小糸侑ともう一つの舞台劇   作:HirakeGoma

19 / 20
19  もう一つの(後)

 どこまでもまっすぐに、瞳を逸らさないように。私の答えは先輩を傷つける。それははっきりしていて、避けようがなくて…だから、せめて、まっすぐにその気持ちを受け止めようとそう思った。

―――君が好き。

 その気持ちを伝えてもらったとき、言葉にできないくらい心が震えた。精いっぱいの気持ちを捧げてくれたジュリエット。そのまなざしはどこまでも真剣で、その姿は天空から現れた天使のように輝きを放っていた。

 

 アイカ先輩、私はとても幸せですよ。こんなにも華やかな舞台に立てて。こんなにも素敵な物語を体験できて。そして何よりも、先輩という一人の演技者と共演できて。ロミオなんて大きな役を頼まれたときは絶対に無理だと思ったけれど、こうして先輩と特別な場所に立っていると改めて思うんです。誰かを演じる。それはとても素敵なことなんだなぁって―――

 

 振り返れば、出会いはたったの数週間前でしたね。毎日放課後に私は学校を抜け出して、施設に通って舞台袖でアイカ先輩の練習を眺める日々。いつだって私が到着すると先輩はもう舞台稽古に入っていて、こっちの顔を見るなりステージ上から意地悪そうに笑っていました。まるで好きな玩具を手に入れた子供のように。正直、最初はうんざりでしたよ。またこき使われる。そう思うと練習に通うのが憂鬱で、施設に向かう足は鉛のように重かった。だけどいつからだっただろう? ここに来るのが嫌じゃなくなったのは……

 

 練習をしているときの先輩は真剣そのもので、他の人たちとは比べ物にならないくらい私はその演技に惹き込まれました。ジュリエットの演技はまさに圧巻の一言。いつだったか、練習が終わった後に何気なく感想を伝えてみると、先輩は「ありがと」と涼しげな顔。最初の印象が最悪だったからか、私にとってそれはどこか拍子抜けする反応で……きっとそんな小さいことが積み重なって、私と先輩の時間は溶け合ったのだと思うんです。

 

 忙しくかったけれど、そこにはたくさんの思い出が詰まっていて。本当に短い時間だったけれど、そこには優しくて暖かな空間が確かに広がっていました。一緒に倉庫街を走り回って身体中ほこりまみれになったあの夜の出来事も、私にとってはかけがえのない宝物です。あの日、あの夜、私が取った選択が正しかったかどうかはわかりません。でも今の先輩を見ていて思うんです。あのとき、アイカ先輩の心に少しでも踏み込めたこと。それは私にとっての誇りだって。

 

―――願うことなら、私も、このままずっと一緒に……

 

 そうなれればどんなにいいだろうって…そう思った気持ちに嘘はありません。間違った選択だとも思いません。だけど…そのわがままだけは……付き合うことができません。その理由はたったの一つ。私にはジュリエットの他に特別な人がいるから。ジュリエットに出会う前、私はロザラインに出会っているから。だから…私は…ジュリエットと一緒に行くことはできません……

 

 頭の中を整理して、もう一度ジュリエットと瞳を合わせた。彼女は涙一つ見せていない。私とは対照的で、とても強い人だとそう思う。だけどそれは痩せ我慢だと今の私は知っている。本当は泣きたいくらい辛いくせに、逃げたいくらい傷ついているくせに、それでも最後の勇気を振り絞って彼女はその場に立っている。決別の証を君と、その言葉を投げかけて。

 

 ジュリエットの最後の望み、それは聖なる儀式。悲しみ、怒り、嬉しさ…そのすべての感情をひとときの行為に込めて、さよならの儀式を行う。その儀式を私はずっと避けてきた。一度それをしてしまったら、きっと後戻りはできないと思ったから。気持ちが傾くことが怖かった。彼女に惹かれることが怖かった。

 

 だけど、ジュリエットが大きな決断をしたように、ロミオも覚悟を決めなくてはいけない。きっとそれが勇気を出して自分の想いを伝えてくれた相手へのせめてもの誠意だと思うから。そしてそれが、ジュリエットの最後のわがままだと言うのなら、私は―――

 

 

 

『…それが…君の最後の望みだと言うのなら……』

 

 そう言って、ロミオは一歩ずつこちらに近づいた。目の淵が赤く染まっている。でももう涙は出ていない。その代わり、その瞳には強い決意の色が滲んでいた。

 

『君に出会えて幸せだった。ジュリエットの幸いを、この先ずっとぼくは願っているよ。どこまでもずっと、どんなときでも。ありがとう、ジュリエット…そして…さようなら……」

 

 その言葉を最後にロミオはその身体を前へと押し出した。みるみる近づく整った顔。赤みがかった髪に、劇中何度もくっつけたおでこ。小さく揺れ動く瞳に、さくらの色をした綺麗な唇。身体はひどく熱くて、内側からは心臓の音が聞こえてくる。身体を包む熱と鼓動。それはきっと、ジュリエットがロミオに想いを寄せている証拠の一つだ。

 

 息が荒くなるのを必死に押さえる。指先が小刻みに震える。この一瞬一場面だけは私だけの幸せにしたいと心の底からそう願う。それぐらいなら、神様だって怒らないと思うから。

 

 

 

「まさか本当に―――!」

 そう漏らしたのは意外にも隣に座る沙弥香だった。口元を手で覆い隠し予想外の反応を見せている。いつもの冷静さはどこへやら、妙に浮足立った感じが妙に背徳的だった。

「うっそ! マジか!?」

 それと同時に堂島くんの声も響く。身体を前へと傾け、食い入るようにステージをのぞくその姿は完全に物語の(とりこ)となっている。槙くんがそんな彼を諫めているけれど、彼は彼でこの状況を何だか楽しんでいるように思えた。

 

 きっとそんな反応をする観客はこの3人に限った話じゃないのだろう。ロミオとジュリエットによる別れの儀式。観客の多くが驚きの反応を見せ、会場内はどこか落ち着かない雰囲気が漂っていた。そしてそれは私も同じで……

 

 最初はまたおでこをくっつけるのかと思った。だからそれほど気にしていなかった。だけどそんな余裕は一瞬にして崩れ去る。舞台の上にはロミオとジュリエットの二人だけ。ロミオはそっと爪先を上げ、ジュリエットは少しだけ顔を下へと傾けている。

 

 あまりにも堂々とした二人の行為に私は言葉を失った。頭は冴えているのに思考ができない可笑しな感覚が全身を貫く。身体は宙に浮いていて、それを第三者として眺めているような…まるで夢の中にでも迷い込んだ気分だった。

 

「…侑……ッ」

 

 唯一声にできたのは彼女の名前だけ。でもその声は隣の沙弥香にすら聞こえていなくて。もちろん、ステージ上のロミオに届くはずもなく、その事実に私は失望しそうだった。

 

 

 

 その瞬間、身体中からスッと力が抜けていった。好きな人と身体の一部を重ねる。やっていることはそれだけで、それ以上のことは何もない。ただ触れ合うだけ。なのに…こんな子供じみた行為だと言うのに…なぜ心はこんなにも満ち足りた気持ちになるのだろう。ほんと、私って単純だ。でも

 

 この瞬間を逃すつもりなんてない。このときだけはロミオとジュリエットの二人だけの時間。二人だけの世界。二人だけの物語。だから、七海燈子(ロザライン)…今だけはあなたが割って入る隙なんてないんだよ? 今の私たちを観て、あなたはどう思っているだろうか? 意地が悪いって思うだろうか?

 

 でもね、そんなことは当たり前なんだ。だってジュリエットを演じているのは宮代アイカ(わたし)だから。今の私はジュリエットという名の悪らつな女。ロミオが想いを寄せる人の前でも平気でその唇を奪ってしまう、どうしようもない女なんだ。さあ、ロザライン、悔しがりなさい。ジュリエットのことを憎みなさい。今だけはその顔にかぶった仮面をはぎ取ってあげる。知っているんだからね。ずっとこの劇をつまらなそうに観ていたこと。ずっと劇中うわの空だったこと。これはそんなあなたに贈る重い罰。でも、罪悪感なんて私は一切抱かない。だってそうでしょ? 私が一番にほしかったものを、あなたはもう手に入れているのだから。

 

 

 

 先輩の目頭から一筋の涙がこぼれた。不覚にも目を開けてしまったことを少しだけ後悔する。でもスポットライトの光を受けて輝くそれは、とても美しく、とても神秘的だった。

 

『ありがとうロミオ。いつまでも、あなたの幸いが続きますように―――』

 

 そっと唇を離すと、ジュリエットはそう言葉を言い添えた。そのセリフを最後に舞台の照明は静かに落とされる。これにて舞台劇ロミオとジュリエットの物語は閉幕。慌ただしかった非日常の終わり。それはまさに、特別な日々に終焉の幕が下ろされた瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 舞台の幕が下り、ホール全体に照明が灯った。その瞬間、周りが一斉にざわめき立つ。話題にしているのはやはり舞台劇の感想だ。悲劇の終焉を迎えた二人の主人公。最後くらいは救われる終わり方にするのかと思ったけれど、ふたを開けてみればまさかの離別。いろんな人が各々の感想に華を咲かせている。

 

「…こ…燈子!」

「えっ あっごめん。何?沙弥香?」

「何って…もう劇が終わったのだから私たちも外へ出ましょう」

「え、あ~ うん、そうだね…」

「もうっ、しっかりしてよ生徒会長。劇が終わったらうちの生徒会役員を迎えにいくんでしょ?」

「ああ!そうだった! そうだね、、、うん」

 

 沙弥香に促され急いで席を立ったけれど、頭の中には未だに得体の知れない感情が渦巻いている。さっき終わったばかりの舞台劇。その最後のシーンが頭の中から離れてくれない。現実とはまったく関係のない劇の演出なのだとは理解していても、心はなぜかざわめいて宿主の言うことを聞いてはくれなかった。早くあの子に会いたい。その気持ちばかりが強くなる。こんな気持ちになるのは間違いなくこの劇のせいだ。観る者に淡い感情を抱かせたロミオとジュリエットの―――

 

 

 

 舞台袖から裏の通路を通って足早に控室へと移動。だけどその途中、狭い廊下の一角に一人の女性が立っていた。それは、できることなら一番会いたくなかった、でも会って謝らなきゃいけない人。

 

「…お疲れ様でした」

 

 その人はとても落ち着いた口調でそう言った。その言葉に私は返す言葉が見つからない。相手は誰よりも劇の成功を願い、最も熱を入れていた人物。このロミオとジュリエットの物語を描いた脚本家だった。

 

「…お疲れ様…でした…瀬波さん…だったわね。ごめんなさい。あなたには謝っても謝り切れない」

 

 返事をしながら思わず瞳を逸らしてしまう。あれほど力を入れていた物語を最終的にぶち壊してしまった。そのわがままと身勝手さが招いた罪はきっと何よりも重い。謝って済む話だとは思わないけれど、今の私にできることは頭を下げることくらいだとそう思った。

 

「…いいえ…宮代さんが謝る必要なんてありません。舞台劇、とても良かったと思います」

 

 嘘だ、と叫びたい気持ちをぐっと我慢する。そんな偽善に満ちた言葉はやめてほしい。私はみんなでつくり上げた物語を壊した。彼女からすれば今まで努力して積み上げたものを一瞬にして壊された。それで平気なはずなんてない。いっそのこと罵倒してくれた方がこちらとしては気が楽だ。だけど、彼女はそんな態度すら見せてはくれない。そればかりか、不意に表情を崩すと、なぜか笑った顔を見せてくれる。含みのない笑顔、それはきっとこういうものを言うのだろうと、このときの私はそんなことを考えた。

 

「…私はロミオとジュリエットが昔から大好きでした。周囲を巻き込む恋する二人の運命譚。読んでいるだけでドキドキする物語にずっと惹かれていました。だけど悲劇と呼ばれる物語を読むとつい想像してしまうんです。二人が救われる物語を見てみたい。そんな物語を観ることができたなら、どんなにいいだろうって……」

 

 ハッピーエンドな物語を見てみたい。それは誰だって同じこと。事実、少し前の私だってジュリエットとして最良の結末を待ち望んでいたのだから。

 

「だから、私は自分で描くことにしたんです。例え蛇足と呼ばれてもいい。自分が求める結末を、みんなと共有できたらどんなにいいだろうって…けど、あなたが描いた物語を観てようやく気付きました。私に見えていなかったもの。物語に足りなかったもの。それを今日あなたが教えてくれたんです。舞台の上に立ちながら」

「…そんな……私は何もしていない。私は、私のわがままを通しただけ…自由気ままにジュリエットを演じただけ……」

「そう…ですか。だとしても、とてもいい劇だった、私のこの感想は揺らぎません。私は思うんです。この先何年経とうが何十年経とうがきっと今日の劇は多くの人が覚えているだろうと。賛否を超えてみんなの心にです。ほんと、私の想像をはるかに超えていましたよ。まさか最後の最後にジュリエットとロミオが決別するなんて…まったくの予想の範囲外です。心に残ってこその物語、それを私は改めて教えられました」

 

 そう言ってまた彼女は笑う。そのまっすぐな笑顔に、私の胸はキュッと痛んだ。

 

「だから、あなたと、小糸さんには感謝しかありません。嘘なんかじゃありませんよ? これは私の心からの気持ちです」

 

 ありがとう、と彼女はそう言った。お礼を言われる道理なんてない。私は劇を壊しただけで、自分の想いを、思いの丈を最後にロミオに伝えたかっただけ。本当にそれだけで、観ている人の気持ちとか作り手側の反応になんて考えも及ばなかった。本当に私は自分勝手で、わがままで、視野が狭くて、どうしようもない。だけど

 

「…そう言ってもらえるとすごく嬉しい…いい劇だった、そう言ってもらえるだけで私は……」

 

 我慢していた涙が堰を切って流れ出す。あの子の前では泣かないようにしていた。その反動からか、嗚咽がなかなか止まってくれない。私が描いた物語はみんなの心に残ったのだろうか。何よりも侑の心に届いただろうか。悔しくて、悲しくて、でもどこか達成感や充実感があって、いろいろな感情が混ざり合い、それが涙に変わっていく。人前だと言うのに、人目を気にせず、たくさんの涙を私はこぼした。

 

「運命を受け入れる強い覚悟と決意、それが根底にあるからこその儚さ。あなたの言った通り、この作品の魅力まさにそれなのでしょう。安易な救いで濁してしまうくらいなら、目に見える幸いはきっとこの作品には不要なのかもしれません」

 

 それでも、私はそんなことはないと信じたい。劇の前はあれだけ脚本に不満を言っていたくせに、まったく都合のいい話だとは思う。けれど、幸いのない物語なんて、できることならない方がいい。本や劇の中だけじゃない、それ以外の世界でも。

 

「…私、実は高校時代にもロミオとジュリエットの脚本を描いたことがあるんです。苦心に苦心を重ねた自信作でした。でもある人にダメ出しを食らって結局その台本に陽の光は当たりませんでした。せっかく描いた台本が没になったときは本当に悔しかった。私がこの作品に拘る理由はきっとあのときの悔しさがまだ残っているからなんだと思います。もう何年も前の話だというのに……」

 

 そう言うと、何かに気付くように彼女は不意に顔を持ち上げた。天井を見ているわけじゃない。それだけはわかる。とても柔らかなその表情は何かを思い出すような、そして慈しむような、尊ぶべき美しい姿をしている。だけど、それはどこか儚げだった。

 

「…そっか…今になってわかった気がするよ。だからあのとき、あなたは私の台本に反対したのかな……ねぇ、そうなんでしょ?……みお―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある部屋の前でずっとアイカ先輩を待っていた。着替えを済ませ、スタッフのみんなに挨拶し、いつもの控え室に駆け込んだ。だけど、先輩の姿はどこにもなかった。荷物も綺麗になくなっていて、私はひどい焦燥感に襲われた。

 

 必死になって周囲を探した。先輩が行きそうなところ、検討がつくところはすべて。そのうち実行委員の人たちに挨拶していることを知って、部屋の前の通路で待つことにした。このまま何もなくお別れするのは嫌だ。それが心からの気持ちで、せめて一言だけでも先輩の声を聞きたかった。

 

「侑!」

 

 まるで平日に二度寝をして布団から飛び起きたときのように、その声に身体が勢いよく反応する。当の先輩はそんな私を見てクスクスと笑う。もとはと言えば誰のせいですか…そう言い返したくなったけれど、寸でのところで飲み込んだ。

 

「なんて顔してるの? せっかくのかわいい顔が台無しよ?」

「…やっぱり先輩は自分勝手です」

「…どうして?」

「出会いもそっちの都合だったくせに、別れるときも私の意志は関係なしですか!? このままさようならなんて自分勝手過ぎると思いませんか!? ちょっとは私の気持ちも考えてください! そういうところほんとに先輩は―――ッ」

 

 ありのままの気持ちをそのまま言葉に変える。劇中、ジュリエットの誘いを断っておきながら、こんなことを言う権利は、本当は私にはないのかもしれない。だけど、今この気持ちを押さえることなんてできそうにない。怒りでも呆れでもない、こんな複雑な感情を抱くのは初めてだ。

 

 最初はただ嫌々で付き合っていただけだった。なのに、いつからかそんな日常が、そして先輩自身が、私にとっての特別になっていった。きっと先輩が有名人じゃなかったとしても結果は変わらなかったと思う。知名度なんか関係ない。アイカ先輩だったから、私はこの人に特別を感じるようになったんだ。

 

「まったくいったい何なんですか? あの最後のセリフは?…幸せになれ? ふざけないでくださいッ!」

「お、落ち着いて、侑。わかったから、ね? 私はほらっジュリエットに相応しいセリフを選んだだけで、そしたらあんな感じになったって言うか―――」

「いいえ嘘ですね! それくらい私にはわかります。ジュリエットとしてなんて言っておきながら、思いっきり私情が入ってたじゃないですか!」

「いや、それは…だから……」

「うれしかったですよ」

「え?」

 

 あんなに心のこもった「さよなら」を私は知らない。でも、このまま自分だけかっこよく去ろうなんて許さない。私だって言いたいことはたくさんある。話したいこともいくらだってあるんだ。それをどう伝えればいいか、頭の整理は未だにできていないけれど、それでも真っ先に伝えないといけないことはきっと一つだけだと思うから。それを伝えないうちに先輩とお別れするのは私の罪だと思うから。

 

「…アイカ先輩ッ」

「は、はい!」

「私をロミオに選んでくれてありがとうございました。今日という舞台でロミオを演じたこと、私はずっと忘れません。何があってもです」

「…侑」

「きっと先輩がいなかったらこんな大役引き受けられなかったと思います。アイカ先輩の存在が私の背中を押してくれたんです。先輩と過ごした数週間は私にとってとても大切な時間になりました。私は不幸者なんかじゃない、それはこの劇が証明してくれています」

「…ありがとう……私は…このまま演技者を続けても…いい…のかな―――?」

「当たり前です。先輩は人に幸せを届けられる人です。でも、勘違いはダメです。人に幸せを届けるために自分をどう変えるかじゃない、ありのままの自分でどうやって人に幸せを届けられるか、それを考えるです」

「ありのままの自分で、か……それってものすごく難しいことよ? きっとこの先いろいろなことで揺らぐと思う」

「でも先輩なら大丈夫です。それは私が保証します。ロミオを演じられると先輩が私に言ってくれたように、私は先輩のこれからを保証します。先輩ならこの先何があっても大丈夫。絶対に―――」

 

 まくしたてるように言い切った。ただただ必死だった。言葉にしたいことがうまくまとまらなくて、それでも気持ちを何とか伝えたくて。この人の背中を押す一言を、演技者を続けてほしいその気持ちを、精いっぱいの言葉に変える。劇で伝えられなかった大切なセリフ、特別な言葉をこの場で、ジュリエットを演じていた彼女に。

 

「…うん。君には教えてもらってばかりだね。私、もう少しだけこの仕事を続けてみようと思う。辛いことも多いと思うけど、それでも自分がどこまでできるのか、やってみようってそう思うの。侑はそんな私をこれからも観ていてくれる?」

「当たり前です。私はずっと先輩の物語を観てますよ。いつだって、どこにいたって…ずっと……」

「そっか―――」

 

 ありがとう、そう言ってアイカ先輩は笑った。それは、何日も続いたどしゃぶりの雨の中、ふと雲からのぞく太陽のように、光り輝く特別な笑顔だった。

 

 

 

 沙弥香と一緒に会場を出た後、軽く休憩を挟んでから男子組二人ともう一度合流した。この後はみんなで侑を迎えに行こうという話になっている。お疲れ様という気持ちと共に、劇のあれやこれやを聞こうという魂胆だ。侑には堂島くんが真っ先に連絡を入れてくれた。けれど、通話の先には出なかった。きっと劇が終わって忙しいのだろう。なにせ、あの子は主役を演じていたのだから。そう思って、もう少しだけみんなで返事を待つことにする。

 

「あら? あれって小糸さんじゃないかしら?」

 

 だけどそんな折、沙弥香が通路の端に立っている侑を見つけた。誰かと一緒にいるのか、何かを話し込んでいる様子だ。会話の相手はここからだと死角となっていてわからない。少し悪いとは思ったけれど、せっかく見つけたのだから声をかけようと彼女の元に近づいた。

 

「小糸さんオツカレ~って!アイりんじゃん!どうしてここに!?」

 

 堂島くんが先陣を切って彼女に声をかける。当然、もう一人の人物も侑と一緒にこっちを振り向く。その姿と顔が露わになったとき、私は息を飲んだ。そこに立っていたのはあの宮代アイカ本人で、さも当然のように侑の隣に立っていた。

 

「うわーほんとに本物だ。ぼく槙って言います。小糸さんと同じ学校の同じ生徒会で活動してます。舞台劇お疲れ様でした。小糸さんもお疲れ様。すごかったよ、主役を演じていたこともそうだけど、大女優と共演しちゃうんだもの」

「どうして教えてくれなかったの? 事前に言ってくれればよかったのに…」

 

 みんな真っ先に彼女たち二人の元に駆け寄った。私も沙弥香に連れられてその輪に一応は入ったけれど、近くに彼女がいる状況は何だかバツが悪くて、自然と身体の位置は一歩後ろに下がってしまう。侑に会って話したかったことはたくさんあったはずなのに、今は言葉の一つも出てこなかった。

 

「ありがとう、みんな見に来てくれて。だけどあんまり上手くは演じられなかったよ。もう少し練習時間があれば―――」

「そんなことないわ。十分堂々とした演技だったと思うけど? みんな感心していたのよ。最後のシーンなんて驚きの連続…そうでしょ? 燈子」

 

 沙弥香の振りで私の番が回ってくる。とっても良かった。と、侑を見つめながら沙弥香の言葉に同意する。

 

「…七海先輩まで……ありがとうございます!」

「さ、3週間お疲れ様でした。この後はみんなでお疲れ会の予定だから楽しみにしててね」

 

 そう言って私は意図的に侑一人を見つめることにする。気まずかった。ここから離れたかった。この空間からできるだけ遠ざかりたかった。できることなら、彼女と関わりなくこの場を後にしたい。そう願ったけれど、堂島くんは逆に彼女に興味があるようで、早速彼女に関する話題を口にする。それにドキリとする自分は、やっぱり宮代アイカが苦手だった。

 

 

 

 七海先輩が気まずそうにしているのには気が付いていた。そんな顔しないでください。そう言いたいけれど言葉にはしなかった。そのうち堂島くんが間に入ってアイカ先輩のことをあれこれと聞いてくる。ときどき忘れそうになるけれど、こういうとき実感するんだ。アイカ先輩がみんなの注目を集める有名人だということを。

 

「で! 小糸さん。こちらの方は?」

「宮代さんだけど…?」

「いやいや説明簡単すぎるでしょ!? もうちょっと何ていうの、ほらっあるでしょ?何かが!?」

「ん~何かって言われてもなー」

 

 堂島くんは持ち前の明るさで会話を繋いでくれている。その明るさはこの場では救いかもしれない。当の七海先輩はやっぱりさっきから口を堅く噤んだままで。どこか気まずそうなのは相変わらずだった。対するアイカ先輩もどういうわけかさっきから黙ったままだ。ただ七海先輩とは対照的にずっと七海先輩本人のことを見つめている。合流して間もないというのに、何だか変な空気が周囲には流れ始めていた。それを他三人も察してか、なかなか会話が弾まない。

 

「あ、あのー、こんなところであれなんスけど、アイりんのサインをもらえたりしないかなーって、あはは……」

「……」

「…小糸さん、アイりんていつもこんなに無口なの?」

 

 そう私に耳打ちしてくる堂島くんはどこか緊張気味だ。場の空気に押されてか、槙くんもあの佐伯先輩ですらどうしていいかわからないといった表情を浮かべていた。私も正直わからない。さて、この雰囲気、どうしたらいいだろう。

 

 そんなことを考えてはみるものの、答えは全然浮かんでこない。むしろ仕方がないような気さえしてくる。だってこの空間にはジュリエットとロザラインがいるんだ。気まずくならない方が、もしかしたら無理なのかもしれない。

 

「あーあっ、やっぱり素人はダメね」

 

 だけどその矢先、アイカ先輩が突然声を上げた。どこかつまらなそうな雰囲気を身に纏い、どこまでも無機質な声音で張り詰めた空気にひびを入れる。そうして大きな溜息を吐くと私のことを名指しした。

 

「さっきも言ったけど、君、あの演技はいったい何なの?……私と一緒に舞台に出ておいてあんな演技されたんじゃこっちはたまったもんじゃないわよ。臨時の代役だったとは言え、もう少し腕の立つ役者さんはいなかったのかしら? あれじゃせっかくの作品が台無しよ」

 

 アイカ先輩は切れ味鋭い毒舌を吐き捨てると、みんなの間をくぐり抜けそのまま通路を突き進んだ。途中、七海先輩の横で立ち止まると、目線だけを動かして先輩の顔をちらりとのぞく。

 

「ほんと、最低最悪な地方営業だった。やっぱりこんなところに来るもんじゃないわね。あなたは確か七海さんだっけ? 学校の生徒会でこの子とつるんでるって言っていたけど、正直に言ってあなたって―――」

 

―――()()()ないんじゃない?

 

 

 

 その瞬間、七海燈子の顔が途端に鋭くなった。臨戦態勢。そんな感じだろうか。でもそれぐらいの表情をしてもらわないとこっちだって困ってしまう。張り合いがないってものだ。ロザラインとジュリエットが出会っていたら、きっとこんな感じだったんだろうか。これもまた想像の一つに過ぎないけれど。

 

「今の言葉、訂正してくださいッ 確かに演技はぎこちなかったかもしれないけれど、侑は十分よくやっていたと思います。その道のプロだとは思いますけど、今の言葉はあまりにもひどすぎるんじゃないですか!? 侑はあなたの後輩でも玩具でもありません。だから彼女に謝ってくださいッ」

「…」

「あっ、ちょっと!?」

 

 彼女の言い分を受け止め、私はその場を後にする。言い返すことは…しなかった。

 

「マジ?…アイりんてあんなキツイ性格なの?」

「気にしないで小糸さん。そんな悪い演技じゃなかったと思うよ」

 

 後ろ背に聞こえてくるのはそんな私への印象だ。まぁ、当然の反応だろう。あんな毒舌、普通だったら誰だって引いているところだ。でもただ一人、そんな中にあってもあの子だけはまったく違う反応を見せている。

 

 彼女は笑っていた。通路に響く大きな声で、どこまでも可笑しそうに。

 

「…侑? どうしたの?」

「あ~いえ、なんでもありません。ちょっとおかしくなっちゃって」

「おかしいって…?」

「七海先輩も佐伯先輩も堂島くんも槙くんも行きましょう。今日は朝が早かったし、舞台前は緊張して全然ご飯も食べられなかったから今ものすごくお腹がすいてるんです。私、出見世を回ってみたかったんですよ!」

 

 そう言って、彼女は背中を向けて一歩前へと踏み出した。もちろん向かう先は私とは逆の方向だ。小糸侑(あの子)宮代アイカ(わたし)もお互い自分で選んだ道を行く。

 一つの物語の終わり。そこで私はたくさんの勇気をもらった。この先不安はあるけれど、後悔なんてしていない。私は進む。どこまでも。その道が正しいことを祈って。その先に幸いが待っていることを願って。小糸侑(あの子)との思い出を胸に―――

 

 





次回が最終話となります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。