水に憑いたのならば 作:猛烈に背中が痛い
昼を少し過ぎた頃に俺たちは目的の場所に到着した。
その町は所謂”貧民窟”。どこもかしこも廃れたあばら家が並んでおり、風が老朽化した家の穴を通っておどろおどろしい音を響き渡らせる。更に路地裏に目を向ければ鼠と白骨死体が当り前のように散乱しており、同時に異臭も漂っていた。
都市とは歩けば半日かからない程度にしか離れていないと言うのにこの廃れ具合、時代の闇をひしひしと感じる光景に俺は思わず口を覆う。
「……酷いな」
「ああ。だが鬼共にとっては格好の餌場だろう」
そう、こういう場所こそ鬼の天下だ。悲しいことだが、貧民が何を喚こうとも人々は耳を傾けない。ここでは人死など日常茶飯事。もし鬼の事を知って誰かに告げたとしても、貧しさのあまり頭がおかしくなったのかと思われてそれで終いだ。
噂、情報が広まらない。故に鬼は長々と居座り続け、多くの人を食い殺していく。
そして鬼は人を食えば食うほど強力無比になっていく存在だ。此処に住む鬼がどれだけの人間を食ってきたかは不明だが……隊士十名を行方知れずにした相手、全く油断できない強さであることは確かだ。
「義勇、鬼の気配はあるか」
「……いいや、周辺にはいない。とりあえず、それらしき痕跡を探しながら虱潰しにするしかなさそうだが」
「では二手に分かれよう。その方が効率がいい。異常があったら烏で知らせろ」
「ああ、承知した」
手掛かりが無い以上、俺たちにできることは鬼がいそうな場所を片っ端から探し回ることくらいだ。本来ならば聞き込みやら事前調査やらで準備をしてから行動するのだが、今回の場合は緊急事態だ。多少効率を無視してでも強行しなければならない。
何せ今回は今までとの雑魚とは違う、異能――――血鬼術を扱える鬼なのかもしれないのだから。
血鬼術は鬼によって千差万別。故にその効力を事前に予想するのは不可能だ。それ即ち初見殺し。対応を誤れば位の高い隊士であっても一方的に殺されるかもしれない切り札。
今まで以上に、心してかからねばなるまい。
(……しかし、酷い有様だ)
周りの光景を見ながら出てくるのは、やはりそんな感想だけだった。
都心部と比べれば正しく天と地の差。あれだけ明るくモダンに輝いていた町から少し離れればこの様。貧富の差が激しすぎるとしか言いようがない。
汚水、排泄物、死体、鼠、蛆や蠅……とても人の住む場所とは思えず、だからこそ俺は今まで自分がどれだけ恵まれた環境に居たのかを再認識した。
両親が早死にしたとはいえ、その遺産は決して少なくは無かったし、姉や俺も毎日のように小さな仕事をして小金を稼いでいた。そのおかげでこんな環境に落ちずに済んだのは正しく奇跡的だ。
「姉さんには、何度感謝しても足りないな……」
そう呟きながら、人気の無い街を進む事数分。ようやく人らしき存在を見つけることができた。
麻で出来た敷物の上に穴だらけの笠を被った老人が座り込んでいた。穴から覗き込めるその眼には生気は無く、まるで死人の様だ。
「すみません。聞きたいことがあるのですが」
「……………何も持たぬ老人に、無償で何かを差し出せと言うのか」
枯れた声がそう告げる。それはつまり「話を聞きたければ対価を支払え」という事だろう。
鬼殺のためならば安いものだと、俺は財布から数銭分の硬貨を出して老人の眼前に置いた。それを見た老人は何位も言わずに銭を掠め取り、懐に隠す。
「何が聞きたい。知らないことは言えないぞ」
「最近、人が消えたり、怪しい人を見かけて無いか教えてください。些細なことでも構いません」
「…………ここで人が消えることなど珍しくも無い。怪しい奴も、探せば五万といるだろう」
想定はしていたが、どうやら空振りらしい。俺は諦めて別の者に当たろうかと踵を返すが、直後に老人が「ただ」と短い言葉で俺を呼び留めた。
「最近は女が減った。そして、男どもは夜な夜な可笑しな言動を見せる。夜道には気を付けろ。それと……
「え?」
それだけを言い終えたら老人は手慣れた動きで暗い路地裏へと去ってしまった。骨と皮だけとしか思えない手足からはとても考えられない動きだ。……それだけ長くこの場所で生き抜いてきた、という事だろうか。
しかし最後の忠告らしき言葉はどういう意味だ。まるで目立つように施しをしたら駄目だというような――――
「――――なあ、あんちゃん。俺にもくれねぇか……もう三日も食ってねぇ……」
「っ、な」
「私にも……」
「俺も……!」
「お願い助けて、子供がいるの」
「俺が先だ」「いえ私が」「どけ! 邪魔だ!」「恵んでくれぇ」「奪え!」「殺せ!」「金を寄越せぇ!」
「ッ――――!!」
先程まで人気など無かったはずなのに、廃屋の奥から溢れるように人が出てきた。そして全員が貪欲に俺から何かを貰おうとする。
俺はすぐに老人の言葉を理解した。成程、下手に見られるとお零れを預かろうと隠れていた住民が出てくるのか。
「申し訳ないが、お前たちに無償で何かを与える気はない……!」
「待て!」「跳んだ!?」「追いかけろ!」「妖怪だ! 妖怪が出やがった!」
当然、今の俺に彼らへと等しく施しを与えられるだけの能力など無い。非常に心苦しいが、彼らを振り切る形で俺は屋根の上へと素早く跳び移り、可能な限り距離を取った。
暫く移動した俺は、あばら家の集合地帯から少し離れた場所で歩を止める。
「……何時の時代も深刻だな、貧富の差というのは」
今の俺は非公式武装組織の一員に過ぎない。恐らく逆立ちしたってこの場所の住人の抱える問題を解決できることは無いだろう。
だとしても、やはり人としてこの惨状を見ていると、酷く無力感に苛まれてしまう。
何かできることは無いのか、と。
「……いや、やめよう。それは今俺が考えるべきことじゃない。急いで、鬼の行方を探さねば」
そうだ。今考えるべき事は鬼だ。この街に人食い鬼が巣食っている。此処に居る全員に等しく施すことは出来やしないが、悪しき鬼を殺して少しでも夜を安心して過ごせるようにする。それが今の俺にできる精一杯の事だ。
頬を軽く叩いて気を取り直した俺は、早速別の場所で聞き込みを行おうと足を前に出し――――ガクンと、服の裾が何者かに掴まれていたことによって動きが止まった。
「なんだ……?」
「…………」
振り返れば、碌に手入れもされていないであろうボサボサ頭の子供が居た。俺の服の裾を掴んで、ぼうっとこちらを見ながら突っ立っている。
「……その、すまないが、離してもらえるか。先を急いでいるんだが」
「…………」
キュルルルル、と子供から腹の虫が鳴く音がする。子供は何も言わず、俺をじっと見つめるのみ。
「………………はぁ」
俺は無言で蒼い空を仰いだ。何故こうも幸先が悪いのか。
いや落ち着け。落ち着け冨岡義勇。何、パンが無いならケーキを食べればいいじゃない。偉い人もそう言ってた(言ってない)。
深いため息を吐きながら、俺は腰に吊っていた布袋から小さな包み紙――――金平糖を取り出した。
件の最終選別で謝礼として無料で定期的に支給される内の一つ。結構いい素材を使っているようで自然で適度な甘味が特徴だ。疲れた時に一粒、これが効く。
「食べるか?」
「…………?」
金平糖を何粒か手渡してみるが、子供はそれが何なのかわからないのだろう。何時まで経っても手の上に乗せたまま動かない。まぁ、何も知らなければ突起の生えたカラフルな小石にしか見えないだろうし、仕方ない。
俺は一粒摘んで子供の口の隙間に入れた。すると今まで感じたことも無い味に驚いたのか、ビクリと震えて口の中の者を咀嚼し出した。
「美味しいか」
「……………(コクコク)」
言葉がわからないわけでは無いのだろう。子供は首を上下に振ってそう返事を返した。
ほんの少し柔らかくなったその顔に思わず俺も笑みが漏れる。
「ほら、持っていけ。悪い大人に見つかるなよ」
「!」
とりあえず俺は金平糖の詰まった袋を子供に握らせた。どうせまた貰うのだし、俺も偶にしか食べないのだから問題ない。
自己満足、偽善と言われてしまえば返す言葉も無いが……だからと言って、それが何も行わない理由にはならないだろう。
せめてこうして小さな施しでも。例えこの子の明日が厳しい物であっても、今だけでもほんのちょっぴりの喜びを与えたい。少なくとも今の俺は、そうしたいと思う。
「――――あっ、見つけた! おーい!」
「!」
「ん……?」
遠くから誰かを呼ぶ声がする。ふと視線を巡らせば、向こうから同じくボロボロの服を身に纏った少年がこちらへと走ってきている。どうやら目の前にいるこの子を探していたらしい。
「ん? 誰だアンタ? 俺の妹に何か用か?」
「いや……腹を空かせていたようでな。腹の足しになりそうなものを渡しただけだ」
「これか? ――――! なんだこれ! 美味ぇ! ほんとに貰っていいのか!?」
「ああ。大切に食え」
少年は妹の手の平にあった金平糖を一粒摘むと、初めての甘味に驚喜した。実に微笑ましい光景だ。
「ところで兄ちゃん、この辺では見かけない顔だけど、もしかして都会の人か? 何しに此処に来たんだよ?」
「少し探し物があってな。……ここ最近、怪しいことは無かったか? 妙に人が消えるとか、不可思議な現象が起きたとか」
我ながら何とも杜撰な調べ方だと思う。いくら困っているからと言って子供に聞くかそんな事。子供の方だってこんな事聞かれても困るだけだろうに――――
「あー……そういや最近、兄ちゃんと同じような服着た連中を夜によく見かけるんだよな。なんか騒がしいし、悲鳴とか聞こえるから近づかない様にしてるけど」
「――――――――詳しく聞かせてくれるか?」
「? いいけど、その代わり俺も色々な話を聞かせてくれよ!」
断る理由などあるはずもなく、俺はとにかく根掘り葉掘り子供から情報を聞き出すことにした。
曰く、両親は兄妹たちを鬱憤を晴らす道具としか見ておらず、生きるためにはとにかく何かを食べなければならなかった故に夜中に何度も虫やら鼠やらを捕まえに出ている事。その最中に俺と同じ格好をした者――――つまり鬼殺隊の隊員を見かけたり、剣戟の音や悲鳴を聞いたりしている事。
そして一番聞きたかった事である、それがどのあたりで起きていたのかを聞くことができた。これは非常に大きな収穫と言っても良い。聞くだけ聞いてみるものだと俺は自身の幸運に感謝した。
「へぇ~。その、でんとー? ってのが夜でも街をずっと明るくしてるんだな! 一々薪を入れなくていいから便利そうだなぁ。それにその、さけだいこん? ってのも食ってみてぇ!」
「ああ、美味しいぞ。……ところでお前たち、今の両親と離れて暮らすつもりは無いのか?」
「え? それは、まあ……」
「離れるつもりなら、出来るだけ早くした方がいい。お前はともかく……妹の方はもう保たんぞ」
少年の妹の顔をうかがってみれば、やはり目に光が灯っていない状態だった。
顔や身体は痣だらけ。日常的に虐待を受けている証拠だ。少年の方は奇跡的に心を保っている様だが、少女の未熟な心に日々の苦痛は確かな爪痕を残し続けている。
この様子では、後数ヶ月もすれば……。
「わかってるよ、んな事……だけど、何処に行けばいいのか全然わかんねぇ。身寄りも金もねぇのに出ていくなんて、野垂れ死ぬのと大差ないだろ……」
「…………」
孤児院に行く、という選択肢が無いわけでは無い。この時代には慈善団体が設立した孤児院が幾つもあり、そこまでたどり着ければ受け入れてくれる可能性はあるだろう。
金もなければ身なりもみすぼらしい子供が何日も歩き続けて、無事に孤児院のある場所までたどり着ければ、の話だが。それに孤児院とて受け入れられる限度は存在する。
どうにか辿り着いて「もう手一杯で無理だ」と断られた場合など、目も当てられない。
「……お前、兄妹は何人いる?」
「え? 三人だけど……」
「子供を何人か引き取ってくれる人に心当たりがある。高齢の爺さんだが、優しい人だ。お前たちが自立するまで養えるくらいの蓄えもある、はずだ」
俺の脳裏に浮かんだのは天狗の面を付けた
正直恩師の善意に付け込むような形になるので非常に心苦しいが、任務に役立つ情報を貰った立場としては金平糖あげて「はいさようなら」なんて出来る程俺の情は薄くない。
目の前で心が死にそうな子供がいるのに、見捨てるなんて俺にはできない。
「い、いいのか!? 本当に!?」
「お前たちさえよければ、俺も最大限努力しよう。流石に今すぐ、というのは無理だが」
「ありがとう兄ちゃん! ほらお前も、礼くらい言っとけって!」
「…………(ペコッ)」
結局妹の方が言葉を発することは無かったが、しかし心はまだ生きているのだろう。少女は少年と共に小さく頭を下げて感謝の意を示してくれた。
「それじゃ兄ちゃん、よろしく頼むよ! 嘘ついたら殴るからな~!」
「ああ。……頑張れよ」
そんなこんなで俺はやっと子供たちに別れを告げることができた。
さて……勢いで色々やってしまったぞ。どうしようか。最悪俺が面倒を見るつもりではあるが、事が終わると自分が如何に後先考えずその場の感情で動いてしまうのがわかって嫌になる。
この先、こんな調子で大丈夫なのだろうか……。
「――――ん……?」
もうすっかり夕暮れに差し掛かった頃、俺はあばら家の屋根を伝いながら鬼殺隊員の姿を散策していた。そろそろ夜が訪れるころだと言うのに、探し人は影も形も見当たらない。
もしやもうすでに――――そんな悪い考えが頭の中に浮かび始めた時、ふと視界の端で見覚えのある者の姿を捉える。
「……胡蝶?」
胡蝶妹……しのぶが姉の物らしき刀を抱えて、何処か焦りを含んだ表情で辺りを見回しながら小走りぎみに駆けている。
何で彼女がこんな所に……? いや、考えるのは後だ。早く追いかけて避難させねば。もう間もなく夜になり、鬼が現れる頃なのだから。
「胡ちょ――――」
「――――あ、ぁあ」
「う……?」
屋根から地に飛び降りて早速追いかけようとした瞬間、突如隣の路地裏の影から呻き声が聞こえた。
なんだと視線を其方へと向けると、真っ暗な影から一つの人影が見えてきた。暗くてよく見えないが、鬼の気配はしない。しかし念のため鞘を握りながらその者に声をかける。
「すいません。大丈夫ですか……って、村田?」
「…………………」
その者は見覚えのある顔であった。
あの丁寧に手入れがされていそうなつやつやサラサラのおかっぱ頭。間違いなく俺の同期である村田だ。
俺は安堵して名を呼びかけるも、返事は無い。どうしたのだろうか、と俺は更に歩を進めて距離を詰める。
「村田、何があった」
明らかに様子がおかしい。もしかして血鬼術にかかっているのかと、俺はその肩に手を掛けようとして――――
「――――ぉぉおぉぁああぁあああ!!!」
「ッ――――!!?」
寸前猛烈に嫌な予感がうなじを刺激したため全力で後ろへと跳躍し俺は路地裏から飛び出した。直後、大振りの一閃が先程まで俺の居た場所を薙ぎ払った。
「村田、一体何を……!?」
「あぁあぁああうぅぉおぁ」
「ふぅぅぇあぁらぁあ」
「うぃっ、おっ、あが」
突然の同士討ちの試みに驚愕する暇もなく、俺を取り囲むように複数人があばら家から出てきた。その手には鍬や鎌、包丁等々様々な凶器が握られている。そして風貌から間違いなく現地人。
何故いきなりこんな事を――――そう問う気にはなれない。明らかに彼らは正気を失っている。
「ッ、血鬼術か――――!!」
俺はただならない状態の原因を直ぐに血鬼術の効力だと断定した。そうでもなければ説明が付かない。恐らく洗脳系の血鬼術。こういった類は操っている物か、術者を倒せば解ける決まりだが、生憎術者は見当たらない。ならば、彼らを操っている何かを探すしかない。
どんな仕組みだ。糸などの物理的なものならば切断すればいいが、念力的な非物理的な物なら対処の仕様がないぞ……!?
それにまだ夕暮れだと言うのに、効力が衰えている気配が無い。血鬼術は日光の元では効果を弱化させるはずなのに。
(外見に変化が無さ過ぎて探りようがない! クソッタレが!!)
夕日の下で照らされているにもかかわらず何も見えないと言う事は非接触の類。つまり術者を倒さない限り効果が消えない一番厄介な類だ。
それに、彼らの血色は良くは無いが、死人のソレでもない。恐らく生きている。故に下手に傷つけることもできやしない。鬼ならば幾ら切り刻んでも構いやしないが、人間は駄目だ。それは、越えてはいけない線だ。
「うぉるばぁあぁぁあああ!!」
「るるぉぉぉごごぁがががぁぁぉおお!!」
奇声を上げながら彼らは焦点の定まらない目のまま俺に襲い掛かってきた。早い。恐らく本人の肉体的限界を無視して無理矢理動かしているのだろう。よく見れば服の間から見える間接部分が痛々しく腫れ上がっているではないか。
だが決して避けられない攻撃では無い。俺はすぐさま大きく跳躍し、あばら家の屋根へと避難した。
戦えないのならば、戦わなければいい。彼らの相手をする必要性は無い。それより早く元凶を見つけて始末せねば。いや、それよりも先程見かけたしのぶを急いで保護して――――
「――――ん?」
ふと、視界に違和感を感じる。すぐさま辺りを見回すと、その源はすぐに見つかった。
――――少し前に出会った少女だった。ボロ切れのような服に身を包んだ少女がぽつんと、茫然と佇みながらその場で俺の事をじっと見つめている。うろうろと、何かを探している様子だった。
ふと目が合った。瞬間、操られていた者達が俺の視線の先にある子供へと視線を移す。
「――――ぉぉぉおおおろろろろろぉぉおあああ!!」
突然、叫び出す者達。そして彼らは一斉に凶器を片手に少女へと群がろうとした。
俺は瞬時にマズいと判断。全力の跳躍で一気に子供の元までたどり着き、振り下ろされようとしている凶器に対して刀を抜いた。
【拾壱ノ型 凪】
超高速の斬撃が凶器の柄部分をバラバラに切り刻む。これによって彼らの攻撃は空振りに終わり、俺はその隙に少女を脇に抱えてすぐに屋根上へと跳んだ。
「おい! 大丈夫か! 兄の方はどうした!?」
「……………」
少女は喋らない。もしやこの子も洗脳されているのか? と思ったが、直感的に違うと判断する。この子からは先程の者たちから微かに感じられた違和感が無い。
とにかくこの子を一人置いて行くわけにはいかない。何とかして安全な所に避難させねば。
「……………」
「……? どうした、何を見ている」
子供が急に視線を真下へと向けた。一体どうしたのかと、俺は子供の視線の先を見て――――黒く、細い何かが俺たちに迫るのをやっと認識した。
俺の生存本能が訴える。
アレはマズい。アレを受けてはならない。アレを食らったら
「ッ――――! 逃げるぞ! しっかり掴まれ!!」
子供は俺の声に答えるようにギュッと服を掴む。そして俺も子供を落とさない様に強く抱え、下方から迫りくる黒い糸の群から逃げ出した。
弾かれるようにあばら家の中から飛び出してきた黒い糸を屋根を飛び移ることで間一髪で回避した。そして、その糸は日光を浴びるや否や焼ける音を立てながら灰となって消える。
間違いなく、鬼の一部。あれは――――髪か。
(まずいことになったぞ……!)
先に送られた鬼殺隊員は恐らく全員が洗脳されたか食われたと見ていい。それに何人ほどかはわからないが、相手は異能の鬼、かつかなりのやり手だ。
最悪の場合、この貧民窟に潜伏しているのが十二鬼月――――数居る鬼の中でも十二体存在する最強の列席という可能性がある。
だが俺の知っている限り髪を扱う血気術を扱う上弦はいないし、彼らは百年以上顔ぶれは変わっていない。ならば相手が十二鬼月だったとしても恐らく下弦。もしくは追放され数字が剥奪された元十二鬼月だろう。
どちらにせよ俺の警戒度は数段跳ね上がった。
(急いでしのぶを保護して錆兎と合流しなければ……!)
元ならともかく、現十二鬼月であれば非常にマズい。少なくとも今の俺や錆兎では勝てない。柱や上級隊員でもなければあっさりと餌にされておしまいだ。
最善の選択は可能な限りの情報を持って撤退。手に余る相手に対して無謀に突っ込むほど俺は愚かじゃない。
悔しいが、今の俺は力不足なんだ……無理な事を無理矢理やろうとしてはいけない。事態を悪化させかねないのだから。
「………………」
「……?」
俺は敵からの追撃を凌ぎながら、ふと脇に抱えた少女を見る。
何処かを指さしている。それが何を指しているのかはわからない。もしや兄の居る場所か……?
「……女の、人。あっち」
「!?」
初めて聞いた少女の声。驚きのあまり屋根を飛び移る足がもつれそうになった。
だがすぐに気を持ち直して、俺は少女の指さす方向を見る。
この子が何を根拠にあの方向を指し示しているのかはわからない、が……何の当てもなく探し回るよりはよっぽどいい。俺は少女の言葉を信じて、しのぶの居るだろう方向へと跳んだ。
(無事でいてくれ……!!)
夜は、間もなく訪れる。
「っ…………」
両手で刀を握り締め、肩を震わせながら辺りを彷徨う影が一つ。
貧民街ではあまりにも浮きすぎる豪奢な羽織と衣服を身に付けた少女――――胡蝶しのぶは重度の緊張からくる汗を手ぬぐいで拭きながら、不気味な街並みを一望する。
「本当に、こんな所に鬼なんているのかしら……」
どうして彼女がこの場所にたどり着けたか。その答えは至って簡単。しのぶは義勇と錆兎の後をつけていたのだ。一時間も続く疾走。全集中・常中を不完全ながら習得しているとはいえ、体力のない彼女の小さな身ではかなりの負担だっただろう。
それでも彼女が意地を出して此処までやってきたのは他でもない、鬼を殺すためだ。
鬼の頸が斬れない。彼女は幾度もそんなことを言われ続けた。だが彼女の中では一つだけ懸念があった。
――――本当に、私では斬れないの?
実際に相対し、刃を交えていないが故の疑問。しのぶは確かに己の非力を自覚してはいるが、それが本当に鬼に通用しないか疑っていたのである。
実は周りは自分を気遣って嘘をついているのではないか。自分を戦闘に巻き込まないためにそんな嘘をついているのではないか。そんな考えが、しのぶの心をつかんで離さない。
今、精神的に不安定になっていたしのぶはその藁の如き細い心の隙にしがみ付いた。
未練がましいかもしれない。現実逃避と言われるかもしれない。
それでも、姉以外の全てをかなぐり捨ててでも鬼殺の道を歩みたいと決意したしのぶは、もう藁にもすがる思いだったのだ。そうしなければ、心の炎が自分を焼き尽くしてしまうような気がして。
大切な人に、置いて行かれてしまうような気がして。
自分の気持ちを裏切った姉を、見返したくて。
「鬼は……鬼は何処なの……!」
恨み言を吐く様にしのぶは殺意をまき散らしながら街を闊歩する。今の彼女は怒りのあまり、普段なら確実に気付くだろう違和感……人の気配が酷く少ないことに気付いていなかった。少し考えれば、何かがおかしいと気づくだろうに。
少しして、しのぶの目が微かな人影を捉える。鬼かもしれないと、彼女はその細い腕で刀を抜いて人影に近付いて行く。
だが、その人影はしのぶがある程度近づいた瞬間、突如走り出した。
(逃げた――――!!)
突然の逃亡。これは怪しいとしのぶは確信し、鬼で無くても有用な情報が聞き出せるかもしれないとその人影を追いかけ始めた。
何度か右左へと曲がり、数分。人影はかなり大きめの家屋の戸を開けて中に入っていってしまう。
「……ここは」
その家屋は、周りにあるあばら家と比べて少しだけ立派だった。だが所詮比較対象はあばら家。しのぶの住む屋敷と比べれば月と鼈だろう。
戸の前まで近づいて、しのぶはようやく違和感に気づく。
先程まで追いかけていた人影。足取りに迷いが無かった。まるで最初から決めていた道を走っているような。そしてその先は、この異様な気配を漂わせる怪しい家屋。
そこまで考えて、聡明な彼女はやっと気づく。
(まさか、誘われて――――!?)
瞬間、家屋の戸を突き破って黒い何かがしのぶへと襲い掛かった。その様はさながら黒い触手。
しのぶは素早い判断でそれを避けようとするも、無情にもしのぶの反応速度をはるかに上回る速度で黒いソレは彼女の腕に巻き付き、家屋の中へと引きずり込んだ。
「ッ――――――――――!!!?」
声にならない悲鳴を上げながらもしのぶはすぐに抜刀。ためらいなく己の腕に巻き付くものに刃を振り下ろす。
――――だが、ほんの少しの傷すらも、つかない。
「うそっ……!!」
腕に巻き付いたものはワサワサと気味の悪い動きをしながら幾つかの部屋をまたがってしのぶを引き摺り続け……やがて真っ暗な最奥の部屋へと辿り着いてようやく動きを止めた。
それに対してしのぶは一時の安堵の息を吐き……それは己の目の前に落ちてきた赤い雫によって阻まれてしまう。
しのぶは反射的に天井を見上げる。
バラバラに解体された幾多もの死骸が宙づりにされた天井を。
「ひっ、あ、いやっ! いやぁっ!!」
しのぶはあまりにも凄惨な光景に悲鳴を上げながら腕に巻き付いたものを引きはがそうともがいて、しかしその動きは静かに響き渡る足音と共に止んだ。
「え……」
「――――ほう……これは中々」
俯いていた視線を上げて、しのぶは鎮座した行灯の明かりに照らされ姿を現した目の前の女性を仰ぎ見る。
一見すれば、その者の身なりはまるで遊女だった。貧民街には明らかに吊り合わぬ豪奢な着物。そして美しい顔に、足元まで伸びている夜の帳の如き黒い長髪。
だがしのぶにとってはそんな外見的特徴などどうでもよかった。彼女が注視したのはただ一点。
彼女の真っ赤に染まった両目の内、左目に刻まれた”下陸”という文字。
それは、即ち。
「十二鬼月ッ――――――――!?」
「ふむ、その名を知っているという事はそなた、鬼狩りの一味か。隊服とやらは身に付けていない様だが……しかし鬼殺隊とやらにはこんな小娘まで属しているのか。随分と人手不足と見える」
酷く澄んだ声が、しかし圧倒的な侮蔑の感情を乗せてしのぶの耳に入ってきた。
だがしのぶはいつもの強気な姿勢で悪態をつくことすらできない。それは鬼から放たれる凄まじい密度の威圧と殺気に今にも押しつぶされそうになっているからだ。
数年前――――己の両親を食い殺した鬼とは比べ物にならない。格が違う。
これが十二鬼月。例えその中の最弱、下弦の陸であってもこれ程の存在感。ならば最強最悪である上弦の壱は一体どれほどなのか、しのぶには想像もつかなかった。
「――――そなた、中々美しい髪を持っておるな」
「え……い、一体、何を言って」
「美しい髪は良い。正しく女の命、”美”を引き立たせる一番の役だと言えよう。……下弦の参、
「ッ…………!!」
その言葉に、しのぶは体の竦みすら忘却して怒りの炎を燃え上がらせた。
突如現れたかと思えば、人を上から見下すような態度で餌だの何だの。激怒しないはずがない。理不尽に両親を、己の幸せを奪われたしのぶが、あんな傲慢で身勝手な存在を許すはずがない。
「薄汚い鬼風情が……! 殺してやるっ……私の、この手で――――!!」
「意気や良し。されど、柱でもないそのか弱き身で妾の頸が断てる訳なかろうて」
「黙れぇぇぇぇえええええええ――――ッ!!!」
怒りに身を任せてしのぶは手に持った刀を振り上げた。狙うは頸一点。怒りのまま疾走しながら、しのぶは斬撃を繰り出す。
それがどんなに無謀な行為かも知らず。
「……………え?」
「愚かな」
しのぶの渾身の一撃は、あっさりと止められていた。
その手に持つ刀は周囲から飛び出してきた黒い糸――――下弦の陸、蒐麗の毛髪に刀を握る手ごと幾重にも絡め取られており、しのぶの攻撃は鬼の頸の薄皮すら斬れずに終わってしまったのだ。
傷どころか、刃すら届かない。その事実に茫然とするしのぶをよそに、余裕磔磔にその光景を眺める蒐麗は気まぐれに彼女の持つ刀の刃を指で撫でる。
「鬼を殺せる刀。成程確かに脅威だ。だが、こんな非力な身で妾の頸に届くと? ――――不快。実に不快。武器さえあれば自身の様な惰弱な者でも妾の頸を取れると思うたか。だとすれば実に不愉快!!」
嫌悪と激怒の表情を浮かべた蒐麗は顔に青筋を浮かべながら、無言で腕を大げさに払う。
するとどうだろうか。その動作と同時に蒐麗の毛髪が急激に伸び、前後左右からしのぶに迫ってあっという間に彼女の体を雁字搦めにしてしまう。
一応回避を試みたようだが、そもそも手を得物ごと既に捕らわれていた彼女に避ける方法などあるはずもない。碌な抵抗もできず、しのぶは全身を黒い毛髪によって縛り上げられてしまった。
みしりみしりと縛り上げられるしのぶの体。蒐麗は嗜虐的な笑みを浮かべ、彼女の最後の抵抗の手立てであろう刀をおもむろに素手で奪い取り、遥か遠くへと投げ捨てた。
これで、しのぶは全ての抵抗の手段を失ってしまう。
「弱い、弱いぞ。優れているのは見てくれのみか。貧弱な小娘よな。噛んだ歯応えすらないとは、全く以て愉快愉快。そして実に滑稽だ。だが許そう。何故なら、今からそなたは美しき妾の血肉となるのだ。光栄に思いて感涙に咽べ、小娘」
「誰、がッ……!!」
「力無き者の足掻く様。いつ見ても無様で無様よ。――――では、死ぬがよい」
蒐麗の頭髪の一部が触手の様に蠢き、毛先が槍のように鋭く形成される。
回避、防御、反撃――――不可能。
死。
「あ」
迫りくる純黒の凶器を前に、しのぶの脳裏に流れたのは十年というあまりにも短すぎる人生の焼き直し。短くもとても幸せだった、そして理不尽にその全てを失った道筋が無機質に一巡する。
(嫌だ)
足掻く。理性では無駄だとわかっているのに。
(こんな所で死ねない! だって――――)
足掻く。足掻く。足掻く。
だけど、現実は万人に等しく平等だった。鼠が幾ら反抗しようとも、獅子に食われるのを避けられない様に。
(まだ、私は、何も――――)
黒が目と鼻の先まで届く。
死んだ。しのぶが遅すぎる確信を胸に抱いた――――瞬間、暗闇の中に一筋の糸が垂らされた。
「――――おおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」
雄叫びと共に天井をぶち破りながら、小豆色の羽織を纏った少年が子供を小脇に抱えながら現れた。
「何奴ッ!?」
「させるかァァァァァァアアアアアア!!!」
少年は飛び込みざまに一閃。それによってしのぶに迫っていた髪の槍は弾き飛ばされ、更に彼の背後から差す夕日がしのぶに絡みついた毛髪を残らず蒸発させてしまう。
突然の出来事に、しのぶは尻もちを付きながら茫然と少年の背を見上げる。
「無事か、胡蝶!?」
「冨岡……さん?」
鬼狩り様がやってきた。
悪い鬼から、
ヒロインのピンチにはちゃんと間に合う男冨岡さん(憑)。お前白馬の王子かよォ!
なお目の前にはどう考えても時期尚早過ぎる敵がいる模様。頑張れ冨岡。負けるな冨岡。お前が負ければしのぶちゃんは死亡確定だからそこら辺よろしくゥ!(ド畜生)