土曜日の夕方。いつもの喫茶店からの帰り道。
「燈子、それじゃ明日は文化ホール前で待ち合わせね」
「うん。確か開演が13時だったよね。楽しみだなぁ、ロミオとジュリエット。沙弥香は観たことある?」
「さすがに舞台まではないわね。小説だったら何度か目を通しているけど」
「私と同じだ。有名な舞台劇を間近で見れると思うと何かドキドキしてくるね」
「……」
「…ん?…沙弥香?」
「いいえ、その割には浮かない顔してるなと思って…何か心配事?」
「…ううん、たいしたことじゃないよ。でも、少し緊張はしてるかな」
「緊張って、劇を見るだけなのに?」
「…宮代さんが出るしね…正直に言うとね、私、彼女ってちょっと苦手で…」
驚いた。それが開口一番の沙弥香の言葉だった。どうして。そしてこれが次に続く言葉。そんな表情でこっちを見ないで欲しい。私にだって苦手な人くらいいるのだから。
「向こうも私を嫌っているような気がして」
「考え過ぎよ。今まで会ったこともないのよ。嫌われる要素なんてないじゃない?」
「そう、かな…」
沙弥香の言っていることは正しい。これまでだったらそうだったはずだ。でも今は要因となり得るものが一つだけ存在する。侑だ。詳しいことはわからないけれど、宮代アイカが侑との距離を詰めているのは本当で、学校の正門で見た二人はとても親しいように見えた。
なぜ彼女が侑に拘るのかはわからない。けれど、からかいがいのある女の子、そう侑の印象を語っていた彼女に私は一種の抵抗感を持ってしまった。おかげで行き場のないモヤモヤとした感情が今も心の中を彷徨っている。きっとあのとき、あのときから、私は宮代アイカに対して苦手意識が芽生えたのだと思う。ほんとめんどくさい性格だ、と自分でもそう思う。
「…燈子?」
「ううん、何でもない。それより当日は建物の周りにお店も出るみたいだから、いろいろと回ってみようよ。お祭りみたいできっと楽しいと思う」
「それはいいけど、あまり食べ過ぎると舞台中に眠くなるわよ」
「そのときは沙弥香が起こしてくれるでしょ?」
「仕方ないわね。でもどんな起こし方をされようと文句はなしよ?」
「うん! お手柔らかにお願いしまーす」
こうやって二人で休日を過ごすのは珍しいことじゃない。それでも一緒にいて思うのは、この数週間、沙弥香と過ごす時間が今までより増えたということだ。いや、春先前の生徒会、あの頃まではこれが普通だった。それが普通じゃなくなったのは今年の4月以降。わずか半年程度の期間だと言うのに、今ではその半年で築き上げたものが私にとっての日常となっている。
「それじゃまた明日ね。遅刻しちゃだめよ」
「しないよ。沙弥香も気を付けて」
「お互いにね」
そしてこの数週間、一人になって考えるのは“あの子に会いたい”という欲望の押さえ方。沙弥香には劇が楽しみだと話したけれど、きっと私が一番楽しみにしているのはイベントが終わった後のこと。そう、あの子が生徒会に帰ってくる。この半年間で築き上げた日常が戻ってくる。その事実につい胸が弾んでしまう。
「忙しいかな―――?」
自宅への道を辿りながら、右手に持った携帯とにらめっこ。ずいぶんと悩んだ末にコール音を何度か鳴らした。でもしばらくして聞こえてきたのは不器用な機械声音。大きな溜息が口から漏れる。少しでも声が聞ければ…そう思っていたけれど、今は我慢するしかないらしい。着信履歴に気が付いて、向こうからかけ直してくれることに淡い期待を寄せながら、私は連絡手段を通話から文字へと切り替えた。
「ロミオとジュリエット、か……」
明日、地域イベントでいよいよ舞台劇が上演される。400年前、ウィリアム・シェイクスピアによって創作された名作。始まりはもちろん二人の出会いから。けれど運命が二人を引き裂くかのように、ロミオとジュリエットは茨の道を突き進むことになる。何度読んでも切ない、胸を締め付ける物語だ。
理想に反して引き裂かれる想い。その過程に、結末に、胸が痛む。結ばれなくていい恋なんてないと信じたい。だけど、結ばれなかった恋だからこそ、この物語は人の心を魅了してやまないのだろう。
空想にふけっているとちょうどそこで手元が震えた。握っていた携帯をすぐに顔の前まで引き寄せる。振動の原因は一通のメッセージによるもの。相手はもちろん侑だった。急いで内容を確認すると、そこには“すみません”の文字。そして、“今忙しくて”と電話に出られなかった理由が並んだ。最後には“しばらく連絡できそうにない”の文面。
予想より早めの返信に嬉しい反面、侑にしては素っ気ない返事だと思った。イベント前日なのだから、忙しいに決まっている。それは仕方のないことだし、わかっていたことだ。そう自分を納得させて、“忙しいのにごめん”と返信の文字を打った。早く会いたい。君の声を聴きたい。今だったら電話に出てくれるだろうか。そう思う気持ちがある一方、邪魔しちゃいけないという自制心が働く。
しばらくの押し問答の末、結果的に私は携帯をそっと胸の上に押し当てた。口から漏れるのは大きな溜息。まるで恋人の帰りを待つ気分だ。自然と頭の中ではあの有名な一節を唱えていた。
…ああ、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの――――――
劇の練習が終わり、残すは明日の本番のみとなった。今日は早めに身体を休めたい。そう思っていたはずなのに、今は遠見から離れた駅前の広場で暇を持て余している。なぜこうしているのかと言うと、椚から連絡があったからだ。会って欲しい人がいるから、そんな連絡が入ったかと思うとこの場を指定された。疲れているから今日はやめて欲しいと伝えたものの、その希望は受け入れてもらえず、大事な用事だから必ず来るようにと念を押されてしまった。まったくいったい何だっていうのだろう。明日がイベント本番だって椚もわかっているはずなのに……
思えば今日一日、椚は顔を見せていない。いつも朝と夜は文化ホールまで送り迎えしてくれていたのに、今日に限っては別な用事があるからと言って断られてしまった。おかげで朝は電車移動。そして遅刻。イベント前日だと言うのに、これじゃ女優の立つ瀬がないというものだ。
「それにしても遅い! いったい何考えてるわけ!?」
もう夜も遅い時間帯。思わず声が漏れるほど私は相当不機嫌だった。その原因は椚の件もあるけれど、もう一つはあの子―――侑に理由があった。昨日、“また明日”と約束を交わしたはずなのに、結局あの子は最後の練習には来なかった。実行委員が言うには家庭の事情らしい。私も携帯で連絡したけれど、返ってきたのは“すみません”の短い一文だけだった。
まぁ、家庭の事情なら仕方がない。そう思うようにしたけれど、あの子が隣にいない日なんて初めてで、どうにも調子が狂ってしまう。セリフも所々間違えては散々な一日だった。おかげであの瀬波って人に心配されてしまった。脚本家に心配されるなんて、演技者として恥ずかしい限りだ。
もう一度周りを見渡した。依然、椚の姿はどこにもない。マネージャーの仕事が大変なのはわかるけど、姿を現したら何ていってやろうか。腕を組み替え、あからさまにいらついた雰囲気を演出する。言葉ではなく、態度で怒っていると伝えるために。
けれど、いくら待っても彼女は来なかった。寒さもあってこのまま帰ってしまおうかと考え始めた頃、突然携帯に一通のメッセージが届いた。白い息を吐きながら、指先を操作し内容を確認する。
「はぁああ!? 何それ!!」
そこには“場所を変えてほしい”という内容が綴られていた。あっちから指定しといてどういうこと?…内心悪態を付きつつ、一応移動先の場所を確認する。ええと、待ち合わせ場所は……確認すると、場所はここからそれほど遠くないところだった。これが違う街とかだったら問答無用で帰っていたところだ。ヒールではなく、スニーカーを履いてきて正解だったと素直に思う。いろいろと文句を言いたいところはあるけど、ずっとこうしていても仕方がない。そう思って、椚から連絡のあった場所―――線路を挟んだ向こう側へと足を進めた。
「うわー、暗過ぎ…これだから田舎は……」
指定された場所―――
駅の反対側は何もない場所だと思っていた。だから、連絡を受けた場所には違和感しかなかった。それでも椚の言うことだからと、地下通路に入って目的地に向かう。通路内には白色の蛍光灯が等間隔に設置されている。それでもお世辞にも明るいとは言えなかった。一歩前に進むごとに得体の知れない圧迫感に襲われ、なぜか息すらも苦しくなった。なんだろう、このプレッシャーは…うっかり私は別世界にでも向かっているのだろうか。壁や天井にはスプレーやペンキなどで描かれたよくわからない落書きの数々。それが逆に虚しさに拍車をかけていた。
息苦しい一本道を進みながら、私はもう一度携帯を取り出した。さっき連絡をもらってから、すぐに了解と短文を送り返した。そのメッセージに対してはちゃんと既読のマークが付いている。なぜかそんな当たり前のことにホッとする。ぐずぐずしてもいられない。私は先を急ぐため歩く速さを上げた。でもそのとき、
―――…え?……
ふと気になり、足を止めて後ろを振り返った。何か別な足音が聞こえたような気がした。でも、元来た方向を注視してもそこには誰もいない。気のせいかと思って再び歩き始めるものの、しばらくするとやっぱり私のものじゃないもう一つの足音が後を追ってきた。
もう一度振り返る勇気がなかった。振り返ってしまったら、何か取り返しのつかないことになりそうな気がして…振り向こう、後ろを確認しようとする行為を心が猛烈に拒絶する。やめなさい。振り返らない方がいい。そんな言葉の数々が頭の中からも聞こえてくるありさまだった。
通路内に響くコツコツという共鳴音。それが嫌に気持ち悪かった。公共の通路なのだから人がいるのなんて当たり前だ。そう自分を納得させていたせいもあって、“つけられている”という発想に行き着くまでには時間がかかった。後ろに控える何かは距離を詰めるでもない、声をかけるでもない、ただこちらの様子をうかがうだけ。それ以上のことはしてこない。それが恐怖を助長しているとも知らずに。
正直、怖かった。今更疲れが出始めたのか、身体はひどく重かった。頭は軽くパニック状態。今すぐにでも走ってしまいたい。そんな衝動に駆られては、その気持ちを必死になって押さえつけた。待って。地下通路から出るまで待って……そう自分に言い聞かせて平静さを装う。上下左右、色味のないコンクリート造りの通路内。こんな圧迫感のある場所なんてもう嫌だ。早く外の世界へ立ち去りたい。
―――早く、早く、早く…ッ
そう心の中で何度も叫んだ。
やがて息苦しさもなくなり、同時に身体を包む圧迫感も消えていった。上を見ると夜空には満点の星。昨日とは打って変わって雲一つない秋空だ。瞬間、足に力を入れると思いっきり地面を蹴った。ここ以外の場所ならどこでもいい。ひとまずこの場から、あの得体の知らない何かから少しでも距離を取りたい。その一心で息を切らす。途中、一瞬だけ後ろ確認したけれど、地下通路の出口には中の照明に照らされる形で“黒い影”が立っていた。
―――あいつはいったい何なの?
その疑問に答えは出ない。とにかく今は走ることに集中。それ以外は考えるな。そう自分に暗示をかけてはがむしゃらに、ただひたすらに闇夜を走り抜けた。そのせいもあってもう自分がどこにいるかもわからない。倉庫街の一角には間違いないけれど、周囲には街灯も、ましてや明かりの灯った建物もない。周りにあるのは大小様々なコンテナやパレット、鉄製のパイプに、所どころに放置された廃棄品の山。後はあたりを包む夜の静けさだけだ。
「…ハァ、ハァ…もうッ、いい加減出なさいよ―――ッ!」
だいぶ息が上がっていた。こんなに苦しくなるまで走ったのは久しぶりだ。駅方向になんて戻れるはずもなく、思考はこの倉庫街から離れることを第一優先に考えている。どこかの道に出られればそのまま逃げられる、そう思っていた。それなのに行けども行けども行き止まり。敷地の境界線には必ず高い塀やフェンスが張り巡らされ、倉庫街の敷地から外に出ることができない。何なんだここは…私は迷路の中にでも迷い込んだというの? さっきから椚に連絡しても繋がらない。それが焦りに拍車をかけた。
落ち着け。冷静になれ。そう自分に言い聞かせるものの、時間は止まってはくれない。甲高い金属音、それがすぐ近くから聞こえてきたせいで息を整えることもできそうになかった。改めて音のする方向を注視する。キーという金属同士が擦れる音。黒板を爪で引っかくような気持ち悪さ。そうやって音の発生方向―――コンテナの背後から姿を現したのは、他の誰でもない、例の黒い影だった。
その形が犬や猫のものだったらどんなに良かっただろう。でもそこにいたのは私と同じ一人の人間。深くフードをかぶっているから顔までは見えない。背は私よりも高い。吐く息は私と同じで白かった。ただ一つ、この世のものとは思えない不気味さに身体が震える。
こいつは私に何の用があるというの? なぜ私を追ってくるの? 疑問は次々に浮かび上がり、頭の中を混乱させていく。
「何なのッ! あんた誰なのよッ!!」
さっきこいつは地下通路の出口で何かをやっていた。こうやって対面することで浮かぶのは“もしかして出口を塞いでいたのではないか”という一つの憶測。根拠はない、けれどその可能性を捨てきれない。私にとっては恐怖でしかない。
そいつはやがて片方の手を翻し、身体の前に“あるもの”を押し出した。そこにあったのはまがい物でもなんでもない、本物の鋭利な刃物。
―――うそでしょ……
これは現実? ゲームか何か? お願いだから夢なら早く覚めて。そう精一杯念じるものの、未だに起床には至っていない。その事実に、私は絶望しそうだった。