Fate/Start Over 星譚運命再度カルデアス 作:ていえむ
廃墟となった街で、巨大な影と一人の騎士が激しい戦いを繰り広げていた。
咆哮を上げて巨体を振るい、炎を吐き散らしているのは六本足の亀のような竜種。タラスクと呼ばれたその竜は、かつてローヌ川を根城として人間に危害を加えていた悪竜だ。
対するは灰色の甲冑を身に纏った騎士。口元を一文字に結び、無言で手にした剣を振るっている。
その光景を誰かが目にしたならば恐らくは目を疑うであろう。
タラスクは巨体を活かして突撃し、大きな足による殴打や口から吐いた炎で騎士を殺さんとするのだが、騎士はそれらの攻撃を真っ向から受け止めているのだ。
ただの人間ならば命がいくつあっても足らぬ剛力や灼熱に晒されながらも騎士の口から苦悶が漏れることはなく、意にも介さず作業のように剣を振るう。
例え顔面に炎が直撃しようとも、頭蓋を殴りつけられようとも、騎士は怯む事すらなく反撃し、逆にタラスクの固い表皮に幾つもの傷を刻み付けていった。
その度に黄昏色の光が迸り、タラスクの口から悲鳴が上がる。既にタラスクは片目を潰され、六本足の内の二本を折られ、一本が切り落とされている。
傷口からは夥しい量の血が流れ出ており、その命は最早、風前の灯であった。
それでもタラスクは逃げる事なく騎士へと立ち向かう。何故なら、彼の背後には守るべき主がいるからだ。
眼前の騎士によって切り捨てられ、虫の息となった女性――マルタは悪竜であったタラスクを鎮め改心させた聖女である。
聖杯によってこの地に呼ばれ、無辜の民を守る為に戦っていたマルタは、突如として目の前の騎士に強襲を受け敗北したのである。
手も足も出ず、切り札であるタラスクすらも力尽くでねじ伏せられ、霊核を砕かれた。
助かる術などなく、消滅は時間の問題であった。
「まさか、あなたのような英霊がそちら側にいるなんて…………」
苦し気に息を漏らし、悔しさを噛み締めながらマルタは呟いた。
「タラスク、もういいわ。もう私は助かりません。下がりなさい」
これ以上、戦い続けてもタラスクが無駄に傷つくだけである。そう判断してマルタはタラスクを下がらせようとした。
だが、タラスクは命令を無視して灰色の騎士に挑み続ける。
例えその命を救うことができずとも、せめて少しでも長く死を先延ばしにできるならと、タラスクは吠えるのだ。
無駄だと分かっていても、勝てぬと分かっていても、救えぬと分かっていてもおく、タラスクは己の中の納得を求めて抗い続ける。
「タラスク!」
マルタが最後の力を振り絞り、声を張り上げてもタラスクは止まらない。咆哮を上げ、傷ついた体を無理やり起こして主の盾になろうとする。
その姿を目にした灰色の騎士は、静かに魔力を剣へと通す。すると、柄に埋め込まれた宝石が輝き始め、刀身がほんの一瞬だけ黄昏色へと染められた。
同時に灰色の騎士から凄まじい圧が放出され、マルタはおろか彼女を守らんとしていたタラスクすらも怯ませる。
これ以上はない、ここで終わらせるという無言の宣言であった。
そして、騎士は主に忠義を立てるかつての悪竜の目を真っすぐに見つめると、厳かに口を開いた。
「すまない、これで終わりだ」
光が走る。
黄昏色の魔剣。
太陽が地平線へと沈んだ僅かな時のみ空を輝かせる仄かな明かり。
それが膨大な魔力と共に巨大な柱を形成し、悪竜をその強固な甲羅ごと真っ二つに両断する。
一拍遅れて噴き出した鮮血が、騎士と聖女の顔を汚す。
崩れ落ちながら消えていくタラスクの瞳は、怒りとも無念とも取れる複雑な色を帯びていた。
□
巨大な竜を従え、不可思議な力で街を魔獣から守っている女性がいる。そんな話を耳にしたオルガマリー達は、その人物がサンソン達と同じマスターを持たないはぐれサーヴァントであると踏んで行方を追っていた。
そして、幾つかの街を巡ってこの街に辿り着いたのだが、オルガマリー達が街の姿を目にした時には至る所で火の手が上がっていた。
街の中を我が物顔で闊歩し、子どもが玩具を壊すかのように家屋を潰し畑を荒らす魔獣達。
それらを蹴散らして何とか街の中心地へと辿り着いたのだが、その時には既に戦いは集結していた。
彼女達の前に広がっていたのは、瀕死の重傷を負って地に倒れている女性と、地面を真っ赤に染め上げる夥しい量の流血。
その中心に立っているのは一人の騎士。灰色の鎧を見に纏い、大きな剣を手にしている。
大きく露出している胸にはタトゥーのような紋様がほんのりと輝いていた。
『所長、彼はサーヴァントです、気を付けてください!』
「他に生存者は!?」
『いません! この街で生きている人間の反応は確認できません!』
解析を終えたロマニが悲痛な声を上げる。
ここに来るまでも目にした人間は死体ばかり。生きて動いていた者は一人もいなかった。
それは目の前に立つ男と魔獣達が、この街の住民を皆殺しにしたことを意味している。
もちろん、男に関しては証拠も何もないが、無言でこちらに剣を向け、明らかに危険な気配を察しているこの男が無関係なはずはないだろう。
「……逃げなさい」
こちらの存在に気が付いた女性が、掠れる声で言った。
霊核が完全に砕けていたのだろう。既に下半身は光となって消えている。
「並のサーヴァントでは、勝ち目はありません…………どうか、逃げて……」
両目を潤ませ、縋るように懇願する女性の姿が、次の瞬間には跡形もなく消滅した。
背後で立香が悔しそうに拳を叩く音が聞こえた。間に合うことができず、彼女を救えなかったことを後悔しているのだろう。
それをいちいち気にしていては、とてもではないが人類七十億の命なんて背負えないだろうに、彼はお構いなしに悔し涙を蓄え、目の前の誰かの死を痛みながら理不尽へと顔を上げる。
世界を救うなんて真似をしているつもりはない。ただ、目の前の人を救うのだというスタンスを最後まで貫こうというのだ。
ある意味では自分と同じく、人の死を恐れているのいえるのだなと、オルガマリーは小さな共感を覚えた。
「藤丸、後悔は後にして。まずはここを切り抜けます」
気丈で冷静な上司を演じねばならないことに、ほんの少しだけ心を痛める。
できることなら、彼らに彼女の死を悔やむ時間くらいは与えてあげたかったが、それは状況が許さない。
灰色の騎士は今にもこちらへ切りかからんと剣を構えている。
素人の自分が見てもハッキリと分かるくらい、彼は手練れだ。
付け入る隙が見当たらない。
サンソンもファントムもジル・ド・レェも、みんなそれぞれの得物を手にしつつも動けずにいた。
「この時代の人間ではないか。それに……ああ、お前達が天文台か」
騎士が口を開く。低く、よく通る声であった。
まるでこちらを知っているかのような口ぶりに、オルガマリーははたと気づく。
そういえば、ジル・ド・レェも自分達のことをまだ名乗り合う前に『天文台の魔術師』と呼んでいた。
一方でサンソンやファントムは合流するまでカルデアの存在を認知していない。
つまり、彼とジル・ド・レェは何らかの形でカルデアに関する情報を知っていた、ということになる。
オルガマリーは視線を目の前の男に向けたまま、注意深く意識だけを傍らに立つ魔術師のサーヴァントへと向ける。
怪しい風貌に狂った思考。敬愛する人を奪われたという動機は復讐するには十分なものだ。間者として自分達に近づいたという可能性もゼロではない。
フランスを恨んではいるが、自分やジャンヌ・ダルクとは無関係な者がフランスを滅ぼすことは看過できないという言葉も果たしてどこまで信用して良いのだろうか。
「所長!」
「はっ……!?」
立香の呼びかけで我に返る。
既に灰色の騎士は動いており、数メートルもしない距離でマシュやサンソンと剣戟を演じている。
巨大な盾と剣がぶつかり合い、衝撃は空気を震わせ砂埃が舞う。
マシュが拮抗できたのだほんの数秒程であった。技量も気迫も足らず、騎士が少し力を入れただけで呆気なく吹っ飛ばされてしまう。
続いて切りかかったサンソンも、三合と続かず地に膝をついた。
心得があるとはいえ彼も元は戦士ではなく処刑人。恐らくは生粋の剣士であろうこの灰色の騎士を足止めできるだけの力は有していないのだ。
そして、阻む者がいなくなったことで、騎士の視線がオルガマリーを捉える。
まるで蛇に睨まれたカエル。竦んだ足はほんの少しだけ反応が遅れ、騎士の接近を許してしまった。
「危ない!」
その危機を救ったのは、先ほど自分が疑念を向けた魔術師であった。
凡そ、機敏な動きとは不釣り合いな捻じ曲がった体を無理やり動かし、息を荒げながらこちらを抱きかかえてジル・ド・レェは走る。
無論、騎士は追撃をかけようとしたが、ジル・ド・レェはそれを見越して走りながら己の宝具『
群がる海魔はサーヴァントが相手ではそこらの魔獣と大差ない存在ではあるが、それでも数にものを言わせれば動きを止めるくらいはやってのける。
「……!」
更にいつの間にかファントムが騎士の背後に回り込んでいた。アサシンクラスの特権、『気配遮断』スキルを用いた暗殺だ。
攻撃の瞬間はスキルの恩恵がなくなるため、カンの良い戦士には気配を察知されてしまうが、今は海魔と挟み撃ちの状態であるため、騎士はどちらか一方にしか対応できない。
前方から押し寄せる海魔の群れか、後方から迫る怪人の爪か。
騎士は躊躇なくファントムを迎え撃つことを選択した。疾走の足を止め、勢い余った慣性を乗せた渾身の振り抜きがファントムを襲う。
無論、律義に従うファントムではない。彼の生前は殺人鬼、こと引き際を見極めることに関しては下手な戦士のそれを勝る。
予め自身が迎撃されることに備えていたファントムは、低空飛行のように失墜寸前まで体を沈ませて剣閃を薄皮一枚で躱し、海魔の群れの中へと飛び込んだのだ。
入れ替わる形で卒倒する海魔達。大振りの一撃を放ち、隙を晒した状態では防御の術がない。まずは一撃。誰もがそれを確信した。
次の瞬間、灰色の騎士はあろうことか剣を下ろして迫りくる触腕に自らの体を差し出した。魔獣と大差ないといえど、頭蓋の直撃を受ければサーヴァントとて一たまりもない。まさか、覚悟を決めた自殺であろうか。
もちろん、そのような殊勝な心掛けをする戦士ではない。彼には確信があったのだ。こちらの攻撃では、自分が
「ふん!」
触腕が頭に叩きつけられたことなど意にも介さず、騎士は逆に海魔の一体を捕まえて豪快に投げ飛ばした。巻き込まれた何体が共に吹き飛び、地面に叩きつけられて血飛沫を上げる。
そして、再び剣を手に取って襲い掛かる海魔の群れを手早く切り捨てていく。その剣筋に動揺はなく、まるで木こりが樹木を伐採するかのように作業的な動きであった。
術理による合理ではない。一切の防御を捨て去り、ただ攻撃を受けるに任せて受け切った後に切り返す。被弾を前提としたカウンター戦術。しかし、それが恐ろしく有効に機能している。
この英霊、何らかの加護を受けているのかどれほどの攻撃を受けようと傷を負わないのだ。
「だああぁぁっ!」
海魔の影に身を潜めていたマシュが、隙をついて飛びかかった。更に反対側からはサンソンが、対角からはファントムが続く。
マシュが叫んだのは囮だ。自らが敢えて目立つことで注意を逸らし、他の2人の攻撃を通す為である。
だが、そのような素人の戦術はこの英霊には通じない。
マシュに注意を向けたかと思った瞬間、即座に刃を返して背後のファントムに切りかかる。
鋭利なカギ爪とぶつかった騎士の剣は、ファントムの仮面の鼻先を僅かに掠めていく。大振りな一撃は、それだけで凄まじい風圧を起こしてファントムの視界を潰した。
直後、繰り出された丸太のような足がファントムの腹部を蹴り飛ばし、仮面の殺人鬼は崩れた家屋の残骸へと叩きつけられる。
騎士はそのまま勢いを殺さず、体を半身ほど回転させて遅れてきたサンソンの剣を自らの腕で受け止めた。
処刑人と騎士、双方の死線が一瞬、火花を散らせる。
「はあぁぁっ!」
サンソンはここで吠えた。持てる力の全てを込めて、目の前の騎士の動きを止めんと踏み込んでいく。だが、サンソンの剣はビクともしない。
どれほどの力を込めようと、雄叫びを上げ踏み込もうと、薄い皮膚一枚すら裂けないのだ。それはまるで鉛に剣を押し付けているかのような感覚だった。
ならばマシュの攻撃ならばどうかと、サンソンは一縷の望みを託す。如何に頑丈な体であろうとも、あの巨大な盾で殴られれば一たまりもないだろう。
「マシュ!」
ジル・ド・レェが召喚した海魔に守られていた立香が手をかざすと、マシュの体が淡い光を放った。礼装の力で一時的に筋力を強化したのだ。
迫りくる巨大な質量。例え傷を負わずとも、衝撃は確実に体の内部へと伝わるはずだ。
しかし、彼らの目論見は外れてしまう。
そもそも、実践経験に乏しいマシュは戦いの駆け引きができない。獲得した力を闇雲に振るっているに等しいのだ。
なので、相手の動きや間合いを読むということができない。馬鹿正直で一直線な振り下ろしはそれ故に読みやすく、受け止めるのも容易かったのだ。
「そんな!?」
騎士はサンソンの剣を受け止めているのとは逆の手で、マシュの盾を掴み取ったのだ。礼装で強化された一撃は、魔獣であろうとも一撃で叩き潰す威力がある。
それを彼は、無造作に石ころを掴むかのように受け止めて見せたのだ。
驚愕したマシュは次の瞬間、遠心力の洗礼を受ける。騎士が盾を掴んだままマシュを振り回し、反対側で鍔ぜり合っていたサンソンへと叩きつけたのだ。
「きゃぁっ!」
「くっ!!」
縺れ合うように2人は転がり、橋の欄干へとぶつかって動かなくなった。
一連の流れは、ほんの一瞬の間の出来事であった。
ジル・ド・レェの海魔、ファントムの奇襲、マシュ達の連携。それをこの男は容易く打ち破って見せた。
戦いにおける年季が違う。ただ単に体が頑丈なだけでなく、それをどのように活かせば有利に戦えるのかを熟知しているのだ。
「すまない、手は抜くなと命じられている」
海魔の返り血にも動じず、騎士は淡々と告げて剣を構え直す。
次の瞬間には、一足で飛び込んでこちらを切り捨てるつもりだとオルガマリーは恐怖した。
すると、彼女を守るようにジル・ド・レェが一歩、前へと踏み出す。
危険な距離だ。騎士はこちらへ切りかかる為には踏み込まなければならないが、前に出てしまえばその必要がない。彼の剣の間合いに自らを晒すなんて自殺行為だ。
「ジル!」
「ご安心めされよ、無策と言う訳ではありません」
ジル・ド・レェの手には一冊の本が握られていた。
『
彼がそれを手にしているということは、既に命じているということだ。だが、新たに海魔を召喚した素振りはなかった。何故なら、変化は最初に蹂躙された海魔の肉片に起きていたのだから。
「これは……」
さしもの無敵の騎士もこれには驚愕した。
切り捨て、踏み潰したはずの海魔達が復活し、更に数を増していたからだ。
再び剣が閃くも、今度は切り裂かれた箇所が瞬時に塞がって新たな肉を形成する。
腐ったような悪臭を放ち、どろどろの粘液を零しながら膨らんでいく海魔達。切り捨てようものならその肉片すらも成長して新しい海魔へと変わるため、騎士が剣を振るえば振るうほど纏わりつく数は増えていった。
「うふふ、武功の程度だけで覆せる“数の差”にも限度というものがありましょう。そして、如何に傷つかぬ無敵の体といえど人であるならば呼吸を必要とするはず。それともあなたは海の底でも生きていくことができますかなぁっ!?」
瞬く間に膨れ上がり、数を増やしていく海魔達は騎士の姿を呑み込んでいく。そのまま自重で押し潰し、窒息死させるつもりのようだ。
逃げ出そうにも既に周囲は囲まれており、また手足にもいつの間にか触腕が絡みついていて身動きが取れなくなっていた。
肉体が傷つかないので脅威ではない攻撃を無視していたせいだ。既に灰色の騎士は蜘蛛の巣に囚われた蝶であり、じわじわとその身を削られながら死せるのを待つばかりだ。
同時にオルガマリーは嘔吐を堪え切れず、ここが戦場であることも忘れてその場に吐しゃ物をぶちまけた。
無数のいぼだらけの触腕が絡み合い、一つになっていく地獄のような光景は、宇宙的な恐怖すら呼び起こすのだ。
その悍ましさたるや、この地上の言葉ではとてもではないが言い表すことはできない。
視界に捉えることはおろか、存在を認知しているだけで正気がゴリゴリと削られていくかのような気分だった。
「所長」
「藤丸?」
倒れそうになった体をそっと支えてくれたのは、駆け寄ってきた立香であった。
「大丈夫、俺達がついていますから」
そう言って笑って見せる立香の手は震えていた。
重ねられた男らしい大きな手からは、彼の不安や恐怖が痛いほど伝わってくる。
ほんの数日前まで世界の危機とは無縁の一般人であったのだ。取り乱さずに振る舞うだけでも相当な勇気がいるはずだ。
その姿を垣間見て、彼も自分と同じなのだと痛感する。
当たり前の死を恐れ、目の前の喪失を恐れ、自身の終わりに恐怖する。
人なら誰でも持つ死への恐怖。
一度でも死んだことがある自分だからこそ、その恐怖は嫌というほど実感できる。
「ありがとう」
立香に与えられた勇気が、オルガマリーの足に力を入れた。
倒れそうになる体を起こし、目の前の敵を真っすぐに見つめる。
前方では海魔の群れがまるで蛞蝓か蛇の交尾のように、互いに絡み合いながら灰色の騎士に押し潰さんとしていた。
完全に覆い被されてしまっているので、ここからではまだ生きているのか、既に窒息死してしまったのかを知る術はない。
だが、ロマニに魔力の反応を調べてもらうまでもなく、彼がまだ生きていることをオルガマリーは直感した。
傍らに立つジル・ド・レェの表情が険しく、一片の油断もなく入念に海魔を操って騎士を押し潰そうとしていたからだ。
狂ってはいても彼は元帥にまで上り詰めた男。それほどの男がこれほどまで執拗に攻撃を加え続けているからには、きちんとした理由があるはずだ。
間違いなく、あの海魔の群れの向こうであの男は生きている。その推測を裏付けるかのように、海魔の群れの隙間から黄昏色の光が少しずつ漏れ出ていた。
同時に、そこを中心として大気中の魔力が沸騰したお湯のように泡立っていく。
今度は躊躇しなかった。
励起させていた魔術回路を活性化させ、用意していた術式を起動させる。
全身に走る激しい痛みと熱が、魔力と共に右手へと流れ込んでいった。
「令呪を持って命じます! 来なさい、私のサーヴァント!」
真白の令呪が淡く輝き、溶けるように消えた一画を代償として影が走る。
豹のようにしなやかで、猛禽類のように獰猛な疾走。
手にした得物は例え如何なる呪いを用いようとも決して狙いを外すことなき呪いの朱槍。
自身が最も信頼する父祖の如き英霊。
アルスターの光の御子、クー・フーリンの
「その心臓、貰い受ける――!」
宝具発動の態勢に入った瞬間、光が爆発して海魔の群れが粉々に飛び散った。
やはり、灰色の騎士は生きていた。傷一つついていないだけでなく、あれほどの数の海魔に圧し掛かれていたというのに、その巨躯からは消耗の色は微塵も感じられない。
「『
振り上げた剣に光が収束し、天をも衝くほどの巨大な柱と化す。
大気が渦巻くそれは膨大な魔力の台風だ。如何に無尽蔵な再生力を持つ海魔といえど、塵も残さず焼き払われてしまえばどうすることもできない。いや、あれほどの魔力であれば海魔諸共こちらまで消し飛ばされてしまうだろう。
あれが灰色の騎士の宝具。如何なる逸話を持つものかは分からないが、剣の宝具であるならば間違いなく彼はセイバーだ。これから繰り出されるは最強にして最大の一撃であるはず。
ならば、こちらの勝利は揺るがない。
如何に強力な宝具、恐ろしき魔術を用いようと、放てなければ意味を成さないのだから。
「――『
敵のセイバーの剣が振り下ろされるよりも早く、呪いの朱槍が空を駆ける。フェイントも何もないただ鋭いだけの突きではあったが、宝具の発動態勢に入っていたセイバーは身動きが取れず、槍の先端は吸い込まれるように彼の胸へと突き立てられる。
そう思った刹那、驚愕の事態がオルガマリーを襲う。セイバーは己に突き立てられた槍など意にも介さず、宝具を解き放ったからだ。
「――
一瞬の内に、視界が黄昏色に染め上げられる。
槍を放つ為に至近距離まで近づいていたクー・フーリンの
更に光は止まることなく扇状に広がっていき、地面を抉りながらオルガマリー達のもとへと向かってくる。
脳裏にフラッシュバックするのは、冬木で対峙した騎士王の姿だ。
逃げ場はない。
隠れられる場所もない。
あらゆるものを悉く落陽に堕とす破壊の光が、いやがおうにも恐怖を煽る。
「藤丸、マシュを!」
「……令呪を持って命じる!」
オルガマリーの指示に受け、一拍遅れて立香が令呪を使用する。
間に合うだろうかと、オルガマリーは歯噛みした。
消滅していく令呪は理を捻じ曲げ、空間を超越して彼のサーヴァントを手元に手繰り寄せる。
着地と同時に盾が振り下ろされ、光が自分達を呑み込んでいく。
その一連の流れはほんの一瞬の出来事のはずなのに、目につく全ての動きがとてもゆっくりに感じられた。
死の危険を前にして、体が無意識に生きようと感覚を引き延ばしているのだろう。
死が怖い自分からすれば、余計なお世話だとしか言えない。
だが、おかげで今度はよりハッキリと見る事ができた。
恐怖に震えながらも、盾を構える少女騎士の姿を。
こちらを守る為に、必死になって戦ってくれている仲間の姿を。
「宝具、展開します!」
黄昏色の光が展開されたマシュの宝具とぶつかり合う。
軋みを上げながら亀裂が走る光の盾。凄まじい圧力にマシュの体はすぐさま浮き上がり、咄嗟にジル・ド・レェが海魔で捕まえなければ呆気なく吹き飛ばされていただろう。
その魔力の奔流の凄まじさたるや、アーサー王の聖剣に勝るとも劣らない。
オルガマリーと立香はすぐさま、互いの魔術や礼装でマシュを援護した。
筋力を強化し、加護を与え、何重にも魔力を浸透させて盾の強度を高める。
すると、壊れかけた光の盾は激しい輝きを放ちながら被膜のように広がっていき、受け止めた破壊の光を周囲に散らしていく。
盾を構えるマシュの口から悲鳴が漏れた。
ここまで強化してなお、受け切れなかった衝撃がマシュの体を蝕んでいるのだ。
そんな地獄のような時間は実に十数秒近く続き、光が収まった時には激しい虚脱に包まれたマシュが息を荒げながら地に膝を尽いていた。
彼女の体を支えていた海魔は余波で跡形もなく焼き尽くされており、ジル・ド・レェも驚愕の余り目を見開いていた。
その傍らで、マシュは必死に立ち上がろうとするが、先ほどの宝具の解放で全てを出し切ったのか、まるで生まれたての小鹿のように足が震えていて盾を支えにしなければ今にも倒れ込んでしまいそうなほど衰弱していた。
『何て魔力量だ!? これは神代のエーテルにも匹敵するぞ!』
「ええ、それにあの不死身の体……見えてきたわ、彼の正体が」
因果を逆転させ、先に心臓を穿つという結果を作る事で回避不能の一撃を放つ『
例えどのような加護に守られていようとも、如何なる魔術や技術を用いて回避しようとも、呪いの朱槍から逃れることはできない。
事実、先ほどの一撃は確かにセイバーの心臓へと達していた。本来であれば、彼の宝具が発動する前に絶命へと至る筈なのだ。
だというのに、セイバーは表情すら変えずに宝具を解放した。槍に貫かれたはずの胸元には確かに傷ができているが、傷口からの出血は一切見られない。
ゲイ・ボルクを前にしてこのような矛盾に至る例外は唯一つだ。即ち、彼のあの頑丈な肉体は、不死かそれに類する加護によって守られているということだ。
前提として不死がある以上、心臓を貫かれようとも倒れる事はない。必中のゲイ・ボルクが持つ数少ない弱点の一つだ。
そして、不死身の肉体と剣の宝具を持ち、セイバーとしての資格を持つ英雄。該当する者はそれほど多くない。その中で最も有力なものは、『ニーベルンゲンの歌』に謳われる万夫不当の英雄。
聖剣バルムンクを操り、悪竜ファヴニールを殺してその血を浴びたことで不死身の肉体を得た勇者。恐らくは世界で最も有名な
「ネーデルランドの竜殺し、ジークフリート」
剣の英雄というカテゴリーの中でならば間違いなく上位に食い込む大英雄。それほどの猛者が今、自分達の前に敵として立ち塞がっていることに、オルガマリーは恐怖を禁じ得なかった。
「あなたほどの英霊が、どうしてこんなことを……」
立香に体を支えてもらいながら、オルガマリーはジークフリートに問いかける。
しかし、彼は剣を構えたまま口を固く結び、無言を貫いた。代わりに答えたのは、戦場には似つかわしくない可憐で鈴を転がすような少女の声であった。
「それはもちろん、私が命じたからに他なりません」
どこからか聞こえてくる馬の嘶き。まるで天候すら恐れをなしたかのように暗雲が立ち込め、遠くで稲光が落ちる。
先ほどから戦いに巻き込まれるのを恐れてこちらを遠巻きにしていた魔獣達すらも、血相を変えて何処かへと走り去っていった。
『すごい魔力反応だ! サーヴァントが物凄いスピードで所長達の方に向かってきている!』
「ええ、もう見えています、ロマニ」
彼方に見えた光が、魔獣達の死骸を跳び越えてジークフリートの側へと着地する。
それは思わず見惚れてしまうほどの、美しい水晶でできた駿馬であった。
太く引き締まった四本の足、透き通ったガラス細工のような体は薄明かりの中でも光の加減によって絶えず表情を変化させており、まるで本当に生きているかのようだった。
そして、その水晶細工の馬の背に腰かけていたのは、赤いドレスに身を包んだ、それはそれは美しい少女であった。
血生臭い場所と無縁な優雅で華麗な佇まい。優しく馬の背を撫でる指先はどこか蠱惑的で、同性である自分ですら意味もなく嫉妬を覚えてしまうほどであった。
微笑みを浮かべれば街を歩く男達の心などたちどころに射止めてしまうだろう。
そんな可憐な少女を前にして、ジークフリートは一歩後ろに下がって臣下の礼を取っていた。
それは彼女がジークフリートの主であり、この特異点で起きている異常の中心人物であることを物語っていた。
最初、オルガマリーは彼女が人々が噂しているジャンヌ・ダルクなのではないかと思った。サーヴァントとしてこの時代に召喚されたジャンヌ・ダルクが祖国に復讐を企てたのではないのかと思ったからだ。
だが、もしも彼女の正体がジャンヌであるのなら、いの一番に騒ぎ出す筈のジル・ド・レェが沈黙を貫いていることのおかしさに気が付いた。見ると、ジル・ド・レェは血走ったんで目で彼女を睨みつけながら、憤怒の形相を浮かべていた。
怒りと憎しみ。彼の目からはその二つの感情しか読み取れない。奥歯を噛み締め、指先が手の平に食い込むほど拳を握り締め、怨嗟の声すら押し殺して少女のサーヴァントを睨みつけている様は、何かきっかけがあれば容易に決壊してしまうやもしれぬ危うさを抱えていた。
仮に彼女がジャンヌ・ダルクであるのなら、この反応は明らかにおかしい。
逆に動揺を隠せずにいたのはサンソンの方であった。少女の姿を目にした途端、目を見開いて言葉を詰まらせ、苦し気に胸を押さえている。
「そんな……どうして、君が……」
「サンソン、危ない!」
不用意に近づこうとしたサンソンを、立香が制する。直後、彼の喉元を鋭い刃が掠めていた。
いつからそこにいたのか、羽帽子を被った剣士がサンソンに向けてサーベルを突き立てたのだ。
「幸運な奴だ。どうせなら頭を狙うべきだったか」
「っ……」
我に返ったサンソンが後方に跳び、剣を構えて警戒する。
油断のならない剣士だ。サンソンが今も命を繋いでいるのはあくまで幸運によるもの。もしも、立香が制止しなければ彼は自身にサーベルが突き立てられていることにも気づけず頸動脈を掻き切られていたことだろう。
或いは相手が喉元ではなく最初から頭を狙っていれば、サンソンは無残にも鼻を削がれ両目を抉られていたかもしれない。
眉目麗しい中性的な顔立ちではあったが、その性根は苛烈で恐ろしいほど残忍なようだ。やると言ったのならやる凄味がある。
「サンソン……ああ、その名を聞くと理性が飛びそうになる。此度の聖杯戦争に私情を持ち込むつもりはなかったが、気が変わった…………その身に刻め、我がシュヴァリエ・デオンの名を」
瞬間、両者の剣が走り合う。
正確無比なデオンの突きと、鋭利に研ぎ澄まされたサンソンの刃。異なる二つの剣がぶつかり合い、虚空に火花を散らす。
苛烈な凌ぎ合いは、すぐさまにサンソンの防戦一方となった。デオンと名乗ったサーヴァントの目は暗い怨念にも似た狂気に浸されており、二つの眼からぶつけられる憎しみがサンソンの剣筋を鈍らせるのだ。
それは処刑人であるサンソンにとって馴染みがあり、同時に決して慣れることも受け入れることもできない怨嗟の念。
法の名の下に親しい者を殺され、愛する者を奪われ、自らの正義を奪われた者達の恩讐の光。
例えサンソン自身に罪はなくとも、謂れのない報復の念は生涯にわたって彼を苛み続けた。
デオンが纏っているのは正にその憎しみそのものであり、デオンの主である少女が止めに入らなければ間違いなくサンソンはデオンによって切り殺されていたであろう。
「そこまでよ、デオン。懐かしい顔だもの、私にもお話をさせてもらえないかしら」
少女の懇願を受け、突き出される寸前であったデオンの剣がピタリと止まる。
そのままデオンは無言で剣を鞘に収めると、サンソンを睨みつけたまま少女の側へと戻っていった。
おかしな真似をすれば、即座に首をはねに行くという無言の圧力があった。
「お久しぶりね、サンソン」
水晶の馬から降りた少女が、朗らかな笑みを浮かべてサンソンに話しかける。
それはまるで舞踏会やお茶会での談笑のように優雅で気品に満ちた物腰であった。
フランスの片田舎、それも人と魔獣の血肉で汚れた戦場にはとても似つかわしくないものであった。
「やはり、君なのか」
「ええ、もちろん。他の誰だと思っていて?」
「僕が君を見間違うはずもない……例え、記憶に焼き付いているその姿とは違っていても、君という存在を見間違うはずはない」
まるで少女に縋り付くかのように、サンソンは声を震わせる。
対して少女はにこやかな笑みを絶やすことなく、自らの腕で自分を抱きかかえているサンソンの苦悩をまっすぐ見つめていた。
傍目にはそれは、苦しむ青年を嘲笑っているかのようにも見えた。
「どうしてだ、マリー! どうして君がこんなことを!?」
「どうして? あなたがそれを聞くの? あら、どうしてかしら? 悩み過ぎて頭がおかしくなってしまったのかしら? それともそんなことにも気づけないくらい幸せな人だったのかしら?」
「違う、僕が知っている君は――――」
「あなたが私の何を知っているというの?」
その瞬間、ゾッとする程の寒気が背筋を走り抜けた。
一瞬、マリーと呼ばれた少女から笑みが消えたのだ。
張り付いた仮面の向こうに垣間見えたのは、先ほどのデオンが生易しく感じるほどの憤怒の炎。
全てを憎み、妬み、根絶やしにしなければ気が済まないという恐ろしい狂気の光。
突然の急変にサンソンは訳も分からずたじろぎ、少女から後退った。
「私の首をはねて、後悔のあまり懺悔して、分かったつもりでいたの? ならば不要な苦悩よムッシュ・ド・パリ。見ての通り、マリー・アントワネットは人並みな女なの」
自らを慈しむように、少女は我が身に腕を廻して恍惚とした笑みを浮かべる。
彼女が口にしたマリー・アントワネットというのは、フランス革命においてその命を散らしたフランス王妃の名だ。
王権の象徴として愛され祝福されて生きながら、王権の象徴として憎まれ貶められて死に果てた女性。
かつては自由奔放故に国政を傾かせるほどの贅沢を働いたと言われていたが、現在は飢饉に苦しむ民のために国費を削ってまで寄付金を用立てるなど民衆思いの人物であったことが確認されるなど、名誉回復が行われている。
しかし、何よりも彼女の名を有名にしたのは、革命の果てにギロチンで首をはねられたことであろう。
王族故のセンセーショナルなゴシップ、革命という歴史の転換期、その悲劇的な末路は今なお歴史に語り継がれている。
そんな悲劇の王妃こそが、このフランス特異点の人理定礎を破壊せんとする黒幕だったのだ。
そして、何を隠そう彼女の処刑を担当したのが、シャルル=アンリ・サンソンその人なのである。
「君は、この国を愛していたんじゃないのか?」
「ええ、愛しています。私はこの国に嫁ぎ、家族に恵まれ幸せな時を過ごせました。民を思い、民に愛された日々を私は決して忘れません。サンソン、私は何もあなたを恨んではいません。あなたはただ自分に課せられた義務を全うしただけ。私は民を憎んではいません。この世に絶対なんてものがないのなら、いつかは王制も廃され終わる日が来ることでしょう。自由を求め、豊かな暮らしを求め、明日を夢見た故国の民を私は憎みません…………けれど、何故、それがあの時だったの?」
剥がれ落ちた仮面が地に落ちる。
憤怒と憎悪に彩られた壊れた笑み。
フランスという国に恋をし、民に愛され、最後には裏切られた堕ちた偶像。
その側面が今、この時代に姿を現したのだ。
「許せないわ、認められないわ。どうして私達だったの? 何故、それ以前でも以後でもなくあの時だったの? 私は国を愛した! 夫は国に尽くした! 子ども達には罪なんてなかった! なのに世界は私から全てを奪った! フランスという国に革命の火を注いだ! それを許してなんておけないわ!? 私には国も民も憎む資格はない! けれどこの身の運命を、次代のうねりに怨嗟をぶつける権利はある! だから、この時代に召喚された私は復讐者として時代そのものへの報復を決意したの!」
「マリー、では君は……」
「いずれ滅びるというのなら、いくらでも時計の針を進めましょう。私達が生きたあの時代が訪れることなどないように、この国が二度と立ち直れなくなるくらい、完膚なきまでに!」
それこそが、人理定礎を破壊する理由なのだとマリーは言う。
いずれは訪れるフランス革命という時代の転機を消し去るために、少女は復讐へと身をやつしたのだ。
何て痛ましい光景であろうか。
一人の少女が、これほどまでに怨嗟を吐かずにはいられなくなるほど憎しみを募らせていたのだから。
「おお! 遂に本性を現したな、魔女め! 愚昧な神に代わってこの私が鉄槌を食らわせよう!」
動揺のあまり言葉すら返せなくなったサンソンを押し退ける勢いで、ジル・ド・レェが前に出る。その手には彼の宝具である『
だが、召喚された海魔の群れはジークフリートとデオンによって瞬く間に蹴散らされてしまう。卓越した技量を持つサーヴァントが相手では、海魔達は単なる動く的でしかなかった。
切り捨てられた肉片は再生こそ始めているが、いよいよとなればジークフリートは再び宝具を発動するであろう。一度に大軍を焼き払える対軍宝具はジル・ド・レェにとって天敵であり、今度も上手く防御できるとは限らない。
『所長、ここは撤退を! これ以上の戦闘は危険です!』
「分かっています!」
だが、口では簡単に言えるがこの状況を切り抜けて脱出するのは容易ではない。
相手は不死身の英雄ジークフリートに、フランス王家の騎士シュヴァリエ・デオン。今はまだジル・ド・レェの海魔によって足止めできているが、この状況でもまだこちらが有利とは言い難い。
何よりマリー・アントワネットという首魁の力が未知数だ。何の武功も魔術的な逸話も持たない王族。しかし、その内には世界を焼き尽くしてなお余る憎悪が煮え滾っている。
その憎しみは、こちらが下手に背中を見せようものなら、何をしでかすか分からない不気味な危険性を秘めていた。
「さすがに数が鬱陶しい。ジークフリート、頼めるか?」
「……ああ」
海魔の壁の向こうで、再び黄昏の色の魔力が迸る。
ジークフリートが宝具を発動させたのだ。あれが放たれれば、今度こそ自分達は一巻の終わりである。
何か手はないかとオルガマリーは思案するが、有効な手立ては思い浮かばない。
マシュはもう限界であり、サンソンもマリーを前にして調子を崩している。ジル・ド・レェは奮闘しているが、冷静さを欠いていた。ファントムは――――。
(ファントムがいない?)
確かジークフリートと戦って瓦礫の山へと蹴り飛ばされたはずだったが、いつの間にか彼の姿が消えていたのだ。
『これは……ファントムの魔力反応? どんどん強くなっている!?』
魔力の流れを辿ると、崩れかかっている廃屋の屋根にマントを纏った殺人鬼が立っていた。
苦し気に息を漏らし、肩を震わせながら、仮面の奥の眼差しが一人の少女を見据えている。
マリー・アントワネット。彼から愛するクリスティーヌを奪った復讐の王妃を、その眼に焼き付けんとばかりに必死の形相で睨みつける。
すると、彼の背後から巨大なパイプオルガンが現出した。
魔力によって編み上げられたそれは、無数の人骨を積み重ねて作り上げられた狂気の産物。
ファントム・ジ・オペラがサーヴァントとして座に召し上げられた際に獲得した、悪魔的演奏装置。
呪われし魔の戦慄を奏でる彼の宝具の名は、同時に彼が愛してやまない歌姫の名でもある。
「奏でろ我が愛、我が情念。『
鍵盤が叩かれると同時に、異形の発声器官から耳をつんざく奇々怪々な音色が奏でられる。
不可視の魔力攻撃であると同時にその音色は聞く者の精神を疲弊させ、狂気へと誘っていく。
その音色に当てられたのかデオンは顔を歪めて剣を取りこぼし、ジークフリートも集中が乱れて発動寸前だった宝具の魔力が霧散していった。
ある程度は指向性があるのか、オルガマリー達への影響は少なかったが、それでも手足が震えたり軽い幻聴を覚えてしまう。
一方、狂える退廃の楽土において正気を保っていたマリーは、即座に水晶の馬を呼び出してファントムを攻撃せんとした。
宝具の発動に集中しているファントムには身を守る術はない。
しかし、同じくこの狂気の中で正気を保っていたジル・ド・レェがそれを許さなかった。
先ほどまでジークフリート達と戦っていた海魔に加え、更に制御を度外視して津波のように無数の海魔を召喚して馬に飛び乗ったマリーを押し流し、こちらに向かってあらん限りの声を張り上げた。
「今です、ご決断を!」
「撤退! 全速力!」
オルガマリーの号令で演奏を中断したファントムがいち早く離脱し、その後に異形の津波に押し流されたマリーを気にしながらサンソンが続く。
サーヴァントではないオルガマリーと立香、動けないマシュはジル・ド・レェが召喚した大型トラックほどの大きさの海魔の触腕に持ち上げられる。
気が遠退いてしまうほどの腐臭が鼻につき、ねばついた粘液を頭から被ってしまうが今は文句を言っていられない。触腕の内側のいぼいぼが太股や首に巻き付きくすぐるかのように蠢いている不快感にも目を瞑ろう。
とにかく、今は全速力でこの場を離脱しなければならない。
いずれは訪れるであろう再戦の為に、何としてでも生きねばならないのだ。
□
黄昏色の魔力が空を裂き、海魔の群れが一掃される。
肩で大きく息を吐いたジークフリートは、同じく傍らで膝をついているデオンに手を貸して立ち上がらせた。
「無事なようだな」
「そちらも。だが、王妃は……」
彼女の力があれば海魔如きに後れを取る事はないだろうが、それでも忠誠を誓った身としては彼女の行方が気がかりなのだろう。
城に戻れば魔術師の力で探せるだろうかと二人は思案したが、それは必要のないことであったとすぐに安堵する。
嘶きを上げる水晶の馬が、こちらへと向かってきていたからだ。
「ご無事ですか、陛下」
「ええ、少し驚きましたが彼が助けてくださいましたので」
そう言ってマリーが後ろを指差すと、馬に乗った鎧姿の男が彼女の後ろに控えていた。
自分達と同じく、この時代に召喚されたマリーに従うサーヴァントの一人だ。
「彼らの逃亡を許してしまったが、追撃はどうする?」
「そうね。ジークフリート、あなたの意見は?」
「……足の速さを考えるなら、彼に行ってもらうのが一番だろう」
ほんの少しの逡巡の後、ジークフリートは主の後ろに控える騎兵へと目をやった。
騎乗スキルならば自分も有しているが、普通の馬では一日に走れる距離にも限度がある。
どこに逃げたのか分からない以上は、騎兵である彼に頼るのが筋というものだろう。
マリーもその意見には賛成したのか、にこやかな笑みを浮かべて背後の男に懇願した。
「では、頼めますか? あの方々を見つけ出して報告してください……ゲオルギウスのおじさま」
「……お任せを」
ほんの一瞬、眉をしかめながらゲオルギウスと呼ばれた男は自らの主に一礼した。
本人があの性格なので召喚される可能性は低いけれど、恐らくは持っているであろう復讐者適性。復讐に狂ったマリーなんて見たくないような、それはそれで見てみたいような。ちなみにアイコンが違うだけのお手軽クラスチェンジです。
なお悪竜の鎧はダメージは無効化できても因果の逆転までは覆せないと判断し、槍は心臓に達するけどノーダメという結果で描写しました。本気のすまないさんは戦う相手の方がすまない(降参)したくなるんだぜ。
バビロニアアニメで唐突な所長登場にびっくり。創作意欲が刺激されて書き上げてみたら嘔吐したり触手に巻き付かれたりと散々だな(笑)
それでも頑張る所長が大好きです。