小糸侑ともう一つの舞台劇   作:HirakeGoma

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08  水の中にいる

 時刻は午前10時過ぎ。現地集合ということで、建物の入り口付近で人を待っている。ここは夏休みの終わり、今よりもっと陽射しが強かった頃に七海先輩と訪れた水族館だ。もちろん、宮代先輩がその事実を知っているはずがない。たぶんこれは単なる偶然。夏に比べて高くなった空を眺めながら、私はあのときのことを思い出していた。

 

「お待たせッ!」

「冷たッ!…たく、そのイタズラ好きですね、先輩て」

「ぼーっとしてる侑が悪いのよ。あんな無防備な姿、イタズラしてくださいって言ってるようなものじゃない。どうしたの? 何か考え事?」

「あー、いえ、別に何もありませんけど」

「当ててあげようか? あの七海って子のことを考えてたんでしょ?」

「ち、違いますよ! 私は別に…先輩が来るのが遅いからこのまま帰ろうかと思ってただけです―――!」

「本当かな~? ムキになるところなんか結構怪しいですけど? でもまぁ、いいわ。今日は折角のデートなんだから、小さなことは見逃してあげる。楽しめなきゃ損だしね」

 

 デートって、と心の中で軽く突っ込む。いつもと打って変わって今日の先輩はテンションが高めだ。普段の大人っぽさはどこへやら、子供っぽい無邪気な笑顔でこちらの手を引いてくる。

 

「さあ、行きましょ!」

 

 いつだってわがままで、何を考えているか想像もつかない人だけど、楽しそうにはしゃぐ姿はやっぱり普通の女の子で、普段の身勝手な振る舞いも不思議とこの場では許せてしまう。

 

「どうかした?」

「別に何でもありませんよ。すごく楽しそうだなって思っただけです。先輩、遠足に行く小学生みたいな目をしてますし」

「何それぇ、トゲのある言い方ね。でも楽しみにしてたのは本当よ。水族館に入るのってすごくドキドキする。まるで舞台劇が始まる前の高揚感みたいな…侑もそう思わない?」

「…うーん、どうでしょう」

 

 それに、少なくとも今はあの疲れた表情はしていない。宮代アイカという人物の事も、誰かを演じることの意味も、わからないことばかりだ。だけど、自分と同じ時間を過ごす人にはできるだけ笑顔でいて欲しい。その気持ちは本当だ。だから、まぁ、今日ぐらいは、この人のことを受け入れてもいいだろうか―――

 

「けっこう大きな水族館だね。侑は初めて?」

「…昔、知り合いと来たことがあります」

「なーんだ。どうりで反応が薄いわけだ。私ね、水族館て好きなの。ガラス越しに泳ぐ魚とか、ゆらゆら揺れる珊瑚礁とか、そういうのを見てるとすごく落ち着くっていうか、ずっと眺めていられる」

「水にはリラックス効果があるみたいですしね。私も水族館は好きですよ」

「…そっか……私と一緒だね」

 

 先輩は展示ガラスにそっと片手を置いた。ガラスの向こうには群を成した魚たち。でも彼女の興味はそのさらに向こう、連れ添って泳ぐ地味な魚2匹に向いている。何の魚だろう。そう思って私も水槽を覗き込むけれど、その瞬間先輩のもう一方の手に力が入ったのを感じた。

 

「…あのー」

「ん? なーに?」

「そろそろ手を放してもらえます?」

「いいじゃない。女の子同士が手を繋ぐのなんて今時普通でしょ?」

 

 先輩はずっと私の手を握って放そうとしてくれない。さっきから周りに見られているような気がして、顔や背中がむず痒い。まぁ、「仲が良い」くらいにしか思われていないと思うけど、何だか変に意識してしまう。でも、それは向こうも同じみたいで―――

 

「…先輩の手って意外とあったかいんですね」

「当たり前でしょ。私にだって血ぐらい通ってますよー」

「それに汗もかいてるみたいです」

「ここちょっと空調効き過ぎよね。身体が熱くなってきちゃった」

「さっきから目を合わせてくれないのもそのせいですか?」

「…侑って、たまにイジワルするよね……」

「お互い様です」

 

 手を繋ぐことなんて普通だ。そう断言したはずの人が本当は一番意識していたり。気取られないように気丈に振る舞ってはいるけれど、繋いだ手と態度から緊張してるのがバレバレだ。まったく、しかたない人だなぁ。

 

「―――先輩ッ」

「えっ、侑!?」

「この先に休憩スペースがあるみたいです。ちょっと喉が渇きましたからジュース奢ってください!」

 

 突然腕を引かれ、先輩は面を食らった表情。私のこの行動を予想していなかったことを教えてくれる。残念ですが、いつまでも先輩のペースだと思ったら大間違いですよ。

 

 暖かく火照った右手を強く引き付ける。すると、先輩は今まで以上にその透き通った声を弾ませた。

 

「うん! よろこんで―――!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 休憩エリアの売店で飲み物を購入すると、空いていたテーブルに腰を降ろした。そう言えば前回もこのあたりで休憩したんだっけ? あのときのことを思い出し、私は先輩の横顔を盗み見る。今、隣に座っているのは七海先輩じゃない。それを改めて認識するために。

 

「けっこう広い水族館ね。完全に舐めてたわ」

「不甲斐ないですね。いつものパワーはどうしたんですか?」

「ええ? 私って別にそんなキャラじゃないんだけど?」

 

 先輩は足をバタつかせては疲れたの意思表示に余念がない。でも隙を付いては目線を配り、こちらを気にする様子を見せる。いったい何だろう。そう思って、そっとストローから唇を離す。

 

「…どうかしました?」

「…あー、いや、こんなタイミングで聞いていいのかわからないけど、一つだけ質問してもいい?」

「なんです? 改まったりして」

「…どうして、あの()なの?」

 

 何の前触れもなく放たれた言葉はとても直線的なものだった。ストローをくわえていなくて良かったと心から思う。もし口にしていたら、ドリンクを噴き零していたかもしれない。宮代先輩が示す“あの()”。固有名詞がなくても誰を指すのかは明白だ。

 

「…前にも言いましたけど、別に私たちそういう関係じゃ」

「そういう関係でもないのにあんなことまでするものかしら? 侑もあの女も、遊びとか、そういう軽い気持ちでしてるようには思えなかったけどなー」

「それは…その……」

「別に茶化してるわけじゃないのよ。ただ、どうしてあの女なのかなって……」

 

 それには言葉が出なかった。そもそもは生徒会に入らないか、そう顧問の先生に勧められたのがすべての始まりだった。そうして学校の離れ校舎で出会ったのが彼女―――七海先輩。彼女は“好き”の気持ちを持たない自分の、その悩みを最初に受け入れてくれた。だけどそれは単なるきっかけだ。私が先輩の側にいる理由。先輩と触れ合う理由。それはきっと今も、自分の心の奥深くに隠している。

 

「…侑はアクアフィッシュの話を知ってる?」

 

 これまた唐突な質問だった。アクアフィッシュ? 聞いたこともない単語に無言で首を振る。

 

「小さい頃に読んだ絵本の名前よ。アクアっていう一匹の魚がいてね、その子は魚なのに地上でも生きていくことができる特別な能力を持ってるの。水の中の生活はそれはそれで楽しいものがあったけれど、地上の生活の方が暮らしやすく、アクアにとって魅力的なものだった。だけどその子は地上での生活を選ばなかった。なぜだと思う?」

 

 好きな子が地上ではなく水の中で暮らしていたから。先輩はそう言った。

 

「童話にありがちな話よ。自分にとって本当に大切なものはまだ見ぬ世界などにありはしない。それは最も身近にあるものだって、そういった類の話……その絵本もね、アクアは水の中で二人一緒に幸せに暮らしました、で締めくくられていたわ。幸せは水の中にあるって…」

 

 遠くを見つめる瞳が絵本を懐かしむ様子を物語っていた。それでいてどこかその結末に納得がいっていないような、そんな複雑な色合い。

 

「もし侑がアクアなら、どちらを選ぶのかしら? 水の中か、それとも地上か……君は考えておくべきよ。自分にとっての幸せを……今はそれでいいのかもしれない。でも絵本と現実はまったく違う―――。絵本の中ではアクアは主人公一匹だけだった。だけど侑…現実はね、あなただけがアクアじゃないの」

 

 驚くほどの強い言葉。話が進むごとに先輩の表情は真剣なものに変わっていく。言いたいことは何となくわかっているんだ。でもその忠告を受け入れる余裕は今の私にはきっとない。

 

「あの七海って女もアクアの一人。いずれあの女だって選択のときを迫られる。そのときあの女が水の中の生活を選ぶとは限らない。水の中から這い出て地上での生活を選ぶことだってきっとある。そのとき、侑は―――」

「やめてくださいッ」

 

 咄嗟に話の続きを遮った。その先の言葉は聞きたくない。身体の中にはふつふつと煮え返るおかしな感覚。頭の中に浮かぶ言葉はたった一つだ。出会って間もないあなたに、七海先輩の何がわかるっていうのか。

 怒っていると自覚したときにはもう遅い。突発的に私は床を蹴っていた。

 

「何でそんなことを言えるんですか…あの人のことも私のことも何も知らないくせに、知ったようなことを言わないでください―――ッ!!」

 

 抑えようとしても、自然と口調が荒くなる。周囲の視線が今度は痛いほど背中に突き刺さった。ダメだ。頭を冷やさないと……

 

 持ってきたカバンを鷲掴みにし、勢いよく休憩エリアを後にする。去り際、先輩の様子を見ないようにと、意図的にその姿を視界から外した。ただただ悔しかった。知ったようなことを言われたこと対してじゃない。必要以上に過剰に反応してしまう自分自身に憤りが重なる。これじゃまるで、私もそう思います、と言ってるようなものじゃないか。

 

『…そろそろ 乗り換えですよ―――』

 

 上下ガラス張りの水槽トンネルを足早にくぐり抜けた。瞬間、あの日の思い出が自然と脳裏に浮かび上がる。次第に映像は移り変わって、最後には水族館へ行った日の帰り道、夕日に照らされた車内の光景だけが鮮明に映し出されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ? 侑じゃん! 久しぶりだな!」

「…菜月?」

 

 このまま帰ってしまおうかと何度も考えた。少しだけ時間が経ったせいもあって、熱した頭はだいぶ冷め、今は虚しさだけが取り残されている。あんなに感情的になるのは久しぶりだった。大きな溜息を吐き、私は出口方向へと足を進めた。

 

 でも受付前で一人の女の子に声をかけられた。その子の名前は園村菜月。中学時代の同級生で、私の友達の一人だ。秋にも関わらず、こんがりと焼けた肌が印象的で、今も彼女が運動部であることを示してくれる。入り口方向から歩いてきたということは館内に入場するところだろうか。

 

「久しぶりだな! 侑も遊びに来てたのか!?」

「うん。菜月も元気そうだね」

「…そういう侑は、何かあったのか? あんまり元気いいようには見えないけど?」

「あー、ううん、大したことないよ。館内歩き回ったら疲れちゃって…それより菜月は一人で?」

「いや、ソフトボール部のみんなと一緒にな。今日は久しぶりに練習が休みだから、みんなで遊びに行こうって話になって」

「そっか、こっちはちょうど今見終わったところ。入れ違いだね」

「侑は誰と来てるんだ?」

 

 その質問をされたとき、失敗したと思った。誰と来たのか、会話の流れからすると当然の質問だ。だけど、その答えを私は用意できないでいる。

 

「あ~ えっと…」

 

 口を開けたり閉じたりの繰り返し。一人で来たとは言いにくい。どう答えればいいだろう。別に宮代アイカのことを隠す必要なんてない。それはわかっている。だけど今それを表に出す気分には到底なれなかった。

 

「…侑?」

 

 仮に彼女のことを伝えたとして、私とあの人との関係をどう紹介すればいいのだろう。家族でも、友達でも、同級生でもない。ほんの数日前に出会って、私の中にズカズカと侵入してきた荒らし者。君と仲良くしたい。先輩は確かにそう言ったけれど、私である理由は今もなお見当たらない。

 

「こんにちは」

 

 そのときだった。後ろから一人の声が聞こえた。どこまでも届きそうな透き通った声質。振り返らなくてもその主が誰なのかを教えてくれる。単なる偶然? それとも、ずっと私を追いかけていたのだろうか。

 

「…え?…うそ…宮代アイカッ!?」

 

 予想に反して意外な反応を見せたのは菜月の方だった。私の背後に立っている宮代アイカを見て、瞬間目を細めたかと思えば、今度は目を丸くする。菜月らしい、とてもわかりやすい反応だ。

 

「こんにちは。小糸さんのお友達ね。私は宮代アイカです。どうぞよろしく♪」

「$×△¥●&?#いうこと?」

「菜月落ち着いて~ しゃべってることの半分もわからなかったよー ていうか、菜月って芸能人とか興味あったっけ?」

「興味あるとかないとかの前に、めっちゃ有名人じゃん! この前のドラマにも出てたし! もしかして侑の知り合いなのか!? どうして教えてくれなかったんだ!」

 

 食い気味に言葉を並べる菜月。滅多に見れない彼女の反応に正直困惑する。さて、私たちの関係をどう説明したらいいだろう。事のいきさつを正直に説明するわけにもいかない。脅されてこき使われてますなんて、言えるはずがない。

 

「直近に開催されるイベントに出演することになったんですが、小糸さんもそのイベント準備に参加してて、それで私たち知り合いになったんです。今日は息抜きにということで、前々から来てみたかったこの水族館を案内してもらっているところです」

 

 正解半分といった回答だ。個人的には納得できない部分はあるけれど、大きく嘘を付いているわけでもない。何よりもその説明で菜月は納得したようだし、これで良しとすることにする。菜月の屈託のない笑顔。今の私にはちょっとだけ眩し過ぎるけれど。

 

「良かったら園村さんもお友達を誘って見にきてください。出し物に舞台劇をやるのですが、とてもいい、感動的なものになると思いますよ」

「もちろん絶対行きます! いろんな人に声をかけますよ。侑も大変だろうけど頑張ってな!」

「あ~ うん、ありがとう」

 

 といっても私は裏方。文化祭の生徒会劇のようにステージ上に立つわけじゃない。誰が見に来てもらっても構わない。そう思ってスルーするものの、ちょっとだけ複雑な気分だった。

 

「…いいお友達ね」

「…」

「あの子のためにも、素敵な劇にしないといけないね」

 

 その後、菜月はソフトボール部のみんなの元に戻っていった。帰り際、ちゃっかりサインをもらうあたり抜け目がない。先輩はというと、その間ずっと“完璧な”対応を続けている。菜月の後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと有名人として振る舞い、笑顔を絶やすことをしなかった。これも演技なのだろうか。そんなことを勘ぐってしまう。

 

「…そうですね。菜月、楽しみにしてるって言ってましたしね……」

「…うん…それと、さっきはごめん……」

 

 二人並んで話していなければきっと聞き漏らしていただろう。それくらいひどく小さな声だった。さっきの会話を忘れたわけでも、許したわけでも、ましてや自分の中の整理がついたわけでもない。決してそんなことはないけれど―――

 

「…はぁ~~~ ほんっとに私って……」

「侑?」

「だいぶ歩き回ったのでお腹がすきました。お昼にしましょう。先輩、奢ってくれるって言いましたよね? がっつり期待させてもらいますから!」

「…うん! そうこなくっちゃ! お洒落でおいしいお店探しといたから!」

 

 先輩はもう一度私の手を引いた。その力に連れられて体は前へと進み出す。拒絶するという選択肢もあった。だけど私はそれを選ばなかった。

 優しさ? いいや、きっとこれは優柔不断なだけだ。今の私はたぶん、水の中にいる。水の中でもがき、悩んでいる。

 

 

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