「明日…ごめんなさい、もう日付が変わってるわね。いろいろあってすぐには眠れないかもしれないけど、ベッドに横になるだけでもいいから、疲れをできるだけ癒すといいわ。朝は早いけど頑張ってね」
時間になったら迎えに来るから、椚さんはそう言った。後の対応は任せて欲しい。揺るぎないその言葉にはどこか自信がみなぎっている。心なしかホッとした表情に見えるのは、きっと私の見間違いなんかじゃないだろう。
「小糸さん」
「はい?」
「今日はありがとう。本当に家に帰らなくても良かったの?」
「はい。服は先輩のを借りればなんとかなりますし、それにこのまま先輩を一人にするわけにもいきませんから」
「…あなたには最後まで頼ってばかりね」
「いえ、私が勝手にしたことですから」
「…そう……やっぱりここ遠見の仕事を引き受けて正解だったわ。私には祈ることしかできないけど、明日のロミオとジュリエットの公演が素敵なものでありますように。後悔だけは残さないようにね」
そう言うと、椚さんはホテルのフロントを出ていった。後に残ったのは私だけ。当の先輩はというと、ホテルに到着するなりすぐに自分の部屋へと引き上げてしまった。大きな嘘で傷を負わせた。先輩の背負う荷物が少しでも軽くなればいい。そう願っての行動だったけれど、やり過ぎた感は否定できない。きっと疲労も大きいはずだ。
「なな、ぜろ、いち…ここだ……」
部屋の前で足を止め、軽く扉をノックする。何だか妙に緊張して口の中がパサパサだ。椚さんには「先輩を放っておけない」なんて格好いいことを言ったけれど、本当に私がこのまま寄り添っていてもいいのだろうか。ついそんなことを考えてしまう。
「…どうぞ」
「お邪魔します」
ガチャンと大きな音がしてアイカ先輩と対面。そのまま部屋の中に上げてもらった。先輩はすでに服を着替えている。床の上には脱いだばかりの衣類。黒く汚れ、所々が破れているその服を見て、自分のしたことへの後ろめたさを感じてしまう。
「何か食べます?」
「ううん、私はいらない」
素っ気ない回答。やっぱり視線は合わせてくれなかった。
―――この気持ちはいったい何?
正体不明の胸の鼓動。その速度にこんなにも戸惑ったことはなかった。彼女と過ごして3週間が経つけれど、今まで何ともなかったことを意識しては、彼女の顔を直視できないでいる。しっかりしろ、と自分に喝をいれるけれど、心は思うように動いてくれなかった。
「…さ、先にシャワー浴びてきなよ」
「ありがとうございます。一緒に入ります?」
「ばかっ」
冗談なのはわかっている。だけど咄嗟に突き放す言葉を返してしまう。侑はあははと苦笑い。ハット我に返って自分の発言を後悔するけれど弁明の言葉は出てこない。そうしているうちに侑はシャワールームへ。姿が見えなくなってから私は両手で頬を叩いた。
―――ほんと、私のバカ!
しばらくして水の滴る音が部屋の中に聞こえてきた。ただの生活音。普段なら気にすることもない。それなのに今日は何だか気持ちがそわそわしてしまう。ここ数週間、この部屋でずっと一人で過ごしてきた。そこにもう一人、別の女の子がいるだけで、気分はどこか別の家にいるかのようだ。
―――あなたはどうしてロミオなの…
この感情に名前を付けるのが怖かった。私は女で、あの子も同じで…そこに特別な感情なんて有り得ない。ずっとそう思っていた。あの二人が異常なだけで、私には理解できない異色の価値観、別な世界の出来事。侑と七海燈子を最初に目撃したあのときだってそう思った。それが今ではこのざまだ。あのとき、おそらくは七海燈子が感じていたであろう感情を私もまた感じている。有り得ないと切り捨てた、人を“好き”になる感情を―――
「先輩?」
「侑!? どうして…っ」
「どうしてもなにもシャワー終わったところです。先輩こそどうしたんです? ぼーっとした顔して?」
「っ…な、なんでもないよ! 今日の舞台のことを考えていただけ。それじゃ私も入っちゃおうかな」
彼女の濡れた髪。シャンプーの臭いが鼻の奥を刺激した。バスローブを巻いた体は妙に色っぽい。それに比べて自分は汗臭いんじゃないかと変なことばかり気にしてしまう。
「終わったら教えてください。足と腕のケガ、シャワー後にもう一度診ますから」
そう言うと、彼女は私の膝に手を伸ばした。心配してくれるのはきっと善意からだ。なのに、大丈夫だからとその腕を振り切って私はさっさとシャワールームへと駆け込む。人を好きになるのに理由はいらない。そんなことわかっているつもりだった。ドラマじみたセリフなら今まで何度となく耳にしてきたのだから。
だけど、一つだけ誤算だったことがある。この胸の高鳴りには常に恐怖と苦しみが付き纏うということ。たぶん私はそれを甘く見ていたのだろう。この気持ちを相手に知ってもらうこと。それがどれほど怖いことなのか、勇気のいることなのか。この気持ちを我慢すること。それがどれほど苦しいことなのか、覚悟のいることなのか。
人生は所詮天秤なのだ。これは誰の言葉だっただろう。気持ちを否定される怖さと気持ちを知ってもらえない悲しみ。人を好きになるとき、人はいつだってその両方を天秤にかけ決断を強いられる。今の私もその一人、例外なく心をもまた苦しめている。
好きの気持ちは時間と同じなんだとそう思う。一度その感情を知ってしまったなら、その気持ちをなかったことにはできない。後は進むだけ。そこに潜む残酷さを今更ようやく理解できるなんて、笑い話にもなりはしない。
「先輩、もしかして怒ってます?」
その晩、背中越しに彼女の口から出た言葉に驚いた。一人用の部屋と言っても、ベットサイズは二人で眠るには十分な広さ。だから今夜は並んで眠ることにした。侑は遠慮して床で十分だと言ったけれど、私がそれを許さなかった。
電気を落としてからだいぶ時間が経つ。だから侑はもう眠ったものだと思っていた。当然部屋は真っ暗。街の喧騒も聞こえてこない。静寂の中に耳にする声は何だかとても新鮮で、どこか不思議な特別感がある。
「…怒るって…どういう意味……?」
身体を動かさずにそのままの態勢で逆質問。彼女と同じ、とても小さな声だ。それでも背中合わせのこの距離なら十分伝わるはず。
「…いえ、何もないのならいいんです。もうこんな時間ですけど、早めに休んで劇に備えましょう。きっとみんなが見に来ると思います。私はサポート役ですけど、それでもいい劇にしたいです」
侑は「おやすみなさい」と言うと、それ以上は何も聞かなかった。
倉庫街の一件以来、目線を逸らしてばっかりで、侑の顔を直接見ていない。怒るというワードには正直驚いたけれど、さっきからの私の態度は確かにそうかもしれない。彼女からは私が怒っているように見えるのだろう。こんな目に合わせるなんて、と侑のした行為を拒絶する人間に。
―――まただ。
そう自分を強く責めた。照れくささを隠そうとする態度が、天秤の傾きを見極められない優柔不断な行動が、逆に彼女を不安にさせている。私のことを救ってくれた女の子。その子をまた不安な気持ちにさせている。あんなことがあったと言うのに、私はまるで成長していない。それが我慢できなくて、思わずもう一度自分の頬を両手で叩いた。
「え? 先輩?」
「侑!」
「あっ、ちょっと!?」
ベッドが軋む。戸惑いの声が聞こえる。私の身体の下で少女の瞳が揺れ動く。鼻の先端がくっつきそうなほどの至近距離。例え暗くてもこの距離なら表情の変化を見逃すことはないだろう。
「…アイカ先輩これは―――」
「最悪のタイミングだよ…ッ!」
「え?」
「劇がもうすぐで始まる。もちろんみんなが感動できるいい劇にするつもり。それが君との約束だから…でも侑だって気付いてるでしょ!? イベントが始まるっていうことは―――ッ」
イベントの終わりを意味する。この子とのお別れが近づいている。それが私には耐えられなかった。残す時間もあとわずか。侑と一緒に過ごす時間も限られている。感情が入り混じり、彼女の腕を掴む手に力が入る。言っていることはむちゃくちゃで、これも身勝手な気持ちの押し付けで。そんなことは理解しているつもりだけれど、揺れ動く感情を押さえるのはもっと難しくて。涙を堪えるのがやっとだ。
「…良かったです」
「…侑?」
「怒ってないってわかっただけですごく安心しました」
彼女は両腕を背中に回して、そっと私の身体を引き付けた。崩れ落ちる頭。柔らかい感触が顔全体を包む。とても暖かくて、安心できて、油断するとすぐに眠ってしまいそうだ。この子にこうしてもらうのはこれで2度目。睡魔に襲われ重くなっていく瞼。このままだと気付いたときには朝になっているだろう。でもその前に、意識がなくなるその前に、私は……
「…侑」
「どうしました?」
「キスしたい」
「…急に何です?」
「一度くらいいいでしょ? いまどき友達同士でキスするなんて普通だよ…それとも…私とじゃイヤ?」
顔は敢えて見なかった。侑がどんな表情をしているのか、それを気にするだけで心臓はバクバクだ。驚いた顔をしているだろうか。それとも困惑した表情だろうか。もしかしたら突然のわがままに呆れているかもしれない。それでも今君の唇を奪っておきたい。その気持ちに嘘はなくて。きっと朝になったら、恥ずかしくて言い出せないと思うから。
「明日の劇の練習だよ」
見え過ぎた嘘。劇にキスシーンはあっても本当に唇を重ねるわけじゃない。侑もそれはわかっているはずだ。緊張を気取られないよう、彼女についた最大限の見栄。耳を澄まし意識を集中する。部屋の中に聞こえるのは一定間隔で刻み続ける時計の針の音。一秒がとても長い時間のように感じられて、意識の中では永遠とも呼べる時間が過ぎていく。
やがて「わかりました」と小さな答えが返された。ただし目は瞑ってください。そう言い残すと、彼女は私の腕を取って強引に身体を反転させる。今度は私が下で、彼女が覆いかぶさる格好に。自分から誘ったというのに、心臓は今にも破裂しそうな勢いだった。
「…それじゃ行きますよ?」
「…ッ」
直後に感じる柔らかい感触。一瞬の出来事。その感覚が遠ざかってからそっと瞼を開ける。そこには彼女の照れたような含み笑い。
「…やっぱり侑はイジワルだ」
おでこに当たったその感触を感じながら私はそっと目を瞑った。意識が途絶えるまでに、時間はかからなかった。
運転席にはスーツを着た女性が座っていた。周囲はとても静かで、雲の多い肌寒い夜のこと。まどろみの中の記憶でも、そのときの光景は現実のようにはっきりとしている。
「昔もね、気が強くて物怖じしない性格だったの。大きく変わったところがあるとするなら、それは人との関わり方だと思う。小さい頃は積極的に人と接する子だった。それこそ土足で相手の心に踏み込んでいくほどに」
「今は、そうじゃないと……」
「…そうね。あなたが感じている通りよ。大人になるに連れて、あの子は自分と周囲との間に違和感を持つようになった…別に難しい話じゃないわ。誰しもが通る道…背の高さや髪の色、勉強や運動の得手不得手、食べ物や音楽、異性への趣味嗜好、そして物事に対する考え方。例えを挙げたらきりがない。みんな否が応にも自分にとっての普通が、他人にとっての普通ではないことを自覚していく」
決して“自分”というものがないわけじゃない。今も昔も目立ちたがりやなところは少しも変わらない。でも、他人と違うこと。それをあの子は極端に嫌う。そう女の人は口にする。
「あの子にとって、他人と違うことは恐怖そのもの。演技に打ち込んで、自分じゃない誰かを演じることに拘るのもきっとそれが原因だと思う。“役”という仮面をかぶることで心の安定を求めているのかもしれない。ほんと、不器用な子よね……」
そう言って女性は苦笑いしながら、不意に顔を持ち上げどこか遠くを眺めた。外の景色を見ているというよりは、きっと昔のことを思い出している、そんな気がする。
「…でも、先輩は私に対しては普通に接してくれました。少なくともこの3週間、先輩と過ごした時間は本物で、仮面をかぶっていたなんて思いたくありません。根拠はないけど私にはわかるんです。先輩はいつだって先輩だったって―――」
「…そうね……あなたの言っていることはきっと正しいと思う。ねえ? 血圧計を想像してみて? あれって上下の血圧値が85から130までで推移すれば正常と言われているわね。だけど、不摂生がたたって計測の度に基準値を外れていたとして、あるとき1回だけ正常な結果が出たとして、そのとき人はどう思うかしら?」
「…すみません。話の意味が―――」
「わかりにくかった? だけど言い得て妙な例えだと思わない? 普通の人はその結果を疑って間違いだと思うんじゃないかしら? あの子の場合もそう。きっとこの3週間はずっと戸惑いの連続だったと思うの。仕方のないことよね。今まで正常な結果なんて出たことがなかったのだから」
小糸侑さん、あなたがそのたった1度の
「だから、あなたの前では仮面を付ける必要がなかった。素の自分を出せたんじゃないかしら。こんなことを私から言っていいのかわからないけれど、もし迷惑じゃなかったら、あの子の気持ちを少しでいいからわかってあげて欲しい。あの子の気持ちと向き合ってあげて欲しい。勝手なことを言っているのは承知の上―――」
これは私個人のわがまま。女性は消え入る声で呟いた。暗い車内。暖房を付けてはいても外の寒さが身に染みる。窓の向こうの空には星の一つも出ていない。
「…一つだけ聞かせてください」
「何?」
「変な質問かもしれませんが、何でそこまであの人のことを…?」
その質問を聞くなり、その人は驚いた顔で振り返った。意外な質問だったのだろうか。だけどすぐにいつもの凛々しい顔に戻ると「当たり前でしょ?」と声を張って言い切った。
「だって私はあの子の―――」
―――マネージャーなのだから。
気が付くと目の前には無機質な天井が広がっていた。慌てて時計を確認する。時間は目覚ましが鳴る1時間前。どうやらその前に目が覚めてしまったらしい。昨日、あんなことがあったのに驚くくらい目は冴えている。だけどそれに反比例するかのように身体はひどく重かった。
隣には先輩の寝顔。今もぐっすりと眠っていて、吐息が何だかくすぐったい。
「たった1度の正常値、か……」
そっと自分の唇に手を当てる。意味はない。今しがた見た夢のせいか、心の奥を何かがチクチクと刺激する。
ベッドから身体を起こし、カーテンの隙間から外の様子を覗き込んだ。もう一人を起こさないようにそっと。街は未だに暗闇の中。でも地平線の向こうには、太陽の光がわずかに顔をのぞかせている。もうすぐ夜も明けるだろう。そして私たちは舞台会場へと向かわなければいけない。
泣いても笑っても今日が本番だ。後戻りはもうできない。披露するのはみんなの想いが詰まった3週間の努力の結晶。短かったけれど、とても忙しい毎日だった。ロミオとジュリエットの舞台劇、いよいよその幕が切って落とされる。