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校舎を出たエマは、その足で図書会館を訪れた。文芸部でドロテから言い渡された課題の為だ。
文芸部では年に何回か一年生が短編を書いてきて、二年生が講評を行うという割とえげつない慣習がある。目が肥えている二年生相手に文芸部とはいえ素人の書いた文章で満足させるのは相当難しいはずだが、だからこそ見たいのだと二年生達は言った。宮廷料理ばかりじゃなくてたまにはジャンクフードも食べたいよね、という心境らしい。第一回目は主席入学なら出来るだろ、という雑な理由でエマに白羽の矢が立った。
テーマは短編小説であれば自由なので、エマは帝国で最も有名な逸話の一つであるドライケルス大帝に纏わる話を選んだ。理由は世間と自分の認識の擦り合わせの為だ。
中興の祖として荒廃した帝国を立て直したドライケルスだが、そもそも彼は庶子の出だ。帝位を継ぐことなど期待されておらず、放浪してノルドで気ままに過ごしていた。内戦を知って旗揚げした時も、手勢は腹心たるロラン・ヴァンダールと十七名のノルドの勇士のみ。途中で≪槍の聖女≫ことリアンヌ・サンドロッドや第二皇子のルキウス帝の協力を得て戦力を拡大させたが、それでも決して大きな勢力ではなかった。そんな状況で如何にしてドライケルスは獅子戦役を勝ち抜き、獅子心皇帝と呼ばれるまでになったのか。今もなお明らかにされていない謎を解き明かさんと数多の歴史家が論文を発表し、英雄譚と呼ぶに相応しい彼らの活躍をモデルにした芸術作品は山のようにある。
この帝国最大の歴史的ロマンについて、魔女の眷属は真実を知っている。他ならぬ長が、ドライケルス帝の盟友としてあの内戦を戦い抜いたのだから。特にドライケルス帝本人についてはローゼリアの愚痴をよく聞いていたのもあって、語り継がれている完全無欠の英雄像とは印象がかけ離れている。≪表≫の一般常識は身に付けたつもりのエマだが、それはあくまで知識。世間が彼らに対し抱いているイメージについてまでは理解が及んでいない。その差異を見誤り、うっかり≪裏≫の真実を漏らしてしまうようなヘマを犯せば魔女失格だ。
本棚を一周し、獅子戦役をテーマにした歴史書や歴史小説を適当に幾つか取り出す。これらにざっと目を通して共通項を調べ、浮かび上がった世間の考察を基に短編を書く。出来上がればリィンとⅦ組の誰かに読んでもらい推敲すれば完成だ。小説というより論文を書いているような心地だが、これもまた世俗に溶け込む巡回魔女の修業の一環だとエマは気合を入れ直す。
(主要人物に触れると纏めきれなさそうですし、いっそ架空の人物を語り部にしましょうか……。短編ですから舞台は獅子戦役中の野営……いっそドライケルス大帝の即位後なんてどうだろう)
構想を練りながら本棚を眺めていると、ある一冊がエマの目に留まる。手に取ってあらすじを見てみると、どうやらヴァンダールの名も無き騎士と魔女の恋物語のようだ。
獅子戦役やドライケルスは魔女の逸話と結び付けられることも少なくない。超常的な力を持った魔女の存在は、歴史の空白を埋めるのに丁度良いのだろう。時に謎めいた老婆として、時に妖艶な美女として登場人物に助言を与え導くのが主な役割だ。怪しくも威厳に満ちた人物像は、モデルを知っていると微妙な心境になるが。
恋物語という単語からエマが頭に浮かべたのは、今はもういない両親のこと。外界の人間だった父について、エマが知っていることは少ない。物事ついた時には母のイソラしかおらず、幼い頃の自分は母が語った父のこともよく覚えていない。ただその口ぶりから、母が父を本当に愛していたのは分かっていた。魔女であることも正直に明かしていたらしい。
巡回魔女は外の人間の血を取り入れることも役目の一つである。今のところ祖母からそういった話はないが、いずれは相応しい相手を見つけて次代の魔女を産むのだろう、と他人事のように思っている。優先すべき問題が多すぎて、今の彼女に将来のことまで手を回す余裕はない。
その問題の1つが、今目の前を横切ったクラスメイトだったりする。
「マキアスさん?」
「っ……エマ君か」
本を抱えて席を探していると、偶然その横をマキアスが通りかかった。教科書を脇に抱えて歩く姿はどこか焦りが感じられる。
「今日の授業の復習ですか?」
「ああ、そうだが……君は違うのか?」
「文芸部の課題で資料が必要になりまして」
「そ、そうか」
眼鏡の奥で一瞬怯えた目をしたのを見逃さない。
特別実習の二日目に、エマがマキアスとユーシスに行った説教が理由だろう。期間中何度止めても懲りずに衝突を繰り返す二人に業を煮やしたエマは最後の実習課題の時に無理矢理主導権を握り、課題を成功に導いた。その甲斐あって先月の総合評価は辛うじて最低を免れている。
(あれ以来、お二人から少し避けられているんですよね……)
フィーとガイウスはむしろ良くやってくれたと言ってくれたのだが、やはり避けられるというのはそれなりに堪える。来月の実習でまた同じ班になる可能性を考えると、せめて普通に話せる程度には改善したい。
幸い、会話にはおあつらえ向きの要件がある。
「マキアスさん。サラ教官に渡す申請書の件、今から話し合えませんか?」
「あれの提出期限は来週末だったはずだが……いや、再提出を考えるとあまり余裕はないのか」
「お互いの要望を早めに共有するだけでも大分違うと思うんです。忙しければ夜でも構いませんが」
エマが言うと、少しの間俯いて悩むマキアス。険しい表情は何か葛藤しているように見える。
やがて小さく息を吐いて、彼は眼鏡のブリッジを押し上げた。
「…………分かった。今からやってしまおう」
*
Ⅶ組とサラの住む第三学生寮は結構広い。全員にそれぞれ個室が与えられる他、シャワールームやキッチン等の共有スペースは第一、第二学生寮の規模と遜色ない。立地も日用品を売っている店とトリスタ駅から近いため、他のクラスからはよく羨ましがられている。だが実際に生活を始めると、深刻な問題が彼らを悩ませることになった。
とにかく、物がないのだ。
各部屋に最低限の家具とライフラインは揃っていたが、寮の共有備品が徹底的に不足している。モップ一本もない掃除用具入れや調理器具のないキッチンに一体何の価値があるというのか。最初の休日はⅦ組総出で必需品の買い出しをする羽目になった。その時の支払いは私費で立替である。
『いやほら、オリエンテーション後に何人残るか分からなかったし、アンタ達身分がバラバラだから他の寮の設備や規則をそのまま適応するのも後で問題出るでしょ。生活の上で必要なものはアンタ達で話し合って揃えなさい。全うな理由なら学院から費用は出るわ』
麗しの教官殿の弁明はこうであった。一見もっともらしく聞こえるが、面倒な雑事を生徒に押し付けたとも言える。
そんな訳で寮生活にも慣れてきたこの時期に、委員長と副委員長でサラに提出する備品購入の申請書を作成することにした。事前にエマが女子に、マキアスが男子に聞いてきた要望を合わせ中身を絞る。隔意のあるユーシスとリィンにもちゃんとヒアリング出来ており、やはり根は真面目だ。
「情報誌のリクエストですか。帝国時報は分かるんですけど、他の新聞まで揃える必要はあるんですか?」
「当然だ。帝国時報が最大手でも、会社の方針があって人が書いている以上どうしても情報は歪曲される。同じ出来事の記事でも複数の
「流石に多すぎるかと。帝国時報と親革新派から一紙、親貴族派から一紙の三種類が限界でしょう」
「親貴族派だと? 貴族を持ち上げる事しか書いてない新聞に何の意味が───」
「十秒前にマキアスさんはなんと仰ってましたか?」
「ぐ……」
ある程度絞れば、今度はそれを申請書として形にする。ここはマキアスが上手く纏めてくれたおかげで、作業は半時間ほどで終了した。
「ありがとうございます。おかげで早く済みました」
「いいさ。こういった経験も将来の役に立つだろう」
「将来ですか……マキアスさんはお父様と同じように、政治家に?」
「父さんの跡を追うと決めている訳ではないが、何らかの形で助けになれたらと思っているよ。仕事場にずっと泊まり込みで、家にも滅多に帰れないくらい忙しいからな」
父を誇らしく語りながらも、どこか寂しそうに伏せられるマキアスの眼。しかしすぐに表情を戻して続けた。
「まあこの情勢下では仕方ないさ。父さんのいる帝都庁だって貴族の連中が残っているし、地方は未だ貴族派の天下だ。奴らを倒す為には、今は踏ん張りどころなんだろう」
「倒す……」
「……シュバルツァーと仲良くしてる君にとっては気に入らないか」
「……」
「敢えて深くは訊かないが、付き合うなら距離は置いておきたまえ。彼だって貴族なんだ。心の底では何を考えてるのやら」
マキアスにとっては忠告のつもりであろう一言は、リィンへの想いが打算ありきだと言われているようで。エマの心は僅かにささくれ立つ。
「私とリィンさんが友人であることに、彼の身分は関係ありません。マキアスさんにとって貴族は全員悪い人なんですか? 例えばラウラさんやハインリッヒ教官がそんな人に見えますか?」
ユーシスとの対立が目立つマキアスだが、それよりも貴族クラス全体を一括りにして敵視していることの方が問題だった。エスカレートしている言動はⅦ組を越えて他のクラスにも知れ渡り始めており、下手すれば学院全体で何らかの問題を引き起こしかねない。
一方でラウラやハインリッヒ教官のように、身分に関わらず相手を公平に扱う貴族にはマキアスも噛み付くようなことはしない。友好的とは言えないが、それでも最低限のやり取りは出来ている。つまり無意識下ではマキアスも分別が付けられているのだ。
「…………それは」
「ユーシスさんの態度にも問題がないとは言いませんよ。でも、マキアスさんだって視野が狭すぎます。……本当は分かってるんじゃないんですか?」
「いいや違う!!」
マキアスは叫んで立ち上がった。表情と声に明確な怒気が宿る。
「奴らはそういうものなんだ! 耳障りの良い台詞を吐いておきながら、僕ら平民のことなんていくらでも替えの効くものとしか思っちゃいない! 君だって姉さんみたいに……っ!!」
吐き出される言葉はエマに向けられておらず、自分に言い聞かせているようであった。途中で激情を抑え込んだマキアスは、机のペンと申請書を乱暴に鞄に押し込んで立ち上がった。
「失礼する」
「あ……」
一度立ち止まったマキアスは、背中をエマに向けたまま固い声を絞り出す。
「定期試験では負けるつもりはない。ユーシス・アルバレアにも、君にもだ」
赤い背中が走り去り、取り残されたエマには周囲の視線が集まる。耐えきれなくなったエマも逃げるように図書会館を出た。
「やっちゃった……」
茜色の空の下、深々とため息をつくエマ。
閉鎖されたコミュニティの中で育った彼女は日曜学校にも通えず、同年代との人付き合いの経験が極端に少ない。巡回魔女として世間に溶け込めるだけの知識や立ち回りは身に付けているつもりだったが、実際に人間関係の問題に直面すると経験不足を痛感してしまう。
「あれ? エマちゃん?」
悩みながら歩いていると、背後から幼さの残る声がした。振り返ると、生徒会長のトワが三人の男女を連れていた。内一人は先月の自由行動日に依頼をしてきたジョルジュでもう二人は学院内でも色々と有名なので顔と名前は知っていた。
「トワ会長に先輩方……技術棟にいたんですか?」
「『共同作品』の最終調整をしていてね。丁度ひと段落ついたから帰るところなんだよ」
ジョルジュが答えていると、黒いライダースーツの女性が歩み出る。
「君がエマ君だね。……ほう、これはまた逸材じゃないか。やはりⅦ組は素晴らしいな」
「……え、えっと」
「ああ済まない。美しい花を前にすると見入ってしまう性分でね。私はアンゼリカ・ログナーと言うんだ」
男でもそうは言えないような台詞がこれまた似合う麗人は、ユーシスと同じ四大名門ログナー家の一人娘。本来であればアストライア女学院に通うような令嬢の筈が、この士官学院で女生徒を口説きハーレムを築いているとか。
「こっちはクロウ。ギャンブル趣味のサボリ魔だ。健全な学院生活を送りたいなら相手にしないことを勧めるよ」
「悪意ある紹介してんじゃねえよ。自由人と言え自由人と。……ま、
噂通りのアンゼリカとクロウを含め、エマは改めて四人を見た。
大貴族の息女と、三人の平民の気の置けない関係。
何かヒントになるかもしれない。
「すみません先輩方、少しだけ時間を貰えませんか? 相談したいことがあるんです」
*
エマの申し出を快く受け入れた四人は、彼女を喫茶店≪キルシェ≫に連れてきた。
向けられる四つの視線に少し委縮しながらエマは話し始めた。マキアスとユーシスの確執と、それに伴うⅦ組全体の関係性。話し終えたエマは頭を下げる。
「そんな訳で、先輩方のお知恵を貸していただければと……」
「平民生徒と貴族生徒の衝突は毎年起こるんだけど、生活環境まで同じだと影響も大きいよね。上級生になったら不思議と落ち着くんだけど……」
「そういうことならそこの二人が適任じゃないかな」
ジョルジュが顔を向けたのは、クロウとアンゼリカの二人だった。
「おいジョルジュ。それはあん時のこと言ってんのかよ」
「懐かしいね。あれからもう一年か」
ばつが悪そうなクロウと、苦笑するアンゼリカ。聞けば丁度去年のこの時期に、クロウの態度が気に入らなかったアンゼリカとの間で派手な殴り合いをしたのだという。だがそれがきっかけで仲を深め、やがてはⅦ組の前身として帝国各地を回ってきたのだそうだ。
「……つまり、一度派手にぶつかり合わせろと」
「うーん、ちょっとリスクが高い気もするなあ。アンとクロウのように上手くいくとは限らないし、そういうのは外からコントロールするのも難しいから」
「無難だが、仲を深めたいなら相手に合わせていくのが王道だろう。彼らの趣味の話をするとかね」
「マキアス君は第二チェス部で、ユーシス君は乗馬部だったよね。確か本屋さんに入門書があった気がするけど……」
「そういやメガネ君のほうは
スラスラと案を出してくる先輩達。エマが驚いたのは、自分達後輩をよく見ていることだ。慌ててアドバイスをメモに取りながら、エマは彼らの認識を改めた。
「やはり一番の問題はマキアス君の貴族嫌いのようだね。ユーシス君だけではなく、他の貴族生徒や貴族と仲良くしている平民生徒にまで反抗的な態度を取っているという話も聞く。革新派重鎮の息子なら極端な思考に染まっている可能性もなくはないが」
「でも、お父さんのレーグニッツ知事閣下が貴族嫌いという話は聞いたことがないなあ」
「さっきマキアスさんと話したんですけど、彼も心のどこかで理解していると思うんです。ただ認めたくなさそうな感じでした」
「……なら貴族絡みで理不尽な目に遭ったんじゃねえか? それこそ自分か身内の人生狂わせられた、とか」
カップを傾けながらポツリと呟かれたクロウの予想が、不思議としっくりくる。エマには思い当たる節があった。
『君だって姉さんみたいに……っ!!』
あの時言いかけて飲み込んだ一言が、マキアスにとっての根っこなのではないだろうか。予想が当たっていたとしても、今のエマに解決策は思い浮かばない。リィンに相談するにしても伝え方に気を配る必要がありそうだ。
「しっかし意外だな」
「え?」
「リィンならともかく、お前さんあんまりこういうのに首突っ込むタイプに思えなかったからよ」
クロウの発言はエマを心底から驚かせた。軽薄なようでいて、実は四人の中で一番鋭いのかもしれない。
エマはティーカップに目線を落とし、紅茶に映った自身を見ながら口を開く。
「……そうですね。正直、あまり得意じゃないですよ。人に意見するのもちょっと怖いです」
リィンと出会うことなくトールズに入学したなら、導き手の使命を果たすことを最優先して違う接し方をしていただろう。事を荒立てないように周囲の関係を保ちながら、一歩外れた位置で静観しようとしていたに違いない。
「年の近い人たちと寮生活なんて新鮮で、少しはしゃいでるんだと思います。だから皆さんの為にも慣れないことも頑張ってみようかと」
エマ・ミルスティンは、今の生活を楽しんでいる。外の世界に溢れる未知に期待している。そう思うようになったのも、きっとリィンのお陰だ。
『だったら、ここで約束をしよう。起動者候補と魔女としてじゃなく、
目蓋を閉じれば鮮明に蘇る思い出。それはどんな魔術にも負けない、明け色の魔法。
「へえ。本当に聞いてた話と違うんだな」
「聞いてた、ですか?」
「…………あー、リィンのヤツからちらっとな」
クロウは腕時計に目を落とすと、伝票を持って立ち上がる。
「ほれ、そろそろ帰れ。そっちは確かメシの準備があるんだろ」
「あ、あの私のお願いで来ていただいたんですから、ここは私が」
「女子の後輩にお代持たせるほど恥知らずじゃねーよ」
「ええええ!! クロウ君が奢るのかい!?」
「馬鹿な、明日は迫撃砲が降るぞ……!? ジョルジュ、急いで何か対策を考えるんだ!!」
「誰がオメ―らの分まで出すっつった!」
「……そう言えばリィンさんからお金借りたままだそうですけど、早く返してあげてくださいね」
「うげっ」
「クロウくーん?」
「まさか後輩に借金するまで落ちぶれていたとはね。流石に見損なったよ」
「ちげーよ! ちょいと手品の道具用に五十ミラ硬貨借りただけだっての! お、丁度良いし委員長ちゃんからあいつに返しといてくれねえか?」
「ダメです。お金の貸し借りは本人の間で解決してください」
ぴしゃりと言い放つ。リィンの性格上五十ミラ程度なら気にしないだろうが、お金の問題はどこに飛び火するか分からない。
キルシェを出ると、空はもう濃紺色。エマは改めて頭を下げる。
「今日は本当にありがとうございました。また相談に乗ってもらっても構いませんか?」
「勿論大歓迎さ。困ったことが合ったらすぐに第一寮を訪ねてくれたまえ。私の部屋で個人授業といこうじゃないかぐへへ……」
「アンちゃん……」
「ほんっとブレねえなこいつ」
「今更やめろとは言わないけど、一年生は慣れてないんだから気を付けなよ」
邪なオーラを垂れ流すライダースーツの麗人に呆れる三人。エマも苦笑いするしかない。
(ドロテ部長もだけど、先輩方って濃いなあ……)
*
夕食も済ませ夜も更けてきた頃合いに、エマは寮を出た。日課となっている夜の散歩──を建前とした、魔術の修業の時間だ。
トリスタを出て少し歩いたところで、エマは街道を逸れて林に入る。使い魔にして魔術の師の一人でもあるセリーヌが、木の上からエマを見下ろしていた。
「始めるわよ」
「ええ。お願い」
セリーヌが結界を張り、その中でエマが魔術を行使する。ここは旧校舎に直接繋がる霊脈の真上。今回はこの霊脈を通じて魔術を行使するのが目標だ。
霊脈────ゼムリア大陸中に張り巡らされているネットワークが内蔵する霊力は、一個人のそれとは比べ物にならない。己の力量を超えた御業を求め、古代ゼムリア文明以前より人は霊脈を利用する術を模索してきた。魔女にとっても基本と言える技術であり、同時に習熟するのが困難な技術でもある。
瞳を閉じたエマの足元から光が生まれ、波紋が広がる。目に見えない霊脈を捉え、そこに魔力を流して自身と接続する。
魔力を通じて霊脈に干渉する際のイメージは人によって様々だが、エマは思い浮かべるイメージは釣りだ。ユミルでリィンの川釣りに付き合っているうちに、自然とそんな感じになった。莫大な霊力の奔流に流されることなく自分を保ち、波長を合わせる。激流の中に釣り糸を垂らして、浮きを安定させるように。
「魔力の制御に気を取られ過ぎてるわ。もっと霊力を汲み上げないと術が発動できないわよ」
「……分かってる」
セリーヌの助言に従い、魚のかかった釣り竿を引くイメージで霊脈から霊力を引き上げ、魔力に変換。魔力を注ぎ込んだ左目が白熱する。
「
呪文を唱え目を開くと、エマの左目に映っていたのは空から俯瞰したトリスタの町だった。俗に鷹の目と言われる遠見の魔術の一種である。
「成功したみたいね。それじゃあ次は右目、その次は指先、つま先、毛先の四か所に順番に魔力を集中させなさい。当然魔力は霊脈からよ」
「よ、四セット……」
霊脈を利用した魔術は、制御が甘いと代償は痛みとして術者にフィードックされる。この黒猫、魔術に関しては結構なスパルタだ。
その後何とか言われた内容をこなしたエマは膝を折って座っていた。額には汗が浮かび、息は少し乱れている。
────左の頬に、ひんやりとした感触。
「ひゃわっ……!!?」
甲高い声を出して飛び上がる。背後を振り返れば、笑いをこらえきれていないパートナーの姿が。
「リ、リィンさん!! 脅かさないでください!」
「はは、すまない。遅いから様子を見に来たんだけど、呼んでも全然反応しなかったからさ」
月を背に笑うリィンは二本持った水滴の付いた飲料缶を差し出す。ミルクティーとストレートティーだ。
「どっちにする?」
「……ストレートの方で」
「どうぞ」
缶を受け取ってプルタブを開け、少しだけ口に含む。熱を持った身体に冷えた紅茶が染み渡り、痛みも和らいでいくようだ。
「セリーヌもお疲れ様。いつもエマの修業を見てくれてありがとうな」
「魔女の日課なんだからアンタに感謝されることじゃないけど……ま、礼だけは受け取るわ」
「それは残念。折角セリーヌの分もミルクを用意したんだけど、礼しか受け取ってくれないのかあ」
「持ってるなら先に言いなさいよ! 貰うわよ!」
用意した小皿にミルクを注ぐと、リィンはエマの隣に腰を下ろしてミルクティーの蓋を開けた。
ざあ、と草木が色めき立つ。夜風を浴びながら、三人は少しの間他愛ない話に興じた。巡回魔女の修業中にはよくあった光景。今ここにはないが、寝る前に焚火を囲んで穏やかに語らう夜がエマは好きだった。
「……マキアスとそんなことがあったのか。確かに最近は表情に余裕がない気がするな」
「はい。これ以上対立が深まるとマキアスさんが本格的に孤立してしまうんじゃないかと思うんです」
「ユーシスの方は、マキアス以外との関係は悪くないからな……どうしたものか」
「今更だけどアンタたち大概お節介焼きよねえ。そいつの自業自得でしょうに」
思案するリィンとエマにセリーヌは呆れている。意思疎通はできても、彼女の感性は人間よりも動物に近い。群れに馴染めない個体は排斥されて野垂れ死にするのが世の摂理であり、それは馴染めなかった側に否があるものとされるからだ。
「相変わらずそういうこと言って……」
「まあ難しい問題だし、魔女の使命に関係はないからな。でもやるだけはやってみたいんだ」
「……そ。ま、好きにしたら? これまでだってそうしてきたんだし」
オリエンテーションの最後に発動した、全員での戦術リンク。危機的状況下の出来事であっても、あの時は九人の心が一つになっていた。当然そこにはマキアスも入っている。全部は無理でも、どこか重なる部分はあるだろう。
根拠のない、だけど何となく信じられる、あやふやな確信。分厚い雲の向こうにだって、星は輝いている。
*
同時刻、自室に戻っていたマキアスは机で参考書と向き合っていた。本来であれば図書会館で自習していたはずの時間を取り戻すように熱心にペンを走らせているが、効果は芳しくない。頭に入れた知識が別の穴から抜け落ちていく気がする。
「……駄目だな」
今のまま続けても効率が悪いと判断したマキアスは、机から離れベッドに倒れ込んだ。仰向けで深呼吸しても気分は楽にならない。肺の半分に石を詰めているようだった。
顔を横に向ければ、タンスの上に置かれた紙袋が目に留まる。帰ってきたときにはドアノブに引っ掛けられていた。袋には一枚のメモ用紙が貼り付けてあり、読みやすい字でこう書かれている。
『さっきは無神経な事を言ってしまってすみませんでした。お詫びの品という訳ではありませんが、気分が落ち着くハーブティーを入れてあります。気が向いたら試してみてください エマ・ミルスティン』
自己嫌悪がマキアスの心を炙る。冷静に考えれば、あの時どちらに否があったかは明白で。それでもエマは自分が悪いと言うのだろう。
リィンとラウラは距離を置いてくれている。ユーシスは……業腹だが、尊大なだけで自身の家名をひけらかすような真似はしていない。エリオットとガイウスは良く話しかけてくれる。他の皆も、目に見えない部分で気を使っているのかもしれない。
いっそ嫌ってくれれば楽なのに。彼らの優しさが、今はただ苦しい。
「……僕だって分かってるさ。でも、だったら何で姉さんは……」
呟きは虚空に溶けて消える。
ここ最近寝る時間を切り詰めてまで勉強に励んでいたマキアスは、溺れる様に眠りに落ちた。
*
久しぶりに──トールズの入学式前、彼と最後に別れた日以来にその夢を見た。
まだ日の登らない早朝、二人で雪の残る山道を登っていく。十三、四歳の黒い髪の少年が歩いている。大人でもそれなりに苦労しそうな険しい山を、彼は慣れたように歩く。その背中を必死になって追う。周囲の墨で塗りつぶしたような黒は暗闇ではなく、虚無の色。この夢の中では、白い山道だけが世界から切り離されてる。
どれほど歩いたのか、やがて山頂に辿り着く。やっと着いたと彼が弾んだ声で言う。景色は相変わらず黒一色にしか見えない。
不意に、右手が重くなった。視線を落とすと、その手にはいつ間にか彼の太刀が握られていた。鞘は無く、抜き身の刀身は不自然なほどぎらついていて、見る者の心をざわつかせる。
見えない糸で引かれるように、腕を胸の高さまで掲げる。切っ先が彼の背中を捉える。雪を踏み、彼へ近づく。
彼がこちらを振り返ろうとする、その前に。
自分の顔を見られないように、それより早く手に力を込めて。
そうして今日も────エマ・ミルスティンは、その手でリィン・シュバルツァーを殺す夢を見る。
魔術のオリジナル詠唱文は基本的にラテン語にするつもりですが、作者にラテン語の知識は殆どありませんのでグーグル翻訳をほぼそのまま移したガバガバ構文になるかと思います。従ってラテン語に精通されている読者の方はイライラするかもしれませんがご了承ください。