小糸侑ともう一つの舞台劇   作:HirakeGoma

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04  夕陽が映す

「知らない人が多いとなんか緊張するね」

 

 言葉ではそう言っているけれど、とてもそうは見えない。それどころか、パイプ椅子に腰を落として周囲をキョロキョロ。黒い瞳を子供のように輝かせている。まるでお祭りを見にきた子供のようだ。

 

「先輩、恥ずかしいですから少し落ち着いてください」

「ええ? でも今日は例の俳優さんも参加するんだよ。侑は気にならないの?」

「なりませんよ。高校生はあくまでサポート役ですから、きっと接する機会なんてないでしょうし」

「意外と冷めたこと言うんだね。つまんないの」

 

 平日の夕方。もちろん学校終わり。ここは市民文化ホールの多目的室だ。周りには多くの高校生と私服姿の大人たち。この後に開催される打合せのために様々な人たちが室内に集まっている。

 

「それはそうと、明日からは生徒会に戻ってくださいね。今頃みんな、先輩がいなくて困ってるかもしれませんよ」

「大丈夫だよ。あっちには沙弥香もいるんだし」

「…先輩って自分が生徒会長だって自覚あります?」

「もちろん! だから今日は付き添い役として侑と一緒にここまで来たんだよ。これも立派な生徒会長のお仕事です!」

 

 イベントへの参加は私一人で十分だとあれだけ念を押したのに。結局、七海先輩は「初回だけ」という条件付きで今日の打合せに付いてきてしまった。頑固な一面があるのは以前から知っているけれど、今回はこのイベントに妙に固執しているように思う。何か気になることでもあるのだろうか。ついそんなふうに勘ぐってしまう。

 

「でも、明日から侑と会えなくなるのは何だか寂しいね」

「夏休みなんて合宿と水族館以外はほとんど会ってなかったじゃないですか」

「あれは別だよ。事前にそれ相応の覚悟ができてたもん。ほら、今回は急に決まったでしょ? 生徒会室に侑がいないのはやっぱり寂しいなーと思って」

「…顔が赤くなってるの、自分で気づいてます?」

 

 先輩はパタパタと両手で顔を仰いだ。本当にずるいんだからこの人は。今の会話を周りの人に聞かれたらどうするのだろう。変な“誤解”を与えてしまいそうで気が気じゃない。

 

「あっ、始まるみたいだよ」

 

 気が付けば打合せが始まる時刻となっていた。早めに到着したつもりが、二人で話していたらあっという間に時間が過ぎてしまった。周りを見渡せばほとんどの学生は自席に着席。先輩も姿勢を正して正面を見据えている。

 

―――誤解、か……

 

 静寂さを増す室内で私はさっきの言葉を反芻する。誤解と言うけれど、何に間違えられると言うのだろう。仲間?親友? それとも―――

 最後の一つはどうしても心の奥から取り出せない。その気持ちを口に出す日がこの先訪れるのか。先輩の横顔を視界の端に捉えながら、私は一人気持ちの切り替えに苦心していた。

 

 

 

 

 

「まもなく全参加者による“イベント打ち入り”と題しまして、第一回目の打合せを開催します。そのまま少々お待ちください」

 

 多くの人で室内が埋め尽くされる中、主催者側からのアナウンスが始まった。部屋の最奥には長テーブルが設置され、私たちと向かい合う形で複数の大人が整列。おそらく主催者側の人たちだ。そのうちの一人が司会進行役を担当、打合せを仕切る格好となっている。

 

「噂の俳優さん、どこにもいないね」

「司会役の人がずっと出入り口を気にしてますから、きっともうすぐ来るんですよ」

 

 隣に座る七海先輩と小声で雑談。打合せの開始を待つことにするが、まもなくして後ろの席からざわめき声が上がった。その雑音に釣られて顔の向きを反転。すると開け放たれた扉の向こうから人影がちらついた。瞬間、また小さな歓声が上がる。一同の視線が一点に注がれ、身を乗り出す生徒も続出。そうやって多くの視線を一身に浴びて登場したのは、一人の女性―――注目の俳優と噂される“宮代アイカ”本人だった。

 彼女は部屋に入るなり、颯爽と一番前のテーブル席に向かう。ただ歩いているだけだというのに、その姿は私たちと同じ人間には思えない。まるで動く絵画でも見せられている気分だった。

 

「…あれ?」

「ん? どうかした?」

「…あ、いえ、何でもありません……」

 

 彼女は正面中央の席に座った。私たちとは向かい合う形になるので顔がよく見える。改めて観察するとすごく綺麗で大人の知的さすら感じる。とても素敵な女性だと思った。と同時に、どこかで見たことがあるような……何とも腑に落ちない、奇妙な気持ち悪さに襲われた。テレビや雑誌で見た? いや、この感覚はそれとは違う何かのような……

 

「皆さま大変長らくお待たせしました。これにてイベント開催における全ての“登場人物”が揃いました。これより当文化ホール施設にてイベント打ち入りを開催致します!」

 

 司会進行役が再びマイクを握り、声高らかに宣言する。決して大きなイベントではないけれど、ようやく物語が始まった。短くも激動を孕んだ3週間。その幕開けの場には不思議と奇妙な高揚感があった。

 

 

 

 

 

「宮代アイカです。どうぞよろしく。短い期間ですが、みなさんと一緒にイベントを盛り上げていきたいと思います。ここ遠見地区は祖母の生まれ故郷です。大好きなおばあちゃんの生まれ育った街でみなさんと一緒にお仕事ができること。心の底から嬉しさを感じています。どんなイベントになるのか、どんな舞台劇になるのか、参加者の一人として今から楽しみで仕方ありません。不束者ですがどうかよろしくお願いします」

 

 最後の(くだり)で小さな笑い声が起こった。狙って笑いを取ったのかはさておいて、落ち着いた声がとても印象的だった。もし声に色がついているのなら、あの人のそれはきっと透明色に違いない。テレビや雑誌に出演しているだけあって、みんなの前でも堂々としている。相手は本物の役者。やはり貫禄が違うと思った。

 

「宮代さんね、私と同じ高校2年生らしいよ。父方がイギリスに住んでいて、小学校低学年までは海外で暮らしていたんだって」

「…先輩?」

「これだよ」

 

 七海先輩は携帯画面を指差した。なるほど、ネットの情報ですか。だけど先輩が宮代アイカの詳細をわざわざ調べているのが意外だ。

 

「先輩、あの俳優さんのこと好きなんですか?」

「…ん~ どうだろうね…好きとはちょっと違うかな…興味はあるけど……」

 

 なおさら意外な反応だ。もしかして、今日この場に付いてきた目的って……

 

 いけない、今は打合せに集中しないと。余計な考えがちらつく頭を左右に小さく揺らす。とにかくイベントに関係ないことはこの場では考えない。そう心に決めた。

 

「宮代さん、ありがとうございました。それではひと通りのメンバー紹介が終わったところで、当イベントの企画について説明させていただきます。実行委員長、お願いします」

 

 打合せは順調に進行していた。司会から実行委員長と呼ばれた男性がひと通りの企画を説明。今は各企画の詳細を説明するパートに進んでいる。ちなみに企画は、施設周辺を利用した出見世の展開、子供たちの描いた絵画や創作物の展示、そして文化ホールの舞台を使用したお芝居、の主に3つだ。予想はしていたけれど、高校の文化祭とけっこう似ていると思った。ただ問題は、少ない日数でどこまで準備ができるのか。まぁ、主催者側は自信満々なだけに、私が心配しても仕方がないとは思うけれど。

 

「以上が予定している企画内容です。特に舞台劇についてですが、出演者は先行して数か月前から練習を始めています。今回高校生メンバーの一部の方には劇の裏方として入っていただく予定ですのでよろしくお願いします。詳しい内容は彼女から―――」

 

 次にマイクを渡されたのは背の低いメガネをかけた女性だった。おもむろに手元の資料を漁り始めると、やがてぎこちない動作で席を立つ。かなり緊張しているように見える。逆にこちらが手に汗を握ってしまうほどだ。

 

「…瀬波です。大学院2年目、歴史文学を専攻しています。今回、イベントに参加すると共に、劇の脚本を担当させていただきました。ええと 早速ですが当イベントで上演する演目についてご紹介します。当企画では世界一有名な恋愛もの『ロミオとジュリエット』を上演しようと考えています」

 

 劇の演目が紹介されると室内がざわめき立った。『ロミオとジュリエット』―――本を読んだことがない人でもタイトルくらいは知っている。世界一有名で、世界一切ない恋愛悲劇。それをイベントで上演すると瀬波さんは自信を持って宣言、みんなの視線を一身に浴びた。

 

「これまで世界中の多くの人がこの作品の奥深さに魅了されてきました。シェイクスピアが世に送り出して以降およそ400年、悠久の歴史を経てもなお多くの人に愛され親しまれています。時代によっては新しい翻訳や解釈が試され、『ロミオとジュリエット』は日々変化と進化を遂げているのです。その歴史の中に私たちも一石を投じたい。そんな強い気持ちを持って脚本を書かせていただきました。みなさん、どうか、どうか今回の舞台劇を成功させ、施設に足を運んでくれるお客さんに『ロミオとジュリエット』を観てもらいましょう! 私たちがつくる“もう一つの物語”を、会場のお客さんに届けようではありませんか―――!!」

 

 瀬波さんの挨拶はしばらく続いた。彼女に対してみんな最初に思うのはものすごく熱が籠っているということだ。途中からはまるで選挙の演説。話し始めは小さな声だったけれど、次第に大音量へと変わっていき、最後はマイクの音すら割れていた。

 突然の出来事に高校生メンバーは沈黙。他の実行委員含め、会場にいる全員が困惑顔を浮かべている。室内は微妙な空気。なんとも言えない雰囲気だった。

 

「…とても面白い、素敵な劇になりそうね」

 

 けれどその空気は一人の人間によって壊された。宮代アイカだ。彼女は意に介さないという表情で瀬波さんに質問を投げかける。

 

「それで、私はどの役を演じれば?」

「…あっ、ええと、宮代さんはジュリエット役をお願いします。といっても上演まで3週間を切っていますから、セリフは出来るだけ短くするよう修正しました」

「修正前の脚本で結構ですよ。これでも役者の卵、どんなに難しい配役だろうと、膨大なセリフ量だろうと、与えられた役はしっかりと演じ切って見せますから」

 

 凛々しく、強気な言葉。さっきまで静まり返っていた室内はその発言をきっかけに拍手に包まれる。七海先輩も感心するようにパチパチと手を叩いていた。

 

「どんな劇になるんだろう。当日は絶対見に行かないといけないね」

「はぁ」

「プロの演技を生で観れる機会なんてなかなかないよ。せっかくだから演技のいろは的なことも聞けたらいいのに」

 

 先輩の瞳は一層輝いている。確かに演技の世界は奥が深いと思う。私も文化祭で生徒会劇を経験した身だ。誰かを演じることの難しさ。それは十分わかっているつもりだ。七海先輩だったら、なおさらに―――

 

「一つ質問させてください」

 

 その瞬間、天井に向かって一本の腕が伸ばされた。声の主なんて考えなくても明白だ。完全に意表を突かれ、私は言葉を失った。

 

「すみません。質問は最後に―――」

 

 司会役に注意され、先輩は残念そうに腕を下ろした。制止されて当然ですよ。余計なことはしないでください。そう心の中で呟いて、ホッと胸を撫で下ろす。けれど、ある人が進行に割って入った。

 

「いいですよ。このタイミングじゃないと聞けないことなんでしょ?」

 

 さっきと同じ、また宮代アイカだった。彼女は司会に質問を続けさせるよう進言。先輩の行動を後押しした。意外な展開に私は困惑、頭の整理が追い付かない。宮代アイカの表情はにこやか。だけど瞳の奥が笑っていない。そんな気がして仕方がなかった。

 

「…わかりました。それではこの場で一つだけ質問を受け付けます。ええと 学校名と名前を名乗ってから質問をどうぞ」

「遠見東高校2年の七海です。今回のイベントでジュリエット役を演じられるということですが、一つだけ質問をさせてください。私たちも今年の文化祭で舞台劇を披露したのですが、自分ではない、空想の誰かを演じる。それは宮代さんにとってどんな意味を持つのでしょう?」

 

 周囲が小さくざわつく。質問の意図がわからない。そんな空気だ。確かに可笑しな質問に聞こえるかもしれない。七海燈子という人物を知らなければなおさらだ。

 質問に対して、宮代アイカはしばらく思案顔。人差し指を口元に添えて、あからさまに考えている雰囲気を装っている。一瞬、私と目が合ったように感じたけれど、その意味を深く考えられるほど、このときの自分には余裕なんてなかった。

 

「…そうですね……強いて言うなら、“自分を変える”といったところでしょうか」

 

 七海先輩の瞳が大きく揺れた。きっとその回答は先輩が求める“理想の答え”。それに近いものだったはずだ。期待以上の答えが相手から返ってきた、その事実に動揺している。私にはそう見えた。

 

「…それは…つまり……」

「誰かを演じるとき、役者はその誰かに成り切ります。それは自分を捨てるようなもの―――なんて考え方を私は肯定しません。実際は逆なんですよ。役を演じ、そして演じ切ったとき、自分になかったものがその役を通して入ってくるんです。そのときに役者は成長し、”変わる”ことができるのです。自分という人格そのものを―――」

 

 多くの人の前で、彼女は自分自身の演技感を言い切った。その回答にどれほどの意味があるのか、私にはよくわからない。きっと七海先輩だからこそ理解できるものもあったと思う。少なくとも、私よりは誰かを演じることの重みを知っていると思うから。

 

「もう一度言いますが、役に成り切るというのは決して自分を捨てることではない、ということです。人はどうやっても他人にはなれません。芸術学校などで、まずは自分を捨てなさい、と演技指導する先生もいますが、私に言わせればそんな教え方は邪道です。自分があるからこそ、誰かを演じることが可能になる。私はそれを信じます。もし仮に指導者の立場だったなら、私はこう教えると思いますよ。“まずあなた自身を認めなさい”と―――」

 

 宮代アイカは口からマイクを離した。金属部品と机がぶつかる音でハッとする。

 

「…先輩!」

「…!…あ、ありがとうございました。質問は以上です」

 

 深く一礼してから先輩はゆっくりとパイプ椅子に座り直した。それを見届けると司会役が打合せを仕切り直す。何事もなかったかのように打合せは次のプログラムへと移行した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ~~~ すっかり夕方だね。少し前はこの時間帯、もっと日が高かったと思うんだけどなー」

 

 七海先輩は夕日に向かって大きく背伸びをした。太陽がもうすぐ沈む。最後の力を振り絞るように、あたり一面を赤く染めている。その反面、建物や木々の背後には暗い影が伸びていて、もうすぐ昼夜が入れ替わる時間帯であることを知らせてくれる。

 

「ほんとに一緒に帰らなくて大丈夫ですか?」

「心配いらないよ。侑はこれから小グループに分かれて顔合わせでしょ? これ以上はお邪魔できないし―――」

 

 全体の打合せが終わり、今は一時的な休憩時間だ。この後はイベントの企画ごとに班別行動となっている。実質的な作業開始というわけだ。

 

「結局、侑に任せる形になっちゃったけど、何かあったらすぐに連絡してね。どこへだってすぐに駆けつけるから」

「…わかりました。何かあったら、そのときは期待させてもらいます」

「うん! 任せといて!」

 

 先輩は笑いながら背中を向けた。瞬間、強烈な罪悪感。心臓を鷲掴みにされたみたいで気持ちが悪い。

 

―――まずあなた自身を認めなさい。

 

 七海先輩にとって、この言葉はきっと想定外だったはずだ。理想の自分を求めて、理想だった誰かを演じる。演じているうちは、理想の自分になっていられるから。

 そして、彼女―――宮代アイカが示した考えは、それをさらに一歩進めたものだった。演じることによって、その人の要素を自分に取り込むことができる。そうすることで彼女は”自分を変えることができる”と言い切った。でもその条件として、今の自分を認めることが必要だと確かに断言した。

 矛盾だ。率直にそう思う。それができないからこそ、誰かを演じているというのに。

 

 また大きな波が私を襲った。まるで「このまま返していいの?」と、そう問い掛けられている気分だ。その問いに対する返答はもちろん「NO」に決まっている。何かを言わなくては。何かを伝えなくては。気が付けば、そんな衝動に駆られていた。先輩が帰宅する前に、後ろ姿が消える前に、何かを、今、ここで―――

 

「…七海先輩!」

「ん?」

「…舞台劇、絶対見にきてくださいね」

 

 ありきたりな言葉だと自分でも呆れてしまう。だけど、気持ちの一部でも伝わればいい。そう願わずにはいられない。少なくとも、今できることはそれしかないと思うから。

 

「…うん。ありがと。けど私は大丈夫だよ」

 

 先輩は笑った。いつもの七海燈子がそこにいる。その事実が私の心をホッとさせる。

 

「以前の私だったら、宮代さんとのやり取りにすごくショックを受けていたと思う。でも不思議なんだけど、今はそういう考えもあるのかなって、ちょっとだけ受け入れることができそうな感じなんだ。どうしてだろうね。自分でもすごく不思議……だから私は大丈夫だよ」

 

 先輩は再び背中を向けた。だけど、なかなか足を前に踏み出そうとしない。どうしたのだろう。無言のまま首を傾げていると、先輩はくるりとターンしてこちらに身体を寄せた。

 

「学校に戻る前に…侑とキスしたい……」

「…はぁ?」

「だ、だってさ、これから侑はイベントにつきっきりになるわけでしょ? 学年違うから教室では会えないし、生徒会にもしばらくこないわけで、ほらっ 3週間分前払いってやつ!」

「意味が分からないんですが……それに、こんなところでして誰かに見られたらどうするんですか!?」

「大丈夫だよ。みんな建物の中に入ってるし、ここは裏口だから人の出入りも少ないし」

 

 こちらが呆れているにも関わらず、先輩は優しく、それでいて大胆に私の腕を掴んでくる。ほんとにもう。人が心配しているのに、現金な人なんだから。頭の中で文句を並べる。それでも外に出る前に霧散してしまうのは私の甘さなのかもしれない。

 

「……一回だけですよ?」

「…うん」

 

 整った顔がゆっくりと近づいてくる。いつもより顔が赤いのはきっと夕日に照らされているからだ。そっと目に映る情報を遮断する。その直後、口元に柔らかな感触が広がった。

 

「帰り道、気を付けてくださいね」

「…うん。侑もあまり遅くならないようにね」

 

 甘い時間の終わりは私から告げた。身体に軽く力を入れて、優しく口元を引き離す。瞬間、先輩の瞼がびっくりしたように上がった。ダメですよ。もう終わりなんですから。

 カバンを肩に掛け直し、七海先輩は文化ホール施設を後にする。暗い様子はない。表情からも落ち込んだ様子は見られない。

 

―――良かった。

 

 最後まで先輩の姿を見送りながら、心の底からそう思った。

 

「さてと、戻らないと……」

 

 そのとき、周辺の木々が大きく揺れた。舞い上がるつむじ風。思わず目を閉じる。そしてもう一度開いたとき、木々の揺れは収まっていた。周囲を見渡すと影法師もその傾き具合を変えている。少し時間をかけてしまった。休憩が終わっていたら大変だ。

 急いでみんなの元に戻るため、私は裏口めがけて体の向きを変えた。けれど、瞳の中に映ったものは無機質な玄関扉などではなく、その扉の前に立つ“人”の姿だった。

 瞬く間に背筋が凍る。人がいる。その事実に恐怖する。厚い防犯ガラスの玄関扉。そのガラス戸に背をもたれるようにして、腕を組む女性が一人。こちらを一直線に見つめていた。

 

―――いったい、いつからそこに……

 

 頭が混乱する。声が出ない。周囲の時間が停止する。思い出すのは七海先輩との関係を槙くんに指摘されたときのこと。だけど全身の感覚が断言する。あの時とはレベルが違うと―――。今までのものとはまったく異なる異様な焦り。それが身体を取り撒いて離れてくれない。

 

 私が何も反応を示さないでいると、その人は業を煮やすように床を蹴った。暗い建物側から夕陽が照らす通り側へ。一歩ずつ着実に私との距離を詰めていく。

 

「…地方営業なんて期待してなかったけど、早速おもしろいものを見つけちゃったわね♪」

 

 “宮代アイカ”がそこにいた。

 太陽がもうすぐ沈むというのに、これが今日最後の仕事だと言わんばかりに、彼女の顔をはっきりと見せつけてくれる。その行為に私は不安と憤りを感じていた。

 

 

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