静けさに包まれた廊下を進み、カードキーをかざして部屋の施錠を解除。そのまま鉄のドアを開くと目の前に広がっていたのは生活感のあるホテルの一室だった。てっきりもっと散らかっているものだと思っていただけにどこか拍子抜けだ。
「へー 先輩の部屋にしては片づいてますね。もっとずぼらな生活を送っているものだと思ってました」
「失礼ねぇ。これでも家庭的な性格なのよ? 家事だってひと通りこなすし、料理だってめちゃうまなんだから」
「はいはい」
「ああ~その反応は信じてないなー」
すぐに用意するから荷物はその辺に置いておくといい。先輩はそう言うとクローゼットを開けて着替えを始めた。私はベッドの横にカバンを置くとそのまま周囲をキョロキョロ。あまりいいマナーとは言えないけれど、一人部屋にしては広々とした空間に女優のすごみを感じてしまう。一人部屋なのに複数の部屋があるって何かすごい。ただ、ゴミ箱から溢れる空のペットボトルに、ベッド上に投げ出された私服の数々、さらには無造作に放置されたアクセサリーやスマホケースの類など、人間味のある生活風景が印象的だ。その点は普通の女の子と変わらない。
「…侑?」
「は、はい!?」
「どうしたの? もしかして緊張してる?」
「あ、いえ、立派な部屋だなぁって思っただけです」
「そう? まっ、これでも一応芸能人ですから!」
そう言って先輩は胸を張った。時刻は夜の遅い時間。なぜ私が先輩の―――宮代アイカの滞在するホテルにいるのかというと、話は数時間前まで遡らなくてはいけない。あれは舞台の練習が終わった直後、市民文化ホールでのことだった。
「次は修道士が納骨堂に入るシーンです! 準備をお願いします!」
市民文化ホールの舞台上。タイムキーパーが場面の切り替えを叫んだ。その声に呼応して、演者はいったん舞台袖に引き下がり、代わりに大道具と小道具班が床板を踏み鳴らす。段取りよくステージ上は墓場テイストに模様替え。セッティングにかかった時間はわずか数十秒。みんな各々の役割に磨きがかかってきている。
当の私もぐずぐずしてはいられない。ジュリエット役である宮代先輩の横に付いて舞台に上がると、中央に設置された棺に先輩の身体を押し込める。なぜそんなサポートが必要かと言うと、材質が発泡スチロールでできているために、どこか一点に力を集中させるとすぐに壊れてしまうからだ。木の板で作成する案もあったけれど、持ち運びの苦労を考慮して今の案に落ち着いた。魚になったみたい、と当のジュリエットは苦笑いしていたけれど―――
みんな、必死だった。最初は嫌々ながら手伝っていた人もいたのに、ここまでくると舞台劇を成功させようと全員が一生懸命に動いている。最初は顔も名前も知らない人たちの寄せ集め。それが今では不思議な一体感が生まれ、活気のある現場ができ上がっている。言葉では言い表せない充実感。それが舞台上には確かにあった。
「みなさんお疲れ様でした。今日はゲネプロとまではいきませんが、大道具・小道具を含めた動きは精度が上がってきたと思います。後は本番までに少しずつ微修正をしていきましょう!」
この日、練習が終わった後、脚本担当の瀬波さんが全体に向かって呼びかけた。ロミオとジュリエットの上演はいよいよ2日後の日曜日に迫っている。こうなったら悔いのない劇にしたい。ここまできたら、みんなの願いは一つだ。
「それと最近風邪が流行っていますから、体調には十分に気を付けてください。体調管理を徹底するのもみなさんのお仕事です。偉そうなことを言ってすみませんが『ロミオとジュリエット』の公演を絶対成功させましょう! それでは本日はこれにて解散です。忘れ物をしないよう注意して帰宅してください!」
解散後、私は荷物をまとめて他校の生徒や実行委員に挨拶。その後、控室に立ち寄った。劇の練習が終わったらすぐに控室に来るように。そう事前に言われていたからだ。また何か用事でもあるんだろうか。やれやれと思う反面、それでも足はまっすぐに宮代先輩の元に向かっている。何だか不思議な話だ。
「失礼しまーす!…先輩?」
「ああー疲れた~~」
「ちょっとどいてください。重いですよ」
「あいかわらずストレートな物言いね。これでも侑と変わらないと思うわよ?」
扉を開け中に入ると、先輩に後ろから腕を回された。そのままめいっぱい体重をかけてくる。鬱陶しいと思う反面、その手を振り解こうとはしなかった。
「それで話ってなんです?」
「これから私のホテルに来ない?」
「…えっ…はぁああ!?」
前置きなく言うものだから、思わず叫んでしまった。これからって…もうずいぶん遅い時間なんですが……
「この前、侑にお守りをプレゼントしてもらったから何かお返しをと思って。劇でもジュリエットを支えてもらってるしね♪」
「そんな別に気にするほどのことでも―――」
「ダーメ。何もしないなんて私の気が晴れないでしょ? でも侑の欲しいものってよくわからなかったから、夕ご飯でも一緒にどうかと思って。ほらっ、水族館デートのときは食べ損ねちゃったし」
「それが何でホテルになるんですか!?」
「お目当てはホテル併設のレストランよ。ものすごく評判がいいんだから!」
「…とても怪しい臭いがします」
「ほんとだって! 嘘なんてついてないわよ!」
必死になる先輩にこれでもかと怪訝な視線を向ける。けど、まぁ、心はすでに決まっている。あと少しでロミオとジュリエットの舞台劇が始まる。それはつまりイベントの終わり。宮代先輩との別れを意味している。だったら、今は少しでも……
「…いいですよ」
「ほんとにっ!?」
「またまた期待させてもらいます」
「うん! 任せといて!!」
そう言って先輩は目を輝かせた。嬉しそうに喜ぶ姿は世間の想い描くそれとはまったくの正反対だ。そのギャップが何だかかわいく思えてくる。いけない。いつの間にこんなに毒されたんだろう。
でもまぁ、少なくとも目の前ではしゃぐ女の子は玩具を買ってもらった子供のようで、その輝きがいつまでも続くことを私は願わずにはいられなかった。
「ね? おいしかったでしょ?」
「お洒落なお店でしたもんね。でも本当に良かったんですか? あんなに奢ってもらって」
「こらこら君は私を誰だと思っているわけ? 人の好意には素直に甘えるものよ。それに、私が侑と一緒に食べたかったから」
手渡されたマグカップの中には、透き通ったオレンジ色の飲み物が入っていた。湯気と一緒に立ち昇る香りが鼻の奥を刺激する。そっと口に含むとほんのりとした甘さが広がった。
「…芸能界の仕事ってやっぱり大変ですか?」
「…そうねー 安定した職業じゃないしね。食うか食われるか、なんてことまで言うつもりはないけど、実際その通りだから多少はね」
「そうですか…」
「どうしたの? 珍しいね。侑からそういう話を振ってくるなんて」
「いえ、先輩から仕事の話ってあまり聞かないなって思っただけです」
「…そっか…まぁ、おいそれと話せるものでもないしね。でも侑にだったら教えてあげてもいいわよ? 有名人の裏の顔とか、恋愛事情とか、いろいろとね」
そう言ってニヤッと笑う先輩の目はどこまでも本気だった。どうやら知っているっていうのは嘘ではないらしい。芸能界って怖いところだ。そんな人並の感想しか出てこない。
「口利きがまったくないわけじゃないけど、やっぱり実力がものをいう世界だから。役者はなおさらって感じかな。大きな仕事が決まって顔が売れれば逆指名が入ったりもするけど、それまでは毎回オーディションを受けて役を勝ち取らないといけない。人の流れも激しいし、そういったところはやっぱり大変よね」
大変―――。その言葉の意味をできるだけ重くさせないように、先輩は冗談めかして微笑んだ。ぎこちない表情。私の苦手な顔の色だ。何か場を盛り上げないといけない。そんな義務感に駆られたためか、私の口を突いて出た言葉とても不用意なものだった。
「いっそ芸能界なんてやめて普通の学生になるのはどうです?」
「…」
その瞬間、しまったと思った。先輩は沈黙。無言の時間が鋭い刃となって私の身体を貫く。何とかその場をやり過ごそうと慌てて別な話題を切り出してみるものの、やっぱり先輩の反応は得られない。だけど何を思ったのか、先輩は緩慢な動作でその場を立ち上がると私の身体の前に立ち塞がった。
「…あの、どうかしましたか…先輩―――?」
先輩は私から飲みかけのマグカップを零れないようにそっと取り上げる。テーブル上から聞こえるコトンという小さな音。けれど次の瞬間にはベッドの軋む音が部屋中に鳴り響いた。
気が付けば、目に映る景色は真っ白な天井に切り替わっている。端に見えるのは色味のない彼女の顔。いつ先輩は上着を脱いだのだろう。それすらも覚えていない。
さっきまで温度なんて感じていなかったのに、急に身体は熱を持ち始めている。相変わらず視界に入るのは、透き通った髪に、整った顔付き。そして少しずつ近づく朱色の唇。それを黙って見つめる私はどこか夢を見ている気分だった。
「…侑はどう思う? ロミオとジュリエットって最終的に結ばれるべきだったと思うかしら?」
息がかかりそうなその距離で、先輩はゆっくりと口を開いた。話の意味がわからない。私は正直にそう告げる。
「今回の劇の話よ。悲劇は悲劇のままに収めておくのがいいと思わない? ロミオとジュリエットの生存を観客に匂わす終わり方なんて…そんな結末、誰が望むのかしら?」
「…よくわかりません…でもハッピーエンドが嫌いな人なんていないと思いますよ……」
先輩は否定も肯定もしなかった。無言のまま、私の左頬に暖かい手を添えてくる。
「別に脚本に文句があるわけじゃないの。ただ結末が気になっただけ。青年ロミオとその恋人ジュリエット。悲劇は人に知られてこそ花が開くもの。だからこそ、この作品は時代を超えて世界中の人に愛された。その結末を安易に変えるべきじゃない。侑もそう思わないかと思って…いったいシェイクスピアは何を想ってこんな作品を世に送り出したんでしょうね。見ている人に何を伝えたかったのかしら……」
耳元で聞こえる甘い声。私は両腕を背中に回して先輩の身体を引き寄せた。胸の上に沈む彼女の頭。サラサラとした髪が肌に触れてくすぐったい。先輩の体温は私のものより少しだけ高めだ。
「…このまま寝ちゃいそう」
「明日、寝坊しても知りませんよ」
「侑が起こしてよ」
「携帯越しにならいいですけどね」
「…やっぱり君っていじわるだ……」
ゆっくりと、でも確実に時間が過ぎていく。部屋に備え付けられたデジタル時計。これが秒を刻んでいなければ、きっと私は家に帰ることすら忘れていたと思う。聞こえてくるのは車のクラクションや風がビルを吹き抜ける雑多音。それらが辛うじて私の意識を繋ぎとめてくれていた。
あと少し。もう少しで地域イベントが始まる。ロミオとジュリエットのお披露目。それが終われば、何もかもが元通り。以前の日常が帰ってくるはずだ。
毎日離れ校舎に顔を出して、生徒会のみんなと仕事をして、七海先輩のわがままに付き合って、いつもの通学路を帰宅する。芸能界のように刺激的とは言えないけれど、私にとっては大切な学生生活が戻ってくる。
―――だけど、本当にこのまま戻ってしまっていいのだろう?
その日常に宮代アイカは存在しない。こうやって身体が触れ合うこともなければ、顔を合わせることもなくなる。日常にはなくて、非日常にはあったもの。それを今更気に留めている自分がいる。
一つだけ気になることがあった。どうしても頭から離れないことがあった。先輩が時折見せる不安に満ちた表情。怯えた態度。そして何かを嫌う素振り。そのときに限って先輩は微笑むのだ。その苦しい笑顔が私の胸を締め付けるとも知らずに。その行為の裏に隠された事実を私はまだ何も知らない。
正直なことを言えば、なんとなく予想は付いていた。でもこちらから踏み込んでいいのかわからなくて、私はいつだって先輩の隣に寄り添ってあげることしかできなかった。だって、私たちは出会ってまだ数週間の仲で、家族でも、友達でも、恋人でもない。彼女は舞台で輝くジュリエット、私はそのジュリエットを裏で支える付き人だ。同じ舞台に立っているわけでもなければ、同じ演技者の一人でもない。そんな私にジュリエットの気持ちはわからない。
宮代先輩は私の上ですやすやと寝息を立てている。その身体を私はもう一度強く引き付ける。今、自分にできることはこのくらい。それがひどくもどかしくて、心の中の気持ちをうまく整理できなくて、ただただ悔しさだけが積み重なっていた。
「ごめんね。本当に寝ちゃうなんて思わなくて」
「いえ、こちらこそご飯を奢ってもらったのに、部屋にまでお邪魔しちゃって」
「夕飯はプレゼントのお礼だって言ったじゃない。だから気にしないで。欲を言えばもうちょっとだけ二人で過ごしたかったけどなぁ」
運転席の椚さんに「よろしく」と声をかけると、先輩は名残惜しそうに車の前で手を振った。私も後ろの席から手を振り返す。明日は土曜日。このままホテルに泊まっていけばいい、と勧められたけれど、やはり家には帰ることにした。ただ、終電は終わってしまったので、急きょ車で送ってもらうことになった。悪いとは思ったけれど、ここは先輩や椚さんの好意に甘えることにする。それに、もしかしたらこれはいい機会なのかもしれない。そう考える頭がどこかにあった。
「侑、それじゃまた明日ね!」
「はい。休みだからって寝坊しないでくださいね」
「もうっ 子供じゃないんだから。侑も遅刻しないように!」
私は大きく頷いた。そうして車は夜の道へ。途中、後ろを振り返ると、先輩はホテルの前を離れず、ずっとこちらを見送っていた。
「…ごめんなさいね、小糸さん。こんな時間まであの子のわがままに付き合ってもらって」
「そんなことありません。夕ご飯だって奢ってもらって、お礼を言うのは私の方ですよ」
「そう? そういうふうに言ってもらえると助かるわ。あの子、小糸さんのことを本当に頼りにしているみたいだから」
「…そう、なんでしょうか…私にはよくわかりません……」
「あの子のあんなにも楽しそうな姿、滅多に見ないわ。最近忙しくて精神的に疲れていた部分もあったから余計にね」
疲れていた、という部分がやはり引っかかる。それに、
「…本当に信頼されているのなら、話してくれると思ったんです……」
「……」
もしかしたら、と思っていた。誰もいない二人の空間になれば、もしかしたら先輩の口から教えてもらえるんじゃないかと思っていた。でも先輩は私をもてなしただけ。当の私もあと一歩を踏み込めず、こうやって自宅への道を辿っている。でも本人からはダメでも、この人なら知っているんじゃないかと、そう思った。宮代先輩をすぐ側でずっと見てきた人―――マネージャーの椚さんなら。
「…こんなことを聞く立場じゃないのは知っています。でも、それでも何も知らないなんて嫌で…教えてください、椚さん…今先輩の身に起こっていること。先輩が悩んでいることのすべてを―――」
長い沈黙。その後、声のトーンをできるだけ抑えるようにして、運転席に座るその人は口を開いた。あの子が悩んでいるってどうしてそう思うの? その問いに、私は嘘のない答えを返す。
「見ていればわかります。自分の中に何かを溜め込んでいるって…それが何なのかを私は知りたいんです―――」
知ったところでどうにもならないのかもしれない。でも、例えそうでも、せめて背中に抱えたものの正体に気付いてあげられたらとそう思う。できないことは罪じゃなくても、知らないことは罪だと思うから。
「…そうね…あなたになら、いいのかもしれない」
誰にも言わないと誓って欲しい。椚さんは冒頭そう言うと、ハンドルを握る手に力を込めた。
「…何から話させばいいのかしら。きっかけは事務所に送られてきた一枚のファンレターだったわ」
「ファンレター? 先輩に対してのですか?」
「もちろんそうよ。ただ、普通のファンレターと違かったのはそれが熱烈な嫌がらせの手紙だったってこと。あの子に対しての罵詈雑言の数々。おまけに殺してやろうかみたいなことまで書いてあった」
有名人にはよくある話と思うのはドラマの見過ぎだろうか。得体の知れない無言の嫌がらせ。それがすべての始まりだったと椚さんは語る。
「もちろん最初はただの嫌がらせだと思った。あの子もそれなりの売れっ子になっていたし、人気が出ればその分の反動も少なからず現れてくる。そう思っていた。でもね、その行為は収まることなく、徐々にエスカレートしていったの。送られてくる回数も増えて、あの子が頻繁に使うスタジオや放送局の写真が同封されていたり、日常生活で使うお店や自宅アパートの写真が入っていたりと、あの子のプライベートにまで範囲が広がるようになった…そして、これは最近のことだけど……」
一瞬の間。椚さんの声が止み、相対的に車の走行音が大きくなる。話すべきかどうか、もしかしたら迷っているのかもしれない。話の続きを催促したい気持ちを押さえつけ、私は待つことに専念する。
「……最近になってね、自宅のアパートが荒らされたのよ」
「荒らされたって…先輩は!?」
「ああ、大丈夫よ。荒らされたって言っても空き巣だったから。あの子がその場にいたわけじゃないの。その日は仕事が休みで基本的に家にいたみたいなんだけど、用事があって外出したわずか数十分の間を狙われたみたい。私も連絡をもらって直行したけど、部屋の中はひどい有様だったわ」
そんなわずかな時間をピンポイントで狙われた。それはつまり、タイミングを見計らっていた可能性が高いということだ。先輩が自宅を出るタイミング。宮代アイカの行動を付かず離れず監視していた人間がいた。そういうことになる。
「犯人はずっとあの子を追っかけていたのでしょうね。もちろん警察にも連絡したわ。ちゃんと捜査もしてもらった。警察の見立てではね、ファンレターの件もあるし、お金が盗まれたわけでもなかったから、家主であるアイカを狙った計画的な犯行だろうって…いわゆる快楽班的なものだろうって話だった。結局犯人は見つからず、あの子も精神的に参ってしまって家を引っ越すことにしたの」
やはりそうだ、と素直にそう思った。漠然とイメージしていたことが、そんなことあって欲しくないと思っていたことが少しずつ形を形成していく。宮代アイカという人間を縛っているもの。その正体が明らかになっていく。
「あの子のホテルを市民文化ホール近くに借りなかった理由もそれよ。多くの人に滞在場所を知られないようにするため、ある程度離れた場所のホテルを見つけたの。もちろん一人で通わせるわけにはいかないから、こうやって行きと帰りはレンタカーを借りて私が送迎までしている」
だけど、それでも心は疲弊していく。犯人が捕まっていないのだから当然と言えば当然だ。一歩間違えれば身の危険だってあるかもしれない。そう考えただけで、心は恐怖でいっぱいになっていく。
「…何か、対策は?」
「難しいわね。正直、相手の顔も住所もわからないから手の出しようがないわ。私たちにできることと言ったらあの子を可能な限り一人にしないことだけ」
「…それなら…やっぱり私はホテルに残るべきでした…先輩を一人残してくるなんて……」
「ええ? 平気よ。この数週間、ずっとそうやってきたんだから。それに一人と言ってもホテルにはフロントスタッフもいるわけだし。犯人がこんな遠くまで追ってくるなんて限らないしね。事実遠見に来てからは何も起きてないわけだし」
―――…あれ?
もしかして椚さんは知らない? それが第一感だった。確かにここは田舎だ。今話してもらった内容は先輩の周りと言っても遠く離れた都心で起こったこと。椚さんの認識はたぶんこうなのだろう。裏を返せば、ここ遠見にはその犯人の手がかかることはない。そう言っているようにも聞こえる。
―――だけど、本当にそうだろうか?
今までずっと見てきた。劇の練習が始まってからの数週間。それこそ、椚さんよりもずっと近くで私は先輩のことを見つめてきたつもりだ。それだけは何にも負けない自信がある。だから、
―――今も宮代先輩の、宮代アイカの周りには
この第一感はきっと気のせいじゃないはずだ。付かず離れずの距離をとって今も彼女を眺めている。そんな気がして仕方がなかった。強引に連れて行かれたカラオケ店からの帰り道で、水族館目当てに二人で遊びに出掛けた街中で、そのときの彼女の態度がそれを証明している。遠くの何かを見つめるまなざし。怯えるような疲れた表情。きっとあれは……
「椚さん! やっぱりホテルまで戻してください―――ッ!!」
「ええ!? どうして? もうこんな時間なのよ。あなたもいい加減家に帰らないといけないでしょ?」
「いいんです! 早く―――ッ!!」
「ちょっと待ってて。今道を切り替えるから」
急に不安になった。そして今更あることに気が付いて、その不安さが倍増していく。
「先輩って携帯を2台も持ってますか!?」
「さっきからどうしたの? いいえ、1台しか契約してないはずよ」
「ケースの色は?」
「…ええと、確か青色だったわ。透明色の」
そうだ、青みがかった透明所のスマホケース。先輩がいつも所持しているものは確かにそれだ。頭の中を整理して、少し前の光景を思い出す。場所はさっきのホテル。先輩が滞在する部屋の中。
「夕飯を食べにレストランに向かう前、一度バッグを置きに先輩の部屋に上がらせてもらったんです…記憶が曖昧ですけど、その部屋のどこかに確かに置いてありました」
「置いてあったって…何が?」
「黒い色をした二つ折りのスマホケースです。部屋の中で確かに見ました。だけど、食事を終えて戻ってきたときにはそのスマホケースはなくなっていた…てっきり先輩が片付けたと思ってました…でもあれって……」
先輩の好みにしては妙に地味だと思った。だけど携帯を複数持っている人なんて珍しくもないし、ましてや有名人ともあればそれが普通だろうと自分を納得させていた。
今思い返してみると、あれは本当に先輩のものだったのだろう? 突拍子のない疑問が当てもなく頭の中を支配する。気持ち悪い。背筋が凍る。もしあれが先輩のものじゃなくて、先輩が片付けたんじゃなかったら……あの部屋にはまさか―――
「すみません、できるだけ急いで…って…椚さん?」
不安に駆られている私をよそに、車はなぜかそのスピードを緩めていった。ガラス越しに映るのは大小様々な倉庫の山。見たことのある建物に思わずシートから身体を起こす。ここってもしかして…倉庫街とは真逆、線路を挟んだ反対側に視線を向けるとそこには大きな駅ビルが。ひっそりと佇む倉庫街とは対照的に、明るく賑わいのある雰囲気が広がっていた。
そうだ。あそこはずっと前、文化祭が終わった後に朱里とこよみの三人で訪れたあの駅だ。そして、初めて宮代先輩と出会った場所。出会いなんてそんな運命的なものではなかったけれど、そこで私たちはお互いの存在を認識した。そのきっかけの場所を前にして、車は闇夜の中で停止する。周囲は異様な暗さ。秋空の天気はあいにくの曇天。そこには星一つ出ていなかった。