灰と焔の御伽噺   作:カヤヒコ

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予兆

 

 ゆっくりと片足を踏み入れると、痺れるような痛みが指先から伝わった。慣れ親しんだ感覚はそのまま首元まで上がり、徐々に温かな安堵へと変化していく。抗わずに身を委ねると、全身に染み込んでいた疲労と不快感が抜け落ちていくようだった。

 

「ふうー…………」

 

「はは、気に入ってもらえたみたいだな」

 

 気の抜けた吐息を溢すと、ユークレスと呼ばれた青年が嬉しそうにを笑いかけてきた。

 

 

 ――――ここは魔女の眷属が身を清め、心身を癒す憩いの場。妖精の湯と呼ばれる露天風呂だ。

 

 郷を飛び出して山を下り、どことも知れぬ森の中で倒れた時には死を受け入れたが、目が覚めた時には知らない天井が映っていた。混乱するリィンの下に現れたのはにローゼリアと名乗る少女で、「一度頭と身体をスッキリさせるがよい」と替えの服を投げてきた。気づけば尋常でない量の寝汗で服が身体に貼り付いており、とてもではないが話が出来る状態ではない。申し出をありがたく受け入れて、ユークレスの案内でここまでやって来た。

 

「しかし、随分慣れてるように見えるな。帝国じゃ露天風呂って中々ないだろうに」

 

「自分の故郷は温泉が有名でして。こうしてよく入っていたんです」

 

「そうなるとこれも珍しくは無いのか」

 

「いえ、湯の成分も故郷のものとは大分違いますし新鮮ですよ。良ければ今度ユミルの温泉にも……っ」

 

 故郷の名を口にすると、そこから赤い光景を連想した。口元を手で覆い、せり上がる吐き気を堪える。

 

「先に上がるよ。のぼせない程度に堪能してくれ」

 

「あ……」

 

 様子のおかしいリィンをあえて気にせず、ユークレスは立ち上がって脱衣所に向かっていった。温泉に入り慣れているにしては短すぎる入浴時間。気を遣わせたのは明らかだった。

 

 陰鬱とした気分を少しでも和らげるように、リィンは身体を湯に深く沈める。

 

(……これからどうなるんだろう) 

 

 少し落ち着いたことで、先のことを考えられる余裕が出来た。

 

 詳しい話は何も聞いていないので、ここがどこかも分かっていない。温泉までの道中に見た里の幻想的な光景も相まって、本当は既に女神の下に招かれているのではないか、という馬鹿げた考えまで浮かぶほどに。ユミルからどれだけ離れているのだろうかと考えたところで、虫の良い思考に思わず苦笑が浮かぶ。

 

 自身の中に眠る忌まわしい異能。それを克服するために、この1年ユン老師の下で過酷な鍛錬を重ねてきた。それが自分を拾ったせいで多大な迷惑をかけた家族への、せめてもの償いになると信じて。だがその努力は何の意味も成さず、同じ過ちを繰り返した。彼らからすれば、今のリィン・シュバルツァーはいつ爆発するともしれない爆弾のようなもの。魔獣と同じく人里にいること自体が脅威となる存在。

 

 愛してくれた両親にも、慕ってくれた義妹にも、厳しくも真摯に鍛えてくれた老師にも、最早合わせる顔がない。暖かい肉体とは裏腹に、帰る居場所を失った孤独は身体の芯を凍らせていく。

 

「……ん?」

 

 途方に暮れるリィンだったが、そこで人の気配を感じ取った。顔を上げれば、湯煙の向こうにぼんやりとした人型のシルエットが映る。

 

「すみません。先にいただいてま……」

 

「あ、こんな時間に珍し……」

 

 声を掛けようとしたリィンは、そこで時の結界に囚われた。

 

 目の前にいるのは自分と同年代と思われる少女で、長髪をタオルを巻いて纏めている。

 

 整った顔立ちと、吸い込まれそうになる蒼い瞳。傷1つない、白磁のような艶やかな肌。

 

 お互い湯着を付けているので大事な部分は隠れているが、身内を除けば同年代の異性に縁のない身。このような刺激の強い光景に冷静に対処出来る余裕があるはずもない。

 

 そしてそれは相手の少女も同様で。

 

 

「きゃああああああああああああああああ!!!」

 

「わあああああああああああああああああ!!!」

 

 静かな早朝に、少年少女の悲鳴が響き渡った。

 

 

 4月18日、自由行動日。朝食を終えたリィンとエマは、リビングで寮の郵便受けに入っていた封書を確認していた。有角の獅子――トールズ士官学院の校章が描かれたそれの中には、生徒会長のトワが纏めた依頼の概要が書かれている。

 

「落とし物の捜索に導力器の配達……これ、生徒会の仕事なんでしょうか?」

 

 書類整理や雑用の類かと予想していたが、内容も活動範囲も幅広い。詳細は依頼者から聞かなければ分からないが、場合によっては学内どころかトリスタ中を回る羽目になりそうだ。

 

「来週発表される特別なカリキュラムに関係あるって教官は言ってたな」

 

「とりあえず、後で話を聞いてみましょう。そして……」

 

 2人は周囲に人の気配がないことを確認し、難しい顔で依頼書に再度目を通した。1番上の必須と書かれた依頼に、彼らにとって決して無視できない内容が載っている。

 

「旧校舎地下の調査、か」

 

「間違いなく本格的に試しが開始された影響でしょう。サングラール迷宮と同じように、構造そのものが変化している可能性が高いかと。教官の話では少なくともここ数年異常はなかったみたいですし」

 

 外から観察した限りでも、旧校舎に繋がる――間違いなく人為的に手を加えた――霊脈の流れが活性化しているのは知っていた。中の変化の影響が何らかの形で外に漏れているのだろう。

 

 問題はその調査依頼がリィンにピンポイントで出されたという点だ。……奥に眠るモノを知った上で依頼を出した、というのは流石に考え過ぎだろうか。

 

(騎神と起動者の縁……因果で結ばれているとは聞いていたけど)

 

「取り敢えず、これは最初に話を聞きに行ったほうが良さそうだ」

 

「ですね。場合によっては他の依頼は諦めましょう」

 

「……そうだな。でも出来れば」

 

「困っている人がいるなら出来る限り解決してあげたい、でしょう? 私も同じ気持ちですから、全部の依頼を受ける前提で動きましょう」

 

 言いにくそうなリィンにエマは微笑んで返した。少し呆気に取られたリィンには恥ずかしそうに頬を掻く。直接会う機会はそれほど多くはなかったが、かれこれ4年の付き合いだ。言いたいことは大体分かる。

 

 軽い身支度を整えた2人は、学園長室へと向かった。

 

 

 

 日の差さぬ暗い地下に、4人分の足音が木霊する。

 

 学園長から詳細を聞いた2人は別れて依頼と用事を消化し、昼前に再合流。協力してくれることになったエリオットとガイウスと共に昼食を摂ってから旧校舎に向かった。

 

 学院長から預かった鍵で扉を開け、左奥の扉から地下に入る。予想通り、オル=ガディアと戦った部屋とその先が以前の構造とは明らかに異なっていた(エリオットとガイウスの手前、それらしく驚くふりをしたが)。

 

 前回に比べ徘徊する魔獣も手強くなっていたが、苦戦するほどでもなく。戦術リンクの具合を確かめつつ順調に進んでいく。

 

「ところで、前から気になってたんだけど」

 

「どうしたんだ?」

 

 何度目かの魔獣の群れを排除してセピスの欠片を検分していると、エリオットが口を開いた。

 

「リィンと委員長って、どうやって知り合ったの?」

 

「俺とエマが?」

 

「リィンの実家があるユミルってアイゼンガルド連峰の麓……ノルティア州の北部で、委員長はサザーランド州の小さな村の出身だよね? 帝都を挟んで反対側だし、鉄道使ってもほぼ1日かかる距離じゃないか」

 

 国土全域に鉄道が敷かれ、主要都市では飛空艇で行き来出来るようにはなったが、それでも帝国は広い。生活圏の違う子供2人が親しい間柄になる機会というのはそうあるものではなく、珍しがるのも無理もないだろう。

 

 共にトールズ入学することになった以上、この手の質問は想定内。寧ろ遅かった方だとさえ思っていた。関係を探られた時の為のカバーストーリーも用意している。実際の出来事から話せない事情を抜いて、それらしい理由で辻褄合わせしただけのものだが、下手に嘘をつくよりはバレにくい。

 

 頭を掻きながら、リィンは気恥ずかしそうに口を開いた。

 

「4年前、色々あって家出したことがあってさ。衝動的に郷を飛び出したものだから路銀も無くて途方に暮れてたところを、偶然ルーレの近くに旅行に来てたエマが助けてくれたんだ」

 

「ええ!? リィンが家出!?」

 

「ふむ、意外だな」

 

 優等生然としたリィンからは想像がつかなかったのだろう。エリオットとガイウスは目を丸くする。縮こまるリィンに苦笑を浮かべたエマが補足した。

 

「出会ったのは本当に偶々なんです。その時にお互いの悩みなんかも相談し合って、旅行から帰った後は手紙でやり取りをしていました」

 

「家出の後で家族と和解できたのもエマのお陰なんだ。帰るときにはわざわざユミルまで付き合ってもらったし、本当にいくら感謝しても足りないよ」

 

「もう、それについては私も助けられたんですからお互い様ですよ」

 

 笑い合うリィンとエマからは、確かに結ばれた絆が見て取れた。その様子がエリオットには少し羨ましい

。友人と呼べる人は少なくないが、あんな風に屈託のない笑みを交わせる相手はどれだけいるだろう。

 

 望んでいた道を反対され、妥協の末にトールズに流れ着いた身。クラスメイトは皆が何らかの分野に秀でた特別な者ばかり。付いて行くだけで精一杯の凡庸な自分は、これからの学院生活であんな笑顔が浮かべられるのだろうか。

 

 

 まあ、それはそれとして。

 

「……やっぱり、そういう関係なのかな?」

 

「あの2人にはとても良い風が吹いているな……む、終点か」

 

 回廊の先、古代技術の装置らしきものと奥の広間をガイウスが発見した。先に進んだリィン達を待ち受けていたのは熊に似た魔物。敵意に満ちた雄叫びに対抗するように、抜刀したリィンが声を張り上げた。

 

「この前に比べれば大したことない相手だ! 落ち着いて戦術リンクを活用すれば十分対処できる!!」

 

「「「了解!!」」」

 

 強力な魔物なれど、戦術リンクによって支えられた連携にはなすすべもなく、最後はリィンの一刀によって倒される。

 

 

 結局前回のような異常は発見されず、初の旧校舎地下の探索はつつがなく終了した。

 

 

 

「どうだった?」

 

「反応なし、ですね。霊脈にちょっとした揺らぎはありますが、概ね正常の範囲内です」

 

 学院長室で調査結果を報告後、エリオット達と別れたリィンとエマは校舎の屋上に足を運んでいた。他人の目があっては出来ない本格的な調査をするためだ。

 

 内部を何ヵ所か回って魔術を行使し、最後に屋上から霊視してみたが、これといった成果は得られなかった。観察していたセリーヌも特に異常はなかったとのことなので、ダメ元の捜査ではあったのだが。

 

「仮説を立てるなら、イレギュラーが発生したのはあくまで騎神の試し……後付けで造られたこの地下遺跡の機能は正常に働いていると考えられるかもしれません」

 

「あの魔煌兵は本来、第一の試しの相手だった……ということは、俺はもう第一の試しをクリアしたということでいいのか?」

 

「それについては第4階層を確認してみないと何とも言えないですね。遺跡のシステムに干渉出来ればよかったのですが、私ではサッパリで」

 

「ローゼリアさんなら分からないかな?」

 

「お祖母ちゃんはこういうの苦手ですし、遺跡は地精の技術がメインですから難しいかと。歯がゆいですが、今は様子を見ながら探索を続けていくしかないと思います」

 

「そうか……まあ自由に立ち入り出来るようになったし、気長に行こう」

 

 リィンはポケットから旧校舎の鍵を取り出して見せる。引き続き旧校舎の調査を行うにあたって、学院長から渡されたものだ。今日一番の収穫だろう。

 

 空は濃い茜色に染まっていた。日中活気のあった校舎は、いつもより早い眠りに就こうとしている。

 

「そうだリィンさん。夕食の後で私の部屋に来てもらえますか?」

 

「構わないけど、どうして?」

 

「お祖母ちゃんからリィンさんの経過観察を頼まれてるんです。少し準備が必要なので、私の部屋でしか出来なくて」

 

「それって俺の…………?」

 

 言いかけたリィンの視線がエマから外れた。エマがそれを追うと、彼の瞳はグラウンドを横断する影を捉えている。見慣れた制服姿とは違う運動着を身に纏い、何らかの用具を重そうに抱えていた。いつも丁寧に手入れされているブロンドの髪が少し乱れている。

 

「アリサ……? ラクロス部の見学をしてたんじゃなかったか」

 

「お昼に見かけた時にはあの姿になっていましたから、入部を決めたのだと思います」

 

 部活動自体は終わって後片付けの最中なのだろう。この手の面倒事を下の者が担当するのはよくあることだ。押し付けられた側はたまったものではないが、そこから学べることも少なくない。エマも幼い頃は祖母と姉の手伝いをしていく中で魔女としての知識を深めていったのだから。エマの面倒見の良さはそこで鍛えられた結果である……逆に祖母の自堕落っぷりが悪化したのは頭の痛い話ではあるのだが。

 

 放っておく選択肢が2人の間にあるはずもなく、グラウンドに降りる。自分以外の砂を踏む音でアリサも気づいた。手伝いを渋るアリサだったが結局折れた。

 

「それにしても、いくら1年生だからって女子1人にこの量をやらせるのはどうなんだ?」

 

「入部した子もう1人いたの。2人なら何とかなるでしょって先輩たちから任されたんだけど……その子、Ⅰ組の貴族生徒で伯爵家の娘だったのよ。最初は手伝ってくれたんだけど、途中で根を上げちゃってね」

 

 伯爵家ともなれば、そういった雑事は使用人がやるのが普通だ。疲れるわ汚れるわで我慢ならなかったのだろう。理不尽に怒る風でもなく、アリサは仕方ないとでもいうような苦笑を浮かべている。似たような経験を何度もしているが故の諦め。

 

 平民ながら貴族を相手にする機会が多い環境と、洗練された立ち振る舞い。豊富な導力学の知識にRというファミリーネームの頭文字。1つの名前が思い浮かぶが、その疑問は胸の中に仕舞い込む。出自を秘密にしているのはどちらも同じなのだから。

 

 いつかアリサの口から話してくれる時を思いながら、背の高い影がグラウンドを何度も往復する。

 

 そうして残るは細かい片付けだけになったところで、唐突にエマが言った。

 

「すみません。文芸部の用事で書店に寄らなければならないので私はこれで。リィンさん、後はアリサさんと2人でお願いします」

 

「え」

 

「うぇあ!?」

 

 アリサが指示を出している間、意図的にリィンの名前を呼ばないようにしているのは分かっていた。その癖横顔をチラチラと盗み見ているのだから、見ているこっちが居たたまれない。これまではフォロー出来るように側でいたが、それはアリサにとって逃げ道でもあったことに気づいたのだ。

 

「(ちょ、エマ……!)」

 

「(頑張ってください。思いを伝えれば必ず分かってくれますから)」

 

 お互い悪感情を抱いていないのはエマでなくとも周知の事実なのだ。2人きりでも悪い結果にはならないはず。応援の言葉を残して、エマはその場を去る。階段を上がったところで振り返れば、困ったようなリィンと空の色に負けないくらい顔を真っ赤にしているアリサがいる。ぎこちない2人だが、きちんと手は動いていた。

 

「……エリゼちゃんには少し悪いかな?」

 

 微笑ましい光景に、自分にとっても妹のような少女の拗ねたような顔が思い浮かんだ。

 

 

「それでは仲直りは出来たんですね」

 

「ああ。片付けが終わった後でお礼にってことでキルシェで夕飯をご馳走になって、そこで謝られたよ」

 

「……良かった。思い付きでしたけど、上手くいって何よりです」

 

「ははは……」

 

 夜も更けてきた頃、リィンは言われた通りエマの部屋を訪ねていた。当然あの後のことも訊かれ、無事に終わったことを告げる。善き魔女の面目躍如だと、ここ2週間のお節介が良い結果に終わったことにエマは安心していた。

 

 なお、謝罪の後にエマとの関係――過去にあったらしい接触事故について追及され、むしろアリサからの好感度は下がった気がするのだが、そこについての報告は避けた。不発の地雷を埋めなおしてからあえて踏むような酔狂な趣味はない。

 

「それで今夜来てもらった理由なんですが……」

 

 コホン、と咳払いを挟み、エマの雰囲気が変わった。歴史の裏で帝国を支えてきた魔女としての貌。

 

「リィンさんの『鬼の力』……その封印術の具合を確認させてもらいます」

 

「……まあ、そうだろうな」

 

 心臓の位置を片手で抑えるリィンの表情は暗い。

 

 リィンの心臓に巣食う、今尚正体不明の異能の力。過去3度(・・)に渡って発現し、その度にリィンは理性を失い、ただ周囲を破壊する獣と化した。鬼の力という呼び名は、暴走の様子を観察したローゼリアが付けたものである。伝承に語られる吸血鬼のような、人のカタチをしていながら人を襲う怪異。忌々しいがその通りだとリィンも思う。

 

 とある条件と引き換えにリィンはローゼリアに鬼の力の封印もしくは除去してもらうことになったのだが、700年を生きる伝説の手腕を以てしても、今日までそれは叶っていない。

 

 今リィンに掛けられている封印は、ローゼリアが手ずから術式を組み上げた特別なものだ。先月相対した魔煌兵は愚か、幻獣すら半恒久的に眠らせることの出来てしまうほど。効果はあるが、それでも完全な封印とはいかず、里を訪れた際には必ずローゼリアが封印の具合を確認し綻びがあれば処置を施していた。持病の患者に定期健診をしているようなものだった。トールズに入学してからは以前のように里に行くことも難しくなるので、エマが担当するのは自然なのだが、

 

「ローゼリアさんは禁術クラスの大魔術って言ってたけど、エマも扱えるようになったのか?」

 

「流石にそこまでは。私が出来るのは封印の様子を見ることだけで、術への干渉は禁じられています。医療で言うなら治療ではなくあくまで診察だけです」

 

「了解。ならさっさと始めよう。あまり遅いと誤解を招きかねないし」

 

 エマを含む女子の部屋は3階であり、男子が理由なく足を運ぶのは些か躊躇われる場所でもある。姿を目撃されずともフィーとラウラは気配で感づかれかねないし、そうでなくても夜遅くに女子と2人きりなのが発覚すれば色々と不都合だ。

 

「この椅子に座ってください」

 

 エマは学習机の椅子を引っ張って部屋の中心に置いた。床には白墨で幾何学的な模様が描かれている。

 

 リィンも里で何度も見た、魔女が術を扱う際に描く陣。用途は様々だが、今回は最もポピュラーな使用法だろう。術者の魔力を特定の流れに沿わせ循環させることで、儀式に最適な質の魔力へと変化させる仕組み。戦術オーブメントに当てはめるなら、望む導力魔法を駆動させるために結晶回路にクオーツをセットする作業に近い。

 

 椅子は1つなので、エマは膝立ちになったままリィンと向かい合った。

 

「額を接触させる必要があるので屈んで下さい。そして私の目を見て」

 

 言われて頭を傾ければ、自然と顔を近づけることになる。エマの生温かい吐息が頬をくすぐり、リィンの心臓が跳ねた。

 

「――――Mare Spiritus (精神の海よ)

 

 

 呪文に合わせ青い瞳は金色に輝いて――――――

 

 

 

 

 

 ――――――――星空に向けて落ちていく。

 

 

 他者の精神への潜入を、エマはそう表現している。

 

 果ての見えない領域。その殆どを覆う暗闇。豆粒のように点在している光は弱く、道標にはならない。その中をひたすら下へ下へと沈んでいく。

 

 落下に対して人は恐怖を抱くもの。それを堪えることが出来るのは、安全に着地できる地面があるか、パラシュートやロープのような途中で落下を減速させる仕組みがあるからだ。

 

 だがこの落下にそれはない。その気になれば何処までも落ちてしまう果てのない責め苦。終わりのない恐怖は術者の精神を摩耗させ、相手の精神空間に送り込んだ自らの精神(アストラル)体を崩壊させる。ミイラ取りがミイラになる可能性が高いからこそ、精神干渉は禁術に指定されていた。

 

 

 最も、今回に限ってはそのリスクはないのだが。

 

 闇を進むエマの視界が傾く。進路が変わり、下から横へ。その後何度か折れ曲がりながら、ある1点を目指す。それはエマの意思ではなく、術式として設定された道筋を辿っているだけだ。

 

 イストミア異聞という名の魔導書に記された、術者の精神体を対象の精神に送り込み影響を与える禁術。その術式をローゼリアが造り替え、『視る』ことに特化させた術だった。元のそれとは違い潜入先の精神に干渉することはできないが、術者へのフィードバックは最小限に抑えられている。言わば精神空間用の内視鏡。おまけに視るべき患部へ自動で誘導してくれる過保護(すぐれ)っぷりだ。

 

 程なくして、ソレはエマの目の前に現れた。

 

 リィンの深層意識――――星々の消えた真っ暗な闇の中でなお異彩を放つ、禍々しい黒い焔の塊――鬼の力の源泉。それが幾多もの鎖で雁字搦めになるまで縛り付けられ、その周りを青白く輝く檻が囲っている。牢獄、或いは神殿か。漏れ出す黒い瘴気を堪えながら、エマは封印に近づく。

 

「(……やっぱり。この前よりも錆びが早い(・・・・・・・・・・・・・・)――!)」

 

 黒い焔に巻き付き、檻の外から遥か天上にまで伸びる幾筋もの銀色の鎖。それを赤黒い錆が侵食していた。

 

 この異常が発見されたのは、今から約2年前のことだ。リィンがエリンを訪れた折に封印術式の経過観察をしていたローゼリアは、そこで万全な筈の封印が弱まっていることに気づいた。「いずれ根本的な処置は必要じゃが、少なくとも今後暴走することはあるまいよ」とドヤ顔していた魔女の長のプライドは哀れ爆発四散。涙目になりながら原因を探ったが判明せず、弱まりが無視できなくなってきた段階で一度封印を掛け直している。

 

 鎖を蝕む赤黒い錆は、以前ローゼリアに付き添ってリィンの精神空間を覗いた時に見たものと同じものだった。

封印が弱まっている気配はなさそうだが、錆の広がる速度は前回の封印よりも早い。鬼の力を封印が抑えきれていないのか、鬼の力が封印に耐性を付け始めているのか。いずれにせよ無視できない兆候である。

 

 

 考えを巡らせるエマだったが、そこで背中に付いた糸に引っ張られるような感覚を覚える。精神潜入の制限時間が近い。

 

 (とにかくおばあちゃんにすぐ報告して、リィンさんについても今まで以上に気を配らないと)

 

 浮上しながら、エマは手早く方針をまとめた。場合によっては周囲に怪しまれるくらい露骨になってでも彼の側にいるべきだろう。魔女として導くべき起動者とは関係なく、エマ・ミルスティンにとってリィン・シュバルツァーは心許せる友人なのだから。

 

 

 そんなエマの考えは、3日後の実技テストで覆されることになった。


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