二週間目に入った頃から、カチューシャの「素」が少しずつ漏れ始めた。
最初は、ランチの時だった。
「K様、今日のランチはこちらです」
「...何これ」
「パスタです。シェフのおすすめだそうで」
「...いただきます」
カチューシャが、一口食べた。
「...っ」
目が、輝いた。
「おいしい...!」
「よかったです」
「すごくおいしいわ、これ!」
「パスタ、お好きなんですか」
「大好きよ! というかイタリアン全般が」
「知りませんでした」
「...あ」
カチューシャが、少し固まった。
(...はっ...私なんてテンションで)
「見たでしょ!!」
「え、何を」
「ごまかさないで!」
「料理のことですか? 目、輝いてましたよ」
「輝いてない!!」
「気に入っていただいて何よりです」
「...うるさいわね」
カチューシャが、また一口食べた。
また、目が輝いた。
「...まだ輝いてますよ」
「見ないでくれる!?」
「はい...でも、また輝いてます」
「だからっ!!」
その様子を、少し離れたテーブルから、ウェイトレスの女性がにこにこと見守っていた。
河野は、ふと席を立ち、彼女に小さく声をかけた。
「すみません、追加でいいですか」
「はい、何になさいますか?」
「その...デザートも何か。ティラミスとか、ありますか」
「ございますよ」
「じゃあ、それをお願いします」
「かしこまりました」
戻ってきた河野に、カチューシャが不思議そうな顔をした。
「...何、頼んだの」
「デザートです。甘いものお好きですよね」
「聞いてないわよ」
「言ったら、いらないって言いそうだったので」
カチューシャは、少し眉を寄せた。
「...勝手に決めないでくれる?」
「すみません」
「別に、いらなかったのに」
そう言いながらも、運ばれてきたティラミスを見る目は、少し落ち着かなかった。
「...食べないわよ、こんなの」
「そうですか。じゃあ、俺が」
河野が、フォークを伸ばしかけた。
「っ、待ちなさい」
カチューシャが、フォークを奪うように手に取った。
むっとした顔のまま、一口、口に運んだ。
「...っ」
目が、輝いた。
「...おいしい」
「よかったです」
「別に、あなたのおかげじゃないわよ。これはこれで、美味しいってだけ」
そう言いながら、もう一口食べる。また、目が輝く。
「...まだむっとしてます?」
「してないわよ!」
「目、輝いてますけど」
「見ないでくれる!?」
河野が、ふわっと笑った。
「あ、K様」
「なによ」
「口元、ついてます」
「...え」
「そこ、右側」
カチューシャは、慌てて指で拭った。的が外れていた。
「...もう少し右です」
「わかったわよ!」
もう一度、拭った。まだ、残っていた。
河野が、少し身を乗り出して、自分の親指で、そっと拭った。
「...っ」
カチューシャは、固まった。
「はい、取れました」
しばらく、何も言えなかった。
(誰かに、こんな風に世話を焼かれたの)
(いつぶりかしら)
そこまで考えて、はっとした。
(ノンナみたいになってきたわね、こいつ)
頬が、少し熱かった。夕方の光のせいだと思うことにした。
「...ノンナよりは、下手ね」
「え、何のことですか」
「なんでもないわよ」
カチューシャは、そっぽを向いて、残りのティラミスにフォークを刺した。
その様子を、少し離れたテーブルから、ウェイトレスの女性がにこにこと見守っていた。
「あ、あの、河野さん」
「はい?」
「K様、いつもあんな感じなんですか?」
「はい、いつもこんな感じですよ」
「え」
ウェイトレスが、少し目を丸くした。
「いつもですか?」
「はい。好きなもの食べるとすぐ目が輝くので」
「...そうなんですね。てっきり、新人さんの前だからかと...」
「そうですかね。俺には、普段通りに見えるんですけど」
河野は、首を傾げた。
ウェイトレスは、それ以上何も言わず、にこやかに厨房へ戻っていった。
(新人くん、案外見えてないのね)
彼女は、そんなことを思いながら、厨房の奥で小さく笑った。
ーーーー
その夜。撮影が長引いて、帰りが遅くなった。
原因は、私の小さなミスだった。
台詞を一箇所、嚙んでしまった。何度も撮り直したベテランの現場で、私には珍しいことだった。
「K様、お疲れ様でした。帰りましょうか」
「...そうね」
いつもより、返事が短くなった。
河野は、それに気づいたが、何も言わなかった。しばらく、二人とも黙って歩いた。
駐車場までの道は、いつもより長く感じた。
「疲れましたか」
「疲れてないわよ」
「そうですか」
また、沈黙が続いた。
私は、前を見たまま歩いていた。表情は、いつもと変わらないようにしていたつもりだった。
でも、足取りだけが、少し重かった。
河野が隣を歩きながら、ちらりと横顔を見ているのがわかった。
何か言いたそうで、言わない。そんな顔だった。
車に着いても、私はすぐに乗り込まなかった。ドアの前で、少し立ち止まっていた。
「...K様?」
「...なんでもないわ」
そう言って、車に乗り込んだ。
後部座席で、二人並んで座った。ドライバーが仕切りのガラスを上げると、車内は静かになった。
私は、窓の外を見ていた。
河野も、何も言わなかった。ただ、ノートを閉じて、膝の上に置いていた。
信号が、赤になり、車が止まる。
しばらくして、私は少しうつむいた後、小さく口を開いた。
「...今日長引いた原因って監督から聞いてるのかしら」
「あ、はい。少しだけ...」
「自画自賛する気はないけど、私ミスしないのも売りだったのよ」
「そうなんですか」
「いままで大きなミスなんて、ほとんどしたことないし」
河野は、何も言わずに聞いていた。
信号が、青に変わった。車が、また動き出した。
私は、しばらく黙っていた。窓の外を、街灯の光が流れていった。
(...現場は、結果がすべて)
(どれだけ練習したかなんて、誰も見てくれない)
昔から、そう教えられてきた。
まだ新人だった頃に耳に耳にタコができるほど聞かされた。
監督にも、先輩にも、繰り返し言われた。
練習でどれだけできても、本番で失敗すれば、やっていないのと同じだ、と。
(だから、今日のあれは...)
(失敗よ。ただの、失敗。努力は水の泡)
喉の奥が、少し熱くなった。
(...だめ)
(今、泣くところじゃない)
「...ねえ、河野」
「はい」
「あなたは、無駄な努力にどれだけの価値があると思う? 結果が出なかったり、報われなかった経験に、意味はあるのかしら」
「え」
「いいから、答えなさい」
河野は、少し考えた。
「うーん...そうですね...」
しばらく悩んだ後、小さくうなずくと話し始めた。
「世間的には無価値でしょうね。努力は、結果に至るまでの過程にすぎませんし、結果がでてこそ努力は評価されると思います」
私の肩が、わずかに動いた。
(...やっぱり、そうよね)
(今日の練習も、全部...無駄な)
「...ですが、俺はこの考え方は嫌いです」
河野が、続けた。
「俺は、その過程も、経験も必要だと思っています。無価値な努力なんて存在しません」
「...だったら」
「...無駄じゃなかったと思いますよ。今日のミスも」
河野が、少し考えながら、言葉を選んだ。
「控室で、何度も台本を読んでたじゃないですか。移動中も、口の中で何か呟いてたし。あれ、練習ですよね」
「...見てたの」
「見てました、マネージャーなので」
河野が、静かに頷いた。
「結果的に嚙んでしまったのは、確かに残念でしたが...練習してたこと自体は、無駄になんかならないと思います」
「...どうして、そう言い切れるのよ」
「俺が見てましたから」
カチューシャは、思わず息を止めた。
「結果だけ見たら、ただのミス...かもしれません。世間はK様の練習のことなんて知らないですから。でも、俺は知ってます。K様が、どれだけその一言のために時間をかけてたか」
「...」
「確かに結果が評価される世界ですが、その過程を見てくれる人は必ずいますよ」
その言葉が、ゆっくりと、胸の奥に染み込んでいった。
(見ていてくれた)
(誰も知らないはずの、あの時間を)
(この人だけは)
その瞬間、別の記憶が重なった。
(...お母さん)
小さい頃、練習ばかりしていた母の背中。
世間での「女優」としては大成できなかったが、私にとっては彼女を超える大女優は存在しなかった。
台所で、鍋を混ぜながらも、台詞を呟いていた母。
誰も見ていない場所で、誰よりも、一生懸命だった人。
「本気でやってる人が、一番かっこいいのよ」
そう言って、笑っていた母の顔が浮かんだ。
あの頃、母の練習を見ていたのは、自分だけだった。
結果を出せなかった母を、世間は誰も覚えていない。
でも、自分だけは、あの背中を覚えている。
(...そうか)
(努力を見てくれる人がいることがこんなにうれしいなんてね)
目の奥から、堪えていたものが、ひとつ、こぼれ落ちた。
頬を、一筋、伝った。
「...っ」
慌てて、窓の外を向いた。指先で、拭った。
「K様?」
「...なんでもないわ」
声が、震えていた。
河野は、それ以上、何も聞かなかった。
窓の外の景色が、ゆっくりと流れていく。しばらく、どちらも口を開かなかった。
河野は、何も聞かなかった。
ただ、少しだけ、体をこちらに寄せた。
肩が、ほんの少し触れた。
それだけだった。何も言わずに、そこにいた。
なぜか少しだけ呼吸が楽になった。
やがて、車が大通りに入り、街の明かりが増えてきた頃。
私は、また小さく、口を開いた。
「...疲れてるのかもしれないわね、少し」
誰の前でも言わなかった言葉だった。
ノンナの前でさえ、言わなかった。
「...なんでもないわ、今のは」
「え、でも今、疲れたって」
「聞き間違いよ」
「はっきり聞こえましたけど」
「...」
私は、自分の手のひらを、じっと見た。爪の跡が、薄く残っていた。
(...なんで)
(こいつの前だと)
理由は、わからなかった。ただ、否定しようとした声が、思ったより弱かった。
「...まあ、ね」
「はい」
「今日は、疲れたわ。少しだけ」
「はい」
河野は、それ以上何も聞かなかった。ただ、隣で頷いただけだった。
その素っ気なさが、なぜかありがたかった。
「...あなた、たまに変なこと言うわね」
「変ですか」
「K様が疲れる、なんて言う人、あまりいないのよ」
「そうですか」
「みんな当然だと思ってるから」
「...そうですかね」
「そうよ。だから言わないの」
「...それは、損ですね」
「損?」
「疲れたって言っていいと思いますよ。プロでも、人間なので」
「...そうね」
私は、それ以上、何も言わなかった。
「...あなた、今日で二週間目が終わるわよ」
「そうですね」
「明日で最後よ」
「...そうですね」
「感想は」
河野が、少し考えた。
「楽しかったです」
「...それだけ?」
「あと、K様のことが少しわかった気がします」
「...どんなふうに」
「すごい人だなって、最初から思ってたんですけど」
「当然よ」
「でも、すごい人なんだけど、ちゃんと人間なんだなって」
私は、何も言えなかった。
(...さっき、認めたばかりじゃない)
(人間だって)
「...うるさいわね」
「すみません」
「...まあ」
「はい」
「...悪くなかったわよ、二週間」
河野が、ふわっと笑った。
「俺もです」
私のスマホが震えた。
『明日で最後ですね』
私は、返信を打った。
『そうよ。旅行終わってきなさい』
すぐに返信が来た。
『北欧は名残惜しいですから』
「...いつ帰ってくるのよ!!」
『北欧は寒いですから、もう少しかかります』
「嘘をつきなさい!!」
河野が、また笑った。
私は、夜空を見上げた。
(...明日で最後か)
胸の奥で、何かがちくりとした。
(...別に)
(ノンナが帰ってくるだけよ)
(それだけよ)
そして、もうひとつ。
(...疲れたって、言っちゃったわね)
(あいつの前でだけ)
(なんでかしら)
答えは、出なかった。
その先は、また心の中にしまっておいた。
感想、ご意見気軽にください。励みにします。
〇〇出して欲しい、〇〇はこう言う設定がいい等も嬉しいです。
参考にさせていただきます。
基本的にガルパンのキャラは全部okです。