PRIMEVAL - Reverberation 作:Tutu-sh
ゆっくりと開くメインフロアの扉の向こうに、白衣を纏った葦人が立っていた。出勤である。
自衛隊の施設内に所在するURAで、職員が自宅に戻ることは滅多にない。研究員はこれまた自衛隊の設備にスペースを確保されており、そこで生活を送る者が多いのだ。また、URAにも研究室や簡易的なシャワーが完備されているため、URAから一歩も出ずに日々を過ごす研究者もいる。織部がその良い例で、彼は自らの部屋にテレビや冷蔵庫をどんと置き、缶ビールを転がしながら野球中継を見ることを過酷な日々に与えられた楽しみにしている。
葦人は前者だった。院生の頃は研究室で寝泊まりするなどざらであったが、URAに新規雇用された人間が早速そのように慣れすぎてしまうのも、考えものだった。
だが最大の理由はそれではなかった。
初日からブロントルニスの惨劇を目撃した彼は、彼自身気づかないうちに精神を消耗していたらしい。織部とのわだかまりが解け、心が緩んだ後のことだった。どっと疲労が彼に押し寄せた。フクイラプトルの時には直接的な死を目撃することがなかった。だが今回は、目の前で何人もの自衛官が血飛沫ともに命を散らせたのだ。あの時は恐怖と生存本能、そして湧き出すアドレナリンがショックを意識の彼方に吹き飛ばしてくれた。だがそれが鎮まってからは、カタカタと指が震え、自分の頬が冷えているのを感じていた。
その精神的な負担は、その翌日となった今朝でも完全には失せていない。URAの研究室に入り浸っていては、ブロントルニスの呪縛から抜け出せないように感じられた。だから自衛隊の設備を借りることにした。
しかしそれは失策だったらしい。自衛隊の宿舎と同じ建物ではなかったものの、夕食を終えて笑い合っている隊員たちの姿を見るたび、心が痛んだ。彼らにも仲間がいるし、彼らを拠り所とする人がいる。十数人の命の上に立つ自分が、そんなにも価値のある人間だとは到底思えない。夜にわずかに外から彼らの声が聞こえると、これまでに体感したことのない激しい呵責の念に駆られ続けた。
「おはよう。どうした、顔色が悪いな。きちんと寝たのか?」
メインフロアに入った彼に話しかけてきたのは、チームリーダーの大吾だった。彼の持つ湯マグカップからは白い湯気が立ち上り、コーヒーの芳ばしい香りが漂う。
「おはようございます。いえ……あまり寝付けませんでした」
「……ふうん。初日であれの相手は疲れもするさ。無理もない。悪かった、気づいてやれなくて」
「いえ、いいんです」
「あまり自分を責めるなよ。俺だって最初はそうだったから分かるんだ。悪いのはお前じゃない」
「そうですね、生物が暴れなければ──」
「いや、それも違うぞ」
葦人の言葉にハッとした大吾が、すぐに彼の発言を遮った。葦人はなぜ否定されたのか分からず、ポカンとした表情を浮かべる。
「生物も悪くはない。テオソドンは天敵に襲われてパニックに陥っただけだ。ブロントルニスにしたって、手近な獲物を襲っただけに過ぎない。それに彼らも違う時代に来て戸惑っていたんだろう。この仕事じゃあよくあることだ」
「……じゃあ、亀裂ですか」
今度の葦人の言葉に、大吾はボリボリと頭を掻いた。
「時空の亀裂は自然現象だ。憎むべき相手じゃあない。例えばだ、家屋が倒壊して死者が出たからといって、地震や台風を憎むのか?」
「いえ……」
「だろう。誰が悪いわけでも、誰に責任があるでもない。俺たちが戦う相手は悪ではないし、俺たちは正義の執行人でもない。確かに不合理に見えるだろう。その不合理と戦い、安寧を保つ。この国に暮らす多くの人間が苦しむ不合理を、一つでもいいから消し去ってやる。それが俺たちの役目なんだ」
「……はい」
「……分かってくれたかな。まあ、じきに折り合いのつけ方も見につくさ。とりあえず、今は責任を感じすぎるな」
「ありがとうございます」
葦人の返事に頷くと、じゃあ書類の整理があるから、と言って大吾は自分のデスクへ戻っていった。複雑さを増したようにも感じられる心情を抱えながら、葦人も自分の部屋の鍵を回し込んだ。
「よっしゃー、ここでやろーぜ!」
河川敷を見下ろしながら、小学生の一団がわいわいと騒いでいる。先頭に立つ少年は薄汚れたサッカーボールを脇にかかえ、後ろに続く少年たちも同調の声を上げている。女子児童も数人はいるようである。土手のどこから河原へ降りるか、全員が喋りあっている、その時だった。
「ねえ、やっぱりやめない……?」
一人の男子児童が、か細い声で提案した。当然のように、は?という反応を周囲から浴びせられる。
「ここまで来て何言ってんだよ!」
「ここしかできる場所ねーじゃん!」
「でも川の近くは危ないって先生が……」
「だって学校の近くの公園遊ぶの禁止じゃん!どこでやるんだよ!」
「そうそう、ここなら別学区だし!バレないって!」
「でも……」
「ウザいー」
「元々お前がボール家に突っ込ませたのが悪いんだろ!」
「もうこいつ追い出そーぜ。早くやろ!」
次々に批難の言葉を浴びせられ、提案した男子児童は完全に沈黙させられてしまった。意見を封殺し終えた子どもたちは満足げな顔で土手を駆け下り、ゴールもラインも設定せずにボールを蹴り始めた。提案した男子児童は目から零れる熱い涙をこらえながら、鼻を真っ赤にしてその様子を眺めていた。すぐにでも帰りたいが、帰ってしまえば次に学校で会うときに何と言われるか分からない。もしかすると声さえかけられなくなるかもしれない。打開策の見いだせないジレンマを抱えながら、男子児童は鼻をすする。
その背後に、支柱が錆びつき、保護ガラスが曇り、ボードが完全に色あせた掲示板が立っていた。もう町の誰も目にしてないのではないかと思われるほど傷んだ掲示板には、不釣り合いなほどに真新しい紙が貼られている。発行日はつい3日前だった。
『不審事件多発、要注意』
目立つ見出しの下には、この川の近隣で器物損壊事件が相次いだことが記されていた。そしてその紙の横には、『さがしています』と見出しの付いた古いペットのチラシが画鋲で留められている。
ふと河川敷から目を背けた男子児童が、掲示板の存在に気付いた。まだ満足に漢字の読める年齢でない彼は、その掲示の意味する具体的な内容までは理解ができなかったものの、黄・黒・赤といった派手なカラーリングの張り紙からはどこか危険な印象を受け取っていた。これが担任教師の言っていたことなのだ、と薄々感づいていた。先生に怒られないうちに帰った方がいい。彼は考えを固めつつあった。
その時だった。大きな水音が河川敷から聞こえた。
誰か落ちたのか、と思った矢先、女子の鋭い悲鳴と男子の大きな叫び声が聞こえてきた。一体何事だと川側へ駆け寄ってみると、先ほどまで玉蹴りに興じていた児童たちが一目散に坂を駆け上がってくる。何度も転びながら、しかし必死に脚を動かし、腕を振り回している。
土手の上にいた男子児童の目に次に留まったのは、水面の様子だった。
大きくうねる水面には、人間の姿はなかった。溺れて助けを乞う子どもなど一人もいない。水面には大きな気泡が上がり、さらに波が水面を横切って泡を飲み込んでゆく。
ようやく先頭の児童が坂を上り切り、膝に手を乗せて息を切らせた。
「ど、どうしたの」
「将が、将がッ……」
ただ目の前で友人が溺れただけでも、小学生にとっては大変な恐怖だろう。だがそれどころではない、比較にならない恐怖が児童たちを包み込んでいるのは、土手の上の男子児童にも容易に見て取れるものだった。
時計の針が午後1時を指したころのこと。葦人が自室を出てメインフロアに入ると、亀裂探知装置の前に腰かけて何やら画面を操作する人間が目に入った。URAの職員の中で一際存在感を主張する赤毛の長髪。ピアニストのように長い白い指を、キーボードという鍵盤の上で走らせている。三条白夜だった。
「お疲れ様です。要りますか」
「ああ、お疲れ様です。ありがとうねー」
白夜は葦人が差し出した缶ジュースを滑らかに受け取り、顔だけそちらに向けて礼の言葉を述べた。
「あれ、顔色悪くない?」
「いえ、大丈夫ですよ。健康です」
「……そう、ならいいのだけど。身体は大事にしてね」
ありがとうございます、と言って葦人は亀裂探知装置のスクリーンを眺めた。普段表示される日本国内の地図ではなく、真っ黒のウインドウに白色のアルファベットとアラビア数字が羅列されている。整備中のようだ。
「メンテナンスですか」
「そう。ほら、昨日リーダーが言ってたじゃない?電気代がかさんでるって。この階の電気は1つのシステムの制御下にあるから具体的にどこの部屋が電気を食ってるのか分からない。もしかしたら、この亀裂探知装置かもしれないし」
「……もし探知装置が、規定よりも大幅に電気を消費しているのだとすれば」
「そう。ウイルスが怪しいねー。国家機密とも呼ぶべきこの装置にそんなものが仕込まれているのは極めて由々しい事態だし、確かめないと。そうでなくても、必要以上の電気を使っているなら、必要以上の挙動をしてるってことでもあるし」
「ふむ……」
キーボードを弾くように叩くと、彼はキーボードから手を離した。次々に画面上で処理が進行し、動作確認が進められていく。ふう、と一息ついて百夜は缶を開け、口をつけた。
「ああ、これがおかしいって決まったわけじゃないから、まだ焦ることはないよ。僕はこの機械を信頼してるからねー……その分用心深く、ってこと」
「信頼?」
「うん。この装置ね、誰が最初に発明したと思う?」
「……」
沈黙が流れる。この問いかけをするということは、開発者はやはりこの男なのだろうか。先ほどのスムーズな指捌きを見るに相応しい気もするが、ある程度プログラミング言語を習得した人間であれば不可能ではない気もする。だがここは、この男を立てておいて損はないだろう。
「貴方ですか?」
「ハハ!ありがとうね、でも違うよー。コナー・テンプルだよ」
正解を外したことに何か感想を抱くよりも先に、突然飛び出した人名に疑問符がついた。
「誰ですか、その人は」
「あ、まだ人事に目を通してなかったのか。ちょっと待ってね」
白夜がキーをいくつか叩くと、1つのスクリーンが文字と黒色の世界から解放された。白夜はマウスを滑らせ、いくつかのファイルを展開して個人ファイルにアクセスする。Conner Tmple というタイトルの下に、髭が生えてはいるがまだ若そうな男性の写真が表示される。
「コナー・テンプル。亀裂調査プロジェクトを語る上では外せない男だ。イギリスの亀裂調査センター発足以来の初期メンバーで、プロスペロ社やカナダのクロス・フォトニクス社ともパイプを持つ、まさに伝説の職員さ」
「その彼が、この装置を?」
「厳密に言うと、この亀裂探知装置のプロトタイプ。彼が発明した亀裂探知装置に改良を重ね、それを日本に持ち込んでさらに改良を施したのがこの機械。でも、彼が開発したモデルと原理は同じだよ」
「なるほど、そんな経緯があったんですね」
「ああ。この装置を初めて見たときは惚れ惚れしたよ。一度彼に会ってみたいものだね……」
そうこうしているうちに、異常検査は完了したらしい。加えられた設定変更などの類が列挙されるが、装置に致命的なものは検出されなかった。
「里亜が何百曲か音楽をダウンロードしたようだけど、その程度じゃ問題ないでしょー。装置は大丈夫だね。よかったよ」
ホッと白夜が胸を撫でおろすと、同時に音を立てて大吾が自室を飛び出してきた。驚いて振り返る二人に向かって、彼はづかづかと速足で迫る。
「白夜!探知装置は作動していたのか!?」
「ど、どうしたんですリーダー。大丈夫です、点検はしてましたけど、バックグラウンドで時空異常現象の探索も続行していました!」
「そうか?今しがた、警察から通報が入った」
「警察?」
「生物が出たとの報告だ」
「え──」
「──あり得ない」
二人は思わず、顔を見合わせた。