「……ぅ」
意識が戻った。
だけど手足が動かない。
ここはどこだ?
覚醒したばかりの重い瞼を開いて今俺がいる場所を確認しようとする。
確か俺は寒さで意識を失ってたんだ。
戦っている最中はよかったけど、その後は鬼の血鬼術と周りの環境もあってどんどん体温が下がって呼吸もままならなかった。
周囲の景色は、すごく見覚えがある。
そしてこの嗅ぎ慣れた匂い。間違いない、蝶屋敷だ。
でもおかしい。俺はあの雪が降り続ける中、道のど真ん中で倒れたはずだ。意識を失っているのに自力でなんて帰って来れないだろうし、となると誰が?
今度は目だけじゃなくて首ごと動かして周りを確認する。
俺は全身を包帯で巻かれて蝶屋敷の自室に寝かされていた。どうりで手足が動かないと感じたわけだ。ちゃんと動かそうとすれば動くけど、動かしにくくはなっている。そりゃ覚醒しきってないときには動かないとも錯覚するはずだ。
とそこまで自分の状況を確認したところで固まる。
「……」
「……」
部屋に入ってこようとするカナヲと視線がぶつかったからだ。カナヲはいつも通り無口だが、俺の方はどう反応するのが正解かわからなくてお互いに声を発せずにいる。
だけど今回は珍しいことにカナヲの方から沈黙を破った。
「陽吉津……大丈夫なの?」
「へ? あ、ああ。この通り生きてはいます、はい」
何となく気まずくてたどたどしく返事をすることしかできなかった。
あれ、カナヲでこんなに気まずいならしのぶさんは……いや、こと今回に限ってはしのぶさんよりもアオイさんの方が危険な気がする。
内心で焦る俺をよそにカナヲは「よかった」と言いながら俺の寝ている傍までやってきた。
「……俺はどのくらい寝てたんだ?」
「ここに運ばれてからは二日くらいだよ」
二日寝こんでいた。だけどそれは蝶屋敷に運ばれてからの話だ。向こうではどのくらい気を失っていたかまではわからない。こうして生きているということはそこまで長い時間向こうで倒れていたわけではないと思うが。
「誰が俺を運んできたかはわかるか?」
「それは──」
カナヲがそこまで言いかけた時、俺の視界には地獄の閻魔様が降臨したかのように見えた。
やばいやばいやばい。
カナヲも気配だけで伝わっているのかプルプル震えている。
「あら? 目が覚めたんですね。心配したんですよ陽吉津君?」
「す、すみません」
しのぶさんだ。とびっきりの笑顔を浮かべてらっしゃる。
だけどわかる。こんなの直感なんて使わなくてもわかるぞ。
しのぶさん、すっごい怒ってる。
「カナヲ」
「っ!」
「陽吉津君と少しお話がしたいので。陽吉津君は後で返してあげますから借りていいですか?」
コクコクコクっ!
すごい勢いで何度も頷いたカナヲは一目散に部屋を出ていってしまった。俺のせいでごめん、カナヲ。
「……さて、と。これで二人っきりですね、陽吉津君」
美人なしのぶさんからそう言われて少しも胸が躍らないのは不思議だ。きっとこの後に控えているお説教が恐ろしいからだと思う。
実際、それからは大変だった。
しのぶさんの言葉は俺の心を的確に抉ってくる情け容赦ないもので、それを明るい口調と笑顔でやってくるのがまたえげつない。
だけど段々としのぶさん本来の面が出てきて、最終的には涙を流された。
どんな言葉よりその涙が一番俺の心に衝撃的だった。同時に後悔もした。
この蝶屋敷に家族として招いてくれたのは他でもないしのぶさんだ。それはつまりしのぶさんが俺のことをどれだけ大切に思っているかということにもなる。
そのしのぶさんを悲しませてしまった。その事実に胸が痛む。
家族を失う痛み、悲しみ。
それは俺もしのぶさんもお互い経験していること。しのぶさんは姉のカナエさんを。俺は俺の両親を。
その胸の中にある傷は、同じ思いをした俺が何より理解していなくちゃいけない。なのにこうしてしのぶさんを悲しませてしまった。家族を失う痛みを想起させてしまった。
不甲斐なし、だ。
悲しみを減らすという目標を掲げておきながら、すぐ傍にいる人の悲しみを増やしてどうする。
この時、俺はアオイさんの言葉を思い出していた。
『陽吉津さんは蝶屋敷のかけがえのない人なんです』
わざわざ釘を刺されたのに俺は何をやっているんだろうか。
「しのぶさん。しのぶさん」
「な、なんですかっ。言っておきますけど、当分私は今回のことを許したりしませんからね」
「それは甘んじて受け入れますよ。ただ一言だけ、言わせてください」
家族だからこそ。こうして帰って来れたからこそ言わないと。
しのぶさんは俺が何を言いたいのかわかっていない様子。
「ただいま戻りました」
「っ!」
泣いている顔を隠すことすら忘れてしのぶさんは目を見開いて固まった。
俺は言いたいことを言ったのでしのぶさんからの反応を待つ。
「……おかえりなさい。よく戻ってきてくれました」
しのぶさんは背丈が小さめだ。だけど今俺は上体だけ起こしているからしのぶさんにとってちょうどいい位置に頭がある。
柔らかく微笑みながら俺を迎えてくれたしのぶさんは、まるで子供か弟を撫でるような手つきで俺の頭を優しく撫でてくれた。
これで一件落着だ。
「仕方がないですから私についてはこれで終わりとします」
よかった。心からそう思う。
「ではアオイのことは任せましたよ」
あ。
「そうそう。完成したらしい陽吉津君の呼吸、後で私に見せてくださいね」
しのぶさんはそう言って俺の部屋から出ていった。残された俺は相当ひどい顔をしていると思う。顔面蒼白ってやつだ。
部屋の外から力強い足音が近づいてくる。絶対にアオイさんだ。
「……寝たふりしとこ」
余りの恐ろしさに狸寝入りを敢行することにした。
俺が完全に横になったのと同時に荒々しい音を立てて戸が開け放たれた。
「……ッ!」
部屋の入口から凄まじい圧を感じる。
狸寧入りをしているが、布団の中では尋常じゃない汗をかいていた。
仏様、どうかご慈悲を。
「……起きていますよね」
それはもう一度も聞いたことのないような低い声だった。
「……」
「……そういう態度を取るんですね」
「……」
寝てるんでこういう態度なだけですお願いします。
「……起きないとあの約束破ったことをしのぶ様とカナヲに言ってそれから今すぐあなたを殴り起して目覚まし代わりに薬湯で一杯にした桶に顔を沈めますよ」
「さすがにやりすぎだ!?」
「狸寝入りなんてする方が悪いです!」
それには何も言い返せなかった。
でもさすがにやり過ぎだと思うよ? 正直最初のだけで十分すぎるから。
「……」
「……私に何か言うことはありませんか」
考えていたって仕方がない。アオイさんの全てを受け止める責任が俺にはあるんだ。
「申し訳ありません」
「それは何に対しての謝罪ですか」
「約束したのに破って皆を心配させてしまったことに対してです」
「そこはちゃんと理解しているんですね」
「……はい」
申し訳なさから小さく縮こまることしかできない。そんな俺をアオイさんはしばらく冷たい目で見つめていた。
だけど突然「はぁ」と息を吐いた。それだけでも俺はビクッと体を強張らせてしまう。
「私の言いたいことはほとんどしのぶ様が言っているはずですからもう私からは言いません」
「アオイさん?」
その言葉に肩透かしをくらった。もっとこう烈火のごとく言葉が飛んでくるものと思っていたから。
ぽかんとした表情で見る俺に、アオイさんはさっきしのぶさんがしてくれたように頭に手を置いて撫で始めた。
「……」
何だろうか。しのぶさんといい、アオイさんといい頭を撫でられると凄く落ち着く。
「例え怪我をしても、無事戻ってきてくれたことが一番のことです」
「……はい。その、今更なんですけど……ただいま戻りました、アオイさん」
しのぶさんと同じようにアオイさんにもその言葉を言った。
「その言葉が一番聞きたかったんですよ」
それから少しの間。アオイさんは俺の頭を撫でてくれた。
歳もあまり離れていない女性から頭を撫でられるのは端から見れば情けない限りだが、どうしてもあらがえない。
しのぶさんやアオイさんには口が裂けえても言えないけど、まるで母親のような感覚に似ている。
やがてアオイさんもまだ仕事があるからということで部屋を出ていった。
これで本当にひと段落ついたと安心していた俺だったが、再び来客だ。
「カナヲ……」
そういえば俺が目を覚まして真っ先に会ったのに、俺のせいで退室を余儀なくしていたな。
「そんなところに立ってないで入っていいぞ」
「……」
せっかくカナヲから話し掛けてもらえたのにまた静かなカナヲに戻ってしまっている。
カナヲから話し掛けてもらえた時は嬉しかったんだけどな。
「……」
「ごめんな、カナヲ。カナヲにも心配かけたよな」
カナヲはいつものように銅貨を……出す様子がない。
え? もしかしてカナヲも怒ってる? 俺と話す気すらない感じ?
その可能性に焦る俺だったけど、カナヲの纏う空気は怒っているようではなかった。
「っ……陽吉津は平気?」
「あ、具合のこと? 全然大丈夫。何なら今からでも任務に」
「それはだめ!」
言葉の綾です。
というかカナヲが銅貨を投げずに話していることに内心で驚きを隠せないんだが。
カナヲも頑張っている……てことなんだろうな。
「あはは……。あ、そういえばカナヲにはまだ言ってなかったな。ただいま」
「っお、おかえり! 陽吉津」
「カナヲにお願いなんだけどさ、後ですみちゃんときよちゃんとなほちゃんを呼んでもらっていい? 三人にもただいまって言いたいからさ」
「ん、わかった」
本当は俺から行くべきなんだろうけど、出歩こうものならしのぶさんとカナヲが黙ってないような気がする。
「陽吉津はそろそろ休んだ方がいいよ」
カナヲが俺の体のことを気遣ってくれた。確かにずっと話しっぱなしで疲れたかもしれない。
ここはお言葉に甘えよう。
「そうするよ。でも三人にただいまを言ってからね」
「それじゃ連れてくるから」
そう言って部屋から出るべく背中を見せる。だけど動く気配がなかった。
「カナヲ?」
どうしたのかと思い声を掛けると、再度俺の方へと振り向いたカナヲが手をそっと両手で包み込むように握ってきた。
刀を握るせいで少し硬く感じるが、それでも十分に柔らかい女の子の手だった。
「どうし──」
「おかえり、陽吉津。無事に戻ってきてくれてありがとう」
きゅっと握られる。
俺が固まっているとカナヲは段々とその顔を赤く染めていき、仕舞いには脱兎のごとく部屋を飛び出していった。
「……」
取り残された俺は呆然とさっきまでカナヲに握られていた手を見つめる。
カナヲの手、柔らかくて暖かかったな。
一応カナヲはその後しっかりすみちゃんときよちゃんとなほちゃんの三人を連れてきてくれた。俺と目は合わせてくれなかったが。
三人には飛びつかれて泣かれてしまった。
心配かけたお詫びに今度何かおいしいものを買ってきてあげようと思う。
とにかく、こうして俺は生きて蝶屋敷に帰ってくることができた。
そういえば聞きそびれたけど、俺を運んでくれたのは誰なんだろうか?