Fate/Start Over 星譚運命再度カルデアス 作:ていえむ
丁度、オルガマリーとマシュがエリザベートの手に落ちた頃、ゲオルギウスもまた自らの目的の為に動いていた。
彼の目指すところは単純だ。この特異点を速やかに収拾するための戦力を手に入れる。その為にカルデアと協力し、彼らを
街の全ての戦力が彼らに集中している隙に、人知れず領主の館へと潜入して囚われているランスロットを救出しようというのだ。
サーヴァントである彼が捕まっている牢は特別製で、元からあったものでなく後からわざわざ作らせたものである。
館の奥底、最も深い地下に設えられた石棺の如き牢獄。魔術的な細工すら施されたそれはランスロットの力を奪い、一介の無力な騎士となった狂戦士は連日のように気紛れな領主の拷問を受けている。
エリザベートの機嫌が悪い時などは悲惨であった。彼女の気が済むまで槍で腹を貫かれ、痛々しい声を上げさせられる。
いっそ、一思いに殺してくれた方がランスロットにとっても救いであったであろう。
何故、そこまでしてランスロットを生かしているのかは与り知らぬことであった。
敵対していたとはいえ、拷問の為だけに生かしておくのあまりにも非効率的だ。さっさと殺すなり洗脳して配下に加えた方がよっぽど有意義である。
それをしないのは、果たして何か考えがあるのか、それとも単なる領主の気まぐれか。
いずれにしてもゲオルギウスは、今がチャンスであると睨んでこの作戦に踏み切った。
マリー・アントワネットの目が
だが、その目論見は浅かったと言える。
叛意すら見せず、ここまで事を運んできたつもりだったが、ある者には全てを見抜かれていたのだ。
「そこまでだ、聖ゲオルギウス。あなたはよく戦った」
傷つき、地に膝をついたゲオルギウスを見下ろしているのは、華麗な衣装に身を包んだサーベル使い。
竜騎兵としてその名を馳せ、此度の召喚ではマリー・アントワネットの忠実な片腕として人理焼却に加担するシュヴァリエ・デオンであった。
兵が出払っている隙に館へと忍び込んだゲオルギウスではあったが、デオンは最初からそれを見抜いていたのかランスロットが囚われている牢の前で彼を待ち構えていたのだ。
「そもあなたはそういう役回りには向いていない。そうはならないと、生前の行いが全てを語っている」
「信仰を貫いた生前に後悔はありませんが……」
だからこそ、叛意を見抜かれてしまったのだとデオンは語った。
幾たびの拷問を受けようとも改宗に合意せず、自らが信じる神の教えを貫いた高潔な聖人。
それ故に聖ゲオルギウスが悪事になど加担するはずがない。ましてや人理焼却など以ての外である。
気づかれていたのだというのなら、最初にマリー・アントワネットに忠誠を誓ったその時から謀反を疑われていたのだ。
「もっとも、王妃はそこまで考えが及んではいないでしょうが」
「ジークフリートは動きませんね。彼は此度の召喚、願望器であることを己に強いている」
平素ならいざ知らず、今のマリー・アントワネットは使命感にも似た憎悪に駆り立てられていて、人の心の機微を察することができない。そこまでの余裕がない。
狂化を施して配下としたサーヴァント達に自由を許しているのがその証左だ。今の彼女は自分だけのことで手一杯なのである。
そして、ジークフリートは悪事を為すにあたって自らの願いを封じ、願望器として振る舞うことを選択した。なので、例えゲオルギウスの本意に気づいていても口を出すことはない。
「だからこそ、私が動かざるをえなかった。いや、来て正解だった。その体で御身はよく戦った」
驚嘆の入り混じった声音でデオンは称賛する。
ゲオルギウスがデオンと切り合うことができたのは僅かに数合。そこから先はデオンの一方的な蹂躙であり、五体に刃を隈なく刻み込まれた後、右手を切り落とされて地に伏してしまったのだ。
技量の差というものもあるが、それ以上にゲオルギウスの消耗は激しく、とてもではないがサーヴァント戦など行える状態ではなかったのだ。
「心臓を失っていて、なおも動くか」
あの時、オルガマリーと初めて対峙した際、ゲオルギウスの『
だが、その上であの
これは召喚したオルガマリーですら気が付かぬ内に為された所業であった。
「為すべきことがあるのなら、私は何度でも立ち上がります」
「人類最後の希望を囮にしておいて、よく言えたものだ」
ゲオルギウスの計略は決して褒められたものではない。
確かにランスロットは強力な英霊なのかもしれないが、唯の一人ではマリー・アントワネットには敵わないからこそここに捕らえられていたのだ。
弱かろうとカルデアという組織の戦力、未来の技術はマリー達と戦うためには必要な力だ。それをわざわざ危険に晒してまで、ランスロットを助け出すなど道理ではない。
ジークフリートに敵わないのなら、戦わずともよい策を企てる。それが戦というものだ。
だというのに、ゲオルギウスはランスロットを救い出すことを選択し、その為にカルデアを危険に晒している。
こうしている間にも、彼らはエリザベートや清姫によって窮地に陥っているのだ。
だが、デオンの糾弾に対して、ゲオルギウスは不敵な笑みを崩さなかった。
「人類最後の希望。ええ、確かにその通りです…………必ずや世界は救われるでしょう。ですが、旅路には常に試練が課せられるもの。彼女のために残すべきものを、私は解放するのです」
「何が言いたい、聖ゲオルギウス?」
「人には持って生まれた役割と、為すべき使命があります。恐らくは
残っている左手で剣を拾い、ゲオルギウスは何とか立ち上がったが、それだけで途轍もない体力の浪費を強いられてしまった。
手首から流れ出た血が足下の床を汚し、苦痛で顔が歪む。
既に剣を握る事も覚束ない。振れたとしても一度が限界であろう。
「もういい、もう語る必要はない。その一振りで、せめて気高く消えていくがいい」
剣を構えたデオンが一直線にゲオルギウスへと向かう。
神速の踏み込みから繰り出される刺突は、固い岩盤ですら突き崩すであろう。傷つき疲弊した今のゲオルギウスでは、それを捌き切る余力はない。
最後の一手に全精力を集中し、相打ちに持ち込む。それが彼に残された唯一の勝機であった。
(果たして、そうでしょうか?)
百合の花が開花する。
洗練されたデオンの剣は人殺しの技と呼ぶにはあまりにも美しく、まるで芸術のようだ。
その一撃は違わず聖人の首をはねるであろう。
考えている余裕はなかったが、心に迷いはなかった。
そう運命づけられているのなら、自分は潔く、迷いなくそれを受け入れよう。
必要なのは聖人ではなく狂人。
ならば、答えは一つである。
ゲオルギウスは視線を落とし、繰り出された一突きを父祖の抱擁のように受け入れる。
鋭利な刃が、騙し騙し動かしていた心臓の音を今度こそ黙らせ、冷たい死の誘いが血流と共に全身を駆け巡った。
直後、獣の咆哮が天井を震わせた。
□
その頃、市街地では巨大な炎の龍が群がる幾匹もの海魔の群れを相手に立ち回りを演じていた。
無論、龍の正体はこの街を支配するサーヴァント、清姫だ。彼女が転身した龍は幻想種としては下位の部類ではあるが、それでも強力な魔力と生命力を持つ竜種であることに変わりはない。
巨体が動けばそれだけで地面が揺れ、踏みつけられた家屋が無残にも崩れて瓦礫と化し、吐き出す炎は敵も味方もお構いなしに焼き払っていく。
街を守るべく現れた無数の騎士達ではあったが、その大多数は縦横無尽に暴れ回る清姫の攻撃に巻き込まれる形で消し炭と化していた。
一方、相対したジル・ド・レェも宝具で次々と海魔の群れを召喚するのだが、竜種と化した清姫にはまるで敵わず、悪戯に腐臭を放つ肉塊を増やしていくばかりであった。
「ぬう、これほどとは……サンソン殿、藤丸殿を後ろに!」
「ああ、こっちは気にしないでくれ! だが、これは……」
清姫の力は、ここに集ったサーヴァント達を遥かに凌駕していた。
ジル・ド・レェの海魔もファントムの音の宝具も通用せず、一介の処刑人でしかないサンソンでは戦場に立つことすらできない。
夥しい数のヒトデや蛸のような異形が成す術もなく肉片となり、本来であれば活気で賑わっていたであろう街並みは見る影もなく更地と化している。
加えて吐き散らかされた炎が辺りに燃え移り、こちらの逃げ場を囲うように火の手が上がっていた。
燃えているのはジル・ド・レェによって呼び出された異界の海魔達。水分を含む肉体すらも紙のように容易く燃え上がらせる清姫の炎は、周囲から急速に酸素を奪い去る代わりに濃密な魔力を吐き散らしていく。
結果、魔術的な耐性を持たない立香は急速に濃度を増した魔力にあてられ、開けた屋外にいるにも関わらず、呼吸困難に似た症状を訴えていたのだ。
今はサンソンが応急処置を行っているが、このまま戦いが長引けば彼の命にも危険が迫るかもしれない。彼のためにも一刻も早く清姫を倒さなければならないが、仮にマシュ達がこの場にいたとしても、清姫を倒すことは難しいかもしれない。幻想種――とりわけ竜種というものはそれだけ強大な相手なのだ。
「燃えて燃えて燃えて燃えて! 何もかも燃やしてしまえば、もうそこには嘘も何もない! あなた達も焼かれて消えなさい、偽りと共に!」
「そうはさせませぬ! 例えこの身を焼き尽くされようとも、この地を貴様達の好きにはさせるものか! 蹂躙されるのは貴様達の方だ、魔女め!」
ジル・ド・レェは宝具の力を解放し、いっそう巨大な海魔を顕現させる。それは彼が制御下におけるギリギリの大きさと力を秘めた奥の手であったが、それすらも清姫の吐く炎を僅かに押し留めることしかできなかった。
寧ろ、ここに来て清姫は更に炎の勢いを強め、癇癪を起したかのように身を捩って巨大な地響きを呼び起こす。
そして、天をも衝くほどの雄叫びを上げたかと思うと、無軌道に炎を吐くだけであった今までと一転して、明確な殺意を持ってジル・ド・レェへと攻撃の矛先を向けたのだ。
群がる海魔も、人類最後の希望である立香も眼中になく、逃げ回る大柄な魔術師を執拗に追いかけ、炎を吐き出し、巨体で押し潰さんとする。
双眸に宿る光は今まで以上に狂気を帯び、激しく血走っていた。
「嘘め! 嘘つきめ! 偽りしかないその言葉、その唇、その舌は焼かずにはいられません! どの口がそれを言いますか! 最初にこのフランスを焦土にせんとした、復讐鬼が何を言いますか!」
激昂し、あらん限りの憤怒を持って清姫はジル・ド・レェを罵倒する。
それは彼の生前の行いや人となりを知っているからではない。もっと具体的な、彼自身がひた隠しにしてきた真実を知っているからこその言葉であった。
「真実を言いなさい! 嘘を捨てなさい! しないというのなら、私がその虚飾を焼き払う! あなたがやろうとしたこと、あなたが
「聖杯? 彼女は何のことを言っているんだ!?」
清姫の言葉に困惑を隠せず、立香はサンソンに抱えられたまま苦し気にジルへと詰め寄る。だが、彼の言葉にジル・ド・レェは答えない。視線を合わせず、無言で炎を吐き散らす清姫を凝視している。
「ジル……いったい、何が……何とか言ってくれ、ジル・ド・レェ!」
怒りの炎は既にすぐそこまで迫っている。後、少しでも前に踏み出せば人間なぞ忽ちの内に焼き尽くされてしまうだろう。
それでも立香はジル・ド・レェを問い詰めねばならなかった。
疑っているからではない。信じたいからこそ、身の危険を承知で彼のもとへ近づいた。
彼には動機がある。
このフランスを焼き尽くしても足りない憎しみが常に渦巻いており、手段が目の前にあるのならば迷うことなく手を伸ばすであろう。
彼は英霊ではあるが、だからこそ人間だ。生前の功績を以て英霊と呼ばれる身になったからといって、決して遺恨を捨てるような男ではない。
聖杯。それがどれほどの力を秘めているのかを自分はまだよく知らないが、それで復讐が成せるのならジル・ド・レェは必ずやそれを願うはずだ。
それでも、彼が口にした、フランスを守るというその言葉に偽りはないはずだ。
手を伸ばせば指先が背中に届く距離。
自分よりも遥かに大きな筈の魔術師の体は、まるで老人のように小さく見えた。
肩が震えているのが分かる。
唇をきつく噛み締めているのが分かる。
彼は迷っていた。誰の目から見ても迷っていた。
ふと視界の端で鈍い光が反射する。サンソンが己の得物に手をかけたのだ。
ジル・ド・レェの返答によってはこの場で斬ることも辞さない。自分達の身の安全のために自ら汚れ役を買って出るつもりのようだ。
その手を立香はそっと制する。
驚くサンソンと視線が合うが、立香は黙って首を振った。
直後、ジル・ド・レェは視線をこちらに合わせぬまま、場違いなまでに静かに口を開いた。
「藤丸殿……私はフランスが憎い」
「……うん。だから、信じるよ」
憎いからこそ、自らの手で貶めなければ気が済まない。例え神であろうと悪魔であろうと、それだけは決して譲れない。
だからこそ、信じられる。
唯の一点、そこだけは絶対に信頼できる。彼の苛烈なまでの報復の意思だけは確かであると信じられる。
例え今、嘘で塗り固めた鎧を纏っていようと、それこそが剥き出しの彼の本心であることに変わりはないのだから。
清姫は嘘に縛られ真実を視えていない。
偽りを否と思うあまり、彼がどのような思いで自らの心に折り合いをつけているのかを知ろうともしていない。
そんな潔癖が行きつく果てがこの街の惨状だ。本音を飾ることすらできず、偽りは無残にも焼かれていき、やがては嘘と共に人がいなくなってしまうだろう。
バーサーカーである彼女は、嘘を憎むあまりに本音で生きることに執着してしまっている。全ての虚飾が悪であると断じている。
なら、自分達は示さねばならない。
例え本心を偽っていても、隠し事をしていたとしても、人は繋がれるということを。
「キャスター!」
ジル・ド・レェに向けて、真名ではなくクラス名で呼びかける。
藤丸立香個人としてではない、カルデアのマスターとしての言葉。
不信を呼び起こしてしまった彼に対して、自分が示せる精一杯の誠意と信頼。
それを今から、清姫に見せつけてやろう。
「告げる! 汝の身は我の下に、我が命運は汝の剣に! 聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら――――」
令呪の宿った右手をかざす。
まるで紡いだ糸を伝って水滴が流れるように、ジル・ド・レェが抱く鬱屈した感情が伝わってくる。
聖女と共に戦場を駆け抜け、束の間の栄光の後に彼女は魔女と断じられた。
伸ばした手は届かず、守る事も救う事もできず、彼は神がこの世にいないのだと理不尽を突き付けられた。
憎いはずだ。
許せないはずだ。
そして、何よりも許せないのは何もできなかった自分自身だ。
なら、今度こそ成し遂げよう。
一緒に世界を救い、自分達が理不尽を突き付けてやるのだ。お前達が後ろ指をさした男が、この国を救ったんだぞと。
そのために力がいるのなら、
「我に従え! ならばこの命運、汝が忠に預けよう……!」
「キャスターの名に懸け誓いを受けましょう……貴方を我が主として……藤丸立香!」
血管を無理やり押し広げるかのように、熱い奔流が全身を迸る。
同時に激しい虚脱感に襲われ、立香は眩暈にも似た感覚を覚えた。
今、ジル・ド・レェと魔力のパスが繋がった。
それは彼の嘘に対して自分が示せる最大限の信頼。
何があろうとも、自分達の関係は揺るがないという証。
その繋がりが、狂える魔術師に更なる力を呼び起こす。
「フフフハハハハハ!! アーハハハハハハハハハハ!! 素晴らしい、これこそ! これこそが……さあ、神をも嘲る喜劇の幕開けです!」
カルデアからの潤沢な魔力を受け取ったからなのか、ジル・ド・レェは今までにないくらい精神を高揚させ、手にした宝具に力を込める。
すると、妖しく輝き出した『
いったい、何をしようというのだろうか。そう思う間もなく変化は訪れる。瘴気を帯びた肉片達が、次々と寄り集まって重なり合い、巨大な肉塊へと変わり始めたのだ。
未だ燃え盛る炎は肉塊の肌を見る見るうちに消し炭へと変えていくが、それよりも早い速度で内側からどんどんと膨れ上がっていった肉塊は、いつしか元の肉片の総量よりも明らかに大きな体積となって龍と化した清姫を圧倒する。
それは全身を炎で焼かれた巨大な蛸の如き異界の生命体。今までに召喚した海魔よりも一回り以上も大きく、発せられる圧力も比ではない。
炎によって生じた陽炎で全貌は定かではないが、無数の触手と空が隠れるほどの巨体を有し、腕や足と思われる節々には幾つもの血走った眼が瞼を開いていた。
口腔から零れ落ちた粘液は瞬く間に全身の炎で乾いていくが、蒸発を免れたほんの一滴が地面に触れただけで煙を上げて土や石を溶かしている。
その異様にあてられた立香はその場を動く事ができず、サンソンが抱えて後ろに下がってくれなければそのまま泡を吹いて倒れていたかもしれない。
それほどまでにこの海魔は冒涜的で狂気の産物であった。
だが、強さは確かなものだ。
ここまで苦戦していた清姫と真っ向からぶつかりあい、炎も尻尾による強打も持ち前の再生力で耐え切っている。
「何故……何故、信じられるのですか! このお方は嘘をついているというのに!」
狂乱しながら清姫は更なら炎を吐かんと喉に力を込めた。対するジル・ド・レェも後方の主を護らんと宝具を握り締め、迎え撃つべき敵をまっすぐに見据える。
ここまで強大な生物となれば、半端な魔術師であるジル・ド・レェでは制御は困難である。全身全霊をもって制御してもほんの数分しか保てないであろう。
一方、清姫の体も少しずつ透け始めており、龍への転身が解けかけているようであった。
お互いに全力を尽くせる時間は残り僅かであり、勝負はこの一瞬で決着がつく。
当人達ですらそう信じていた。
獣の咆哮が天を衝くまでは。
「Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa――――!!」
それは今までに聞いたことがない金切り音にも似た叫びであった。
明らかに人ではないなにかの声でありながら、確かに人の喉から発せられた音であった。
戦いの喧騒など関係ないとばかりに町全体を震わせたその慟哭に、誰もが一瞬、意識を奪われる。
とりわけ、清姫の驚愕は酷かった。
先ほどまで猛り狂っていたのが嘘のように青ざめ、転身を解いてその場から一目散に離脱を始めたのだ。
「まさか伏兵!? いけない、エリザベート!?」
去り際に聞こえた僅かな呟きと、青白い横顔から何か彼女達にとってよくないことが起きているのだと察することができる。
だが、すぐに追いかけようにもこちらの消耗は激しい。ジル・ド・レェは限界を超えて海魔を制御したことで精神力をかなり消耗しており、ファントムやサンソンの傷も浅くはない。これ以上の戦いは非常に危険であった。
それでも立香達は無言で立ち上がると、重い足を引きずって清姫が逃げた方角――領主の屋敷を目指す。
その背後では、通信機の向こうからロマニが悲痛な声で彼女の危機を訴えていたからだ。
『みんな、マシュがエリザベート・バートリーと一人で戦っている。清姫も向こうに向かっているんだ! 急いでくれ!』
□
ほんの少しだけ時は遡る。
薄暗い地下牢。湿った空気と喉に詰まる砂埃。外の喧騒から切り離された暗黒の空間で、一人の少女に向けて赤く揺れる松明の炎が今にも押し付けられようとしていた。
松明を持つエリザベートは、少女――オルガマリーの反応を楽しむように松明を揺らし、虚空に炎で文字を描く。
その度にオルガマリーは張り裂けんばかりの悲鳴を上げ、駄々を捏ねる子どものように足を揺らして炎の熱から逃れようとした。
だが、いくら藻掻いたところで手枷はビクともせず、逆に擦れた手首からは赤い雫が零れるばかりであった。
そして、手枷の鎖は振り子のように揺れるばかりで炎から逃れることができず、逆に手元が狂った松明の火の粉が何度も飛んで肌に小さな火傷をできていた。
痛みはなかった。痛覚はきちんと機能していたが、それよりも恐怖が勝っていた。
赤い炎がカルデアスを連想させ、自らの死を強く意識してしまうからだ。
「お願い、もう止めて! いや、いやああぁぁっ!!」
首を振って懇願するも聞き入れられず、無慈悲にも松明の炎で焙られる。
半狂乱に乱れる様をエリザベートは愉快そうに見上げていた。オルガマリーにとっては正気の限界だというのに、彼女はそれを出来の悪い喜劇か何かのように滑稽に嘲笑っている。
曰く、慢性的な頭痛を抱えていたエリザベート・バートリーは、少女の悲鳴を聞いている時だけその痛みを忘れることができたらしい。
彼女にとって苦痛に喘ぐ少女の悲鳴は最高の音楽なのだ。故にエリザベートは躊躇わず、より甚振るために辣腕を振るう。本来であれば花や宝石を愛でるはずの細い指先は、巧みに拷問器具を操って痛みと血の海を作り出す。
破綻した彼女の精神は、その全てを楽しいと感じ、世界中の少女を消費物として扱うことを是としていた。
「さあ、そろそろ飽きてもきたし、軽く焼いちゃいましょうか? 目が良いかしら? それともこっちにしようかしら?」
可愛らしく顎に指を当てながら、エリザベートは思案する。
時々、わざとらしく視線を向けるのはオルガマリーの不安を煽り、彼女が助けを求めて懇願する悲鳴を引き出すためだ。
もちろん、それを聞き入れる気など最初からない。楽しむだけ楽しんだ後、新鮮な悲鳴を求めて新しい拷問に切り替えるだけなのだ。
「決めた。ここに当てられるとみんなみっともないくらい泣き喚くのよ」
嗜虐的な笑みを浮かべ、エリザベートは松明の先端で狙いをつける。
オルガマリーの人生を、次の一瞬でもって確実に終わらせにくるつもりのようだ。
揺れる炎の行き先を感じ取り、オルガマリーは顔を引きつらせて声を張り上げたが、痛々しい叫びは無情にも闇の中に吸い込まれていくだけであった。
このまま自分は死ぬのだろうか。
孤独のまま、またしても炎に焼かれて息絶えるのであろうか。
そんな絶望がオルガマリーの心を支配する。
その時だった。
屋敷のどこからか、獣のような唸り声が聞こえてきたのは。
「えっ、なに?」
腹の底に響くような咆哮。その声に注意を奪われたエリザベートの視線がほんの一瞬、恐怖に震えるオルガマリーから逸れる。
チャンスだ。
エリザベートはすぐそこまで近づいて来ている。フリーになっている足を思いっきり蹴り上げれば、手にしている松明を叩き落せるかもしれない。
勇気と残った力を振り絞れば、それだけのことはできる。ほんの僅かな延命ではあるが、生き足掻く事ができる。
できるはずであった。
(いや……いや……いや……いや……いやだいやだいやだいや…………)
悲しいかな、オルガマリーは英雄ではない。光差す苦難の道に足を踏み出す勇気を彼女は持っていない。
ただ恐怖に震え、終わりが来るその時まで縮こまっていることしかできない憶病な娘なのだ。
彼女一人では、とてもではないが世界を背負って立つなどという真似はできない。
だが、そんな彼女を見捨てられない者がいた。
ちっぽけな勇気を胸に、困難を進む探索者がいた。
頼れる主も仲間も今はおらず、オルガマリーと同じく孤独に浸る少女。それでも彼女は胸に灯った小さな炎を抱き締め、果敢にも狂気の闇へと躍り出る。
「所長!」
扉を蹴破り、粉塵と共に躍り出たマシュがエリザベート目がけて盾を振り上げる。
注意が逸れていたエリザベートは咄嗟に松明を捨てて槍を手元に手繰り寄せるが、僅かに軌道を逸らすので精一杯であった。
そのまま乾いた音が室内に響き渡り、力負けしたエリザベートはその場から大きく後退した。
「ご無事ですか、所長!」
「……マ、マシュ?」
「すぐに助けますから、もう少しだけ辛抱をお願いします!」
力なく視線を向けたオルガマリーが目にしたのは、震える手で盾を構えるマシュの姿であった。
無理もない。マスターである立香は側におらず、十全な力を発揮する事はできない。さっきはまだオルガマリーの援護があったが、今の状況ではそれを期待することもできないだろう。
完全なる孤軍奮闘。或いは絶体絶命。心が折れた方が遥かに楽であったはずだ。
それでもマシュは戦うことを選択した。オルガマリーを助け出し、この場を切り抜けて脱出する。
その為に戦う勇気を、彼女は持っていた。
「ちょっと、よくも邪魔をしてくれたわね……いいわ、フラウロスはもういないみたいだし、あなたも甚振って……あげる!」
幽鬼のように槍を構え直したエリザベートの姿が、砂に巻かれたかのしょうに掻き消える。次の瞬間、彼女の槍とマシュの盾が激しい火花を散らしていた。
「っ……!?」
「ほらほら、どんどんいくわよ!」
オルガマリーを背にしているため攻撃を躱すことができず、マシュは立て続けに繰り出された刺突を真正面から受けざるを得なかった。
金属同士がぶつかる音が何度も響き渡り、ただでさえ薄暗かった地下室は舞い上がった粉塵で視界が塞がれてしまった。
どこから攻撃が来るのか分からず、戸惑うマシュをエリザベートは嘲笑うように攻め立て、防御を抜けた一撃が何度も彼女の柔肌に傷を作った。
そこから滴る赤い雫をエリザベートは恍惚とした目で見つめている。砂埃で遮られているはずの視界で、竜の娘はその匂いと色を正確に捉えていた。
「マシュ!」
「だ、大丈夫、です」
強烈な尾の一撃を叩きつけられ、マシュは片膝をつく。平静を装っているが、内心では焦っているのが手に取るように分かった。
冬木でアーサー王と対峙した時と同じだ。サーヴァントとしてのレベルがあまりにも差が開き過ぎていて、エリザベートを相手に手も足も出ないのだ。
このまま戦いを続ければ、遠からず内にマシュはエリザベートの槍で貫かれその命を終わらせるだろう。
魔術師の都合で生み出され、世界を救うという偉業のために駆り出された無垢なる少女。
彼女は外の世界を何も知らないまま、ただ人生を振り回されただけで終わる。
それはアニムスフィア家が犯した罪にも等しい。
そうまざまざと見せつけられたことで、オルガマリーの思考は急速に冷静さを取り戻していった。
(落ち着け……落ち着け……お馬鹿なマリー、ちゃんとしなさい。ちゃんと……しなさい!)
意識を集中し、魔術回路を開いて手枷に魔力を流し込む。焦る心は余計に魔力を持っていき、術式もまるで形になっていない。
それでも構わない。とにかく不純物を流し込んで風船が割れるように手枷を破壊するのだ。
直後、小さな破裂音と共にオルガマリーは固い床の上に落下し、盛大な尻餅をついた。
「いっ――――!!」
出かかった悲鳴を噛み殺し、血だらけになってしまった右手を掲げてエリザベートへと人差し指を向ける。
北欧に伝わる古典的な呪いの一つ。指差した相手に病を起こすとされるガンド撃ちだ。
だが、オルガマリーのそれはただのガンド撃ちではない。本来であれば体調不良を起こすだけの呪いは、その高い魔力によって物理的な干渉すら可能となったフィンの一撃だ。
その一発は例え相手がサーヴァントであろうとも、ほんの僅かに動きを止める程度の威力はある。
「マシュ!」
「はい!」
オルガマリーが転がりながら安全圏へと下がる一方で、マシュは裂ぱくの気合を込めて盾を振るう。
フィンの一撃による硬直もそう長くは続かない。この一瞬を逃がせば恐らく、自分達に勝ち目はないだろう。
マシュは残された力を振り絞り、震える手に力を込めてエリザベート目がけて盾を振り下ろした。
「だああぁぁぁぁっ!!」
鈍い音を立てて骨が砕ける音が響き、薄暗い地下室に静寂が訪れる。
マシュの盾は狙い違わず、エリザベートの体を捉えていた。
槍を持っていない左腕ごと胴体を殴りつけられ、端正な少女の顔立ちが苦痛で歪む。
ダメージによるものなのか、足取りもふら付いていた。
誰の目から見ても有効打が入ったと分かる。
だが、浅かった。
一か八かのチャンスに全霊を賭け、左腕一本を破壊するのがやっと。それを浅いと言わずに何と言う。
確かにエリザベートは大きなダメージを負ったが、彼女はまだ二本の足で立っており、戦意も衰えていないのだ。
「やってくれたわね……小動物の分際で……」
「マシュ、逃げっ――」
オルガマリーが叫ぶよりも早く、怒りに燃えるエリザベートの尾の一撃がマシュを襲う。
最後の一撃で余力を使い果たしたマシュにそれを防ぐ手立てはなく、呆気なく吹き飛ばされた痩躯は何度も床の上をバウンドして動かなくなった。
「マシュ、マシュ!」
駆け寄って抱き上げるが、マシュは小さく呼吸を繰り返すだけで返事をしなかった。外傷は見当たらないが、床の上に叩きつけられた際に、頭を強く打ってしまったのかもしれない。
マシュはオルガマリーの細腕に抱き抱えられ、力なく項垂れたまま動かない。それは自分の身を護る者が誰もいなくなってしまったことを意味していた。
情けないことに、吹けば飛ぶような痩躯の少女が我が身を護る唯一の盾なのだ。その彼女は気を失った今、オルガマリーは自分一人の手で自分と彼女の二つの命を守らなければならない。
その重圧が心をかき乱し、枷のようにオルガマリーを縛り上げる。
どうすれば良いのかも分からず、ただ助けを求めるように視線を泳がせることしかできなかった。
助けを呼ぼうにもカルデアとの通信はまだ回復していない。立香達に助けを求めることはできない。
そして、最後の手段である令呪も後一画しか残されていない。
ここでクー・フーリンを呼ぶのは簡単だ。だが、もしも敵わなかったら?
ジークフリートやゲオルギウスのように、彼の宝具に耐えられる術を彼女も持っていたとしたら?
不安が迷いを呼び、迷いは大きな隙を生む。
絶体絶命の窮地でありながら決断を下せず、オルガマリーは無様にも立ちすくむばかりであった。
「いいわ、二人まとめて串刺しにしてあげる。泣いて許しを乞いなさい」
まだ無事な右手で槍を握り直し、引きつった笑みを浮かべながらエリザベートは宣告する。
最早、ここまでかと心折れたオルガマリーは、せめてマシュだけは逃がそうと右手の令呪に意識を集中させる。どこまでやれるかは分からないが、精一杯の抵抗を試みている間に呼び出した呪腕のハサンでマシュを逃がすのだ。
アサシンである彼ならばエリザベートの追跡を躱して立香達と合流することもそう難しくないはずだ。
そう考えたオルガマリーは、覚悟を決めて右手を掲げる。
屋敷を震わせるほどの地響きが起きたのは、正にその時であった。
「……下……いえ、上からも!? あっ、待ちなさい!」
後ろから飛んできたエリザベートの制しを無視し、オルガマリーはマシュを抱えて走った。
何かが近づいて来ている。地響きに紛れて先ほどの獣の声が少しずつ大きくなってきているのだ。
それが敵なのか味方なのかは分からないが、衝撃に備えなければという直感が働き、オルガマリーは召喚を諦めて魔力障壁を展開する。
直後、屋敷全体が大きく揺れるほどの衝撃が床下から炸裂し、一拍遅れて天井を灼熱の炎が突き破る。
ぶつかり合う二つの衝撃。巻き込まれた空気が砂埃と共に渦を巻き、開いた天井の穴から眩い太陽の輝きが差し込んだ。
「Aaaaaaaaaa――――!!」
咆哮が天を衝く。
そこにいたのは、獣のように四つん這いで立つ黒い甲冑の騎士であった。
如何なる仕組みなのか兜の覗き穴からは赤い輝きが漏れており、全身は黒いもやのようなものに覆われていてハッキリとしない。
纏う気配も獰猛で、凡そ理性と呼べるものが感じられなかった。
唯一つ、確かなことはこの黒甲冑の騎士もサーヴァントであるということだけであった。
「間に合い……ました……」
砂埃の向こうから、エリザベートを庇うように和装姿の少女が立っていた。
黒い装束を纏い、龍の角を生やした少女。外で立香達と戦っているはずの清姫だ。
よほど急いで駆け付けたのか、肩を大きく震わせて息を乱している。
「助かったわ。ナイスタイミングね、清姫」
「油断なさらぬように。狂っていてもアレは円卓の騎士。強敵ですわ」
清姫の言葉を聞き、オルガマリーはハッと気づく。
ゲオルギウスが語っていた、この街に囚われているサーヴァント。
円卓最強とも名高い湖の騎士ランスロット。
それが彼だと言うのだろうか?
想像していたのとはあまりにもかけ離れた姿にオルガマリーは絶句する。
ランスロットといえばあの昼間は力が三倍になると言われているガウェインをも打ち負かすほどの武勇の持ち主にして、最も優れた騎士と評されるほどの人物。
高潔で理性的な理想の騎士としての姿を想像していただけに、真逆の獣のような姿を目にして軽い眩暈すら覚えた。
だが、野蛮な姿ではあるがその身の内に眠る凄まじい圧は紛れもなく本物であった。
その背を目にしているだけでも気を呑まれそうになり、舌を噛まねばマシュに覆い被さって気を失っていたかもしれない。
彼は間違いなく強い。そう確信させるだけの何かを持っていた。
「………………」
赤い輝きがこちらを見やる。
どこに視線を向けられているのかも分からず、オルガマリーはマシュを抱きかかえて身を強張らせた。
まるで蛇に睨まれたカエルのようではあったが、それほどまでにこの狂戦士は得体が知れない。
「……Aa……Gala…………」
ある一点で動きを止めたランスロットの兜の向こうから、何かに驚いたかのような気配が伝わってくる。
すると、地面についていた両手が少しずつ震え始め、カタカタと金属の鎧が擦れ合う耳障りな音が響き渡る。
同時に黒いもやが噴煙のように溢れ出し、まるでランスロットの体が一回りほど膨れ上がったかのような錯覚を覚えた。
その異様な気配にオルガマリーだけでなく、対峙していたエリザベート達も動きを止めて警戒する中、ランスロットはゆっくりと立ち上がって二人の少女へと向き直る。
そして、震える兜越しに溢れんばかりの狂気と怒りを込めた叫びを上げ、その衝動に身を任せるかのように全身を仰け反らせる。
「Boooaaaa、Arrrrrrr!」
直後、肉食獣が跳ねるように大地を蹴り、ランスロットは疾駆する。
息を吐く間もなく繰り出された正拳が、エリザベートの前に立つ清姫を容赦なく殴り飛ばした。
「きよひっ――!?」
驚くエリザベートが槍を構えるよりも早く、ランスロットの回し蹴りがエリザベートの右手を砕く。
痛みで顔を歪ませたエリザベートは反撃に転じようとするが、その手にはもう槍が握られていない。蹴りつけられた衝撃で槍が手放してしまったのだ。
その槍はくるくると宙を舞うと、天井にぶつかった弾みで軌道を変え、まるで吸い込まれるかのようにランスロットの手元へと落ちてくる。
「Aaaaaaaa!!」
槍を手にしたランスロットはすかさず、エリザベートへとその矛先を向ける。
雄叫びを上げながら床を踏み込み、まるで最初から自分の得物であったかのように巧みな槍捌きで竜の娘を追い立てていった。
壊れた腕を容赦なく切り裂き、逃げようとすると槍の返しを巧みに活かして追撃をしかけ、懐に潜り込まれても柄尻や蹴りを駆使して反撃を許さない。
途中、復帰した清姫が炎で牽制するも、それも意に介することなく二人のサーヴァントを相手にして縦横無尽に立ち回った。
その様はとても狂っているようには見えない。凶暴な叫びや野蛮な佇まいに反して身のこなしは洗練されていて非常に合理的だ。
さすがは円卓最強の騎士。こと技の冴えに至ってはあのクー・フーリンをも上回るかもしれない。
「私達だけでは……フラウロス抜きでこの方を捕まえるのも倒すのも…………」
「ええ、難しいわ。癪だけど認めてあげる……ここは、逃げましょう」
苦虫を噛み潰したかのような顔をしたエリザベートは、背中から大きな竜の羽根を生やして空へ逃れようとする。
だが、飛び立とうとした瞬間、激痛で顔を歪めて態勢を崩してしまう。逃がすまいとランスロットが投擲した槍が、彼女の足を地面へと縫い付けたのだ。
「Aaaaaaaaaa――――!!」
ランスロットを包み込む黒いもやが溶けるように消えていき、黒い甲冑姿がハッキリと露になる。
その手には黒く輝く美しい宝剣が握られていた。禍々しくも引き付けられるかのような輝きを放つその刀身は、明らかに人の手によるものではない。
これこそが湖の乙女より彼に与えられた聖剣。星の内側で人々の願いを結晶化して生み出された神造兵装。その名は『
決して刃毀れを起こさぬとされる名刀であり、その刀身は竜の因子を持つ者にとって致命ともいえる特攻を持つ。
正に今、解き放たれた必殺の一撃が数多の少女をその手にかけた竜の娘へと振り下ろされんとしていた。
「Aaaaaa――Aa?」
「なっ……!?」
剣を振り下ろしたランスロットと、その後ろで戦いを見守っていたオルガマリーの二人は驚愕した。
振り下ろされた聖剣は確かにエリザベートを断罪し、その命を刈り取るはずであった。
だが、実際に切り裂かれていたのは黒い和装の少女――清姫であった。
それもエリザベートを庇ったのではない。体に巻き付いた竜の尾によって引き寄せられ、無理やり『
「エリザベート……どう……して……」
「ごめんなさい、あなたはとても良いチームメイトだったわ。私達、とてもうまくやっていたわね」
「ええ……その通りです。その言葉に、嘘は……ありません……」
「ええ、そう。でもね、思っちゃったの。あなたって確か…………純潔よね? なら、その血を浴びてみたいなって…………」
そう言って友の体を伝う鮮血を浴びたエリザベートの顔には、この上なく邪悪な笑みを浮かんでいた。
救いようがないほどの
「ほら、おかげで足も手も治ってきた。処女の血は効くのよ、とてもね」
「……ええ、そうですね」
背筋が凍るほどの倒錯した笑みを浮かべているエリザベートに反して、清姫の表情は穏やかであった。
身代わりにされたことに対する怒りはなく、朝日に照らされた水面のように穏やかで慈悲深い笑みを浮かべている。
霊核を砕かれ、手足の先から少しずつ消滅が始まっているというのに、狂った少女はどこまでも静かに相棒だった少女の狂気を受け入れる。
「……ああ、嘘はありません……だから、嫌いにはなれないのです……あなたのことを……」
自らの欲望のために我が身を利用されながら、清姫は本音を告げているという理由だけでエリザベートを許していた。
それは狂える彼女が願ってやまないもの。一切の嘘を焼き払った先に辿り着いたかもしれないこの街の未来の姿の縮図であったのかもしれない。
「いいでしょう、お行きなさい。私も、役目を果たすとしましょう」
「いけない、ランスロット!」
「Aaa!!」
清姫が何かを企んでいると感じ取ったオルガマリーは叫び、ほんの少しだけ遅れてランスロットも剣を振るう。
しかし、それよりも清姫が真名を解放する方が早かった。
「『
直後、視界の全てが炎に包まれた。
□
結論から述べると、戦いは痛み分けに終わった。
消滅の寸前に清姫は宝具を暴走させ、強烈な炎をまき散らしながら自爆したのである。
至近距離でそれを受けたランスロットは追撃ができぬほど負傷し、エリザベートはその隙に逃亡。
オルガマリーはランスロットと合流するという目的こそ果たせたものの、敵サーヴァントを倒すというもう一つの目標を果たすことはできなかった。
『良かった、みんな無事のようで何よりだ』
通信機の向こうからロマニの涙ぐむ声が聞こえてくる。
清姫の自爆で屋敷が破壊されたからか、カルデアとの通信も復活していた。
すぐさま屋敷内で起きたことをオルガマリーが伝えると、開口一番に飛び出したのが先ほどの言葉であった。
本当にどこまでもお人好しなお医者様だ。
マシュのケガも彼の診断によると大したことはないようで、休めば直に目を覚ますだろうということであった。
「所長、その……」
程なくして立香達と合流したのだが、彼はどうにも浮かない顔でこちらから目線を逸らそうとする。
非常に気まずい雰囲気に他のサーヴァント達もどこか余所余所しく、折角みんな生きて合流できたというのに会話もあまり弾まなかった。
理由なら何となく察することができた。きっとこの男は、間に合わなかったことを後悔しているのだ。
改めて自分の姿を見直すと、あちこちにいくつもの火傷の跡が残っていて痛々しい。そのほとんどは治癒魔術と薬草で跡も残さず完治するだろうが、何かが違えば取り返しがつかない事態に陥っていたかもしれない。
何よりも彼はこちらをこんな危険な目に合わせなければならないほど、自分が無力であることを悔いているのだ。
他人の不幸まで背負おうとするなんて、何て贅沢な男だろうか。
そういうのを世間では余計なお節介であると、どうして気づけないのだろうか。
「藤丸」
「……はい」
「これは指揮官である私が判断した結果です。あなたが気に病む必要はありません」
「はい……でも……」
「いい、そういう余分なことをあなたは考えなくていいの。私はリスクを負い、あなたはオーダーをこなした。それだけよ」
それでも納得ができないと言いたげな立香に対して、オルガマリーは用意しておいた最後の言葉を口にする。
「気に入らないなら、次はちゃんと助けにきなさい。私のこと、守ってくれるんでしょ?」
「えっ……は、はい!」
この男は過ぎたことを反省させるより、先のことに目を向けさせた方が立ち直りが早い。
何よりもウジウジと男が悩んでいる姿を目にしていると苛立ちも覚える。
これからも一緒に旅を続けるのだから、せめて少しは格好いいと思えるようなマスターになってもらいたいものである。
「なるほど……聖ゲオルギウスの言っていたことが、やっと分かった」
石に躓く音が聞こえ、全員が音のした路地裏へと警戒を向ける。
すると、そこには深手を負って血だらけになったシュヴァリエ・デオンが苦し気な表情を浮かべて壁にもたれかかっていた。
よほど激しい戦いだったのか、傷は霊核に達していてもう手の施しようがない。指の末端から少しずつ光の塵となって消えかかっていた。
「シュヴァリエ・デオン、その傷は……」
剣を構えながらも、医師としての本分がそうさせるのか、サンソンは問いかけていた。
すると、デオンは折れた剣を鞘に収めて敵意がないことを示し、一歩だけ前に踏み出して地面に蹲った。
それはまるで、神に許しを請う罪人のようであった。
「ゲオルギウスは言っていた。人には役目があると……なるほど、確かにランスロットがいなければ
「デオン、それではゲオルギウスは…………」
「彼は高潔であった。敢えて私の剣をその身で受け、残された力でランスロットが囚われていた牢を破壊したんだ。隙だらけのこの身はそこの湖の騎士にバッサリという訳さ。大事に使ってやれ……彼が残した、切り札なのだから…………」
がくり、とデオンの体が揺れる。足が完全に消滅し、体を支えることもできなくなったのだ。
「そうか、ゲオルギウスが……」
「直に私も後を追うだろう……さあ、やってくれ。罪人は罰を受けるべきだろう、ムッシュ・ド・パリ」
「……ああ」
己の最期を受け入れたデオンに向き直り、サンソンは厳かに剣を構え直す。
鈍く光る刃に向けて、彼は小さな声で何事かを呟いた。
願うように、祈るように、これから振り下ろされる断罪の刃に向けて彼は頭を垂れる。
どうか、この一瞬を以て贖罪が果たされるようにと。
死は明日への希望なり。
それがパリの処刑人として多くの人々の首をはね続けた彼が抱き続けた願いであった。
「ありがとう……ああ、やっと荷を下ろせる。こうして狂うのは、何度目だろうな…………」
最後に小さく微笑みながら、シュヴァリエ・デオンはこの世界から消え去った。
その光景の一部始終を目に焼き付けたサンソンは、一度だけ強く瞼を閉じると、ゆっくりと目を見開いて刃を収める。
「行きましょう。次の街へと……逃げたエリザベートを追わなければ」
一同は静かに頷いた。
大きな被害は出してしまったが、この街はエリザベート達の手から解放された。
恐らく彼女はマリー・アントワネットと合流し、傷を癒して再び自分達と対峙するであろう。
その時までにこちらも態勢を整えなければならない。行方を眩ませたレフ・ライノールのこともあり、まだまだ油断はできない状況だ。
「お待ちください」
とりあえずは移動して傷ついたマシュ達の治療を行うべきだと思い、その場を後にしようとした面々を呼び止める声があった。
振り返ると、血走った目はそのままではあるが、酷く沈鬱で思い詰めた顔をしたジル・ド・レェがこちらを見つめていた。
「ジル?」
「あなた方に、お話しておきたいことがあります。私がこの特異点に召喚された直後に何をしていたのかを」
胸に手を当て、自らの行いを懺悔するかのようにジル・ド・レェは言葉を紡ぐ。
その独白は、カルデアにとって無視できない重要なものであった。
「最初にこの特異点を生み出したのは……聖杯を手にしていたのはこの私、ジル・ド・レェなのです」
今、第一特異点を巡る戦いの情勢が大きく動き出そうとしていた。
かなり間が空きましたが、何とか投降できました。
キャラの配置が原作とまるで違うから、ほぼほぼオリジナルな展開ということもあり時間がすごくかかりまして。もう少し暇になれば執筆の時間も増えるのになぁ。
とはいえ五章配信前に投稿出来て良かったです。
清姫はここで退場ですが、敵として出すからにはこの消え方しかないだろうなと思って書き上げました。これで後はエリちゃんとすまないさんと……おや、後一人がまだ出ていませんね(アタランテは出ません)。
今年こそ福袋はマーリンかスカディか孔明を。