こっちでやるよ。新人くんは、電話して」
「すみません、ありがとうございます、先輩」
「うん」
(うぅ...気を遣われてる気がする)
河野は、素直に頭を下げて、電話に戻った。
カチューシャは、鏡の前に立ったまま、衣装の直しを受けていた。
(...)
視線が、無意識に河野の方へ向く。
電話を終えた河野が戻ってくると、ヘアメイク担当のスタッフが声をかけた。
「新人くん、ネクタイ曲がってるよ」
「あ、本当だ。すみません、先輩」
「じっとして。直してあげる」
「ありがとうございます」
河野が、ためらいなく首元を差し出した。
冗談で言ったつもりだったであろう彼女は、少し嬉しそうだった。
(...話には聞いてたけど、あそこまで無防備なのね)
ヘアメイクのスタッフは、手早くネクタイを直した。
「はい、できた」
「ありがとうございます。助かりました」
「...うん。どういたしまして」
そう答えるスタッフの耳が、少しだけ赤かった。
近くにいた照明スタッフが、ひょいと顔を出した。
「新人くん、髪きれいだね。どこのサロン?」
「ああ、これですか。弟にやってもらったんです」
「弟さんか。いいなあ」
「あの、よかったら連絡先、交換しない? 現場のことなら、先輩が教えてあげられるから」
「ほんとですか、助かります」
河野が、あっさりスマホを取り出した。
「あ、私も」
「私も、いい?」
「はい、もちろん」
数人のスタッフと、河野が順番に連絡先を交換していく。
その様子を、ベテランスタッフが少し離れたところから見守っていた。
「新人くん」
「はい」
「現場は女ばっかりだから、困ったことがあったら先輩に言ってね」
「はい、ありがとうございます」
「困ってなくても言っていいからね」
「はい! 頼りにしてます」
(...素直ね)
(というか、警戒心がなさすぎるのよ)
カチューシャの眉間に、ぐっと力が入った。
「K、K様、お動きにならないでください」
「動いてないわよ」
「今、すごい角度で振り向きかけましたが...」
「気のせいよ」
衣装の直しが、ほんの少し早く終わった。
カチューシャは、河野たちのほうへ、つかつかと歩いていった。
その足音が響いた瞬間、先輩風を吹かせていたスタッフたちの表情が変わった。
「K、K様! 準備できましたか!」
「照明! 早く準備を!」
「河野」
「あ、K様。ランチの手配終わりました。場所がですね...」
「その前に、こっちに来なさい、あんたたちもよ!来なさい」
「はい!」
カチューシャは、河野の隣に立って、スタッフたちをじろりと見回した。
「こいつはね、専属契約で特別に現場に来させてるの。連絡先を渡すなら、私を通しなさい」
「は、はいっ!」
「申し訳ございませんでした!」
スタッフたちが、蜘蛛の子を散らすように去っていった。
「...K様?」
「なによ」
「連絡先くらい、問題なかったのでは」
「仕事の邪魔でしょ」
「そうですかね。先輩方、現場のこと教えてくれるって言ってくれたので」
「あんたそれ本気でっ...ってもういいわ」
「?...はい」
(まあ、こいつに女の下心なんてわかるわけないか)
「...ったく」
カチューシャは、河野をじっと見た。
(...でも、なんで私、今止めたのかしら)
(別に、連絡先くらい、私には関係ない...じゃあなぜ)
(...わからないわ)
「K様?」
「なんでもないわよ。早く店教えなさい」
「はい...えっと場所がここから...」
カチューシャは、しばらく河野を見つめていた。
話はほとんど入ってこなかった。
(...なんでこんなに、むかついてるのかしら)
ーーーー
午後の撮影が始まった。
カメラが回ると、カチューシャの空気が変わった。
目が変わった。
声が変わった。
立ち方が変わった。
さっきまでのふわふわした空気が跡形もなく消えた。
スタジオ中が、息を呑んでその姿を見つめていた。
河野は、邪魔にならない場所から、それを見ていた。
「...すごい」
隣にいたベテランのスタッフが、小声で言った。
「新人くん、よく見ておきな。K様は現場に入ると、スイッチが入るんだ。十年やってるけど、毎回鳥肌が立つよ」
「十年...」
「私たちみたいなスタッフにも、いつも気を配ってくれる。口は悪いけど、ちゃんと人を見てる方だよ」
「はい。勉強させていただきます」
(...ちゃんと人を見てる)
昨日、ベンチで自分が友人たちに言った言葉と、同じだった。
そのとき、若いアシスタントが、小道具を持ち込むタイミングを間違えた。
「あっ...!」
小さな声が、静まり返ったスタジオに響いた。
カメラが止まった。
アシスタントの顔から、血の気が引いた。
「も、申し訳ございません! 私のミスです!」
スタジオ中が、凍りついた。
カチューシャが、ゆっくりと振り返った。
全員が息を止めた。
「...いいわ」
「え」
「今のは、私の立ち位置がずれてたのよ。もう一度、頭から撮りましょう」
「K、K様...」
「小道具の位置、次は私が確認するわ。あなたは動かなくていい」
「は、はいっ...! ありがとうございます!」
アシスタントが、深々と頭を下げた。
その目には、涙が滲んでいた。
カチューシャは、何事もなかったようにカメラの前へ戻った。
だが、それは彼女のフォローに他ならない。
間違いなく本当は彼女のミスだった
(立ち位置は、ずれてなかった)
(それでも、K様は自分のせいにした)
胸の奥が、じんと熱くなった。
隣のベテランスタッフが、小さく笑って河野の肩を叩いた。
その手が、ほんの少しだけ、名残惜しそうに肩に留まっていた。
「ね? ああいう人なんだよ、K様は」
「...はい」
「新人くんも、K様のそばで学べることは多いと思うよ」
「はい。頑張ります」
河野は、ノートに、少し震える手で一言だけ書いた。
『現場の彼女は本物のスターだった』
さっきより、少しだけ、力を込めて。
ーーーー
撮影が終わり、カットの声がかかった。
「オッケーです! K様、お疲れ様でした!」
拍手が起こった。
その中で、カチューシャは、スタッフ一人ひとりに声をかけていた。
「照明、今日の光の当て方、よかったわ。ありがとう」
「衣装さん、袖注文通りよ。流石ね、ぴったりだったわ」
「ヘアメイクの子、髪型の固定の技術は相変わらずね。崩れなかったわよ」
名前で呼び、具体的に褒めていく。
スタッフたちは、頬を紅潮させて何度も頭を下げていた。
河野は、その光景から目を離せなかった。
(全員の名前、覚えてるんだ)
(それに、ちゃんと見てる)
さっきまで、少しだけ緊張していた自分が、ばかみたいに思えた。
この人は、本物だ。
ーーーー
休憩時間。
カチューシャが椅子に座ると、河野が水のボトルを持ってきた。
「K様、お疲れ様です」
「...ありがとう」
「今日の撮影、すごかったです」
カチューシャが、スマホから目を上げた。
「...そう?」
「はい。カメラの前に立った瞬間から、全然違って。それに、あのとき」
「あのとき?」
「アシスタントさんのこと」
「...何のことかしら」
河野は、少し笑った。
「かっこよかったです」
カチューシャは、ほんの一瞬、動きを止めた。
「...当然よ、プロだもの」
「はい」
「私は、私の現場を守っただけよ」
「はい」
河野が、隣に座った。
「正直、最初は来るのちょっと嫌だったんですよね」
「...本人の前で言いなさんな」
「あはは、すみません。でも、今日来てよかったです。K様が、本物だってわかったので」
「...それ、褒めてるの?」
「すごく褒めてます」
カチューシャは、少し黙っていた。
(...この男)
いけ好かないと、ずっと思っていた。
今も思っている。
でも。
「...まあ、及第点ね。今日のあなたの仕事ぶり」
「ありがとうございます!」
「及第点よ。勘違いしないで」
(代役としては悪くなかったわね。流石ノンナね)
余韻に浸っていたそのとき。
静寂を破るように声がした。
「K様! ちょっとよろしいですか!」
声がした。
振り返ると、今日の主演女優——ベテランの大柄な女優が、少し緊張した面持ちで立っていた。
その視線は、河野に向いていた。
「...何? 打ち合わせならさっき済ませたでしょ」
「いえ、その件ではなく...あ、あの、K様。ちょっとだけ、こちらの新人さんとよろしい?」
「...え、お、俺ですか?」
「うふふっ、河野くん、だっけ? かわいいわねえ。今日が初出勤なんだって?疲れたでしょ。...そこで提案なんだけどね、食事でもどう?」
「あ、えっと...」
河野が、困ったように眉を下げた。
「ありがたいお話なんですが、今夜はちょっと」
「ちょっと? 予定でもあるの? あら、もしかしてお金の心配? 安心して、私が全部払ってあげるわ」
「あー、いや...その、予定はないですが」
「じゃあ大丈夫よね! 男の子は遠慮しなくていいのよ、私の行きつけのお店が...」
「あう...」
大女優の善意を、無下にはできない。
河野は、助けを求めるように、ちらりと視線を彷徨わせた。
その視線が、カチューシャと合った。
「...」
カチューシャは、無言で立ち上がった。
「河野」
「は、はい」
「今日の午後のスケジュール、確認しなさい」
「あ、はい。15時から次の撮影です。21時頃までかかる見込みで...」
「そういうことよ」
カチューシャが、河野と女優の間に、さっと割って入った。
「うちのマネージャーに、何か? 私の専属に唾つけようなんていい度胸ね」
その声は、静かだった。
けれど、スタジオの温度が、一度下がったような気がした。
「い、いえ! 滅相もございません!」
「そう。なら結構よ」
「し、失礼いたしました!」
女優が、恐縮しきって後ずさりながら去っていった。
河野が、ほっと息をついた。
「...K様、助かりました」
「別に助けてないわよ」
「でも、断り方がわからなくて、本当に困ってて」
「だから、助けてないって言ってるでしょ!」
「はい...ありがとうございます」
「...っ、お礼を言うなって言ってるのよ」
カチューシャは、内心で首を傾げていた。
(...なんで私、こんな言い方したのかしら)
(大女優相手に)
(別に、食事くらい行かせても)
(...わからないわ)
カチューシャのスマホが震えた。
差出人は、ノンナだった。
『順調ですか』
「...旅行中のくせに」
カチューシャは、返信を打った。
『別に報告することないわよ』
すぐに返信が来た。
『助けてあげたのですね。よかったです』
「...見てたの!?」
『どこから見てるのよ!!』
『北欧は寒いですから、室内で』
「答えになってないでしょ!!」
カチューシャが、スマホを投げつけそうになった。
河野が、慌ててその手を押さえた。
「K様、壊れます、壊れます」
「...っ、離しなさいよ」
「はい、すみません」
河野の手が離れた。
一瞬だけ触れた温度が、指先に残った。
河野が、くすっと笑った。
(...また、あの笑顔だ)
カチューシャは、また少し目を逸らした。
(...まあ)
(今日は悪くなかったわ)
その先は、心の中にしまっておいた。
感想、ご意見気軽にください。励みにします。
〇〇出して欲しい、〇〇はこう言う設定がいい等も嬉しいです。
参考にさせていただきます。
基本的にガルパンのキャラは全部okです。