七海先輩と別れてすぐに打ち合わせに戻るはずが、今は暗くて狭い密室の中にいる。部屋の中央にはテーブルが、端には大きなモニターが設置され、部屋への唯一の出入り口は防音扉で塞がれていた。見慣れた室内の光景だけど、いつもとはまるで雰囲気が違う。正直に言うと、私はこの事態を未だに受け入れられていない。そればかりか、身体は縮こまり、ひどく緊張するありさまだった。
「はいこれ。コーヒー飲めるかわからなかったから、ウーロン茶を注文しといたわ」
「…」
「そんなに緊張しないで。もしかしてカラオケは嫌い?」
嫌いなわけがない。いつもなら普通に歌っている。でもそれは隣にいる人物が“宮代アイカ”じゃなかったらの話だ。
あのとき、例の現場を目撃されて息が止まりそうになった。こちらが何も反応できないでいると、彼女はゆっくりと私に近寄った。そして耳元で囁いたのだ。
―――ばらされたくなかったら私に付いてきて、と……
柔らかな表情とは真逆の、冷たい瞳。「ばらす」という単語が嘘ではないことを挑発的なまなざしが教えてくれる。夕陽に照らされたその顔はまさに悪魔的な何かだった。
「ふ~ん」
「な、なんですか…!」
「君、意外とかわいい顔してるね。それでいてけっこう気が強そう。見た目は幼そうなのにやることはやってるのがちょっと意外かな♪」
わざわざ私の隣に座り直して、至近距離まで顔を近づける。鼻と鼻が触れてしまうほどの距離間。何かを試されている気分だ。ペースを握られてはいけない。そう思って私は強く反発した。
「もうっやめてください! さっきから何なんですか!? あんな脅すような真似までして!」
「脅し?…ああ、さっきのあれのことね…ごめんね、本当に脅そうと思ってたわけじゃないの。ああでも言わないと、逃げられちゃうんじゃないかと思ったから」
「…そんなの、当たり前です……」
「その言い方からすると自覚はあるわけね。屋外で堂々と、しかも同じ女の子相手にキスしてるなんて、そりゃ後ろめたくもなるか」
直線的な言葉に息が詰まった。今更ながらあのとき拒否できなかった自分を恨む。
「別に茶化するつもりはないの。このご時世いろんな人がいるもの。ねぇ、教えてよ。君たちは付き合ってるの?」
それでいて尋問されている気分だ。顔が熱い。口の中が乾く。体が重い。外の空気を早く吸いたい。
「…違います……先輩とは、そんな関係じゃありません……」
「…そう。でもどんな関係だったら、あんな大胆なことができるわけ? もしかしてお互い割り切った遊びのつもりかしら?」
「やめてください!」
数秒の沈黙。その後「ちょっと悪ふざけが過ぎたわね」と彼女はそう言った。だけどその態度からは悪びれた様子は見られない。いったい何なんだこの人は。これが世間が注目するあの宮代アイカなのだろうか。少なくとも、今こうして隣に座る彼女からは大物じみた雰囲気なんて微塵も感じない。
「でもこれだけは教えてちょうだい。あなたは、あの子が好きなの―――?」
またストレートな質問だった。剛速球をぶつけられた感覚。思わず身体全体が硬直する。
「…そんなこと知ったからって、何になるって言うんですか……」
やっとの思いで言葉を絞り出すものの、その内容はひどく淡白なものだった。若干声も震えていたかもしれない。もう嫌だ。我慢できずに勢いよく座席を立つ。一刻も早くこの場を去りたい。その一心で部屋の扉に手をかけた。
だけどそのとき、後ろから腕を引かれ、強引に部屋のソファに押し倒された。逃げられないよう体で覆いかぶされ、顔のすぐ脇には腕を突かれた。目の前には整った綺麗な顔。距離が近いだけあって思わず息を止めてしまう。瞬間、視線と視線が交錯。相手の髪の毛が肌に触れ、異様にくすぐったい。相手の息遣いが聞こえる度に私の心臓は跳ね上がった。
「…意外と冷静なのね。抵抗しないの?」
「…抵抗したら…解放してくれるんですか……」
彼女の目的、それが一番の疑問だった。さっきは茶化すためではないと言った。百歩譲ってそれを信じたとして、他の理由はいったい何? 何の目的があって私に近づくのだろう。
「…私に何の用があるっていうんです……?」
震えるその声に、宮代アイカは微笑んだ。その質問を待ってましたと言わんばかりに、長い髪を掻き分ける。そうしてからゆっくりと口元を動かした。
「少しの間だけ、私と付き合ってみない?」
その言葉に私の思考はショートした。
“きっかけ”は間違いなくあの質問だったと思う。
多くの人を前にしたとき、期待のまなざしを向けられたとき、いつだって私の一人舞台が始まる。今日だってそうだった。市民文化ホールの一室で、私は大勢を前に“宮代アイカ”に成り切っていた。みんなが望む有名人を、誰もが憧れる舞台俳優を、私はいつだって演じている。
だけど、今日に限っては突然舞台に乱入者が現れた。そいつが私に言うのだ。
―――自分ではない誰かを演じる。そこに意味はあるのか、と。
なんだ?その質問は? あまりに唐突で、意図すらわからない抽象的な質問。なぜこのタイミングでそんなことを聞く? 何を考えている? 苛立ちを隠しつつ、できるだけ丁寧な受け答えに努めた。
“その子”に気が付いたのもそのときだった。手を上げた女の隣で表情を曇らせる女の子。きっと直感が覚えていたのだろう。以前に近くの駅ですれ違った子だとすぐに気づいた。
同じ制服を着ているということは、二人は知り合いということになる。同級生か、それとも友達か。二人の関係性はわからない。だけどなぜ、なぜ、
―――君はそんなにも不安に満ちた顔をしているの?
その子は隣を覗き込んでは寂しそうな表情を崩さない。隣の女に向けられた視線は真剣そのもの。なぜそこまでと思えるほどだった。
振り返れば、たぶんこのときからだと思う。私の興味が乱入者から、乱入者を見届ける観察者に移ったのは―――
外に出るとすっかり夜になっていた。風が冷たい。もう秋本番の様相だ。カラオケ店に入ったけれど、結局歌は一曲も歌わなかった。
「ん~~~ 今日も疲れたぁ」
店の自動ドアをくぐると、彼女―――宮代アイカは大きく伸びをした。夕方の先輩と姿が重なる。
「ねぇ? ごはんでも食べて帰らない?」
「…行きません」
「奢るよ?」
「知らない人に付いていったら怒られますから」
「つれないなー」
ケラケラと笑いながら、彼女は駅方向に歩き始めた。私も帰るには電車を使わないといけない。なので一定の距離を保ちつつ、渋々その後ろ姿に付いていく。
「…並んで歩けばいいのに」
「けっこうです」
「ほんとつれな~い」
「…前に会ったことがあるのなら、最初に言ってくださいよ」
「ん? それはこっちのセリフだよ。地下通路で会ったのが私だったことに気付いてなかったなんて、ちょっとひど過ぎじゃない?」
「あっという間のことでしたから普通はわかりませんよ」
「私は覚えていたけど?」
後ろを振り返り、無邪気な笑顔を見せる。世間では清純派なんて言われているけれど、良くも悪くも彼女の印象は小悪魔といった感じだ。気が強くて、わがままで、自由奔放。世間が思い抱くものとはあまりに対照的で。どちらが本物の宮代アイカなのかとつい疑ってしまう。
「さっきの話、考えておいてね」
「…いきなりあんな話をされても困ります。私たち今日初めて出会ったも同然なんですよ?」
「恋愛に時間は関係ないと思うけどなー。ロミオとジュリエットだって出会ってすぐに結婚までしてるわけだし」
「あれは創作だからです―――!」
「ああそうだ。これからはアイカって呼んで」
「はぁ!?」
話の切り出し方はいつだって唐突で、思ってもみない方向から彼女は私を翻弄する。こちらが口を閉ざしていると、急かすように「ほら早く」と一言。対して私は無言を貫き、首を振った。
「ふふ、意外と頑固なんだね、“侑”って」
店を出たときよりも風が冷たく感じる。夕陽が降り注ぐあの時間が懐かしい。これ以上からかわれるのはごめんだ。そんな気持ちを抱いて、私はそっと足を止めた。
「…なんで、私なんです?」
「…どういうこと?」
「告白の相手です。私たち今日がほぼ初対面ですよ。それなのに、何でそんな簡単に告白なんてできるんです? 私のこと何もわかってもいないのに……!」
声を張り上げるつもりはなかったけれど、結果的にそれに近くなってしまった。周りに人がいないのがせめてもの救いだ。彼女の前だとどうにもペースを乱される。
「…そうね。強いて言うなら、放っておけなかったから、かな」
意味がわからなかった。ちゃんと説明して欲しい。そう必死のまなざしで訴える。
「気づいてた? 今日の打合せのとき、君はすっごく寂しそうな顔をしてた。あんな捨てられた子犬のような顔をされたら、誰だって放っておけないでしょ」
「…同情、ということですか……」
「そう思いたいのなら思えばいい。私は私がやりたいことをやっているだけよ」
―――放っておけなかった。
そのたった一言に悔しさが込み上げた。決して同情が欲しいわけじゃない。だって私も自分のやりたいようにやっているのだから。七海先輩との関係、距離間。全ては私が望んだことなのだから―――
その後は何とも気まずい時間が続いた。私はもちろん、宮代アイカも口をつぐみ、あたりに広がるのは遠くの大通りから聞こえる街の喧騒のみ。そんな空気に耐えられなくなって、私はどこかで暇を潰してから帰ろうかと、そんなことを考え始めていた。問題はどのタイミングで彼女に別れを告げるか。言葉をかける機会を窺って彼女の後ろ姿をチラチラと盗み見る。異変に気が付いたのはまさにそんなときだった。
きっかけは、前を歩く宮代アイカの挙動だった。歩くスピードが落ちたかと思いきや、今度は遠くの一点を気にする素振りを見せる。顔にはイラつくような、それでいて疲れた表情。出会って間もないとは言え、この人もこんな顔をするのかと驚いた。そしてその直後
「…侑! こっち!!」
「えっ?」
「早く!!」
彼女は瞬時に私との距離を詰めると、右腕を取って強く引っ張った。そのまま一目散に走り出す。当然、頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。こんなに必死になって何があったのだろう。走りながら後ろを振り返っても誰もいない。静まり返る狭い通りが延々に続くのみ。それはそれで不気味ではあった。
やがて駅近くの大通りまで移動すると、彼女はようやく足を止めた。お互い息が上がっている。今は冷たい風が逆に心地いいぐらいだ。
「いったい…どうしたんですか?…急に走り出したりして……」
「…ごめん。誰かに見られているような気がして」
「え? それってどういう―――」
「心配しないで。どうせファンか何かでしょうから」と彼女はそう言った。さっきまで肩を上下に揺らしていたはずが、今は汗一つ残っていない。
「それじゃ、私はここで。いろいろあって整理がつかないでしょうけど、きっと君と出会えたのも何かの縁だと思うから。劇の成功を目指してこれから頑張りましょう」
右手を左右に軽く振ると、エメラルドグリーンの瞳を翻し、彼女は駅舎方向に去っていった。街灯の照明がその後ろ姿を照らし、鮮明にその姿を映し出している。想像するのは間近に控えた「ロミオとジュリエット」の舞台劇。その前途多難な幕開けに私はただただその場に立ち尽くすしかなかった。
あの子と別れてからすぐにホテルに戻った。これからしばらくは遠見に滞在するつもりだ。小さな事務所だから高級ホテル住まいとまではいかないけれど、移動する手間がないので私としては楽でいい。
ドアに鍵を駆け、手早く靴を脱ぎ、そのままベッドに倒れ込んだ。無理に走ったからか少しだけ足が張っている。痛みまではないけれど、心の中で運動不足を嘆いた。
「…小糸侑、か……おもしろそうな子ね」
そう言いながら、頭の中では夕方の出来事を思い出していた。身を寄せ合う二人の影。甘いくちづけをする彼女たち。あのとき、二人の姿がある物語の登場人物に重なった。
―――ロミオとジュリエット……
正直、直情的な恋は嫌いだ。だから「ロミオとジュリエット」という作品がずっと好きになれなかった。こちらが恥ずかしくなるような言葉の応酬。お互いがお互いに愛の言葉をささやき、その愛故に二人は身を滅ぼす運命をたどる。世間では悲劇と言われているが、私から見たら当然の結末だ。
皮肉にもジュリエット役を演じることになった己の不運を嘆いてしまう。そして同時に拒絶してしまったのだ。お互いの気持ちを確かめるように、身体の一部を重ね合う“あの二人”の関係性を―――