4話を一部修正して襲撃犯の人数を増やしました。
烏たちが群れを成して空を羽ばたいていた。
ここしばらくは気持ち良いを通り越して恨めしいくらいに青色しかなかったフェジテの空を、白から灰へとグラデーションを描く雲が徐々に侵食していく。
やがて紗を引いたような薄い雲から、暗幕のように重い雲に変わっていき、アルザーノ帝国魔術学院を照らす日差しを遮っていた。
「ち――何が起きた!? 一体、何がどうなってやがる! クソッタレが!」
樹木と鉄柵で囲まれる魔術学院敷地の正門前にて。
血を流して倒れていた守衛たちが既に息をしていないことを確かめたグレンは、激情に駆られて思わず地面を叩いた。
自身を襲った小男キャレルを返り討ちにしたグレンは一応学院関係者であるにも関わらず学院の結界に弾かれてしまう。
「……結界の設定が変更されてやがる。面倒臭ぇことしやがってッ!」
幸か不幸か、この事態の下手人が展開した人払いの結界は効いているらしく、周囲には誰もいない。彼らは落ち着いて状況を整理してみることにした。
遅刻寸前であったグレンを襲ったキャレルを返り討ちにし、嫌がらせに裸にひん剥いたときに判明したこと。
その男の腕には短剣に絡みつく蛇の紋――あの忌むべき組織の紋章が彫られていたのだ。
天の智慧研究会。それはこの帝国に蔓延る最古の魔術結社の一つ。彼らの言葉通りに活動する外道魔術師たちの巣窟であり、その常人と相容れぬ思想ゆえに歴史の中で常に帝国政府と血を血で洗う抗争を続けてきた最悪のテロリスト集団、魔術界の最暗部だった。
「だが……連中、何が目的なんだ? なんのためにこの学院を?」
天の智慧研究会が何が目的で学院に侵入したのかがわからない。一瞬魔導書や、博物館の封印倉庫に収められている魔導具や魔導器などが目的と思ったが不自然なくらいに静かすぎる。
「くそ……連中があの馬鹿共なら、町の警備官じゃ手に負えん……対抗できるのは宮廷魔導士団くらいしかない……あぁクソッ! セリカの奴、早く出ろってんだ!」
グレンは半割りの宝石を耳元に当て、何度も魔力を送っている。これはグレンの育ての親である大陸最強の魔術師セリカ=アルフォネアと直通で会話ができる通信用の魔導器だが、彼女が応じる気配は一向にない。
「ちくしょう、こんな肝心な時にッ!」
グレンは悪態を吐きながら乱暴気味にその宝石をポケットに突っ込み、セラは苦笑交じりにため息を吐く。
そして懐から一枚の割符を取り出し、見つめる。
一応は返り討ちにしたキャレルが持っていた消費付呪型の魔導具、要するに使い捨て。それを使え一度結界内に入れることは出来ても、黒幕を倒すまで学院から出ることはできない。
敵の戦力が未知数。その中に一人で飛び込むのは自殺行為以外何物でもない。
なら、帝国宮廷魔導師団の到着を待つのが最善だが、到着までにどれほどの時間がかかるのだろうか。
勝手に動くことは危険と思ったグレンは今からでも警備官に連絡しようと思った瞬間。
パリィン!
「な!?」
グレンの視線が上がる。間違いなく窓ガラスが割れた音だ。時間が立たない内に、重力に抗うことなく地面へガラスのカケラが落下し、更に粉々になる。
落ちた枚数はそれほどではない。現に窓を見れば残ったガラスは窓枠に嵌められており、穴が開いたことによって放射状に広がった罅が後から続いた【ライトニング・ピアス】によって押し出された形だ。落ちた枚数はそれ程では無い。
グレンの額に冷たいものが走る。
もし、あれが生徒達に向けられたものだとしたら?
今ので誰かが殺されたのか?
妙な動悸に襲われ、脂汗が止まらないグレンは焦燥に身を焦がす。
バアン!
「―――はっ!?」
今度は校舎のどこからか銃声の音が鳴り、グレンの耳朶を震わせた。
――もう四の五のと迷っている暇はない。タイムリミットは既に迫り始めている。
「ちきしょう、行くっきゃねえのか!」
腹を決めたグレンは割符を結界にかざし、そこに書かれているルーン語の呪文を読み上げる。すると、ガラスが何かが砕けるように門を覆っていた結界に穴が開く。
「ええい、なるようになれ!」
その穴を潜ってすぐに正門から金属音が響き渡るが、グレンは振り返りもせずに、焦燥の表情で校舎へと全速力で駆け出していくのであった。
♢♦♢
「おい、ちょっとトイレ行ってくるからここ頼むわ」
東館二階の二組の教室の扉の前にいる黒装束の一人が、残る二人に要求する。
「待て、勝手に持ち場を離れるな」
「構やしねえよ。あのロープはそう簡単に外せねえさ。第一、ガキどもの見張りと見回りをする必要ねえだろうがよ」
「しょうがないだろ。あの生真面目なレイクの命令なんだからよ」
学院の魔導セキュリティを破って校舎に侵入した天の智慧研究会の外道魔術師達は、既に二組の教室を制圧していた。
仲間の一人である、都会にいそうなチンピラ風のバンダナの男―――ジンが威嚇で三度も乱射した軍用魔術【ライトニング・ピアス】と、彼の何人もの人間を殺した者だけが放てる本物の殺気に、耐性のない生徒達は恐怖に呑まれてしまった。
そして、生徒達が怯えて動けないでいる中、リーダー格であるダークコートの男――レイクがルミアを連れ去った後、ジンと他の三人は教室に残された生徒達全員を【マジック・ローブ】で縛り上げ、呪文の起動を封じる【スペル・シール】の魔術をかけ、完全に無力化した。
後はロックの魔術で教室に鍵をかけ、用事がすむまで生徒達を完全に閉じ込めるだけでよかった。
だがすぐに計画外のことが起こってしまった。
一作業が終わった後、何を思ったかジンはシスティーナを連れて教室を出ていってしまったのだ。
その上、生徒たちを拘束している途中で校舎のどこかから銃声のような音が鳴り響き、先行していたヴラムからの連絡が取れなくなっていた。
それからすぐに通信用の結晶石越しにレイクから『警戒を怠るな』という命令が下ったのだが………彼らにはまったく緊張感がなかった。
「俺はあの《竜帝》に逆らう勇気なんかねえよ。命令違反なんかしちまったら確実に殺されちまう」
「それ言えてる。ジンの奴、ホント馬鹿だよな」
「けどよ、流石にトイレ休憩ぐらいで命令違反にはならないだろ?」
「まあ、確かにな…」
「あっ、それなら俺も念の為行っとくわ」
「解った解った…なるべく早く済ませるんだぞ」
「はいはい」
そう言って黒装束の二人が廊下を歩き出し、幅の広い折返し階段を昇って行ったところで二人の姿が見えなくなった。
残された一人が、去り行く背中に呼びかける。
「おい、どこに便所があるか解ってるんだろうな?」
しかし、仲間たちからの返事がない。
「おい、返事ぐらい……」
自分も階段を昇って呼びかけるが、彼は状況がおかしい事に気が付いた。
先程二人で向かった筈なのに、三階には一人しか立っていなかった。
「ん? おい、あいつは何処に行った?」
金色の髪がツンツンと逆立っている男は消えた仲間の居場所を尋ねるが、やはり返事は戻ってこなかった。
「おい、どうした!」
三階の廊下の仲間は全身をカタカタと震わせている。そして、ようやく声を絞り出して答えた。
「き………消えた………」
「は?」
近くの窓に背を向けながら、男はなおもガクガクと震えている。
「消えたんだよ、こう、何かが後ろを通り過ぎたと思って振り返ったらもういな………」
「おい! 後ろ!」
金髪の男が唐突に悲鳴を叫ぶ。
等間隔に並ぶ廊下の窓の一つ、仲間の立っている後ろの窓に、黒い人影が映ったのだ。
室内の何かが反射したわけではない。そもそもその窓は最大限に開かれているのだから。
黒い影は、所々破れ千切れた漆黒の襤褸布をローブのように羽織り、身体のラインが見えない。大きなフードを深くかぶって隠した顔は、闇に覆われて明確に見えない。だが代わりに眼と思われる二つの光が松明の火の様に爛々と、そして不敵に赤く輝かせていた。
―――――その黒い『何か』は、確実に三階の廊下の外側に立っていた。
そしてその黒衣の人物が、仲間に向けて素早く腕を振るう。窓際にいた男は振り返る暇も、悲鳴をあげる暇すらも与えられなかった。
ザシュッ
「え?」
何が起こったのか分からず、男は呆けたような表情をする。
嫌な音が耳に入ったのと同時に男の視界がくるくると回りだしていた。
「あ、あれ? なん―――で――」
驚くほど鮮やかに宙を飛んでいる。
その見開かれた目には、頭を失い、噴水のように血を噴き出しながら崩れ落ちる見慣れた身体と、その後ろに立っている黒い影の姿が映り、どんどん遠ざかっていく。
男は気づいてしまった。自分の視界に入るその首だけない見慣れた身体が自らの身体で、自分の首が背後から刎ねられたと。
「う――そ――」
そして、男がすべてを悟った時には、男の首だけが まるで栓を抜いた風呂の水のように、頭部から地面の方へと真っ逆さまに吸い込まれていった。
「ひぃ!?」
噴き出した血を大量に浴びた金髪の男の口から、意味のない空気が漏れていた。
――――――仲間の二人が持ち場を離れて一分しか経っていないんだぞ? その間に二人も消されるってのはどういう事だ。しかもそのうち一人は、俺の前で消されたんだぞ? この学院には俺たちに敵う奴なんかいたのか? そんな話聞いてねえぞ?
目の前の事態を脳が吸収し切るまで訪れる無為の空白、恐怖で身体が硬直して動けないでいると影が揺いだ。
「………!」
黒衣の人物のその手には、奇妙な黒塗りの曲剣が握られていた。
帝国の伝統的な剣である細身で先端の鋭く尖った刺突用の片手剣―――レイピアとは違い、両刃の剣で、その刀身が半円を描く様に大きく彎曲している。
刀身を血が伝い、ポトポトと床に滴り落ちる。
まるで生者の首を刈り取る死神の鎌のようだ。
目の前で仲間の首を刎ねた凶器を見て、男の心臓の鼓動がドクンドクンとだんだんと速くなっていく。
「何なんだ……一体何なんだよ、お前…!」
『………』
金髪の男の言葉に黒い影が答える気配はない。
………殺される。
短剣の刃先を向けられ、金髪の男はそこでようやく動き出した。呪文を詠唱し、黒衣の人物へ向けて魔術を発動する。
「《吠えよ炎獅子》!」
男がたった一節で唱えた魔術は黒魔【ブレイズ・バースト】。熱エネルギーを圧縮凝集した火球を投げつけ、着弾と共に爆炎を広範囲にわたってまき散らす軍用の攻性呪文。魔術的防御なしに直撃を受ければ、人間など消し炭すら残らない、強力な制圧魔術である。
詠唱を完成させたのと同時に、左手に赤い火球が生まれ、周囲に熱をばら撒く。それを影に向けてがむしゃらに投げ込んだ。
チュドオオン!
放たれた火球が直撃する前に影は横に向けて飛び跳ねた。その跳躍力は凄まじく、一蹴りで廊下の向こう側の壁の外側に移動する。
的を外した火球は影が先程いた場所に激突して、爆音と共に爆裂し、強烈な炎と熱、光が辺りを包み込む。
「畜生がッ!!」
金髪の男はすかさず左手を構えなおし、移動した影に再び火球を撃つ。だがこれもかわされた。
影は跳躍力だけでなく、敏捷性もとてつもなく高かった。壁の外側を駆け巡りながら、次々と投げ込まれる火球を難なくかわしていく。
火球は壁に大きな穴を開け、床の絨毯に火をつけ、やがて廊下全体が黒い煙に覆われた。
「クソッ、何も見えねえッ!」
周りを見渡すが、火の手がそこかしこに散乱し、それらが燃える時に出る煙で視界を大きく曇らせる。考えなしに放ったことが仇となり、何処から影が来るのか分からない。
「クソックソッ!」
この不利な状況に男は悪態を吐きながら、階段の方へと駆け出していく。
自分を殺しに来るのなら、階段を通らなければならない。
階段の空間は廊下よりも狭い。どんなに素早い動きでもそこでだと前後方向にしか動けない。
――――なら待ち伏せてギリギリまで近づいたところで確実に仕留めてやる!
『とか考えているだろう?』
「は?」
不意に背後から、低く冷淡で、抑揚のない男の声がした気がした。
「ぐあっ!」
振り返る暇はなかった。
声がした方に顔を向けようとした瞬間、金髪の男の体はふいの衝撃に吹き飛ばされる。
「ぁ――、っ――――!」
背中から壁に強く叩きつけられ、必死に頭を回転させて見出した策の要である階段から引き離されてしまった。
だが、男の意識はそんなことには向いていない。彼の意識を支配したのは、
「ぐぅぅぅ……あ、熱ッ」
――全身を支配する、圧倒的な『熱』だった。
――これは本気でヤバい。
すぐ目の前に黒衣の人物がいるのに身体が動かない。全身に力が入らず、手先の感覚はすでにない。
ただ、喉をかきむしりたくなるほどの熱が体の真ん中を支配している。
――熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い。
叫び声を上げようと口を開いた瞬間、こぼれ出たのは絶叫ではなく血塊だ。
「ゴポォッ!?」
せき込み、喉からこみ上げる命の源を思うさまに吐き出す。ごぼごぼと、口の端を血泡が浮かぶほどの吐血が飛んで床を真っ赤に濡らしていく。
――なんなんだよ、これ? 俺の血か?
口からの吐血は打ち止めだが、体を焼き尽くすような『熱』の原因はいまだに活動中。かろうじて動いた手が腹部に向かい、そこにあり得ない感触を得る。
――嘘………だ、ろ………
鋭い裂傷は腹部を横に通り抜けて、中の内臓が飛び出している状態だった。
男はその『痛み』と『熱』を錯覚していたのだ。
「ぅ…う…ぁ……」
理解した瞬間に急速に意識が遠のいていく。
さっきまでのた打ち回るのを強要していた『熱』すらどこかへ消え去り、不快な血の感触も内臓に触れる手の感覚も、全ては遠ざかる意識の付き添いとして連れていかれる。
消える意識からの最後の働きかけで少しだけ首を上に動かす。
眼前、鮮血の絨毯を敷き詰めた床を、黒衣の人物が波紋を生みながら踏みつける。
「た、助け……て………」と男は命乞いするが、黒衣の人物は何の反応もただ佇んで自分を見据えるだけだ。否、死にかけている自分をまるで嘲笑っているかのように、人間の目とは程遠い赤い双眸が僅かに歪んでいるように見えた。
なにがどうしてこうなった?
天の智慧研究会に所属する自分は数多くの敵を殺し、魔術師としての実力も相応に積んできた。
組織の下っ端とはいえ、そこらの研究者気取りの魔術師共と比べれば、自分は上の段階にいる人間という自負があった。
だが、まるで今まで魔術を極めてきた自分たちの努力は無意味なものだと否定し、嘲笑うかのように自分の前に立っているこいつはいったいなんなんだ?
廊下で燃え盛る炎を背に佇むその姿は、まさしく『魔界』から来た『悪魔』のようだ。
こんな訳の分からない怪物に自分は翻弄され、腹を裂かれて虫の息だ。
こんな理不尽なことはありえない。
――――誰か…………俺を……………助け………
必死に生にしがみつこうとするが虚しく、男はその意識を完全に闇の深淵へと落とし永遠に目覚めることはなかった。