Windows 95版ToHeartの二次創作小説。マルチメイン。主人公は長瀬源五郎。
Windows 95版のToHeart以降に加わった設定についてはまったく考慮していないため、設定の齟齬が発生している可能性があります。ゲームそのものは18禁ですが、内容はシリアス、18禁描写は一切ありません。
時間軸は作中と同時進行のため、ゲームをプレイしていなければ内容はわかりません。オリジナル設定、オリジナルキャラクターが登場します。
1999年頃に書いた作品です。「実りの季節」シリーズの冒頭の作品となります。
こちらの作品はPixivとのマルチ投稿となります。
* 序 *
「現在初期起動率、七十パーセント」
そんな緊張を含んだ声が、実験室の中に響いた。
決して広いとは言えない部屋の中の研究員たちは、その声に真剣な面持ちで自分たちの前のディスプレイに注視する。
私を含めて、研究員たちにはすでに手を出すことはできなかった。ただ、コンピュータが処理していく起動状況を眺めているしかなかった。
今日この日にこぎ着けるまでに、何度となくシミュレートを繰り返し、実験を重ねてきた。だからといって本試験の際に問題が起きないとは限らないし、事実そうした前例もないわけではない。
気がつかぬうちに握りしめていた手の平に、じっとりと汗がにじんでいることを私は知った。
「長瀬主任、起動率七十五パーセントです」
女子研究員がこちらに視線を走らせてくる。その声を聞くまでもなく、私もそれを確認していた。
まもなくだった。
もう少し経てば、初めての起動試験が終わりを告げる。それが終わったとき、実験室の奥に置かれた試験台の上で眠る少女が、目を覚ますのだ。
私は試験台に目を向ける。
スポットライトに照らされた台の上に、一人の少女が横たえられている。しかし薄いラバースーツにだけ覆われた彼女の胸に、人にあるべき規則的な上下運動は見られない。
『HMX―12型』。
それがその少女に与えられた名前だ。
人間ではない。この先の試験結果によっては量産されることになる、人の手助けをするために生まれたアンドロイド、俗に言うメイドロボだ。
その量産の雛形となる最初の試作機が、今まさに目覚めようとしていた。
「起動率、八十パーセント」
この日をどんなに待ちわびたことか。ここまで来るのにどんなに時間がかかったことか。
すべての試験が終わり、問題が発見されなければ、彼女は量産されるのだ。その時を、どんなに望んでいることか。
私はもう、座ったままディスプレイを眺めてはいられなかった。
研究員たちから向けられる視線を気にせず、自分の席から離れて試験台の前に立った。
身体の各部にケーブルを接続された少女型メイドロボは、ライトに照らされたまま微動だにすることなく横たわり続けている。彼女が動くことは、この初期起動試験が終わり、通常起動に入るまでは、ない。
「マルチ」
私は小さく呼びかけた。
それが彼女の名前であり、量産されたときにつけられる予定の商品名だった。
しかし、そう呼ぶことに若干の違和感を感じる。
まだ呼び慣れていないからということもあったが、そんなことよりも、私の中にある、彼女のことを別の名前で呼びたいという気持ちの方が強かった。
「八十五パーセント」
それは、誰かが――もしくは私自身が息を飲んだその時だった。
かすかに胸が動いたかと思うと、マルチが小さく息を吸った。そればかりか、うっすらとだが目が開かれる。
――そんなはずはない。
驚きのあまり動けずにいると、焦点が合っているとは思えない視線がわずかな時間さまよい、私の存在を認めた。
「おにぃちゃん」
それは彼女の口から漏れた、聞こえるか聞こえないかというほどの声。
愕然とした。
全身に冷水をぶちまけられたような冷たさが走ったかと思うと、次の瞬間、今度は熱湯を浴びせられたかのように熱くなった。
他の研究員たちの手前、どうにかそれが態度に出すのだけは抑え込んだが、手の平からは、汗が消えてしまっていた。
独特のイントネーション。
私はそれを知っていた。そしてたぶん、今この実験室の中で私だけが知っているものだった。
――なんてものをつくってしまったのだろうか。
目を閉じ、再び動かなくなったマルチを見ながら、そんな思いに駆られていた。
――この先、どうなってしまうのだろうか。
不安が満ち始めていた。後悔に近いものが生まれつつあった。しかしなぜか、嬉しさに似た感情もまた、そこには含まれていた。
「九十パーセントを越えました」
そろそろ安堵の息が聞こえ始めた実験室の中で、私はただ一人、マルチを見守り続けていた。
* 1 *
ディスプレイには、これまでの試験結果の解析データが映し出されている。
通常起動に入ったマルチは、初期起動試験のときに見せたような不可思議な行動をとることはなく、――性能上の問題はあるにせよ、滞りなく試験をこなしていた。
何度となく見直してきた解析データにも、それに関する問題と言うべきものは見つからない。
私は椅子に背中をもたせかけ、あのときのことを考え直してみる。
私はマルチを、あんなことをつぶやくようにつくった覚えはない。少なくとも、つぶやかないようにつくったつもりだ。
初期起動のときのあれは、たぶん身体の方の起動準備が終わり、マルチに搭載された情報すべてにチェックが入っている途中であったからこそ起こったのだろう。
だから、通常起動に入った今では同じことが起きることはないし、今後も、起きることはないはずだ。
私がマルチの前に立っていたため、あの様子を見た研究員はいないようなのは幸いだった。声の方も、すぐ近くに立つ私ですらかろうじて聞くことが出来たものだ。他の誰かが聞いていることはあるまい。
とりあえずやっかいな問題に発展することだけは免れた。この先の不安がないわけではないが、今のところ安心していた。
しかし一方、わだかまりも残っていた。それはあのとき感じた嬉しさから生まれたものであることを、私は知っていた。
「よぉ長瀬。まだやってたのか、ご苦労さん。一服入れようぜ」
振り返って扉の方を見ると、隣の研究室、HM開発課第二班の主任で、私と同じくメイドロボを開発している音山彰次が入ってくるところだった。彼の後ろには、二班で開発、試験中のメイドロボ、セリオがついてきている。
研究室の中を見回してみた。
つい昨日で中間報告のための修羅場を脱した部屋の中は、書類や機材が机の上に――ものによっては床の上にまで――雑然と残されているだけで、私以外の研究員の姿はなかった。集中していたためか聞こえなかったが、どこからかマルチのハミングが聞こえる。たぶん彼女だけが、私とともに仕事を続けていたのだろう。
いつの頃からそうなってしまったのか、まったく覚えていない。腕の時計を見てみると、すでに十時は回っている。
「そうですね」
音山の言葉に応じ、コンピュータに終了の指示を与え、煙草を取りながら立ち上がった。そろそろ休ませようと、マルチに声をかける。
「はい?」
呼ばれた彼女は、意外にも近いところから姿を見せた。その両腕に、今にもこぼれそうなほどの書類を抱えながら。明らかに現在の作業を持て余している。
マルチが目覚めてからまもなく二週間が経つ。それでも私は溜め息を漏らさずにはいられなかった。
これがマルチの性能上の問題だった。
メイドロボであるというのに、彼女は掃除が、いや、家事全般が下手だ。どこかに欠陥があるのだろう、必要最低限の情報は入れたはずなのに、機能していない。しかしその特徴である学習機能だけは正常らしく、いまだ上手いとは言えないが、この二週間で物を壊したりせずに掃除だけはできるようになっていた。
溜め息の余韻に浸りながら、目をしばたたかせているマルチに言う。
「もうこんな時間になりました。そろそろ終わりにして、残りはまたにしませんか?」
「はい。……あっ、でもぉ」
マルチは困ったように口ごもる。次、その口からどんな言葉が出てくるのか、私にはだいたい予想ができていた。
「まだ少ししか整理出来てませんし、電池も残っていますから、……あのぅ、もう少しお掃除してていいですか?」
ほぼ予想通り。
再び溜め息を漏らした私に、マルチは懇願の目を向けてくる。それはまるで、掃除が心から好きな女の子のようにも見えた。
「いいでしょう。燃料電池に切り替わる前に、早めに言うんですよ」
「はいっ! ありがとうございますっ」
にっこりと笑む。
――この笑い方は……。
マルチのそんな表情に、私は初期起動試験のときと同じ気持ちがわき起こるのを感じていた。
私はマルチを「人間らしさ」というコンセプトで設計した。それを実現するために様々な新機構を取り入れ、人間に近い行動パターンを取るように苦心した。それが機能障害の原因になっているような気はしているが、今の人間的な表情はその努力の賜物だ。
しかしわからない。マルチは掃除が好きだと言うが、私はそのような行動を取るようにつくった覚えはない。
……いや、心当たりがあるにはある。
マルチの行動、それはまるで――。
「さすがにお前がつくっただけのことはある。良く出来てるよ」
どうにか一服できるくらいの広場がある机を見つけた音山が、私たちの様子を横目で見ながらそう評した。
思考を中断し、私は彼のもとに足を向ける。
「そんなことはありませんよ。部長の評価を見る限り、貴方のセリオの方がポイントが高いじゃありませんか」
「まぁそうだがな。でも部長は性能重視主義だからだよ。普通のメイドロボって奴はな、主人に対してあぁいう風に反論はせんもんだぜ。
見てな」
そう言った彼は、振り向いて背後に控えるセリオに「マルチを手伝ってやんな」と命じた。それに対してセリオは、
「――すみませんが音山主任。わたくしの電池は、あと一時間分ほどしか残っておりませんが」と表情一つかえることなく返してきた。
「普通はこういう風にするもんだよ」
顔だけこちらに向けて、音山はウインクした。
確かにその通りだと思う。
セリオは優秀なメイドロボだ。これまでにない新機能を盛り込み、それだけでなく、どんな仕事でも従来のメイドロボよりきっちりとこなしていくことが出来る。セリオはその「高性能」さがコンセプトであり、生まれるべくして生まれたメイドロボだ。
だからと言って、それがメイドロボの理想的な姿であるか、という問いに、私は返す答えを持っていない。反論は出来ないが、どうしても疑問が残る。
そんな思いを抱きながら煙草を取り出していると、音山は「あぁそれから」と言葉を続けた。
「部長はマルチみたいな幼児体型よりも、セリオみたいな女らしい身体つきの方が好きらしいからな」
彼は肩で笑いながら、「三十分でいい」とセリオに指示を与えた。今度は反論することなく、セリオはそれに従ってマルチのもとに寄っていった。
私もまた笑っていた。肩に入っていた緊張が、いつの間にか消えてしまっていた。
彼との腐れ縁は中学二年に始まって以来、すでに二十年以上になるが、こういうところばかりはかなわない。
互いの煙草に火を点け合い、弾んだ声を交えながら、けれどもぎこちない手つきで掃除をするマルチと、ほとんど無言のままテキパキと書類整理をこなしていくセリオを、しばらく二人で何も言わずに眺めていた。
先に一本目を吸い終わり、口を開いたのは音山の方だった。
「もう一息だな」
「そうですね。あとは最終試験を残すばかりですか」
私もまた一本目を吸い終えた。
最新型のメイドロボの開発は、昨日までに基本的な試験とそこまでの結果報告が終わっていた。残っているのは、最終試験だけだ。
最終試験はこの研究所内では行われず、人間が通う高校で行われることになっている。それもマルチやセリオはその高校でメイドロボとして仕事をするわけではなく、一般の生徒に混じって学生として通うことになるのだ。
つい二モデル前のメイドロボで始められたその試験は、総合的な社会への適応能力を試すために行われていた。そして同時に、人間らしさを追い求めてつくられたマルチにとって、今のところ評価で負けているセリオに勝つ見込みのある、最後の希望でもあった。
別に勝ち負けなどどうでもいい。しかしこの試験でマルチとセリオの、優秀な方が来期のメイドロボのメインモデルに決まるとなれば、私はそれにマルチになってほしいと思っていた。
「お前の考えてることわかるぜ」
いつの間にか二本目の煙草も吸い終えようとしている音山が言った。
「明日からの試験で、挽回しよおってんだろ?」
「……かないませんね、貴方には。まったくその通りですよ。今のところ明らかにマルチの方が劣勢ですからね。ここで取り返さなくては、メインをセリオに奪われてしまう」
「まっ、その通りだぁなぁ……」
冗談を込めて言ったのに、彼はまじめな顔をしながら、なにか考え込むかのように顎をさする。
「どうかしたのですか?」
私の問いに答えず、音山はちらりと掃除を続けているマルチとセリオの方を見る。視線を落としながら煙草の火を消した後、顔を上げ、私の目を見据えた。
「――正直言うとな、俺はマルチを見たとき、お前に負けたと思ったよ」
「負けた? セリオを以てして、ですか?」
そんなことは考えられなかった。彼の性格上、セリオは満を持して打ち出してきた傑作のはず。
彼と同じように、私も掃除をする二人に視線を走らせる。その様子を見ているだけでも、幾分悲しい気持ちにはなるが、どちらが優秀かは一目瞭然だ。
「あぁ、そうさ。しょせん俺と二班でつくったセリオはな、これまでのメイドロボの発展型でしかないんだ。さすがにサテライトサポートにゃあ自信があるぜ。他の社では出来ない、ここ来栖川だからこそ出来る技術を、一番早く搭載してやったんだからな」
「その通りですね。今の私にあれは出来ない」
「だろうよ。データベースを使うときのプログラム関係には、俺でも手を焼いたもんだぜ」
彼は唇の端をつり上げた。
確かに、サテライトサポートは来栖川エレクトロニクスの技術や資金と、音山彰次の手腕、そしてHM開発課第二班の尽力によって実現したものだ。これらのどれが欠けても実現することはなかっただろう。その中でも、情報処理関係に非凡な才能を持つ音山の存在は大きい。
近年の急速なメイドロボの発展は、音山のような人材がこの業界に多く籍を置いているためという事実を忘れることは出来ない。
非凡な才能は持たないが、同様に私もマルチの開発の重要な部分を握っている。表皮の素材や表情を出す機構、そのほか身体関係の新しい機能などは、ほとんどすべて私の手によるものだった。
「それでも、負けたと言うのですか?」
「あぁ。サテライトサポートなんてなぁ、ほっといても一年も経ちゃあ出てきたもんだろうよ」
「そうかもしれません。ですがその一年を縮めたのが貴方の力でしょう?」
「その通りだ。だが、俺の言いたいことはそれじゃない」
彼は私に詰め寄ってくる。
「わかってるか? 長瀬。てめぇがつくったのは、すでにメイドロボじゃねぇとも言えんだぜ。マルチはもう『汎用アンドロイド』と呼ぶにふさわしいくらいのもんを持ってんのさ。
なんだよ、あの見た目の自然さはよ。耳の飾りさえなけりゃぁ人間とかわらないぜ。それに表情の豊かさ。そんなもん、メイドロボがなんに使うってんだ。メイドロボへの考え方自体が違うじゃねぇか。てめぇはてめぇにしか出来ない思想で、てめぇしかつくれねぇもんをつくったんだよ!」
音山は荒い語気とともに机を激しく叩いた。
なおも鋭い視線を投げかける音山をまあまあと手でなだめながら、驚いてこちらを見ているマルチとセリオに「気にせず掃除を続けないさい」と声をかけた。
「すまない」
彼はひと言いい、呼吸を整えた。それからうつむき加減で言葉を続ける。
「初めてマルチを見せられたとき、――そう、あれは起動直後だったよな、俺はどれがマルチなんだかわかんなかったぜ。……いや、違うか。どれがマルチだかすぐにわかったが、信じられなかったんだ。信じたかなかったんだ。
わかるよな、この意味が」
音山はじろりとこちらを見上げる。
わかっている。それは私自身もまた感じていることなのだから。
しかし私はその言葉に答えを返すことなく、音山の鋭い視線に耐え続けた。
「あ、あわわわわ~~~~っ!」
私と音山の沈黙を破る悲鳴とともに、何かが砕ける音が二つした。
――またやった。
半ばあきらめながらそちらの方を見ると、お盆を胸に、セリオに抱きかかえられているマルチの姿があった。彼女たちが見つめる先には、割れた湯飲みが二つ、濡れた床の上に転がっていた。
どうやらつまづいて湯飲みは落としたが、セリオに助けられたために転ぶのだけは免れたようだ。
「す、す、すみませぇぇーーーーん! わたし、また――」
「それはいいから、まず片づけて下さい」
「はっ、はい……」
しょぼくれた様子でセリオとともに研究室から出たマルチは、掃除用具を取ってきて後片づけを始めた。
「まったく、いくつ目だ?」
「三つ目ですよ」
「お前の茶碗は、か?」
「……そうですが」
音山は全身で溜め息をついた。
「まったく、悲しくなるぜ。いったいいつになったらお茶くらい満足に入れられるようになるんだ?」
「一日に三個ずつ湯飲みが減っていっていた時期よりマシでしょう」
「それはマシって言わねぇよ。メイドロボなら当たり前だ。ったく、そこんとこだけ直りゃぁいいもんになるのにな。……セリオじゃやらねぇぜ、気ぃ利かしてお茶を入れるなんてな」
一瞬だけ私を睨んだあと、彼は三本目の煙草に火を点けた。返す言葉もなく二本目の煙草に火を点けようとした私のもとに、マルチが来た。
「あの……、片づけ、終わりました」
「そうですか。そろそろ三十分です。セリオと一緒に休みなさい」
「――はい」
「……はい」
指示だけ与えて火を点けた。一息吸って吐いた後、まだそこにマルチがいた。
「どうしました、マルチ。私は休めと言ったでしょう。明日から最終試験が始まります。そろそろ充電をしなければいけませんよ」
「そ、そうなんですけどー……」
先ほどと同じく、マルチの言いたいことは予想が出来ていた。ふぅ、と息を吐いた後、今度は彼女に言わせることなく、こちらから頼むことにした。
「もう一度、お茶を入れていただけますか?」
「はいっ!」
パッと明るい表情になって、マルチは元気よく研究室から出ていった。
「やっぱり思うよ、俺は。てめぇがつくったのはメイドロボじゃねぇ。それに、よくあれだけのもんをつくるよ。姿形は違うけどよ、性格はそのまんまじゃねぇか」
音山の言いたいことはわかっていた。
マルチの行動、性格、仕草、表情、どれをとっても似ているのだ。この研究所の中で、たぶん私と音山だけが知っている存在に。
マルチの行動、それはまるで――。
*
ほのかな梅の香りに混じって、軽やかなハミングが聞こえる。
ソファでくつろぎながら電子工学の本を広げているが、目はそこに並んだ字を追ってはいない。今なにより私が傾けている感覚は、聴覚だった。
穏やかな早春の日和。
リビングには暖かな日差しが差し込んでいる。
この時期、そろそろ受験だなんだと騒ぎ始める高校に行く必要はなく、のんびりとすることが出来た。
――親も、仕事だ研究だなどと言って帰ってくることはない。私は妹のみのりと二人、なにをするわけではないが、ゆっくり過ごせるこの時期が一年の内で一番好きだった。
パタパタという足音に、本の影からそちらの方を覗き見る。
背の半ばまで伸びた髪を適当に結わえ、雑巾を手にしたみのりが姿を見せた。畳み直した雑巾で、棚の上や窓枠を拭き始める。
……はっきりと言って、掃除は上手くはなかった。けれども笑みを浮かべながら楽しそうにしているその姿は、見ていて心地よかった。それに、少しずつではあるが、上達もしているのだ。
本を伏せ、テーブルに頬杖をつきながら、みのりのことを眺め始める。
こんな春の訪れを迎えるのも、今年で三度目だった。
みのりは本当の妹ではない。ある不幸があったという家から引き取られてきて、二年半ほど前に長瀬家の一員になった。
引き取られてきた最初の春、私は家の中の電球のすべてを、切れかかった物から新品に交換したのかと思ったものだ。子供が私一人しかおらず、何かと忙しくて両親が帰ることのほとんどない家は、いつも暗い雰囲気をまとっていた。
みのりはそれを一掃してくれた。
家の不幸からそれほど時間が経っていないにも関わらず、彼女が笑みを絶やすことはなかった。二度目の春では、さらに明るさが増した。そればかりでなく、明るいことが当たり前になっていた。
そして今、三度目の春。
今年はそれまでよりも遥かに、家に明るい光が満ちていた。
みのりが真新しい制服を着ている。
彼女がこの四月から通うことになる高校の制服だ。
今日の朝届いたそれを、私は汚れるからと止めたのだが、みのりは着慣らすためだと言って掃除をするというのに身につけていた。
胸元のリボンが特徴的なセーラー服は、小柄なみのりによく似合っていた。
「どうしたのぉ? おにぃちゃん。にやにやなんかして、なんか好いことでもあったの?」
私の視線に気づいたみのりが、小首を傾げながら言った。
「いや、何でもないよ」
「勉強ぉ? あっ! もしかして、わたし、邪魔だった?」
「構わないよ。気にせず掃除を続けなさい」
困惑の表情を浮かべるみのりに、私は笑みを返した。
「でもー……、やっぱり悪いよ。まだ終わってないところあるから、そっちからやってくるね」
微笑みを見せて、みのりは行ってしまった。
ほぉっと息をつき、少しばかりの残念な気持ちを隠しながら、伏せていた本を手に取った。
文字に目をやるが、集中できない。再び聞こえ始めたハミングに、いつの間にか耳を傾けている。
――みのりも今年で十六。ずいぶん成長したんですね。
――そう思えば近頃、音山が家に来ることが多くなったのは、果たして気のせいでしょうか。
いらないことばかりが浮かんできて、気が散ってしまう。
そんなときに聞こえてきたのは、みのりの悲鳴だった。
「あわわわわ~~~~~~~~~~っ」
身構えた次の瞬間、陶器の割れる嫌な音がキッチンから聞こえてきた。
――またやった。
溜め息をつきながらキッチンに足を向ける。案の定、そこでは割れた私の湯飲みが、床をぬらすお茶の中に散らばっていた。
「ご、ご、ごめんなさぁーーーーい! わたし、また――」
「それよりも、みのりは大丈夫でしたか?」
「う、うん。制服にはかからなかったから……」
「そうではなくて、みのり自身は大丈夫でしたか?」
「えっ? あ、うん。大丈夫。お湯飲みを持った指が熱かったくらい」
「そうでしたか。良かった」
目をしばたたかせているみのりをよそに、私は湯飲みの破片を拾い始めた。その様子に気がついて、そこら辺を探し歩き、みのりは雑巾を持ってきた。
「あ、あのぅ、おにぃちゃん」
片づけが終わった後、みのりが独特のイントネーションで私を呼んだ。彼女が言いたいことは、すでにわかっている。
「お茶は自分で入れますから。それよりも、そろそろ買い物の時間ではありませんか?」
「あれっ? あ、本当だ」
キッチンの時計で時間を確認したみのりは、
「じゃあ行って来るね」と言って買い物かごをつかんで玄関に向かい始めた。
「みのり、その格好で行くんですか?」
「んっ。だって、嬉しいんだもん」
ふわりとスカートの裾を揺らしながら微笑むみのりに、私はそれ以上かける言葉がなかった。
「お財布は持ちましたね。知らない道には行かないように。夕方までに帰ってくるんですよ」
玄関先までついていき、私は事細かな注意を与えた。
「うん」と頷いた後、みのりは元気良く言った。
「行って来まーす」
その言葉が、私の聞いた最後の言葉となった。
まもなく空が赤くなり、だんだんと暗くなっていった。自分で何杯のお茶を入れただろうか。本も読み終わってしまった。そして太陽は沈み、星が瞬き始めた。
みのりはその日、ついに帰ってくることはなかった。
* 二 *
「――どうぞ、長瀬主任」
セリオが差し出したお茶に、自分がぼぉっとしていることに気がついた。「ありがとう」と礼を言いながら受け取り、一口飲んだ。
「――どういたしまして」
相変わらず表情をかえることなく、セリオは他の研究員たちにお茶を配りに行った。
その後ろ姿を見送りながら、私の心には複雑な気持ちが渦巻いていた。
昼、食事も終わり、そろそろダレの来る時間だ。腕の時計はちょうど三時を示している。
平日のこの時間に研究所にいるセリオは、現在最終試験中の物とは別のセリオだった。暫定的に導入が決定された、一班二班で共有するセリオの二号機だ。
この意味がわからない人間は、少なくともこの一班研究室内にはいないようだ。礼を言ってお茶を受け取りながらも、研究員たちは一様に複雑な表情を浮かべている。
マルチ二号機が導入される予定は、今のところない。
誰もが、マルチの行く末を心配していた。
最終試験中の今、日常業務は記録データの整理と、毎日学校から帰ってくるマルチのチェック、つまりさほど手間のかからないものしかないのだが、それでもこの研究室に欠員なく人が揃っているのは、マルチをより良くしてあげようという研究員たちの熱意からだった。
綿密なチェックにより、問題点、修正点は多く発見されている。しかしそれを直したところで、マルチの評価がどれほど上がるかはわからなかった。
そして何よりたいへんなのは、音山によってシステムがバージョンアップされたセリオ二号機の評価が、一号機以上に高いことだった。
音山は二号機に、――そう、「気を利かす機能」とでも言うべきものを追加していた。
今セリオがお茶を配り歩いているのは、その機能が働いている証拠なのだ。
そのことを音山から聞いたとき、私は言ったものだ。
「ついでに愛想笑いを浮かべる機能でも追加してみてはどうです?」
「んなお菓子についてくるオマケみたいな機能、すぐ飽きられるだけだ。つけるだけ無駄だよ」
メイドロボに対するこだわりを垣間見せながら、彼は私の意見を一蹴した。けれどもそれに加え、
「マルチくらい自然にそういうことが出来るんなら別だがな」と言って唇の端をつり上げた。
部長による評価はともかく、マルチは彼女に接する機会の多い人間には評価が高かった。それは一班研究員に限らず、二班の人々でも同じだった。
マルチはよく気がつき、よく働き、そしてよく笑い、泣いた。学習型にしても不器用な彼女にもどかしさを覚えるのはいつもだったが、それが故になにか成功があると、一緒になって笑いあうことが出来た。
マルチをよく知る者にとって彼女は妹のようであり、作り上げた我々一班研究員全員にとって、彼女は娘であった。
だからこそこうして、マルチの評価が出来るだけ上がるよう、全員が持てる力のすべてを尽くしていた。
もちろん、それは私もまた同じだ。
さすがに連日のチェック作業で目の疲れを覚えながら、ディスプレイ上の最新記録データに注意を移す。
マルチは学校で様々な体験をしていた。
色々な人間に出会い、多くのことを学び、そしてそれらをメモリに蓄積していた。
記録データは、一面アルバムのようであり、映像やCPUの稼働状況、その他いくつものグラフなどを重ねあわせて見ることにより、そのときそのときの微笑ましいばかりの様子が浮かんで来る。
毎日学校から帰ってきたマルチの表情を見てもわかることだが、彼女はこの最終試験を試験としてではなく楽しんでいた。
――こんな日々も、もうすぐ終わる。
幾分悲しい気持ちに目を細めながら整理を続けていると、奇妙な傾向があることに気がついた。
それは視覚的物体の認識、とくに人物の認識に関するところで見受けられた。
マルチは視覚的に物体を認識するのに、人間に近い、物体形状のパターンを識別するという方法を採っていた。その方法により、物体の形状が多少違っても同じものだと認識する事が出来る。つまり、シェパードでも柴犬でも、同じ犬と認識することが出来るのだ。
近頃のメイドロボにはすべて搭載されており、それが出来るようになったからこそ、人型のメイドロボが実現できたというほどの技術だ。
そしてその方法を採るとき、メモリの効率化のため、検出されたパターンは同一の容量で記憶されることはなく、重要度が高いものから優先度がつけられ、使用される容量もその優先度の高さに比例して大きくなるようになっていた。
簡単に言うならば、マルチは人間と同じように身近な人のことをよく知り、会えばすぐ思い出すことが出来るが、逆に一度しか会ったことがなく、さして印象に残らなかった人に関しては、もう一度会ったとしても思い出すことが出来なかったりするのだ。
マルチのそうした人物に関する記憶優先度の中に、奇妙な傾向を見つけた。
研究所内に在ったとき、マルチは私を筆頭とする研究員に高い優先度があった。学校に通うようになるのだから、そこで身近な生徒や先生が高い優先度を持つだろうことは予想していた。
しかし私が見つけたのは、それにしてもおかしなものに思えた。
記憶優先度が、他に群を抜いて高くある人物がいた。
時間的には長く接しているはずの私や研究員たちさえも凌ぐ優先度を持つ人物の映像を、すぐさまサブディスプレイに表示させる。
そこには学生服を着た、一人の少年の姿が映し出された。
視覚ばかりでなく、他のデータと突き合わせてその少年のことを探り出す。
マルチの記録データから、少年に関する予想を遥かに超える量の情報が導き出された。それはまるで、マルチがいつもその少年のことばかりを考えているかのようだった。
――まさか。恋する少女でもあるまいに。
そう思った瞬間、私の思考は停止した。
マルチの記憶パターンは、まさに「恋する少女」と評するのに一番の形をしていた。
否定することが出来なかった。
私がマルチに託したもの、それの存在を考えるとき、彼女が恋をしている可能性を否定することは出来なくなった。
――本当に、マルチには心が存在する?
答えが出ないのはわかっていた。しかし自問しなくてはいられないほどの問題だった。
それと同時に、頭の中にもう一つの可能性に対する不安が浮かび上がってきた。
マルチに託したものは多くある。その中でも大きなものは二つ。一つは今浮上した心に関すること。それともう一つ――。
マルチの身体を設計し、素材を選び、部品をつくり、組み上げたのは私だ。他の研究員に手伝ってもらったことはたくさんあるが、重要な部分については私自身の手で直接行った。
――『あの機能』が使われる可能性――。
『それ』をマルチに託したのは、たぶんまともに恋すらしなかったであろうみのりに対する想いがあったことを、否定はしない。
だからといって、『それ』が使われることなんて考えてもみなかった。
――では、なぜそんな機能をマルチに託したのだろうか。
混乱の度合いを深める頭の中を落ち着けようと、口の中にお茶を流し込んだ。すでに冷え切っているそれは、のどに苦さだけを残していった。
顔をしかめながら考えた後、私は出来うる限りのさりげなさを装って、内線電話に手を伸ばした。
*
「すみませんね、こんなところに呼び出して」
「気にすんな。どうせ明後日までは大した仕事はないんだ」
音山が席に着いたのを見計らって、彼の後ろについてくるように現れたボーイに軽めのアルコールを注文した。
席に着くのと同時に、音山は煙草を取り出すが、吸おうとはしない。
「しかし、どうしたんだ? お前が俺を飲みに誘うなんて久しぶりだろう。それもこんな色気のない場所にな」
彼はちらりとだけ周囲を見やった。
私が音山を呼び出した場所は、酒場だった。しかし安い大衆酒場ではなく、女の子のいるスナックでもなく、高級で、静かな雰囲気のバーだった。そして私たちが座る奥まった場所にあるこの席は、密談をするにはちょうどいいところと言えた。
「どうせ相談事だろう? こんなところで高い酒を飲みながら時間をつぶすのは経済的じゃねぇ。さっさと話しな」
いつもの調子で言いながら、けれども彼は私を睨みつけてくる。私は何から話していいものか、判断がつきかねていた。
「……ショージ」
「ん?」
私は音山のことを学生時代の愛称で呼んだ。その呼び方に含まれたものを感じ取ったのだろう、音山はわずかに表情をゆるめた。
「ショージ。私は間違っていたのでしょうか」
「なんだよ、いきなり。……まぁどうせマルチのことだろ? 今回も上手く行かなかったようだが、方向性は間違ってないと思うぜ」
「そうですか」
「煮え切らねぇな。今日はそんなことの確認に呼び出したんじゃねぇだろ? まだ試験は終わってないんだ。総括前だから時間はあるが、酒を飲む時期じゃねぇ。なのに俺をわざわざ呼びだしたってのは、それだけの理由があんだろ?」
つき合いが長いだけあって、隠すことが出来ない。私は持ってきた鞄から、分厚い紙の束を取り出した。
「これを見ていただけますか」
「なんだ?」
その厚さに嫌そうな顔をした音山は、表紙に一瞬だけ目をやった。途端、彼は表情を引き締め、持っていた煙草とライターを置いて両手でそれを受け取った。
表紙には、『HMX―12型 詳細仕様書』という印刷がなされていた。
音山がそれを見終わるまで、私はボーイが運んできたアルコールのグラスを傾け続けた。
あまりの分量に、音山はそのページのほとんどをとばして読んでいる。しかし、ときどき手を止めてまじまじと眺めることがあった。
その様子を横目で見ながら飲む酒に、味などなかった。
しばらくして仕様書を置き、溜め息をつきながら音山が言った。
「俺の方もセリオにつきっきりだったからな、概略だけでマルチの細かい仕様を見たのは初めてだ」
「そうだと思っていました」
「部長の評価が低いわけだぜ。なんだよ、このコストは。サテライトサポートなんてもんを積んじまったから、セリオは莫迦みたいに金がかかると思ってたのによ。なんだぁ? マルチは。セリオとほとんど同じくらい金がかかるじゃねぇか」
「…………」
「こんな贅沢なメイドロボは見たことがねぇ。コンピュータはセリオと同じPNNC―205Jを使っておきながら、使ってる分量は倍以上あるじゃねぇか。コストがかかるわけだぜ。あれだけの自然さを出そうと思ったらこれくらい必要なのかもしれねぇが、問題がでかすぎる」
「……マルチの秘密は、それだけじゃないんですよ」
「なに?」
音山の目と口調に、鋭いものが混じる。
「私が一度、同じコンセプトで失敗しているのは知っていましたね」
「あぁ知ってるよ。確か9型だったよな。学習指向性がつけられなかったって奴だろ? 実稼働試験まで行って失敗したってのは聞いてるよ。俺がHM課に転属する直前の奴だったな」
HMX―9型。
二年半ほど前に開発が行われたそのメイドロボは、マルチと同じく学習により成長していくタイプのものだった。名前すら付けられず、難航する開発の無理を押して身体を組み上げ、通常起動までこぎ着けたのだが、最終的に量産されることはなかった。
9型の問題点は、学習指向性の薄さだった。
学習型のメイドロボは、初期状態では家事などに関する能力は必要最低限しか入っていない。その能力は使うことによって、ほぼいくらでもと言えるほどまで伸ばしていくことが出来る。
その点が学習型のメリットであり、セリオのような基礎能力が高く、バージョンアップ以外では成長しないメイドロボでは出すことが出来ない、それぞれの環境に必要とされる能力を適した形で伸ばすことが出来る、という特徴にもなっていた。
しかし、9型は量産されなかった。
それは9型が、自分から学習しようという行動を取らなかったからだ。9型は普通のメイドロボと同じく、主人から命令を受け、仕事をするだけだった。それではあまりに学習速度が遅く、結果、実用に値しないと判断された。
本当ならば、マルチと同じように自分から学習するようになるはずだった。そのようにつくったのだ。けれども、その試みは失敗した。
9型が微笑むことは、一度としてなかった。
「マルチに搭載している学習機能は、9型と基本的には同じものです」
「なに?」
「使われている部品や機構などはすべて最新のものですが、マルチは基本的な線で9型となんらかわることのない構造をしています」
「じゃあ、9型とマルチの違いは?」
私と音山は正面から対峙した。
肘置きに両肘を置きながら手を組み、真っ直ぐな視線を音山は向けて来る。グラスに残ったアルコールを飲み干した後、彼の視線を受け止め、私は本題に入った。
「私の母がなにをしているのかは、ご存じでしたね」
「確か学者だろ。大脳生理学だったか? 名前は覚えてねぇが、とにかく脳味噌関係の研究だろ? それも最異端なんて呼ばれてたよな」
「そうです。よく学会から追い出されないと思えるほどの人です。……実際、知られると学会から追い出されるどころか、それでは済まないことを色々とやっていますがね」
「それがどうかしたのか?」
話が見えないのだろう。音山は訝しむように眉をひそめる。
「どうかするんです。……どうかしてしまった、と言う方が正しいですか」
「どういう意味だ?」
「先ほど貴方が言った通り、研究内容は脳関係のものです。それも、人間の記憶に関すること、ひいては人間の心に関すること、です」
「それで?」
「みのりは、交通事故で脳に損傷を受けました。そのときみのりが運ばれた病院には、どういう経緯かは知りませんが、私の母が駆けつけ、手術に立ち会ったそうです」
「ちょっと待て。それはどういう――」
腰を浮かしかけた音山の言葉を続けさせず、私は言った。
「『最善を尽くした』。私はあの人から後でそう聞きました。そしてみのりの葬式が終わり、四十九日も過ぎた頃、葬式以来久しぶりに帰ってきた母から一枚のディスクを受け取りました」
「ディスク?」
「あの人は言いましたよ。『これが私が救えた、みのりのすべて』だとね」
「お前、それは……」
音山は信じられないようだった。私がその内容を知ったときと同じように、唖然とした顔をしている。
「その内容は閲覧するどころか、解析することすら出来なかったそうです。かろうじて死に行くみのりの脳から取り出せた情報、だそうです」
「それを組み込んだんだな? マルチにそれを組み込んだんだな!」
「その通り。ただし、表立って出てくることのない、隠し情報として、ですが」
それがマルチに託したものだった。9型との根本的な違いは、それの存在だった。
私が言い終わった後、二人でほぼ同時に大きく息を吐いた。音山は氷が溶け終わったアルコールを一気に飲み干し、私は水の入ったグラスを一気にあおった。
「それで全部じゃないが、説明がつく。マルチにゃもしかしたら心があるぞ。PNNC―205Jは、脳の構造を少なくなく取り入れてつくられてるんだからな。そんなことでマルチに心があるという説明にはならないが、絶対にあり得ないという説明にもならない」
「……」
「お前、今日ここに俺を連れだしたのは、そんなことを解説するためじゃないんだろ? なにか問題が起こったからだろ? 聞かしてみ、驚かねぇから。マルチに何が起こった?」
私の口は重たかった。だからといって、言わないわけには行かない。彼を呼びだした理由は、それなのだから。
「――――恋を、しているかもしれません」
薄々予想はしていただろう。それでも音山は目元に手を当て、深く息をついた。
追加注文を取りに来たボーイにおかわりを頼み、私は手を当てたまま動かなくなった音山の言葉を待った。
「俺の率直な意見だが、メイドロボに心なんてものは必要ない。……いや、そうじゃないな。メイドロボに心なんてものは、邪魔なんだ。いろいろな意味でな」
顔に当てた手を外し、彼は一口水を飲んだ。
「なぜだと思う。わかるか? 長瀬。まず最初に、そんなものは社会とやらに受け入れられないからだ。
考えてもみろよ。SF小説でもあるまいし、ロボットが自己の人格を主張し始めたらどうなる? ただでさえ近頃はメイドロボの反対運動なんてものが生まれつつあるんだ。やってる奴がメイドロボの代わりをするわけでもなければ、失業するかもしれねぇ俺たちの保証をしてくれるわけでもないのによ!
……その上、本当に心を持ったメイドロボが出てきて見ろ。わけわかんねぇ擁護組織やらなんやらが出てきて、人権がどうのってエライ騒ぎになるんだぜ?
俺はお前を悪者に仕立て上げるつもりはないんだ。心あるメイドロボをつくろうと、複製人間をつくろうと、別に悪いこっちゃねぇんだから。本当に悪いってんなら、神様が出てきて、そいつに罰でも与えりゃいい。なんだかんだ理由をつけて反対する奴は、心が狭めぇ奴か、問題に巻き込まれるのが嫌な奴なんだからな。……ちなみに、俺は後者だ。そんな問題に巻き込まれるのはまっぴらゴメンだ。
第二に――」
音山はそこで一度言葉を切った。それまで身振り手振りのためにあげていた腕を下ろし、椅子に深く腰掛ける。
「――第二に、お前、マルチをこの先どうするつもりだ?」
「どういう意味ですか?」
「本当かどうかわからねぇが、マルチに心があるとする。マルチは、確かに人間とは違う身体はしているが、心は同じってことになんだぜ。恋をしてるってんなら、それを、どうするつもりだ?」
「それは――」
「でけぇ問題だよ。恋ばっかりじゃねぇ。心ってなぁいろんなもんがある。いじめられりゃあ鬱憤が溜まるし、放って置かれりゃ寂しくもなる。生まれた心にゃ結末もあるんだ。鬱憤が溜まり溜まって復讐心になれば人が死ぬ。寂しさ募れば自殺メイドロボも出てくるかもしれねぇ。……それに、恋だ。
お前、マルチをどうするつもりだ?」
考えてもいないことだった。私はメイドロボの心という物に対して、音山に意見を求めるつもりだった。マルチをどうするかなんて、考えてもいなかった。
「…………もしなにかあっても、彼女のしたいようにさせるつもり――」
「違う! 俺が訊いてるのはそんなこっちゃねぇ。俺が聞きたいのは、『お前がマルチをどうするか』、だ」
「私が?」
「そうだ。お前にとってマルチは、みのりちゃんなんだろ?」
「いえ、そう言うことは……」
「少なくとも、完全に切り離して考えられねぇんだろ?」
「それは……、その通りです」
「じゃあお前はどうするつもりだ。マルチを、最後にはどうするつもりなんだ?」
「それは……、それは――」
考えられなかった。
マルチのことを、みのりと重ね合わせて見ていたのは確かだ。けれど、そのマルチ自身をどうするかなんて考えていなかった。
これまで私は、マルチのことをメイドロボとして見ていた。心を持ってしまったメイドロボ、そのように考えていた。私は今日、音山にその方向性について意見を求めにきた。
私の口から答えは出てこない。
「もし、万が一、マルチがその恋する相手のところに嫁ぎたいと言ってきたら、お前はどうする。認めるのか? 突っぱねるのか? 問題はそこなんだ。心を持ったメイドロボは、人間と同じように望みを持つ。夢を持つ。どんなにプログラムで制約をつけたところで、想いは募る。それをお前はどうするつもりだ?」
「…………」
「ゲンゴロウ。問題はそこなんだ。この世の中はメイドロボが夢を持つことを許しちゃくれねぇ。夢の実現を認めちゃくれねぇ。どんなに技術が進歩して、人間の寿命以上に稼働し続けるメイドロボがつくれるようになったとしても、世の中がかわらない限り、心を持ったメイドロボが幸せになれることは、ほとんどないんだ」
「確かに、その通りですね……」
私はその言葉を、どうにか絞り出した。
そのときボーイが現れ、注文したおかわりを無言のまま置いて行った。去っていく足音が聞こえなくなるまで待ってから、音山は口を開いた。
「俺の方でもどうにか出来るか検討してみる。マルチの記録データ、こっちに回せるか?」
「それは出来ます」
「よく考えてみろよ、長瀬。俺はお前の方向性が嫌いじゃない。むしろ、実現してもらいたいんだ。本当にあのマルチが売れるようになるんなら、世界はかわるぜ。でも、今の世の中じゃダメなんだ」
「えぇ」
音山は仕様書を持って席を立った。
「お前がそう見てても、あれはみのりちゃんじゃない。マルチだ。マルチにはマルチの夢がある。実現したい夢がある。それを告げられたとき、お前はどうするのか。そして試験が終わった後のマルチを、お前はどうしたいのか。一人でよく考えてみろ」
そう言い残して、音山は店から出ていった。
私は置かれているアルコールに手をつけることなく、一人で考えていた。
みのりの記憶が組み込まれたメイドロボ、マルチのことではなく、心を持ったメイドロボ、マルチのことを。
* 三 *
夕焼け空がきれいであるという事実を知っている人は、どれくらいいるだろうか。
そしてそれを実感したことがある人は、何人くらいいるのだろうか。
今、西向きのこの廊下は、茜色に染まっていた。
都市の中心部から離れ、田園地帯に近い場所に建てられた研究所の周りに高い建物はなく、まぶしいほどの夕焼けを存分に眺めることが出来た。
美しい。
純粋にそう思えるのは久しぶりだった。いや、もしかしたら初めてなのかもしれない。
美は、なぜこうまで心の隙をつくのだろうか。
何度となく見てきた風景なのに、今の私には、この夕焼け空が美しく見えた。
その原因はわかっていた。
まもなく終わりを告げようとする最終試験の終了日。なんの問題もなく夜が訪れようとしていたのに、夕焼けの美しさに隙をつかれたのは、つい先ほど部長の部屋で聞いた言葉が原因だった。
「来期のメイドロボのメインモデルは、セリオに内定した」
部長は簡潔にそう告げた。そしてその後に、
「マルチは大幅な仕様の変更を行わない限り、量産も行われない」
と付け加えられた。
マルチが量産されない理由は、性能と比して考えた場合、コストがかかりすぎるからだという。
しかしコストを落とそうにも、高い分はあの性格を出すためのコンピュータと、売りとなる新機構に割り当てら得れているため、削った場合、マルチはその特徴の大半を失うことになってしまう。
――これまでの努力は、すべて無駄だったのだろうか。
自分に問いただしたところで答えが出ることはなく、そろそろ帰ってきているだろうマルチにあわせる顔もなく、私は足を止めたまま、ただ夕焼け空を眺めていた。
パタパタという足音。
近づいてくる足音の主を知っていながら、そちらに顔を向けることが出来ず、私は窓の外に目を向け続けた。
「あの……、長瀬主任」
その声で初めてマルチの方を向く。
マルチは夕日が染める以上に頬を赤くしながら、今にも泣きそうな、それでいてこれまでとは違う芯の見える、何とも言えない微妙な表情をしていた。
――こんな顔も出来たのか。
驚きはなかった。私は不思議な落ち着きを保ったまま、マルチの次の言葉を待っていた。
「主任。すみませんけど、……あの、お話ししたいことがあるんです」
「なんですか」
「わたし……、その、学校で知り合った方にいっぱい親切にしてもらって、いっぱいお世話になって、それで、それで――」
胸の前で組んだ手をぎゅっと握りしめたまま、その先の言葉が出てこなくなってしまったマルチを、私はやさしい声で促した。
「それで?」
「……わたし、御恩返しがしたいんです。その人のためだけに、お仕事がしたいんです」
マルチの目は涙で濡れていた。
それは重要度が高く、けれども許可が得るのが難しそうな頼み事をするときに出るように設定してあることを、私は知っていた。
マルチが涙を溜めているのは、機能かもしれなかった。
だが断言できる。
彼女のその望みは、彼女自身の心から出てきたものだ。
「そのために、お時間をいただきたいんです」
ついに涙が頬を伝い、それにつれて表情も崩れてきた。握りしめた手は力みすぎて震え、にわかにしゃくり上げ始めた。
――マルチにとって私は、親なのですね。
一つの結論を出しながら、悲しくはなかった。逆に、頬が嬉しさで緩んでいくのが感じられた。
「マルチ。その人のことを教えてくれませんか」
「えっ?」
「あなたが恩返しをしたいという人のことを、私に教えてくれませんか?」
「――はいっ!」
マルチが話してくれた少年に関することは、すでに彼女の記録からわかっていることだった。けれど彼女の口から直接聞くと、ずいぶんと印象が違っていた。
身振り、口調、表情、それらのすべてを、そしてそれ以上のものを使って、マルチは少年のことを教えてくれた。
その様子があまりに微笑ましくて、私は目元まで上がってこようとする熱いものを抑えるのにひと苦労だった。
「――って、そんな、そんな感じの人なんです」
話し終えたマルチは、再び手を胸の前で握りしめ、私の顔を見上げた。
もう迷う必要はなかった。
「じゃ、今から時間をあげるから、行って来なさい」
「行って、いいんですか?」
「その許可を取るためにここに来たんでしょう。行って来なさい、マルチ」
「あっ、ありがとうございますっ!」
満面の笑み。
茜色に染まったそれは、今まで見てきたどんなものよりも美しかった。
「その人の住所はわかっていますね。帰りはバスがないでしょうから、タクシーを使って構いません。なにかあったら電話をしてきなさい、相談に乗りますから。番号は覚えていますか」
私の事細かな注意に、マルチはうんうんと頷いた。
「ありがとうございます。それではわたし――」
「マルチ」
背を向けようとするマルチに、最後の言葉をかける。
「必ず、帰ってくるんですよ」
「はいっ!」と頷いてから、マルチは元気よく言った。
「行って来まーす」
そろそろ消えかけようとしてる夕日に照らされたマルチが見えなくなるまで、私はその背中を眺めていた。
その後ろ姿に、みのりが重なることはなかった。
眼鏡を外し、目元にハンカチを当てる。
――マルチは、必ず帰ってくる。
夕焼けが終わっても、私はその場に立ち続けていた。
* 終 *
電動の大扉が開くのももどかしく、私は徐々に広がっていく隙間に身体を滑り込ませた。
ライトに照らされてなお薄暗い倉庫の中には、出荷前のメイドロボが整然と並んでいる。
その中にはマルチも多く含まれていたが、仕様変更により、ほとんど中身が性能を落としたセリオである量産型などには目もくれず、私は倉庫の最奥へと足を急がせた。
あの日の翌日、マルチは帰ってきた。
燃料電池すらも少なくなり、記録保持のために休眠状態に入りそうなほどになって。
マルチの顔は幸せに包まれていた。
その後、自分が二度と目覚めることがないのをわかっているのに、悲しそうな様子は一片もなく、満足げな表情だけが見えた。
その顔を見た瞬間にわかった。
夜になり、他の研究員たちを帰した後かかってきた電話で、「大好きな人と、もう少し一緒にいさせてください」と言われたときから予想していたことだ。
――マルチは、恋を実らせていた。
『あの機能』が果たしてメイドロボに必要なものであるのかどうかは、私の中でもまだ答えの出ない問題だった。
だが、マルチに関して『それ』を託したのは、失敗ではなかったと思っている。
倉庫の一番奥のひっそりとした場所に、量産型と並んでHMX―12型マルチは、ほんのかすかに微笑みながら、眠りについていた。
「マルチ」
私は小さく呼びかけた。
もう、そのことで違和感を感じることはない。
マルチは、マルチなのだから。
私は手の中の注文書を見て、目を細める。それには一人の少年の名前が書かれていた。
年齢からすればまだ大学一年生だろう。メイドロボなどを買うには、経済的に早すぎる年頃だった。
しかし絶対に彼がメイドロボを、マルチを買うであろうことを、私は二年以上も前から確信していた。
そう、あれはちょうど二年前だ。
一度だけ、私はマルチと結ばれた少年に会いに行った。
遠回しに話を進めながら、私は彼に訊いた、「メイドロボに心は必要か」と。
「あったほうがいいに決まってるじゃねぇーか」
「そっちのほうが楽しいに決まってんじゃねーか」
それが彼の答えだった。
音山の言葉からしたら、あまりに考えなしで、危険なほど率直な意見だった。
けれども、純粋な言葉だった。
たぶんそのときだったのだろうと思う。
マルチを、彼のもとに嫁がせようと決めたのは。
そのために八方手を尽くした。開発の人間である私が注文書を手にしているのも、試作型であるはずのマルチが製品倉庫で眠っているのも、それが功を奏したからだった。
「やっぱりここだったか、ゲンゴロウ」
振り返れば、にやけ顔の音山がいた。
「どうしたのですか、こんなところに」
「それはお互い様だろ。まぁ、お前が注文書を持って廊下をすっ飛んでいったってのを聞いて、ここだろうと思ってな」
彼は唇の端をつり上げた。
「それにしても、やっとか」
「そうですね。でも、この歳でメイドロボを買うというのですから、早いくらいですよ」
私は注文書をひらひらと振って見せた。
それに答えて笑う音山は、私と同じく事情を知る者だった。とくに彼には、マルチと少年が一緒に過ごした時間の記録を隠し、巧妙なダミープログラムを作成するのを手伝ってもらった。マルチが帰ってきたその日の午後から始まる総点検までにそれが行えたのは、先に渡していた仕様書とデータのおかげばかりでなく、彼自身が頑張ってくれたからだ。
多くの人間の努力が実って、マルチは今、少年のもとに嫁ごうとしている。知らせていない研究員たちには悪いが、それがマルチの幸せを願う親たちにとってできる、最良の選択だと思っている。
「他の準備の方は出来ていますか?」
「あぁ。ちとそっちの方は時間がかかるかもしれないが、どうにかなるだろう。最悪はお前が直接乗り込んでやれ」
「そんなことは出来ませんよ。嫁いだ娘のところに出向くなんて」
「よく言うぜ」
マルチを眺めながら、私たちは言葉もなく微笑んだ。
私と同じように、音山も彼女との記憶に想いを馳せていることだろう。
「そう思えば、マルチが不器用な根本的な理由はわかったのか」
「えぇ、だいたいのところは。まぁ単純なことですよ」
「そりゃいったいなんだい?」
音山の興味ありげな視線が向けられる。私はこみ上げてくる笑いを抑えながらそれに答えた。
「追いつかないんですよ、コンピュータが、情報の処理に」
「はぁっ? なんだよ、そりゃ。最新の高性能コンピュータだったのを、それもセリオの倍も積んでおきながら、処理が追っつかないってのか? それもありゃあ常的にだぞ」
驚く音山に、ついに笑いをこらえられなくなりながら言う。
「ショージ。たとえ最新のものと言っても、コンピュータで揺れる乙女心を処理しきれると思いますか?」
「乙女心なんて、おめぇからは聞きたくねぇ言葉だな。それに、莫迦ヤロー。マルチのは乙女心じゃなくて、女心だろ?」
「そうでしたね、確かに」
他に誰もいないのをいいことに、二人で倉庫の中に響くほどの声で笑った。気持ちが良かった。やっと一つ、荷が下りようとしていた。
「しかしゲンゴロウ。ということは、マルチの直系の妹は当分の間つくれねぇってことだろ?」
「そう言うことになりますが、必ずつくってみせます。たとえ世界をかえることになってもね」
それがマルチの願いなのだから。
あの日、警告音を鳴らしながら意識を失おうとしているマルチが言ったのだ、「妹たちのことを頼みます」と。
私はマルチからそれを託された。多くのものを彼女に託した私が、彼女から託されたものを実現しないわけにはいかない。
「じゃあ目先の話、次のモデルではどんなのを考えてるんだ?」
「そろそろストマックエンジンが実用段階に入ろうとしてるのは知っていますか?」
「ストマック? って、お前、メイドロボにもの食べさす気か?」
「それにあわせて、私の方では味覚についての研究を進めていましてね」
音山はあきれたように肩をすくめた。
「どこまでやりゃあ気が済むんだ?」
「少なくとも、マルチの妹たちが現れるようになるまで、私は続けますよ。いつかわかりませんが、必ず、私はそれを実現してみせますよ」
私は眠るマルチを見た。
「いつ頃来るだろうな、その時が」
音山が私の肩に手を載せ、「俺も手伝うぜ」と言った。
「お願いします」私は笑みを返した。
いつの日か、微笑みを浮かべるメイドロボが世の中にあふれるようになるまで、私は努力をやめる気はなかった。
「実りの季節はいつの頃」 了