ロミオは怒りと悲しみに打ちひしがれていた。目の前には床に横たわったジュリエット。もちろん死んでなんかいない。ただ眠っているだけだ。けれど、ロミオはそれを知らない。彼女は死んだと思い込み、自前で用意した毒薬を口に含んでその場で息を絶った。
元々、ジュリエットとロレンス修道士が用意した計画だった。再び愛する人と一つになるために、家の者に自らを死んだと思わせる。その後でロミオと落ち合い、そして二人で一緒に生きていくはずだった。なのに、それがほんの些細な行き違いから悲惨な結末へと変貌する。
『ああ、ロミオ! なぜあなたがこんなことに。これは何? 愛しいあなたの手に握られたこの
そうしてジュリエットもまた床へと倒れ込んだ。おそらくこれが彼女の最後のセリフとなるだろう。そう判断した私は座席でフッと肩の力を抜いた。案の定、その後はロレンス修道士によって、この地を
「小説も良いけど、やっぱりこうやって劇として観るのも素敵ね。終わってみればあっという間だったかしら」
「…私にはちょっと長かったかな」
「…ほんとに大丈夫? 今日の燈子は何か変よ? やっぱり具合が悪いんじゃないの?」
「そんなことないと思うけど…でも気を張ってたせいか少し疲れちゃったかも」
「やっぱりどこか休む?」
「大丈夫。体調には全然問題ないんだよ」
「…それなら…いいのだけど」
「あっ、ほらっ、まだ続きがあるみたいだよ」
沙弥香との会話中、再びの舞台に照明が灯った。私も沙弥香もその視線をもう一度ステージ上へと戻す。いったい何が始まるのだろう? 物語はほぼ終わった。雰囲気からして出演者の挨拶というわけでもないらしい。不思議に思う私をよそに、舞台上にはロミオとジュリエットの二人だけが立っている。今までと違ってそこには舞台背景も何もない。スポットライトに照らされた一角以外はすべて真っ黒な闇に覆われていた。
『…ようやく会えた。ロミオ、私はずっと待っていました。この道は狭く孤独で一人で進むには寂しいものです。まるで大海原に投げ込まれた小舟のよう。進路を示す灯台がなければ進む方向も定まりません』
『それはぼくも同じさ。長い長い巡礼の旅に、何よりも必要なのはたった一人の付き添い人。それが君ならどんなに
死んだはずのロミオとジュリエットの会話。それが柔らかな光の中で始まった。少しざわついていた会場は再び沈黙。そのセリフの一つ一つに耳を澄ましている。
ロミオはジュリエットに語りかける。とても暖かく、透き通ったまなざしで。
『さあ、ジュリエット、二人で共に巡礼の旅へ』
それは、原作にはない、この劇オリジナルの追加シーンだった。天国での会話なのか、はたまた実は二人は生きていて、遠く離れた別な街での会話なのか、どちらとも捉えられる演出。これが脚本を務めた瀬波さんが一番拘っていたシーンだった。
「さあ、ジュリエット、共に巡礼の旅へ」
そのセリフをきっかけに、ジュリエットはロミオの手を握り締める。
「―――幸いに至る道を、あなたと」
そのジュリエットの返事と共に舞台は暗転。劇は本当の閉幕となる…はずだった。それなのに……
いったいどうしたのだろう? さっきからジュリエットの動きが止まっている。おかしい。最後のシーンにこんなに長い
時間が経過すればするほど心臓がドキドキする。空気もヒリリとして、口の中がすごくパサつく。ジュリエット…いいや…アイカ先輩はいったい……? 何かを考えている? 何かに悩んでいる? だけど目線を落とす表情からじゃ何もわからない。今だってやっぱりジュリエットは動かないままだ。
いつしか観客席がざわつきはじめていた。それもそのはずだ。二人で共に巡礼の旅へ。ロミオのそのセリフ以降、ジュリエットが反応を見せなかったからだ。口を堅く閉ざしたまま、返事をすることを止めた一人の少女。彼女はどういうわけか胸の前で手を握り締め、静かに一人たたずんでいる。大観衆の視線を独り占めにしながら、その場にずっと……
いったいどうしたのだろう? そう不思議に思うのは何も私だけじゃないはずだ。この場にいる大勢がきっと同じ気持ち。隣の席と顔を見合わせる者、何があったのかと独り言を呟く者、観客の反応はそれこそ様々だった。
「どうしたのかしら? セリフを忘れちゃったとか?」
「……」
「……燈子?」
「…わからないけど…何もわからないんだけど……嫌な感じがする」
沙弥香に首を捻られる。だけど、この感情を言葉で表現するのは難しい。だって自分でもこの衝動の正体がわからない。この状況において明確なことは一つだけ。次のジュリエットの動きから決して目が離せない。たったのそれだけだった。
……まずは謝らないといけない。毎日遅くまで稽古に励んだ役者のみんなに、大道具から小道具まで様々な舞台装置をつくってくれた学生のみんなに、今日この日の舞台を企画しイベントの段取りを行った実行委員のみんなに、何よりも劇を成功させようとしたみんなの気持ちに―――。私一人のわがままで壊していいものでは決してない。それは十分にわかっている。
だけど、ごめんね。それでも私にはこの場でやらなきゃいけないことがある。だからみんなが見つめる舞台の上で今もこうして立っている。この場じゃないと伝えられない気持ち、打ち明けられない想いがあるから。
その気持ちを誰に伝えるのか。それはもうわかり切ったことだ。今の私はジュリエット。それなら、気持ちを伝える相手は一人しかいないだろう。
『…ねぇロミオ…一つだけ聞かせてほしい』
唐突な言葉に当のロミオはハッと驚いている。無理もない。あと一つのセリフで劇は幕を閉じるところだったのだ。だけど君には最後まで付き合ってもらうからね。脚本には載っていなかった、私が描いた
ジュリエットが口を開いた瞬間、会場のざわめきが収まった。一つだけ聞かせてほしい。目の前でそう語る先輩の表情はひどく険しく儚げだ。
『…ど、どうしたんだい? あ、改まった顔をして!?』
慌ててセリフ合わせる。言葉遣いはこれで大丈夫だろうか? 脚本にはなかった未知のストーリー。予想外の展開。それがジュリエットのセリフによってこうして切って落とされた。もちろん、心臓はバクバクで、体温は今まで以上に高い気がした。
『私にはどうしても知らなくちゃいけないことがあるの。聞いて、ロミオ。そして答えて。あなたの本当の気持ちを―――』
『…ぼ、ぼくの気持ち?』
『ええ、そうよ。あなたにとっての
自由となった今の私なら……先輩は確かにそう言った。その言い回しは独特で端から見たらジュリエットの身の上に思えるだろう。でも私の脳裏をよぎるのは、先輩と遊びに行ったあの水族館での思い出だ。そこで先輩はある童話の話を聞かせてくれた。主人公の名前は私かアクアという一匹の魚で、その子は二つの道から一つを選ぶ権利を持っている。その道のどちらがアクアにとって幸いなのか…そんな話だったように思う。今更そんなことを思い出すなんて……自分でも少し不思議なくらいだった。
ロミオはひどく慌てていた。ごめんね。でもすぐに終わるから、もう少しだけ私のわがままに付き合ってほしい。きっと今頃、舞台裏も大きくばたついているに違いない。そりゃそうだ。脚本にはない物語が舞台の終わりに始まってしまったのだからみんな驚くのも当然だ。
多くの人の視線が痛いほどに突き刺さる。胸が痛い。足が震える。舞台の上でこんなに緊張するのはいつ以来だろう。女優になって切り捨てた感覚がみるみる鮮明に蘇ってくる。きっと心も体もわかっているんだ。今は、今だけは女優として舞台に立っているわけじゃないということが。このときばかりは
『…何から話せばいいだろう? 出会いはひどく衝撃的で、一緒にいた時間はとてもわずかなもので、けれど、何にも変えることのできない、かけがえのない思い出があなたとの時間の中には詰まっていた。どれも私にとっては大事な大事な宝物』
心を整理するために、深く深く息を吐く。ジュリエットにしては現代的なセリフ回し。少しフランク過ぎる気もするけれど、どうか今だけは許してほしい。この気持ちは、想いだけは、できるだけ自分の言葉で語りたい。
『…私ね、あなたと出会う前まで、たぶんどん底にいたの。暗くて深い闇の中。それこそ深い海のような場所で、ずっと一人でもがき苦しんでいた……自由を求めても空をのぞくことはできなくて、次第に嫌気がさして自暴自棄になっていた。きっと私は誤解していたのよ。この不自由は家のせい。私を縛る家さえなかったら、私はどこへだって行ける……そう思っていた……でも、結果的にそれは間違いだった。それを教えてくれたのがロミオ、あなたよ? 私を縛り止めていたのは家なんかじゃない、それは自分自身。ずっとずっと怖かった。人と違うこと、自分を肯定できないこと、その全てがずっと……だから私は自分に言い聞かせていたの。悪いのは私を縛っている環境で自分は悪くないんだって…いつだって自分に嘘を付いて、いつも自分じゃない誰かを演じていた。演じている間は自分自身を見つめなくて済んだから。演じることでいずれそれが本当の自分になっていくような、そんな気がしたから』
だけど、全然だめだった。心は次第に
『でもね、そんな苦痛に耐える日々にあなたは一筋の光をもたらしてくれた。こんなことを言ったら嫌われるもしれないけれど、晩餐会のあの夜、最初は興味半分で近づいただけだったのよ? あの日、優しくも切なそうな顔をしていたあなたを見て、私は
会場内は少しざわついていた。当然だ。最後の最後にこんな脈絡もない思い出話をされたら誰だって頭の中にはてなマークが浮かぶだろう。ジュリエットの話す内容を理解できる観客なんて一人もいない。それは裏で見守っているスタッフだって、脚本を描いた瀬波って人だって同じこと。
事実、聞こえてくるのは観客たちの戸惑う声ばかり。物語の終焉で展開される意味不明なジュリエットの言動。その言葉に隠された意味をここにいる全員が図りかねている。たった一人、目の前のロミオを除いては。
『……』
侑…あなたは今何を考えている? 突然の話に戸惑っているだろうか? もしかして怒っているだろうか? 身体が何だかすごく熱い。さっきから心臓が大きく跳ねる。たった一人の好きな人を前に自分の想いを伝えようとする。その行為がこんなにも緊張するものだとは思わなかった。経験したことのない感覚に心の動悸の抑えが効かない。
ロミオは沈黙したままだった。ずっと私のセリフを待っていたはずなのに、今では私がロミオの反応を待っている。俯いていてその表情は見通せない。次に見せる君の反応が怖くて、胸の鼓動はさっきから速まるばかりだ。
『…ぼくだって同じだった……』
『ロミオ……』
その言葉に、まっすぐ正面を見据えた。そこにあるのは甘酸っぱい笑顔。ロミオは両手を後ろに組んで、背伸びをするように軽く天井を見上げている。その姿はまるで曇り空からのぞく一筋の光のように、見る者に淡い感情を抱かせる。
『最初はなんて気の強い人だろうって…印象は最悪だった。だってそうでしょ? 秘密を知られたくなかったらこれから私と踊ってくれ、なんて…そんなことを言われたら、警戒されたって文句は言えないと思う。あの日、君に出会ったぼくはただの不幸者で、心の底から運がないとそう思った』
小さく消え入るような声だった。それでも声は反響して会場全体に響き渡る。声を聞けただけだというのに、なぜこんなにも嬉しいのだろう。でもね、涙を見せたりはしないよ。勝手に始めた一人舞台だけど、その結末を知るまではこの気持ちの行き場は取っておくって決めているから。
『ほんとにとんでもない人だと思ったよ。何を考えているかわからなくて、行動がまったく読めなくて…ぼくはこの先どうなってしまうんだろうって……』
思い出しているのはきっと強引に連れ込んだあのカラオケ店での出来事だろう。夕陽に照らされた一人の女の子。その子を見つめるもう一人の女の子。一緒に入った暗くて小さな密室の部屋。戸惑った表情に、ふて腐れた受け答え。よみがえる映像は今でもとても鮮明だ。
『せん……ううん…ジュリエット…きっと君はぼくと似ているんだと思う。人が持つ“普通”がわからなくて、人の持つ“普通”を手に入れてみたくて、人の視線を気にしてしまう。ひどく繊細で敏感で、だけど自分じゃどうしようもできないくらい不器用で……』
ロミオはとても優しげな表情だった。どこか遠くを見つめるまなざし。その先にどんな景色が見えているのか今の私にはわからないけれど、スラッと舞台上にたたずむその姿はとても綺麗で。今まで見てきたどんな舞台女優よりも輝いて見える。
『だけどぼくは知っている。不器用でどうしようもない君だけど、誰よりも人に優しくて、誰よりも自分に厳しくて、きっとぼくはそんな君に…惹かれたんだ……気が強くて、わがままで、こうだと決めたら最後まで意見を曲げない、強情で、欲張りで、物事が思い通りにいかないとすぐに不機嫌になって…ぼくのことを困らせてばかりな、そんな君に……』
『幻滅した?』
『どうだろう? でもね、ジュリエット。人一倍の負けん気が強い君だけど、本当は寂しがりやで、泣き虫で、すぐに人に甘えるくせに甘え方が下手で、拒絶すると必要以上に拗ねて傷ついて、いつも不安と戦っているような人だと後でわかったとき、みんながイメージする君と、ぼくが知っている君がまるで違うと知ったとき、なぜかぼくは君のことを愛おしく思えた。不思議だよね。最初の印象はあんなにも悪かったのに」
満面の笑顔が胸を貫く。自然と私の頬は蒸気する。
『ロミオ、あなただってそうなのよ? 気が弱そうで、押し負かされそうで、人の意見にすぐ左右されてしまうような、誰かが守ってあげなきゃいけないんじゃないかって思えるぐらい、君は弱々しく見えた。でも、それはまったくの誤解だと後でわかった。君は誰よりも芯が強くて、誰よりも我慢強くて、そして誰よりも優しかった。その小さな身体からは考えられないほどの強さをあなたは持っている。その心の強さに私はとても驚いた』
そして、気が付いたらそんな君を好きになっていた。
イタリアの街ヴェローナの名家に生まれた二人の男女。その出会いは鮮烈で恋に落ちるのはあっという間。誰が見てもその恋はひと目ぼれだったと思うだろう。確かにそれは間違っていない。そして燃え上がるような恋。向こう見ずの恋だったからこそ、二人は破滅したと考える人もいるだろう。それもまた決して間違ってはいない。
だけど私は、そこに想像する余地があると思うのだ。恋は人を盲目にすると言うけれど、二人はきっと自分たちの恋の行方をちゃんと理解していたと思うから。自分たちの恋が実らないことは目に見えていた。だけどそれでもロミオとジュリエットは自分たちの運命にあらがった。結果的にその行為が自らを滅ぼすことになったけれど、きっと二人に後悔なんてなかった…とそう思うのだ。
そしてもしこの想像が的を得ているのなら、物語の見方は少しだけ変わってくる。決してハッピーエンドと呼べるものじゃないけれど、ただ運命に翻弄されただけの男女の物語なんかじゃ絶対にない。自分たちの運命を知ってなお、その運命を受け入れた。その覚悟と決意があるからこそ、人はこの物語に儚さを見出した。それこそが400年の時を超え、人を魅了し続けるロミオとジュリエットの物語だと思うのだ。
教訓?なんて大袈裟なものではないけれど、失敗を、あるいは破滅を恐れてはいけない、踏み出すことの重要性と代償をこの物語は伝えている。そして今、こうして私は大きな一歩を踏み出している。昔からずっと嫌いだった物語。それがこの背中を押す原動力になるなんて、皮肉すぎて笑ってしまう。
精一杯に足を踏ん張った。見つめる先は目の前の一点。
『ロミオ、私はね…改めてあなたに想いを伝えたい。お互いが自由の身となった今だからこそ、お互いの本当の気持ちを確かめ合える。私はそう思っている…私は、あなたが好き。大好き。
舞台が終われば、私と侑の繋がりは終わってしまう。だから、他人に戻るその前に、物語が明けるその前に、私はこの場で伝えるんだ。彼女の返答に一筋の希望を託して―――
息を飲む、とはこういうことを言うのだろうか。思い出を語り合う二人の主人公。そのやり取りは脈絡がなくこれまでの内容とあまりリンクはしていない。お世辞にも物語として成立しているようには思えなかった。
「セリフ回しがより現代風になっているけど、これも演出なのかしら?」
「…さあ、どう、だろうね……でも何だか不思議な感じがする……」
「不思議って…?」
「うまく言えないんだけど、心を鷲掴みにされるような…圧迫感?ていうのかな……自分でもよくわからないんだけど……」
ロミオを語るジュリエットも、ジュリエットを語るロミオも、その演技はごく自然で癖がない。違った一面の登場人物を見ているようで、二人のセリフや動きから目が離せない。
気になるのはジュリエットの告白だ。何を想ってこのタイミングなのだろう。何のためにもう一度ロミオに気持ちを伝えるのだろう。相思相愛だったはずの二人の登場人物。突然の片方による告白。単純にその意図がわからない。純粋にその意味を理解できない。私の心はあのステージ上で繰り広げられる会話に置いてけぼりだった。
君が好き。そのセリフを口にしてからどれだけの時間が経っただろう? いや、たったの数分、数十秒なのかもしれない。だけど、私にとってそのわずかな時間は永遠にも似ていて、この足の震えもしばらくは収まってくれそうにない。胸の高鳴りも喉の渇きも相変わらずだ。
相手の返事を待つのが、こんなにじれったいものだとは知らなかった。彼女の瞳に映る景色。そして答え。それがこの舞台劇を通して明らかになるのを今か今かと待っている。場内はピリリとした緊迫感。ロミオとジュリエットの最期を飾る最終シーン。終焉で明かされるジュリエットの告白と、それに対するロミオの想い。二人が行き付くその先を、物語の最終的な結末を、この場にいる観客たちもまた静かに見守っている。
『ありがとう』
やがて沈黙を破り、一つの言葉が告げられた。か細くも気持ちのこもった透き通った声。自然と意識が研ぎ澄まされる。ロミオが口にする次の言葉を、ジュリエットの問いに対する回答を、ようやく私は聞くことができる。
「ジュリエットの質問ってどういうことなんだろうね?」
「…燈子?」
「ロミオはジュリエットに恋をしたことですべてを失った。もちろんジュリエットもそれは同じだけど、その後にあなたは本当に私のことが好きなの? なんて質問、何だかひどすぎるような気がする」
「…きっと捉え方の違いじゃないかしら?」
「捉え方?」
「そう。このシーンをすべての終わりと捉えるか、それとも新しい物語の始まりと捉えるか、その違いなんじゃないかって思うの。二人の新しい門出にお互いの気持ちを確かめる。それは決しておかしなことじゃないと私は思うけど…まぁ、そうね、蛇足だと思う人はいるかもしれないわね」
「…新しい物語の始まり、か……」
ロミオが導き出す答えによって二人の運命は大きく変わる。そんな重要なシーンを最後の最後で見せられるなんて思いもしなかった。無意味な追加シーンと言えばきっとそうだ。でもまぁ、こんなシーンがあってもいいのかもしれない。アレンジすることの面白さ。それも舞台劇の楽しみ方だと思うから。
暖かな光が灯る舞台上。そこはとても神聖な場所で、踏み込めるのは今ああして向かい合っているロミオとジュリエットの二人だけ。私たちはただただ彼女たちの導き出す答えを見守っているしかない。たとえそれが、どんな結末になろうとも、じっとその場で見ているしかない。それが演じる者と観る者の違いだと思うから。
『ぼくもそうだった。ジュリエットと同じで、一緒にいてすごく楽しかった。会えないときはすごく寂しかった。鬱陶しいと感じるときもあったけれど、君と過ごす毎日はとても輝いていて、いつもと違う日常はとても幸せな時間だった。ぼくにとってそれは“幸い”と呼べる日々。嘘なんかじゃない。ずっと君の近くにいれたなら…今も本気でそう思う……』
『なら……ッ』
『でもっ…やっぱりぼくは君と一緒には行けない……ッ』
その言葉を口にしたとき、ロミオは…いいや…侑は泣いていた。大粒の涙を目の淵に溜めて、流れ出る滴で頬をいっぱいに濡らして。その姿はあまりにも綺麗で、胸の奥がキュッと締め付けられる。
『…それは……どうして?』
やっとの思いで声を絞り出す。気のせいか、かすかに声が震えている気がする。でも自分じゃどうすることもできない。
『…気になる人がいるんだ。その人に対する気持ちに答えを出すまでは、君と一緒に行くことはできない……』
『…それは……私よりも大切な人?』
『わからない。だけど、ぼくにとって放っておけない人には違いないから。その人を見ていると、胸がざわざわして何だか甘酸っぱい気持ちになるんだ。その気持ちが何なのか、まだぼくにははっきりとはわからない。けど…この先、この気持ちの正体を解き明かしたいと思ってる。だからっ…今、君と一緒には行けない……巡礼の旅には旅立てない……ッ」
苦渋に歪む少女の表情。それがこの物語の結末を物語っている。想定はしていた。だけどいざそのシーンになってみると頭の中は真っ白で、用意していたセリフはどうにもまったく出てこない。ほんと、こんなんじゃ役者は失格ね。だけど、ありがとう。そんなになるまで悩んでくれて。そしてごめんね。こんなに辛い思いをさせて。一瞬でも君のそんな姿を見ることができて、私はものすごく幸せだよ。改めて思うんだ。君を好きになって良かったと。
でも
『…そっか……やっぱり、ロザラインには勝てなかったかぁ』
思わず天井を仰ぐ。ロザラインとは昔のロミオの想い人だ。ジュリエットからすれば恋敵となる相手。シェイクスピアが描いた「ロミオとジュリエット」の作中、ロザラインという女性は名前が出てくるのみで実際に登場することはない。その姿が披露されることも、セリフが与えられることも一切ない。それはこの舞台でも例外じゃなかった。
だけど、一つだけ誤算があるとするならば、この舞台に立っているロミオはジュリエットが想像する以上にロザラインへの想いが強かった、ということだろうか。もし、もしもだ、ジュリエットがロザラインより先にロミオと出会っていたのなら、物語の結末はもっと違うものになっていた、そんな気がする。
胸を突くかすかな痛み。今まで経験したことのない初めての感覚。言葉にできない何かが私の中で暴れている。ロミオの言う通りだ。人を好きになるってこんなにも甘酸っぱい。また一つ、私は君に教えられたよ。
『ッ…ロミオ…ああ!私の愛する人よ。ありがとう。本当の気持ちを打ち明けてくれて。本当の想いを話してくれて……君のロザラインへの気持ちはきっと本物なのだろう。悔しさはある。胸を突く痛みだってもちろんある。だけど、私とあなたの恋もその気持ちに嘘はなかったと信じております。だからこそ、この痛みだって私にとっては宝物』
『…それは…ぼくも同じことだよ……今まで本当にありがとう。あの日、ぼくと一緒に踊ってくれて、ぼくを君の側にいさせてくれて…ありがとう、ジュリエット…ありがとう、ぼくのもう一人の大事な人……』
ロミオは必死にこちらの顔を見つめていた。まるでそれが礼儀だとでもいうように……君だって苦しくて辛いはずなのに、本当に強い子だと心の底からそう思う。
「やっぱり…侑を好きになって良かった」
他の観客に聞こえないよう、そっと言葉を投げ掛ける。そうして私はもう一度身体の力を振り絞ってロミオを一直線に見つめ返した。まだだ、まだ涙を落とすわけにはいかない。だって舞台劇は終わっていない。私は主人公のジュリエット。わがままで自分勝手で気ままな女。だとするならば、何もしないままこのままストーリーエンドなんて許すはずがない。ごめんね、侑…もう少しだけ付き合ってもらうからね。私がつくった
私は深く息を吐き捨てる。覚悟は既にできている。後は実行に移すのみ。視線の先には観客席に座るジュリエットの恋敵。すました顔して座っているけれど、その余裕、少しだけ崩させてもらうわね。
『ああ!ロミオよ。あなたの想いは確かに受け止めました。恨みなんてありません。その崇高なる想いを否定するつもりもありません。しかし、ロミオ、私の最愛なる人よ。最後に一つだけわがままを聞いてほしいのです。最後の望みは聖なる儀式、決別の証をこの唇に。どうか、どうか、この私に―――』
―――別れのキスを。