水に憑いたのならば   作:猛烈に背中が痛い

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善意が必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。ンッン~、名言だなこれは……。


第拾壱話 善意の毒

 チュンチュンと、スズメの囀りを目覚ましに胡蝶しのぶはゆっくりと瞼を開けた。

 

「う、ぅん……ふぁぁぁ……」

 

 久々に味わう心地よい朝。言葉に言い表しがたい優しい温もりによって、しのぶは昨晩自身を苦しめた悪夢の痛みを忘れてしまうほどに快調を感じている。

 

 隣を見れば、いつも通り姉が眠っていた。気持ちよさそうに布団に包まりながらへにゃりと崩した幸せそうな顔を浮かべて寝息を立てている。それを見てしのぶも思わず笑みを浮かべ、姉の顔をそっと撫でた。

 

「…………あれ?」

 

 そこでしのぶは滓かな違和感に気付いた。自身を包む温もりの源、それが隣で寝ている姉のものであるとは理解した。が、何故か反対側からも同じような温もりが感じられるのだ。

 

 嫌な予感を胸に、しのぶは喉を鳴らしながら恐る恐る振り向く。

 

 

 そこには、何故か、見覚えのある男の寝顔が、あった。

 

 

「……………あ、あ、あ」

 

 状況が上手く呑み込めないしのぶは自分でも信じられない程震えている声を喉奥から漏らしてしまう。

 

 ――――何? どうなっているの? どうしてあの男がここに?

 

 そのまま何も言えずに固まってしまったしのぶをよそに、まるで狙ったとしか思えないタイミングで両隣の二人が目を覚ました。

 

「ふぁぁああぁあ……あら、しのぶ。もう起きたの? あ、義勇君おはよう~」

「……ん、もう朝か……おはよう、胡蝶、カナエ」

 

 名前で呼び合っていた。その事実を理解したしのぶの混乱は最高潮に達しようとしている。

 

 昨日までは普通に苗字で呼び合っていた筈。なのに何が起こったの? あの短い夜の間で一体何が!?

 

 寝起きという事もあるだろうが、混乱した頭をフル回転させたしのぶはおよそ数秒で最悪の予想を叩き出していた。男女二人が立った一晩で絆を深め合うなんて、それはきっと……

 

「姉さん……昨日、この人と、何をしたの?」

 

 しのぶは死んだ目と声で姉にそう問うた。しかし未だ頭が覚醒途中なのかカナエはしのぶの異変に気付かないまま、ホワホワと幸せそうな笑顔で返事をする。

 

「うふふっ、実は昨日の夜に義勇君と色々話し合っちゃって。やっぱり義勇君は、とっても優しかったわ」

(何が優しかったの? ナニが?)

「それに私が抱きしめると、子供みたいに手をぎゅっと握って……これがもうすごく可愛いの!」

「……俺は子供じゃない」

「もう、照れ屋さんね~」

(抱きしめた? 手を握った? えっ、えっ、えっ)

 

 悪い予想図を否定したいのに、それを肯定する材料がどんどん出てくる。嘘だ。そんなの嘘だ。そうだこれは夢だ、私はまだ悪夢を見ているのだ。

 

 しのぶはついに現実逃避を始めた。

 

「……冨岡、さん。昨日、私と姉さんに、何をしたの?」

「? ……昨晩は、お前をカナエと共に抱いて寝たが」

 

 そう言われたしのぶは無言で立ち上がり、棚の中にしまっていた訓練用の真剣を取り出した。

 

 突如そんな行動を取るしのぶを見て、カナエと義勇が訝し気な表情を浮かべる。何だ、おかしいのは私の方だと言うのか? そんな訳ない。姉さんはきっとあの男に誑かされて手籠めにされたんだ。

 

 

 ――――なら私が、目を覚まさせてあげないと。

 

 

「しのぶ?」

「胡蝶?」

 

 しのぶは義勇の前に立ち、抜刀した。

 

「え」

「とっととくたばれ糞野郎」

 

 

 その日の胡蝶家の朝は、凄く騒がしいものであった。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 世界はとても理不尽なものだと、俺は今日再確認した。

 

 俺に非が無いのかと言えば嘘になる。家族でもなければ付き合ってもいない、知り合って間もない歳の近い男女が同衾など、俺も第三者の立場であれば余程の事情が無い限り正気を疑うだろう。

 

 そしてしのぶからしてみれば寝て目が覚めたら知り合って一日の男が隣で熟睡しているという光景。気が気じゃ無かっただろう。つらいだろう。叫び出したいだろう。()()()()

 

 だが、だがそれでも、いきなり真剣で斬りかかってくるのはいかがなものか。俺の白刃取りが間に合っていなければ間違いなく早朝早々に頭が真っ二つになり脳漿をぶちまけたスプラッタ惨殺死体が一つ出来上がっていた。

 

「…………どうぞ」

「ああ……」

 

 そんな衝撃的な朝を迎えた俺は、当然だがしのぶと気まずい雰囲気になっていた。

 

 あの後何かしらの誤解を解くために一時間にわたる事情説明を行った結果しのぶは何とか落ち着いたが、それでも俺が姉妹の寝る部屋で快眠していた事実は変わりない。不可抗力とはいえ男としては少々、いやかなり駄目な行動だ。

 

 くっ、穴があったら入りたい……!!

 

 俺はしのぶから受け取った米を死んだ目で咀嚼しながら、チラリと彼女の顔を見る。

 

 想像通りではあるがまるで石のように固まった無表情だった。ああ、うん。怒ってる。怒ってるよアレは。そうだよね、怒るよね……。ほんの少し顔と耳が赤くなっているのが何よりの証拠だ。

 

「……その」

「うるさい。黙ってて」

「はい……」

 

 三歳年下の女の子に怯える男子の図。情けないにも程があるぞ俺。

 

「義勇、どうしてお前は次々と厄介事を作るんだ」

「面目次第も無い……」

 

 半眼になった錆兎からの痛い言葉が心にぐっさりと突き刺さる。

 

 錆兎には事情はもう伝えてある。しかしだからと言って俺を庇ったりはしない。友人であっても悪い事をしたのならば、責任は取るべきだと錆兎は言った。俺もそれには同感だ。

 

 流石に真剣で斬りかかられたことについては同情の眼差しだったけど。

 

「義勇君、ごめんなさいね。私が無理言ったせいで……」

「いや、全責任は俺にある。カナエは悪くない」

「……お前たち、いつの間にか名前呼びになったんだ?」

「ああ、ほら。苗字だとしのぶと混ざっちゃうでしょう? なら名前で呼んだ方がわかりやすいし、親近感も生まれると思って。錆兎君も名前で呼んでいいのよ?」

「なるほど……まあ、弟弟子が道を踏み外していないようで何よりだ」

 

 俺って子供に手を出すと思われる程信用なかったのか……? 俺はそんな疑問を抱いたが、これ以上口を開くとしのぶに睨まれそうだと思ったので口には出さなかった。

 

 結局その後俺としのぶの間で言葉が交わされることは無かった。

 

 気まずい雰囲気のまま時間は過ぎ去り、気が付けば俺は錆兎と共に庭に面する縁側に腰掛けて、剣を振るしのぶの姿を眺めていた。

 

 ……あれ、何で俺たちはまだ此処に居るんだっけ。

 

「二人とも、お茶淹れてきたわよ~。御茶菓子もどうぞ」

「ああ、ありがとう」

「気遣いに感謝する」

 

 ニコニコと笑顔を浮かべたカナエが昆布茶とせんべいを持ってきた。何故だろうか、俺たちが家を発とうとする瞬間に限って狙いすましたかのように差し入れが飛んでくる。どういう事だってばよ。まるで意味が分からんぞ。

 

 カナエの笑顔はとっても綺麗で優しい。しかし今の瞬間だけは得体のしれない恐怖を感じるのは、きっと気のせいだと信じたい。

 

「しのぶ、無理はしないで少し休みなさい。身体を壊してしまうわ」

「っ……もう少しだけ!」

 

 顔に疲弊の色が見え始めたしのぶ。肩を上下に揺らしながらも懸命に全集中の呼吸を練り上げようとしている様は見ていて良い気分が浮かぶものでは無かった。

 

 彼女の目の前には大木から切り出したであろう太い丸太が鎮座している。幹は浅い切り傷でズタズタになっており、そこから彼女がどれだけ長い年月をかけて鍛錬を繰り返したのかが見て取れる。ただ、その結果は……。

 

「なんで、斬れないのっ……!!」

 

 俺たちがしのぶを見かけ、その修練を見てから既に百回以上の斬撃が繰り出されていた。だがそのどれもが丸太に浅い傷を作るだけに留まっている。

 

 先程も述べた通り、鬼の頸は極めて堅い。日輪刀は鬼の頸を斬ることでその命を絶つが、頸を断つには相当な力を要求される。雑魚鬼であってもその堅さは石を優に超え、故に刀を使っても石に傷を付けるので精一杯な一般人では例え日輪刀を持っていても意味は無い。

 

 頸を斬れないなら、日輪刀とてその価値を発揮できないのだから。

 

「っ、あぁぁあぁああぁあああああっ!!」

 

 しのぶは痛ましい、もはや悲鳴としか表現できない雄たけびを上げながら丸太へと斬りかかる。

 

 が、度重なる無理が祟ったのだろう。彼女の両手から訓練用の真剣がするりと、すっぽ抜けた。

 

「え」

 

 茫然とそれを見るしのぶ。彼女を置いてけぼりにしながら刀は回転し、明後日の方向へと飛んでいってしまう。

 

 敢えて言うなら、俺の顔面目がけて。

 

「避け――――!?」

 

 直後に起こるであろう惨状を想像してしのぶの顔から血の気が引き、あまりにも遅すぎる警告が発せられる。常人ならば今更声を上げても反応できない。

 

 常人ならば。

 

 俺は何も言わず飛んできた刀の刀身を人差し指と中指で挟んで制止させた。刃と顔の距離は、正しく目と鼻の先。

 

 ……次からはもっと早く止められるよう精進せねば。

 

「……しのぶ」

「っ」

 

 カナエの声から柔らかさが消えた。

 

 自らの忠告を無視し、剰え客人を危険にさらした。いくら温和な彼女とて怒るべき時には怒る。しのぶがカナエにとって唯一残った肉親だったとしても、それは決して過度に甘やかしていい理由にはならない。

 

「今日はこれ以上の鍛錬は許しません。顔を洗って、頭を冷やしてきなさい」

「……うん」

 

 悔しさのあまり唇を噛み、服の裾をくしゃくしゃになるまで握り締めながらしのぶは部屋の奥へと消えた。

 

 俺たち二人は何も言えない。俺はともかく錆兎は彼女らの事情をほとんど知らないのもあるし、何より身内の問題だ。何とかしてやりたいという気持ちは余るほどあるが、どういった行動を取れば良いのかがさっぱりわからない。

 

 満ちていく無言の時間。しかしそれは、傷だらけの丸太の表面を撫でるカナエによって破られた。

 

「義勇君、昨晩に言った事を覚えているかしら? しのぶは、育手に殆ど見捨てられたようなものだって」

「……ああ」

「何? どういう事だ?」

「しのぶはね、斬れないのよ、鬼の頸を。いくら鍛えても意味がないと、育手の方は言っていた。どれだけ研鑽しようと、どれだけ努力を重ねようと、あの子が鬼の頸を斬れる日は来ない。それは生まれた瞬間から決まっていたことなんだ、って」

 

 それはどれだけ辛い事なのだろうか。家族の仇である鬼を自らの手で誅したいのに、その力が無い。そしてその力は、生まれた時に既に決まっている。

 

 どうやっても覆すことのできない、才能という残酷な壁。

 

「……どうして私だけ、鬼の頸を斬れる力が備わってしまったのかしら。こんな事なら、いっそ二人とも斬れなければ、しのぶも諦められたかもしれないのに……」

「………………」

 

 自分は憎き鬼は殺せない。

 

 最愛の姉は鬼を殺せる。

 

 共に戦えない。役に立てない。

 

 自分だけ安全な世界にいながら、どうして愛する家族を死地に行かせて安心できようか。無力のままその場で燻ぶったまま、姉の死が訪れるその日が来れば――――果たしてしのぶという少女の心は耐えられるだろうか。

 

 ……言わなくとも、結果など分かり切っている。

 

「二人とも、少し席を外す」

「義勇?」

「義勇君?」

「少し励ましてくる」

 

 しのぶが今の状態でカナエの言葉を素直に受け入れるとは考えづらい。下手すると余計にこじれる可能性があるだろう。

 

 まずは落ち着かせるべきだ。話だけでも聞いて、今の彼女が心の奥に押し込んでいるものを吐き出させねば。

 

 そんな思いを抱きながら俺は水飲み場へと歩き、すぐにしのぶを見つけることができた。水滴の垂れる顔からはいつものような不満げな表情はどこかへと消え、憔悴が満ちたものになっている。

 

「……胡蝶」

「! あなたは……」

 

 こちらへと振り向いたしのぶは瞳から水ではない滴を頬から伝わらせていた。一瞬だけ呆け、しかしすぐにいつも通りのキッとした表情に戻った彼女は強がるように俺へと言葉をぶつける。

 

「……何よ、いきなりこっちに来て。用が済んだなら、早くここから出ていけばいいじゃない」

「言われなくともすぐに発つ。が……世話になった以上、何も言わずにさよならという訳にはいかないだろう。困っている事があるなら話してみろ。聞き手くらいにはなれる」

「……………………」

 

 少しの間しのぶは迷うように口の開閉を何度も繰り返し、やがて抑えきれなくなったのか静かに嗚咽を漏らしながら心の底に溜まった黒い沈殿を吐き出し始めた。

 

「……私たちの両親は、鬼に殺されたの。目の前で生きたまま、醜い怪物に貪り食われた。その鬼が好物を後に取っておく性格だったのが幸いして、食われそうになった寸前で駆け付けた鬼殺隊の方が鬼を倒してくれたの」

 

 言葉を出しながらその光景を思い出したのか、しのぶの目から流れる涙は少しずつ増していく。彼女がそれを服の袖で乱暴に拭くが、それでも涙が止まることはなかった。

 

「でも、だからと言って両親の死に様を忘れられたわけじゃなかった。ずっとずっと、何日かに一度はあの光景が浮かんで……なのに、鬼の頸は斬れないって言われて……! それでもいつかはできるって信じて、あんなにたくさん頑張ったのにっ……自分の手で鬼を倒せるんだって信じてきたのに……!! こんな、こんな事ってないよぉっ……!!」

 

 感情の波が最後の防波堤を打ち壊し、しのぶは双眸から滝のように涙を流し力なく膝から崩れ落ちた。俺はとっさに彼女の体を受け止める。

 

 彼女の細い腕が俺の腰に回されて、胸が涙で濡れていく。

 

「なんで私はこんなに無力なの……! なんで私だけ姉さんを見送らなければならないの……!! 一緒に戦うって、一緒に鬼を倒して、一人でも多くの人を助けるって決めたのにっ……!! っ、う、ぁあぁぁぁあぁあぁあああああああ……!!」

「…………そうだ、お前は頑張った。だから今くらいは泣いていいんだ、しのぶ」

 

 悲しみに叫ぶ彼女を宥めるように、俺はひたすら彼女の背中を摩った。

 

 いくら鍛えているといっても、彼女はまだ十歳だ。まだ成熟しきっていないだろう精神が両親の死や様々な挫折に耐えられる道理などない。それでも彼女はボロボロの心に鞭打ち、無理やり進み続けようとしたようだが……今くらいは、休ませてあげよう。

 

 片羽の蝶など、俺は見たくないのだから。

 

 

 

 

「落ち着いたか?」

「…………はい」

 

 十分ほど過ぎてようやく落ち着いたのだろう。しのぶは涙の痕を水で洗い流した後、恥ずかしそうに顔を俯かせながらそう返事をした。

 

 まあ、知り合って間もない人間にあれだけの泣き顔を晒したのだ。恥ずかしいに決まってる。

 

「その、ごめんなさい。色々と……」

「色々?」

「ええと……今朝の事とか……」

「ああ。いや、あれは俺が悪いだろう。胡蝶が謝ることじゃない」

 

 何故だろうか。しのぶの態度が急にしおらしくなった。おかしいな、俺の予想では前の様な強気な顔に戻ると思っていたのだが……ううむ、人の感情というのは思い通りにはいかないものだ。

 

「夢を、見たの」

「え?」

「両親が殺される悪夢の後……とても懐かしい夢を見た。お父さんとお母さん、カナエ姉さんみんなと一緒に寝る夢を。そんな夢、今まで見たことも無かったのに。……たぶん、貴方が隣にいてくれたから見れたのかもしれない」

「そうか」

 

 なるほど、どうやら悪い事ばかりではなかったらしい。ほんの些細な安らぎではあるが、荒んだ彼女の心を癒せたのならば何よりだ。

 

 では最後に、彼女へと置き土産を置いて行くとしよう。

 

「胡蝶、お前は鬼の頸を斬れない。そうだな」

「……はい」

「だが、それが決して鬼を殺せないと言う事にはならないだろう」

「え!?」

 

 俺の言葉にしのぶは心底驚いたように目を見開いた。さながら、暗い水底で一筋の光を見たように。

 

「大昔の人々は試行錯誤の末に、太陽の力を溜め込んだ鉱石を使って日輪刀を作り、それを使って頸を斬ることで鬼を殺す方法を見つけた。だがその事実から”鬼は日輪刀を使わねば殺せない”という結論に至る訳ではないことは知っているはずだ」

「確かに……」

 

 鬼を殺す手段は一つではない。現時点で判明しているのは日光を浴びるか、日輪刀で頸を斬られるか、鬼舞辻無惨の名を口にするかの三種類のみであるが。そしてこの話で一番重要なのは、鬼を殺す手段は複数ある事。そして他の方法を見つけられる可能性も無いわけではない、という事だ。

 

「鬼の生態は未だ未解明な所が多い。それらを調べ尽くし、幾多もの方法を試せば、非力な者であっても鬼を殺せる方法を見つけられる可能性はある」

「頸を斬れないなら……他の手段を……」

「確かカナエが、お前は薬師のようなことができると言っていたな。では、鬼の嫌う藤の花を使って薬を……”毒”のようなものを作れないか? 頸を断たずとも鬼を殺せる、藤の猛毒を」

「あ……………」

 

 しのぶは唖然と、目から鱗が落ちたような顔を浮かべた。

 

 それからわなわなと肩を震わせて、両手をぎゅぅと力いっぱいに握りしめながらまたもや両目から大粒の涙を落とし始めてしまった。

 

「こ、胡蝶……?」

「……ありがとうっ……ありがとう、冨岡さんっ……!」

「ああ。お前なら、きっとやれるさ。応援している」

「っ、ぅ、ぅうぅぅうっ……!!」

 

 今度は大声で泣き出すようなことは無かった。それでもしのぶは心の底から湧き上がる歓びを抑えきれないのか、両手で口を押えて嗚咽を漏らした。

 

 絶望という暗い闇の中に、明確に希望の光が差し込んだ。その高揚感が筆舌に尽くしがたい物だという事は想像に難くない。

 

 

「――――カァーッ! カァァ――――ッ! 緊急! 緊急! 冨岡義勇! 至急南西ヘト急行セヨ! 調査ニ向カワセタ隊員ガ十名以上行方ヲ眩マセテイル! 至急原因ヲ解明セヨ!!」

 

「「!!」」

 

 

 突如黒い物体――――黒衣が伝令を大声で叫びながら窓から入ってきた。そしてその内容を聞いて俺としのぶは無言で息を呑む。

 

どうやら休暇は返上せねばならなくなったらしい。しかしその内容を聞けば不満の気持ちなど湧かない。

 

 鬼殺隊員が十名も行方不明になった。鬼の仕業かどうかは未だ不明であるが、ただならない事態だということは確かだ。とにかく、呼ばれたのならばすぐに向かわねば。これ以上被害が広がる前に。

 

「では胡蝶、これで失礼する。世話になった」

「あ、と……冨岡さん!」

「なんだ?」

 

 すぐさま踵を返して胡蝶家を後にしようとするも、突然しのぶに呼び止められた。何か俺に用事でも残しているのだろうか?

 

 そう思っているとしのぶは袖から小さなお守り袋を俺へと渡してきた。触ってみると、中に何か固いものが入っているような感触がする。

 

「袋の中に強心薬が入ってるわ。自作だけど、効き目は確かな筈よ。きっと役に立つと思うから、いざという時に使って」

「そうか。では、遠慮なく使わせてもらおう」

「死なないでよ。貴方が死んだら、姉さんが悲しむんだから!」

「……ああ!」

 

 先日通りの快活な笑みに見送られながら、邸宅を足早に出た。すると玄関で佇んでいた錆兎が腕に己の鎹烏を乗せながらこちらへと振り向いた。

 

 どうやら錆兎の方も連絡を受け取ったらしい。

 

「義勇、遅かったな」

「ああ、少し話し込んでいた。直ぐに出発しよう。日が沈むまでには着きたい」

「無論だ!」

 

 俺たちは共に空を飛ぶ烏を追いかける。

 

 どんな鬼が潜んでいるかはわからない。だが、必ず生きて帰ろう。明日のために、未来のために、友や家族のために。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「……どうしよう」

 

 胡蝶しのぶは困っていた。具体的には、姉にどうやって話しかけようかという課題に。

 

 事の発端は自分が言いつけを無視して姉の友人かつ恩人に危害を加えかけたというところから始まっている。

 

 友人の方からはもう気にもされていないようなので問題は無いのだが、如何せんあの時の姉は普段と比べてかなり怒っていた。滅多に見せないその怒りに、しのぶはどうすればいいのかわからない。

 

「一番いいのは謝ることなんだろうけど……ううん、とりあえず話しかける所から――――姉さん! ……あれ?」

 

 姉の私室の戸を開けながらしのぶはカナエを呼んでみるも、返事は無し。

 

 居間や客間、厨房は既に確認済み。いるとしたら此処くらいしか無いはずなのだが、と訝しがりながらしのぶは部屋を見渡し、偶々視界に入った机の上に置かれている一枚の紙切れを手に取る。

 

 どうやら姉の書置きらしい。

 

『食材の買い出しに行ってきます。お姉ちゃんが居ないからって勝手な事はしないように』

「……姉さん」

 

 そう言えば昨晩と今朝に予想外の消費があったため、備蓄が無くなりかけてきたのをしのぶは今思い出した。

 

 だからと言って何も言わずに行くか、としのぶは姉の自由奔放さに呆れつつも改めて姉の部屋を隅々まで見渡してみる。買ったばかりとはいえ、女子の部屋にしては酷く質素だ。両親と暮らしていた時には、もう少し飾り気があったというのに。

 

「……いや、その必要が無いからよね」

 

 鬼殺隊員は余程の事が無い限り任務が終わって即帰宅、という事はほぼ無い。というか鬼殺隊に属している者の大半は身寄りの無い者。一々実家に帰る事など想定していない。

 

 故に飾ったところで意味などほとんどないだろう。使うこと自体が稀なのだから。

 

「……掃除くらいはしておこう」

 

 深く考える程気持ちが沈んでいく様な気がして、しのぶは気を紛らわすように姉の部屋の掃除を行うことにした。とはいえそこまで本格的なものでは無く、行うのは物の整頓整理くらいだ。

 

 棚から床に落ちている本を元の場所に収めたり、無造作に出された日用品を棚に入れたり――――そんな事をしていると、ふと棚の奥に何かの封筒を見つけた。

 

 何だろう、としのぶは好奇心のままそれを手に取り――――すぐに己の行動を後悔した。

 

「これ、って……」

 

 

 ”遺書”

 

 

 真っ白な封筒に刻まれた無機質な文字は、酷くしのぶの胃を絞め付けてくる。

 

 心のどこかではわかっていた。鬼殺隊はいつ死んでもおかしくない役職。才能の無い平隊員は当然のように鬼の凶手にかかり、例え才能があっても運が無ければ無慈悲に殺されていく。

 

 そんな鬼殺隊の隊員になった姉が、遺書を用意していない訳がなかった。

 

「…………………少し、だけなら」

 

 後になって思えば、やめておけばよかったと思う。

 

 私はまだ子供だったのだ。心がまだ未熟で、好奇心にすら碌に抗えない小さな子供。ただ感情のままに行動する、馬鹿な女の子。

 

 

『これを読んでいるという事は、私はもう死んでいるのでしょう。

 

 しのぶ、ごめんなさい。貴方を残して先に逝ってしまった私を許してください。そして、決して後を追いかけようだなんて思わないでください。

 

 私は貴方に生きて欲しい。もしこれを読んでいるときに貴方が鬼殺隊になってしまっているのならば、私は貴方が鬼殺隊を辞めることを願います』

 

 

「――――え?」

 

 

 声が、震える。

 

 どういう事だ。私に鬼殺隊を、やめて欲しい? なんで、どうして、だって――――

 

 

『貴方が両親のために、鬼に襲われるかもしれない顔も知らない誰かのために頑張っているのはよくわかっています。貴方のその優しさは、姉として誇りに思う限りです。

 

 でも私は貴方に普通の幸せを掴んでほしい。出来ないことを無理に続けなくてもいいの。

 

 普通の女の子の様におめかしをして、素敵な殿方と恋をして、可愛い子供をたくさん産んで、お婆ちゃんになるまでしっかり生きて欲しい。

 

 もう十分だから。こんな辛く苦しいことをするのは、私だけで――――』

 

 

 その先を読む前に、しのぶは遺書をくしゃりと握り潰した。

 

 ポタリ、ポタリと紙に生暖かい雫が落ちる。

 

 

「―――――――――嘘つき」

 

 

 悲しみもあるだろう。苦しみもあるだろう。

 

 だが、この涙が締める感情は。

 

 

 怒り、だった。

 

 

「一緒に鬼を倒そうって、言ったのに」

 

「一緒に困ってる人を助けようって誓ったのに」

 

「なのに、なのに、なのに」

 

 

 ふつふつと、しのぶの胸の奥底から黒いものが溢れ出す。今まで抑えつけていた不満が、爆発寸前まで熱されていく。

 

 何故? 決まっている。だってこの遺書の内容は、まるでカナエがしのぶを――――

 

 

「最初から……信じて無かったっ……!!! 最初から、私の事なんてっ……!!!」

 

 

 いつも優しい言葉で励ましてくれていたのに。

 

 それは全部嘘だったのか? 上辺だけのものだったのか? 怒りがしのぶから冷静な判断力を底なしに奪い続け、負の解釈の螺旋を描き始めた。

 

 きっとこれは、(カナエ)からの純粋な善意の筈なのに。

 

 

 ――――みしり、と。しのぶの心に罅が入った。

 

 

 理解出来ない。何もかも許容できない。どうしてなの姉さん。貴方は最初から私の事を信じて無かったの。一緒に約束したのに、一緒に鬼を一匹でも多く倒そうって約束したのに。それは嘘だったの?

 

 優しかった貴方の、一体何処までが本当なの?

 

 胸が苦しい。痛い。そう、これはきっと――――信じていたものに、裏切られた痛みだ。

 

「……………ろさなきゃ」

 

 しのぶはふらふらと、まるで幽鬼のように音もなく立ち上がった。

 

 視線の先にあったのは、無造作に立て掛けられている姉の授かった日輪刀。今知っている中では鬼を殺せる唯一の武器。

 

 何も言わずに、しのぶはそれを手に取る。

 

 

「私が鬼を、殺さなきゃ……一匹でも、多く…………ッ!!!」

 

 

 地獄の釜の底から湧き出るような真っ黒に濁った声で、しのぶは無謀な道へと一歩を踏み出した。

 

 

 

 

「――――しのぶ~! 姉さんが帰ったわよ~。怒ってないからお話しましょう~? 一体どこにいるの~?」

 

 

 その後帰宅したカナエは家の中を歩き回り、妹の姿を探し回った。

 

 やがて自室の前にたどり着き――――くしゃくしゃに握り潰された一枚の紙切れを見て、抱えていた風呂敷の中身をその場でぶちまけた。

 

 

「…………え?」

 

 

 

 長い夜が始まる。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 暗い。暗い。陽の光一本すら入り込まない暗黒の中、赤黒く固まった血と肉の腐る臭いが充満する。

 

「あぁ、あ、ぁ」

「――――不味い。やはり顔が素朴では肉も味わいが無い」

 

 天井から宙づりにされた女たちの死体。そこから肉を引き千切り、頬張る女の姿。豪奢な着物に身を包み、高価な白粉と紅をふんだんに使った美しい女だ。さながら高陵の花とも例えられるその女は、それに似つかわしくない光景を作っている。

 

 女は幾度か口の中を動かし、やがて白い塊をペッと吐き出す。それは紛れもなく人の骨。

 

「さて、お前はどうかな?」

「ひぃっ!!」

 

 手足を黒い糸の様な物で縛り付けられたいた少女は女に睨みつけられて悲鳴を上げる。それを見た女は更に嗜虐的な笑みを浮かべて彼女の頭を掴もうとする。が、

 

「――――死ねぇぇぇぇぇぇええ!!」

 

 女の背後で伏せっていた血まみれの少女が折れた刀を手に飛びかかった。完全に不意を突いた形、少女は小さく勝利を確信した――――そして次の瞬間、少女は己の視界を走る一瞬の閃光を見た後、悲鳴を上げることすら許されずそのまま幾つもの肉塊へと斬り刻まれた。

 

「由香!! そんなっ……!?」

「フン……死んだふりとは小賢しい。まあ良い、食事の再開だ」

「いっ、いやぁっ! 放してぇっ!!」

 

 女はむんずと少女の髪の毛を掴み上げた。そして自分の目の前まで持ち上げると、口を大きく開く。

 

 肉が裂けそうになっても止まらない。頬肉が裂け、顎肉が外れたように、人間のものとは思えぬ口へと変貌する。それを見た少女は恐怖のあまり何も言えず、股の間から暖かいものを漏らしてしまった。

 

「ひ、あ、いやっ、いやぁっ……!」

 

 少しずつ、少しずつ少女の顔に影が広がっていく。いくら泣き叫ぼうとも止まらない。逃れられない死が迫る。

 

 それを救う者は、この場には居ない。

 

 

 

「いやぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 

 

 部屋中に断末魔が響き渡る。それは空しく虚空へ消え去り、後に残ったのは肉と骨を噛み砕く音だけだった。

 

 

 静寂と暗闇の中で赤く光る、人のものとは思えない縦長の瞳孔が浮かぶ不気味な眼。

 

 

 ”下陸”と刻まれた左目が、愉快そうに揺らめいた。

 

 

 

 

 




「昨晩は、お前をカナエと共に抱いて寝たが」
正訳:昨晩はあなたが私の身体を掴んで放さなかったため仕方なく隣で寝ました。肌寒かったため寝ぼけて貴方の姉のように貴方を抱き締めてそのまま寝てしまったかもしれません。
誤訳:昨日は寝ているお前さんを姉ごと「自主規制」してやったぜグヘヘ。

これはひどい。

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