最終日の朝。
「おはよう、K様」
「おはよう」
いつも通りの挨拶だった。
けれど、カチューシャは、いつもよりほんの少しだけ、河野の顔を長く見た。
(...今日で、最後か)
「今日の予定は?」
「午前が最後の撮影、午後はCMの打ち合わせがあります」
「そう」
ーーーー
午前の撮影は、順調だった。カメラが止まり、拍手が起こった。
「オッケーです! K様、二週間、お疲れ様でした!」
スタッフたちが、口々に声をかけてくる。
「河野さん、本当に助かりました!」
「K様、彼を借りてよかったわね」
「当然よ、ちゃんと雇用契約結んでるんだから」
「あははっ、そうでしたね」
カチューシャが訂正しても、スタッフたちは笑うばかりだった。
和やかな空気の中、河野が少し、スマホを気にしているのに気づいた。
「...どうしたの」
「あ、いえ、何でもないです」
その時、少し離れた場所で、スタッフたちがひそひそと話している声が、風に乗って聞こえてきた。
「...例の件、本当なんだって?」
「気の毒にな...でもあの監督だしな、下手に口出しもできないよな」
「K様、まだ知らないんでしょ?」
カチューシャは、聞こえないふりをして、衣装の片付けに戻った。
ーーーー
その日の昼過ぎ。
河野は「ちょっと買い出しに」と言って、一人で現場を離れた。
本当は違った。
河野は、スタッフから耳にしたのだ。
カチューシャが長年主演を熱望していた次回作——その座が、別の女優に差し替えられようとしている。
だが、オーディションを勝ち抜き、練習を重ねてきた彼女を降板させるには到底納得できない適当な理由だった。
「イメージが合わない」「スケジュールの懸念」「予算の都合」。
でも、現場では誰もが知っていた。
これが監督の気まぐれだと。
(...K様が、ずっと練習してたのに、こんなの納得できない)
河野は、気づけばその監督が打ち合わせをしているという別のスタジオの前に立っていた。
ノックをする手が、少し震えていた。
「失礼します、少しお時間よろしいでしょうか」
「...誰だ」
振り返ったのは、恰幅のいい、厳めしい顔つきの男だった。業界でも、気難しいことで有名な監督だった。
「あの、K様のマネージャーの、河野と申します」
「ああ、噂の。それで?」
「次回作の件で、お話が」
監督が、わずかに眉を上げた。
河野は、深呼吸をして、続けた。
「K様は、あの役のために、何週間も準備してました。発声も、所作も、何度も練習して。それを、理由も曖昧なまま降ろすのは、おかしいと思います」
「...おかしい、ね」
「はい。理由を聞かせてください」
監督は、しばらく河野を見つめた。その視線が、少しずつ、値踏みするようなものに変わっていった。
「君、マネージャーだろう。本人は、何も言ってこないのに」
「K様は、きっと言いません。プライドがありますから」
「だから、君が代わりに来たと」
「...はい」
監督が、ふっと笑った。それは、河野の予想していた反応とは、違う種類の笑みだった。
「面白い。誰かが私に、面と向かって文句を言いに来るなんて、久しぶりだ」
「...え」
監督は、腕を組んで、改めて河野を頭から足先まで、じっと眺めた。
「それに、随分と度胸のある、かわいらしい顔をしている」
「...は?」
「君、名前は」
「河野、です」
「河野くん。いい名前だ。気に入った」
「え、いや、仕事の話をしに来たんですが」
「ああ、わかってる。でも、それはそれとして」
監督が、一歩、距離を詰めた。
「うちのスタッフにならないか。マネージャーより、もっと近くで見ていたい」
「...お断りします」
「即答か。ますます気に入った」
監督が、楽しそうに笑った。その目は、明らかに、仕事相手を見る目ではなかった。
河野の顔からは、血の気が引いていた。
ーーーー
その夜。
休憩室で、河野の姿が見当たらないことに、カチューシャが気づいた。
「...どこ行ったのよ、あいつ」
スタッフに聞くと、昼間、例の監督のスタジオに向かったらしい、という話が返ってきた。
「...は?」
血の気が、引いた。あの監督の悪癖は、噂で聞いていた。気に入った若い男を、見境なく口説くことで有名だった。
カチューシャは、すぐに車を呼んだ。
ーーーー
監督のスタジオに着くと、中から、声が聞こえてきた。
「それで、河野くん、うちに来る気はないんだね?」
「ないです」
「頑固だな。でも、そういうところも、いい」
監督が、ぐっと河野の腕を引き寄せた。
「お願いですから、離してください」
「照れるな照れるな。君が来てくれるなら——」
扉が、勢いよく開いた。
「河野から、離れなさい!」
カチューシャが、肩で息をしていた。
「K様!?」
監督は、河野を抱き寄せたまま、にやりと笑った。
「あら、噂の。あなたが、カチューシャさんね」
「...今すぐ離してください」
「いいじゃない。少しくらい」
「監督」
カチューシャの声が、低くなった。
「ふふっ。じゃあ、取引しましょうか」
監督が、河野の顎に、指先をかけた。
「この子を、私のところによこしなさい。そうすれば」
監督が、口角を上げた。
「あの役、あなたのままでいいわよ」
「...は?」
「簡単な話よ。あなたは女優の座を守りたい。私は、この子が欲しい。利害が一致するでしょう」
「K様、俺のことは気にしないで——」
「黙ってなさい」
カチューシャの声が、震えていた。怒りで。
「...今、なんて言いました」
「聞こえたでしょう。この子を渡せば」
「ふざけないで!!」
カチューシャの怒声が、スタジオに響いた。
「人を、取引の道具みたいに扱うな!」
監督の笑みが、少し固まった。
「役が惜しくないの?」
「惜しいに決まってるでしょう! でも」
カチューシャは、監督をまっすぐ睨んだ。
「それと、これとは、話が別よ。あなたが欲しいのは、役者としての私でしょう。だったら、役者として、正々堂々、勝負しなさい」
「...」
「河野を離して。今すぐ」
監督は、しばらくカチューシャを見つめていたが、やがて、河野の腕を離した。
「河野、こっちに来なさい」
河野が、慌てて、カチューシャの後ろに下がった。
「...面白いわね、あなた」
監督が、小さく笑った。先ほどまでの下世話な笑みとは、少し違う種類だった。
「監督。次回作、私を降板させるそうね」
「ああ、あれね。降板なんて人聞きの悪い。急遽別の子にお願いすることにしただけよ。よくある話でしょ」
「理由は?」
「イメージが——」
「嘘はいいわよ。時間の無駄」
カチューシャの声が、再び鋭くなった。
「気まぐれでしょう。いつもの、それとも私が気に入らないのかしら? まあ、どっちでもいいけど」
「ふん、好き勝手言ってくれて構わないわ。裁定権は私にあるのよ。文句を言われたところで取り下げなんて...」
「別にいいわよ。あなたの映画よ、私が口出しする権利はないわ。...ただ、やり方が卑怯だっていってんのよ」
「...何が言いたい?」
監督の表情が、少し変わった。
「少しでも監督としてのプライドがあるなら、公平にオーディションで決めなさい。代役は代役足りえる奴じゃないと作品も泣くわよ」
「へえ、面白い。でも虫がいいわね。勝手に条件持ち込んどいて無条件で参加します? あなたこそ卑怯じゃないかしら」
「確かにそうね...いいわ。じゃあそのオーディションに落ちたら引退する」
「...ほう」
スタジオ中が、静まり返った。
「気に入らない女優を大義名分でつぶせるチャンスを与えてあげるわ。どう? 興は乗ったかしら」
「K様、そんな——」
「黙ってなさい、河野」
監督は、しばらく、カチューシャを見つめていた。
やがて、ゆっくりと口角を上げた。
「ふん、面白いわね。いいわ。その勝負乗ってあげる。...ただし、本気で用意させてもらうわよ。この私に逆らった代償、きっちり払ってもらうから」
ーーーー
三日後。
オーディション会場には、監督の一声で集められた業界でも名の知れた大物女優が、3人揃っていた。
カチューシャは、その中の一人として、順番を待っていた。
「K様、大丈夫ですか」
河野が、小さな声で聞いた。
「...ええ、問題ないわ」
声は、いつも通りだった。
そして、彼女の目はまっすぐに舞台に向いていた。
その姿には一切の怖気や恐怖なんて感じなかった。
「...俺、信じてますよ」
「...当然よ」
カチューシャは、台本に目を落とした。
(あの夜、言われたこと)
(俺が見てましたから)
(結果がどうであれ、努力した自分のことは、自分が一番よく知ってます)
その言葉が、まだ、胸の奥に残っていた。
(...好きな相手の前でかっこつけないとね。...今度は、結果も見せてあげる)
名前が、呼ばれた。
「...行ってくるわ、わたしの姿、目に焼き付けなさい」
「...はい!」
カチューシャは、舞台の中央に立った。
照明が、当たった。
目を閉じた。
開いた瞬間、空気が変わった。
ーーーー
その演技は、誰もが言葉を失うものだった。
台詞の一つ一つに、感情が宿っていた。立ち振る舞いに、迷いがなかった。かつてのミスの記憶も、不安も、全部、演技の中に溶け込んで、役そのものになっていた。
監督は、審査席で、微動だにせず見つめていた。
ある台詞の瞬間——母を失った役が、それでも前を向こうとする、あの一言。
監督の目が、見開かれた。
(...これは)
脳裏に、遠い記憶が蘇った。
ーーーーーーーーーーーーーー
二十年以上前。
まだ監督として駆け出しだった頃。
1人の女優が、同じような台詞を、同じような表情で演じていた。
才能がなかったわけじゃない。いや、違う。
誰よりも、努力していた。それが、唯一にして絶対の彼女の才能だった。
私はその姿に確かな光を感じていた。
だが、結果が、出なかった。正確には出させてもらえなかった。
プロデューサーも、スポンサーも、誰も彼女を評価しなかった。理由は適当だ。
地味だ、華がない、客が呼べない。そんな声ばかりだった。
私は、彼女の才能を信じていた。でも、同じくらい自分がかわいかった。
だから周りに逆らえなかった。
逆らえば、自分の仕事がなくなる。
彼女を、降ろす側にまわった。
自分の立場を守るために私は彼女をつぶしたのだ。
その女優は、それから、静かに業界を去った。
誰も覚えていない。
でも、私だけは覚えていた。
私の人生の中で、消えることのない唯一の後悔だった。
(...あの人、娘がいたのね)
演技が、終わった。
スタジオは、しばらく、静まり返っていた。
やがて、拍手が、鳴り止まなかった。
ーーーー
「...あなたのお母さん、もしかして女優をやっていたかしら」
結果発表の後、監督が、カチューシャに静かに声をかけた。
「...知ってたの」
「いえ、知らなかったわ。でも、今、わかった。あなたは、間違いなく、あの人の娘よ」
監督が、深く息を吐いた。
「二十年以上前、あの人の演技を、初めて見た時」
監督の目が、遠くを見た。
「...震えたわ。本物だと思った。こんな才能、滅多に出会えないって。だから覚えてるわ」
「...」
「でも、誰も彼女を評価しなかった。私はそれが悔しかった...はずだった」
監督が、拳を、きつく握った。
「...でも、周りに逆らえなかった。逆らえば、自分の仕事も、なくなると思った。...だから」
声が、震えた。
「彼女をつぶしたのは私よ」
カチューシャが、息を止めた。
「...あなたが」
「そうよ、自分を守るためにね...最低よね」
スタジオが、しんと静まり返った。
「...今日、急にそれを白状したのはなぜかしら」
「あなたが嫌いな理由に気が付いたから...だと思うわ」
監督が、顔を上げた。目に、涙が滲んでいた。
「ずっとわからなかったの。あなたを見るたびにイライラする、もやもやする、この嫌悪感の理由が」
「...」
「でも今日、はっきりとわかった。...私は無意識に、あなたを視界から消したかったのよ。この役から、遠ざけることで、あの時の後悔ごと、見ないふりをしたかった」
監督が、唇を噛んだ。
「情けない話よ。何を言ったって許せることじゃないわ。...少なくとも私があんたなら殺してやりたいと思うわ」
しかしこれだけの独白をされてもカチューシャの中で、怒りはわかなかった。
(...私だけじゃ、なかったんだ)
ずっと悔しかった。
母の努力を知っているのは、母を覚えているのは、自分だけだと思っていた。
誰にも評価されないまま、消えていった人だと。世間にとっては、最初からいなかったのと同じだと。
それが彼女にとっては許せないことだった。
だから私は女優になった。馬鹿にしたすべての人を見返すために。
大女優の娘だと胸を張って世間に言えるように。
(...この人もずっと、覚えてた)
奮起した日から今までの思い出が胸の中に流れ込んできた。
母は確かに世間からは見捨てられた。
でも、完全に忘れられていたわけじゃなかった。
たった1人でも、あの才能を本物だと信じて、今も忘れられずにいる人間がいた。
ーそれだけで、何かが、少しだけ救われる気がした。
「...あんたのこと、軽蔑してもいいところだけど」
カチューシャは、声を絞り出した。
「...ええ」
「でも」
カチューシャの目に、涙が滲んだ。
「今日まで、私だけだと思ってた。母の演技を、本物だったって思ってくれる人は」
「...」
「あんたは覚えていてくれた」
声が、震えた。
「...それだけは、ありがたいと思うわ」
監督が、何も言えずに、カチューシャを見ていた。
「私ね、母の演技、見たことないの。写真と、ビデオが少し残ってるだけ。...だからずっと知りたかったお母さんが現場でどんな演技をしていたのか、母親を見てくれている人をずっと探してた」
カチューシャは、涙を拭った。
「やっと見つけた、母親を覚えてくれていた人を」
「...忘れるわけないわ。そしてこれからも、彼女は間違いなく本物の女優よ。私が保証するわ」
「だったら...よかったわ」
カチューシャは、まっすぐ、監督を見た。
「母は、少なくとも、あんたにはちゃんと届いてたのね」
監督が深く頭を下げた。
「...あなたにも、あなたのお母さんにも。本当に申し訳なかった」
「...許したわけじゃないわよ」
カチューシャが、静かに言った。
「でも、過去は変えられない。今日からは、ちゃんと逃げずに私を見なさい」
「ええ。誓うわ」
監督が、顔を上げた。その目には、かつての厳めしさはなく、ただ、誠実な敬意だけがあった。
「役は、あなたのものよ。最初から、他の誰でもなかった」
「...当然よ」
カチューシャが、ふっと、いつもの調子を取り戻した。
「それから、もうひとつ」
監督が、少し、改まった声で言った。
「言っても、許してもらえるとは思っていないけれど」
「...なによ」
「あの人をつぶした罪滅ぼしができるとは思ってないけど、せめて」
監督が、まっすぐ、カチューシャを見た。
「...これから先、あなたを支えさせてほしい。この後悔を忘れないように」
カチューシャは、しばらく、何も言わなかった。
「...図々しいわね」
「わかってる」
「でも」
カチューシャは、小さく、息を吐いた。
「...あんたになら、ちょっとくらい、甘えてやってもいいわよ」
監督の顔が、少しだけ、ほころんだ。
「それと」
監督が、涙を拭いながら、少しだけ、苦笑いを浮かべた。
「君のマネージャーに、妙なちょっかいを出したのも、謝る。あれは、完全に、私の悪い癖だ」
「...今後、気をつけなさいよ」
「約束する...いえ、約束します。K様」
ーーーー
夕方。
カチューシャは、スタジオの外のベンチに、一人で座っていた。
緊張の糸が切れたのか、体に、力が入らなかった。
「K様」
河野が、水のボトルを持って、隣に座った。
「...お疲れ様でした」
「...ええ」
「すごかったです。あの演技」
「当然よ」
いつもの台詞だった。でも、声は少し掠れていた。
「...俺、あの監督のところに勝手に行ったの、本当にすみませんでした」
「...もう、いいわよ」
「変なことになって、すみません」
「あなたのせいじゃないわ。あの監督の、悪い癖よ」
「はい...ちょっと怖かったです」
河野が、少し遠い目をした。カチューシャは、思わず、少し笑ってしまった。
「でも」
カチューシャは、空を見上げた。
「あなたが、行かなかったら、私は、何も知らないまま、役を失ってたかもしれない。あなたが、動いてくれたから」
「...K様」
「ありがとう、とは言わないわよ」
「言わなくていいです」
「でも」
カチューシャが、少しだけ、口元を緩めた。
「...悪くなかったわ、あなたのおかげで」
河野が、ふわっと笑った。
カチューシャは、その笑顔を、少しの間、見つめていた。
(...この二週間)
(本当に、あっという間だった)
夕日が、二人を照らしていた。
明日からは、もう、この時間はない。
それでも。
「...河野」
「はい」
「あなたは、いいマネージャーだったわ」
「ありがとうございます」
「...でも、もう一緒に仕事することは、ないでしょうね」
「そうですね。明日からノンナさんが戻りますし」
河野が、あっさりと頷いた。
カチューシャは、その鈍さに、少しだけ、笑ってしまった。
(...本当に、何も気づいてないのね)
(まあ、それでいいわ)
「...寂しくなるな、って言ってほしかったの?」
「あ、はい。寂しくなります」
「すぐ言うじゃない」
「本当にそう思ってるので」
カチューシャは、何も言わずに、夕日を見た。
胸の奥に、名前のつけられない何かが、残っていた。
それを、言葉にすることは、しなかった。
(...まあ、いいわ)
(これは、これで)
その先は、また、心の中にしまっておいた。
次回でカチューシャ編最終回です
※
このキャラ出して欲しい、この子はこう言う設定がいい等があれば気軽にください。
参考にさせていただきます。
基本的にガルパンのキャラは全部okです!
感想、意見お待ちしています!励みになります。