「おのれルベルクラクめ……!」
ロンドンのとあるホテルで、スラブ系の男がいきり立っていた。彼は剛腕をうならせて机に拳をたたきつけようとしたが、しかし寸前で思いとどまってピタリと手を止める。
そんな彼の前で控えるゲルマン系の青年は、下手に弁償をしなくて済んだという安堵で軽く息をついた。
「どうされますか、マスター? このままではヨーロッパにある鍵はすべてルベルクラクに押さえられてしまいます」
「わかっている……なんとかして奪取し、我らルージュフィシューの名で神々に献上せねばならん」
そう、彼らこそルージュフィシューであった。彼らはスーパーエイジャに繋がる四つの鍵をすべて把握しており、それを回収して神々に捧げることで復活せんと企図していた。
しかしその目論見は、早くも瓦解しかけている。それというのも、ルベルクラクの動きがあまりにも早かったせいだ。
ルベルクラクの動きは、男の考えを大幅に上回っていた。勝者となってもなお驕らず研鑽を続けたルベルクラクと、敗者となって五百年間の隠遁を余儀なくされたルージュフィシューの格差は、彼らが認識しているよりもなお巨大であったのだ。
だが彼らにも意地がある。隠れながらも構築した情報網や伝手は存在しており、彼らはルベルクラクの動きをほぼ正確に把握することには成功していた。
「……まずドイツは諦める。アルフィー様が直々に出向かれたのであれば、我らが何かするまでもない。神々の下僕たる我々が、神々の道行きを邪魔するなどあってはならんことだ」
「やはりそうなりますか。ではスペインはいかがします? こちらには大規模な調査隊が送られていますので、手のものを多く潜り込ませていますが」
「木っ端どもに過度な期待せぬほうがよいだろう。お前が行き、直に確認するのだ。念のため、あそこの内部地図を持っていき責任者の気を引け」
「畏まりました」
「ああ。だがジョースターが行くという情報もある。やつには気をつけろよ。石仮面や神々について詳しい上に、波紋の達人でもある。間違いなく今回のことにも一枚噛んでいるはずだ」
「もちろんです。ですが、仕留めてしまっても構わないのでしょう?」
「構わん。どうせ生きていても我々の邪魔にしかならんからな。……構わんが」
そこで男は、青年に目を向ける。
両者の視線がぶつかり合い、青年の視線に反抗期らしい若い苛立ちが一瞬だけ浮かんだ。
「ジョースターを甘く見るな。
「……畏まりました」
しかしそれを押し込んで、青年は頭を下げた。
彼に対して男は満足げに頷くと、どかりとソファに腰を下ろす。
「それでいい。スペインは任せたぞ」
「お任せください。……マスターはイギリスを?」
「ああ。イギリス王室にある鍵は、悪趣味なことに
だが、そう答えた男の表情は渋い。
「ルベルクラクの整えた舞台で踊るのは気に食わん。気に食わんが……我の心情よりも今はルージュフィシューを再び神々にお認めいただくことが先決だからな……」
既に何歩も後れを取り、挽回が難しい局面であるのだが、男はそれを口にはしなかった。理解はしていたから。青年もまた同様である。
「……ああそうだ。業腹だが、この件はアジアのほうに伝えておかねばならんな」
「ですね。……アルフィー様の動きについてもお知らせしようと思いますが、構いませんね?」
「そうだな、それはすべきだろう。日程だけでなく、どこに寄港するかも含めて漏れのないようにな」
「畏まりました」
青年は男に一つ頭を下げると、マントを取って部屋を出ていく。
彼の背中を見送り、ドアが閉まるのを見届けた男はかすかにため息をついた。次いで、顎をさすりながら窓の外に目を向ける。
真冬のロンドンは、雪化粧を纏っている。上空に佇む白い月はどこまでも透徹な表情を浮かべていた。
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中華世界にありながら、アヘン戦争によって清国より切り離されて以来、独自の歩みを進める街、香港。
その場末に連なる飲み屋に、二人組がふらりと入り込んだのは1934年も残るは一日となった年の瀬であった。
二人組の片方は妙齢の女。もう片方は、年端もいかない少女である。
傍目には姉妹かあるいは親娘かと言ったところか。しかし女が純粋に東洋系なのに対して、少女はコーカソイドとの混血が伺えた。
しかしそれがどうあれ、両者が血縁であることは疑いようがない。何せ二人の顔立ち、特に目元や鼻筋の類似は誰の目にも明らかだ。
そんな二人組は飲み屋の奥まった席へ着くと、あからさまに適当な注文をさっさと済ませて顔を付き合わせた。
「……当てが外れたわ。まさか欧州の鍵がこうもあっさりルベルクラクに押さえられるなんて」
そう、彼女たちはアジアを担当することになったルージュフィシューである。
「えええ! 大変です! ど、どうするんですかっ?」
「どうもこうも、今から欧州のことでできることなんてもうないわ。あちらはあちらに任せるしかない」
「じゃあ、予定通りにしますか?」
「……いえ、こちらも変更よ」
女の断言を受けて、少女はこてりと首を傾げた。
「あちらからの連絡によれば、
「えっ、うそ、じゃあ、鍵が大陸にないことわかっちゃってるってことですか?」
「どうやったかはわからないけれど、そう見るしかないでしょう。ルベルクラクには相当優秀な情報屋がいると見ていいわ。けれど、この機会を逃すわけにはいかない」
と、女はここで言葉を切った。少女は再度首を傾げたが、すぐさま店員が酒を持って現れたため一人で勝手に得心する。
やがて店員が立ち去ると、それを見計らって改めて女が口を開いた。
「……ルベルクラクは日本に拠点を持っていない。もちろん出来る限り有用な人間を出すでしょうけど、それでも現地の人間以上の人材は出てこないはずよ。
「なるほどー! じゃあ、わたしたちは日本でアルフィー様をお出迎えするんですね?」
「その通り。そして鍵の下まで案内して、アルフィー様に取り入るの。そこからルベルクラクに楔を打つ」
「ルベルクラクをやっつけるんですね!」
「いえ、滅ぼしはしないわ。ルベルクラクが作り上げた組織自体は、間違いなくアルフィー様やカーズ様たちのためになる。
「な、なるほどー?」
「……あなたは深く考えなくていいわ。私の言う通りにすればいい」
「えっと……はい、がんばります!」
「ふふふ、いい子ね」
「えへー」
盃片手に少女の頭をなでる女。すると少女ははにかんで、純粋な喜びで顔を染めた。
女のほうも、そんな少女を慈しむように微笑んでいたが……ほどなく表情を引き締める。
「……そういうわけだから、私たちも年が明けたらすぐに日本に渡るわよ。日本語は覚えてるわね?」
「はい!」
「よろしい。日本に着いたら、鍵の手配を急ぐわよ。それと人間の文化を愛されているアルフィー様のために、情報集めもしておきましょう。アルフィー様が好みそうなものや場所をピックアップしておくこと。いいわね?」
「はい。……あれ? でも、そんなことしなくっても、
「いつの話をしているの? 三十年も経てば色々と変わるわ。ましてや大きな震災もあったわけだし、当時の知識なんてあまり当てにならないわよ」
「そういうものですか……?」
「大人になればわかるわよ」
納得できない様子の少女に対して、女はくすりと微笑む。
彼女は続けようとした「
それから二人は、他愛ない話に終始した。
そうして、少女の盃が空になったのをきっかけに、飲み屋を後にする。
店主に小銭を投げてよこした女は、少女を従えて香港の雑踏に消えていく。
そんな二人の道行きを気にかけるものは一人としておらず、やがて二人は完全に街の景色に溶け込んでいった。
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同時期、チベットの山深い秘境にて。
人目を避けるように築かれた宮殿めいた建造物に、遠くヨーロッパから来客があった。
ただし、それは招かれざる客である。普段であれば静謐に包まれ、太陽の呼吸を修め生命を極めんとするものたちが修行に打ち込むはずの場所はこの日、完全武装した軍隊によって踏み荒らされていた。
しかし彼らは徹底した規律によって統制され、殺戮どころか不用意な発砲すら慎むという最低限の礼儀も持ち合わせていた。
故に、彼らの来訪を認識した
軍隊の側も、そうした判断を察したのだろう。修行場を制圧したのちは、部隊の最高責任者たる男自らが先頭に立って最奥まで踏み入ってきた。無論、その後ろには大人数の兵士が銃を構えて隊列を成していたが。
「……遠路はるばる、ようこそ。まずは名前を伺っても?」
「バカラシン・イイノデビッチ・ゾル。偉大なる総統閣下より、誇り高きライヒスヘーアの少佐を拝命するものである。波紋法継承者、
「
軍人……ゾルの問いに頷き、男……ストレイツォは長年親しんだ形式で挨拶をする。対するゾルもまた、形式は違えど軍の敬礼で応じた。
さらに彼は、あまりにも不調法かつ突然の来訪を詫び、軽くではあるが頭も下げると共に、兵士に構えを解かせても見せた。
そんなゾルに、ストレイツォは警戒を続けながらもあえて気を利かせた様子で椅子を勧めたが、ゾルは謝辞を告げつつも、軍人にその気遣いは無用と断った。
ゾルはそのまま、直立不動でストレイツォに相対する。
「性急で申し訳ないが、早速本題に入らせていただきたい」
「聞きましょう」
「単刀直入に申し上げる。ストレイツォ殿、貴殿らが修める波紋法を、総統閣下がお求めだ。ドイツまで波紋使いを数人、派遣して頂きたい」
言葉通りにズバリ放たれた言葉に、ストレイツォはかすかに眉をしかめた。
「……このような山奥にいるゆえ、どうにも欧州の情勢には詳しくないのだが……その、総統閣下? とやらは、何ゆえ波紋法を求められる」
「無論、我らアーリア人の優れた遺伝子をより優れたものへと昇華せしめるためである」
「……人種の優劣についてはあえて語りますまい。しかし、波紋を用いて遺伝子を? 波紋はあくまで技術です。遺伝子とは関係がありませんので、代々受け継がれるものではないですが……」
「そんなことは我々とて百も承知。そうではない。そうではないのだ、ストレイツォ殿。
「一般への普及……ですと?
ストレイツォの物言いに、それまで真顔を貫いていたゾルがわずかに笑った。
いや、これは嗤ったのか。ストレイツォはそう認識した。
「
その言葉に、嘘偽りはなかった。いや、信じているからこその断言と言うべきか。
ともあれストレイツォは、語気を強めたゾルの言葉に、彼が心底祖国の力を信じていることは理解した。
そして、そのために波紋というものを科学的に調べようとしている、ということも。
できるのか?
いや……
自らが苦労して身につけ、この道を長く歩んできた。迫り来る老いから逃れようと、今ももがいている。
――にも関わらず、
だが。
「……そういうわけだ、ストレイツォ殿。だがそのためには、まず波紋法とはなんたるかを知らねばならない。だからこそ、波紋使いを貸していただきたいのだよ」
再びゾルが、にやりと笑って手を横に掲げる。
瞬間、すべての兵士が鉄の規律でもって、同時に銃を構えた。
「何、トップである貴殿に来いと言っているわけではない。そうであれば非常にありがたいが、我々も鬼ではない。それなりの使い手を、せいぜい数人で良いのだ。……
四方八方から向けられる、無数の銃口。その前では、肉体を極めた波紋の継承者であろうと口をつぐむしかなかった。
そろそろタグに多重クロスをつけた方がいいかもしれない。
ちなみに少佐さんは本来大佐ですし、陸軍ではなく国防軍なのですが、あれはたぶんナチス崩壊時の最終ポジションだろう、という推測から時系列に合わせて整理した形です(国防軍の成立は1935年)。