水に憑いたのならば   作:猛烈に背中が痛い

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エピローグだけだから遅くならないと言ったな、あれは嘘だ(震え声)

年末は仕事が忙しくて碌に執筆できなかったのよ……(精一杯の言い訳)



第拾伍話 夜が明けて

 耳の中で反響する爆音、肌を撫でる巨大な熱気、吹き荒れる風に乗った砂。それらに晒されながら、しのぶは腕の中の少女を守るように地に伏せていた。

 

 そして、束の間を挟んで訪れる静寂に恐る恐る顔を上げて、息を呑む。

 

「…………やった、の?」

 

 先程まで女鬼が佇んでいた屋根の上には、膝を着いた頭の無い女の躯体があった。そして無くなった頭は地面の上で無様に転がっており、両方とも灰となって朽ちていってるのが確認できる。

 

 間違いなく頸を断たれ死を迎えた証拠。それを見てしのぶは底なしの喜びが湧き上がった。

 

「やった、やった! 倒せた! 冨岡さん! 倒せましたよ! 冨岡さ…………ん?」

 

 しのぶはこの場に置ける最大の功労者の名を口にするが、返事が無い。何故、と思いながらしのぶはかの少年の姿を探し、そしてそれはすぐに見つかった。

 

 落ちた鬼の頭のすぐ傍で、まるで死んでいるように倒れている姿が。

 

「…………え」

 

 息も絶え絶えで、身体中にある深い傷からドクドクと血が漏れ出ている。縫合したはずの傷も糸が千切れ飛んでおり、見るも無残な姿だ。

 

 このままでは後数分もしないうちに死ぬ。そう確信できる程の。

 

「とっ、冨岡さん! しっかりして、冨岡さん!!」

 

 守っていた少女の体から離れ、しのぶは必死の形相で倒れている義勇の傍に駆け寄る。幸か不幸か意識はまだ保っており、しかしその目に生気は無い。まるで今にも死にゆく者の様に。

 

「……し、のぶ、か」

「冨岡さん! はっ、早く傷を治療しないとっ……ど、どうすれば……!?」

 

 余りにも酷い状態に、専門家と比べればまだまだ未熟な域しか医学を修めていないしのぶはどうすればいいのかわからなかった。

 

 とにかく傷から出てくる血を止めるために自らの羽織を千切り、腕や足を縛り上げるがそれでも命の灯火が消えゆくことを止められない。このままでは死んでしまう。

 

 折角鬼を倒したのに、生き残れたのに、これではあんまりではないか。

 

「お願いっ! 冨岡さん死なないで! 私なんかのために死なないでよぉっ!」

「…………夢を、見るんだ」

 

 焦点の合わない瞳のまま、譫言のように義勇は言葉を紡ぎ出す。

 

「鬼の、いない世界で……辛く、苦しいことが、あっても……大切な人と、一緒に、生きていく。優しい人が……ちゃんと報われて……幸せになれる、優しい、世界を」

「冨岡さん! 気を失っては駄目! ちゃんと私を見て!!」

「俺は、命に代えても……お前の様に、幸せになるべき者に……そんな、世界を…………それ、だけで……俺…………は…………」

 

 力なくしのぶの頬へと伸ばされた手が、彼女の頬を一撫でして――――落ちた。

 

 呼吸が止まり、心音すら消える。

 

 

「冨岡さん」

 

 

 肩をゆする。反応は無い。

 

 

「冨岡、さん」

 

 

 胸に手を当てる。鼓動は無い。

 

 

「いや」

 

 

 しのぶは目の前の現実を否定した。己を守ってくれた人が、ただ己を励ましてくれた人が、幸せを願ってくれた人が、死んでいく様を。自身は何もできず、見ているしかできない現実を。

 

 

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああっ!!!!」

 

 

 絶叫しながら、涙を流しながらしのぶは義勇の体を抱きしめた。少しでも体温が逃げない様に。生きている証を少しでもこの世に留めようと、もう無意味な行動を必死で行い続ける。

 

 そんな彼女の悲痛な声に応えたのは、彼女のよく知る声だった。

 

「――――しのぶ!!」

 

 屋根を越えて現れる、しのぶの姉であるカナエ。そして隣には錆兎も居た。余程急いだのだろう、多大な訓練を積んできたはずの二人が息を荒げて肩で息をしている。

 

 しかし急いだにしては、あまりにも遅すぎた。

 

「姉、さん。冨岡さんが、冨岡さんが息をしてないの……!!」

「「―――――――――」」

 

 想定外――――否、想定はしていたのだろう。しかし最悪の想像が現実として突き付けられたのを直ぐには受け入れられなかったのか、カナエと錆兎は共に絶句した。

 

 しのぶに抱かれた義勇はあまりにも悲惨な状態だった。左腕は歪な方向に曲がっており、そこら中に火傷の痕が見え、深々と切り裂かれた裂傷からまき散らされた大量の血液が戦いの激しさをこれでもかというほど物語っている。

 

 これで生きていた方が、むしろ不思議だった。

 

 弟弟子の死に、錆兎は思わず崩れ落ちそうになる。そしてカナエは――――ぐっと拳を握りしめて、義勇の傍に駆け寄った。

 

「しのぶ! 心臓は何時止まったの!?」

「え……? ま、まだ三十秒も経ってない、けど」

「だったらまだ可能性はある! 二人ともまだ諦めるのは早いわ!」

「「!」」

 

 カナエの言葉にしのぶと錆兎の顔が上がった。カナエは服の裏に備えてあった救急用の道具を羽織をそのまま下敷きにしながら義勇の隣で並べて数多の傷口に注射を打ちながら止血と応急処置を開始する。

 

 そう、彼女は最後の最期まで諦めるつもりは無かったのだ。

 

「錆兎君! 義勇君の胸に圧迫をかけて! 肘は曲げずに真っすぐに! 一分間に百回! しのぶは気道を確保しながら圧迫三十回ごとに人工呼吸! 一秒を二回!」

「っ、了解した!」

「じ、人工呼吸って…………っ、わかったわ姉さん!」

 

 姉の言葉に反射的に言い返そうとするしのぶだったが、すぐに思い直す。命を救ってもらったのに、今更人工呼吸くらい戸惑っていられるか。一刻を争う事態だ、意地などぶん投げてしまえ。

 

「義勇! 死ぬな! 死ぬなッ!! お前が死んだら俺は蔦子さんや義父さん、真菰に顔向けできなくなる! 生きろ! 生きろ義勇! お前は死んでいい奴なんかじゃない!!」

 

 涙を流しながら錆兎は必至で義勇に心臓マッサージを行った。死なせるものかと必死で叫びながら繰り返す。

 

 優しい奴なんだ。誰かの幸せのために勇気を出して戦える奴なんだ。そんなやつがここで死んでいいはずがない。ちゃんと幸せになって天寿を全うする以外の死に方など認めない。

 

 そんな思いを込めて、いつもなら滅多に流さない涙をあふれんばかりに零しながら錆兎は叫び続けた。

 

 そして圧迫が三十回に達し、しのぶは息を呑みながら義勇の顔に近付く。一瞬だけ躊躇の心が出てきて――――しかし即時にこれを封殺し、しのぶは彼の口の中に息を吹きこんだ。

 

(お願い……! お願いだから死なないで……!)

 

 しのぶは自分のために人が死ぬなんて真っ平御免だった。それも、自分の失態のせいで、この何処までも不器用で優しい人が死ぬのだけは我慢らない。

 

 息を吹きこむ、己の命を削らんばかりの思いで。

 

「頼む、頼む、頼むっ、頼むからっ……!!」

「冨岡さん……!!」

「義勇君……!」

 

 三人は賢明に蘇生を続ける。ただ生きてくれと願い続ける。

 

 その祈りが天に届いたかはわからない。だが――――確かに、奇跡は起きた。

 

 

「――――が、はぁっ!!!」

 

「「「!!!」」」

 

 

 蘇生の試みを繰り返す事五度。ついに待ちに待ったその瞬間が訪れた。死人のようだった義勇が閉じていた目を開けて、確かに声を発して上体を跳ねさせたのだ。

 

「義勇! 生きてるか、義勇!!」

「…………錆、兎」

 

 幻で無いことを確かめるために錆兎は起こされた義勇の上体を支えつつ呼び掛けて、弱々しい声ではあるが確かな返事を確認した。息をして、心臓も再度動き始めた。

 

 間違いなく生きている。

 

 三人の必死の抵抗は、決して無駄では無かった。

 

「……俺、生き、て?」

「ああ! ああ、生きている! お前は生きているぞ義勇!」

「………そう、か」

 

 微かな微笑みを浮かべながら、義勇は静かに瞳を瞑る。

 

 まだ終わって無かったのかと三人は一瞬焦るが、今度は確かに息をしており、ただ眠っただけだとわかると深い安堵の息を付いた。

 

「よかった、本当に、よかった……!」

「ええ……心臓が凍り付くかと思ったわ……」

 

 最悪の事態を回避できたことにしのぶはその場で脱力してへたり込み、カナエも顔に滲み出た冷汗を服の袖で拭く。

 

 しかし未だに向こうで轟々と炎の明かりが見えているのに気づき直ぐに助けに向かおうかと腰を上げたが、目を凝らせば黒装束に身を包んだ人間たちが現れて消火活動の援助をしていたことに気付いた。

 

 彼らは鬼殺隊に所属する裏方担当の”(かくし)”と呼ばれる者達だ。救援が到着したのならばこれ以上事態が悪化することは無いだろうと、三人は一先ず胸を撫で下ろした。

 

 ――――が、これで一件落着、とか行かない。

 

「……しのぶ」

「! 姉さ――――」

 

 パン、と何かが弾ける音が木霊した。

 

 しのぶは鋭い痛みの走った頬を抑えて、茫然と姉を見上げた。錆兎は反射的に止めようとするも、カナエの真剣な表情を見て踏みとどまる。

 

「……心配、したのよ」

 

 押し殺すように、絞る様に出されたカナエの声。まるで冬の山中に置き去りにされたようなか細い声に、しのぶは何も言えなかった。

 

「貴方が、私の事を心配してくれてるのはよくわかるわ。だけどね、姉さんはもっとしのぶの事を心配してるの。大切に思ってるのよ。なのに、こんな事して……! 一歩間違えればもう二度と会えなくなったかもしれないのよ……!」

「あ……」

 

 何故、失念していたのだろうか。自分が死ねば、姉が取り残されてしまう事に。

 

 置いて行かれる悲しみは、恐怖は、誰よりも一番知っていたというのに。それを忘れて先走り、こんな事態を引き起こしてしまった。

 

 姉に二度も味わわせるつもりだったのか。肉親が死ぬ悲しみを、心の痛みを。

 

 なんて、なんて、愚かな。

 

「ごめん、なさい。ごめんなさい、ごめんなさい………っ!」

「……しのぶ、謝るのは私もよ。ごめんなさい、貴方の気持ちを知っていながら、それを裏切ってしまう様な真似をして。ごめんなさい……!」

「う、ぅあ、ぁぁあぁぁぁぁぁぁあぁぁああ……! うわぁあぁぁぁぁあぁあぁあぁぁああああん……!!」

「しのぶ、しのぶ……ごめんねぇ……ごめんねぇ……!!」

 

 しのぶとカナエはその瞳から大粒の涙を零しながら互いの体を抱きしめ合った。もう離すまいと、力いっぱいに抱擁する。

 

 それを見た錆兎は深く深く息を吐いて、己の腕の中で深い眠りの中にいる親友を見る。

 

「……よかったな義勇、お前はちゃんと守れたぞ」

 

 友を労う言葉に、眠る少年が仄かに微笑んたような気がした。

 

 

 

 長い夜が明ける。

 

 一晩で沢山の命が失われた。それでも、救えた命は確かにあった。その事実を胸に、私たちは前を向かなければならない。

 

 それが、残された者が唯一出来ることなのだから。

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 

 下弦の陸討伐から凡そ三日。時間はあっけなく過ぎ去り、鬼によって付けられた数々の傷も少しずつではあるが癒え始めている。

 

 最弱とはいえ十二鬼月という称号は伊達では無く、蒐麗が齎した被害は正しく甚大と言えるだろう。火事による死者は確認されているだけで四十近く、重軽傷者は三桁を優に超えている。彼女が今まで食してきた人間を加味すれば死者も三桁を越すだろうが、それを確認する術はもう無い。

 

 彼の者の血鬼術によって洗脳された隊員も決して少なくは無かった。二十人以上にも上る彼らは洗脳によって無理矢理身体能力を引き上げられた反動で関節部の損傷が酷く、数週間は治療に専念しなければならないらしい。

 

 不幸中の幸いだったのは、彼らに後遺症の類は無く回復後は問題無く任務に復帰できることか。

 

 さて、表向きは大規模な火事に遭ったと処理された貧民窟であるが、当然ながら政府からの復興援助などは無かった。金もろくに持たない彼らに対して今の政府が何の得にもならない慈善事業など行うはずもない。そもそもその存在を認識しないようにしているのだから、関わるつもりは端から無いのだろう。

 

 しかし鬼殺隊にとっては鬼によってもたらされた被害である以上、放っておくわけにもいかなかった。今のところは仮住居の設置と小規模な炊き出し、怪我人の治療等を行っているが、やはり治安の悪い貧民窟か小さなもめ事が相次いでいる。運用している人員の状態から察するに、そう長くは続けられないだろう。

 

 それに、鬼殺隊頭領である産屋敷の莫大な資金力も無限ではない。何れどこかで支援も断ち切らねばならないだろう。鬼殺隊は鬼を殺すために作られた組織であって、貧民層の援助を延々と続ける役では無いからだ。

 

 心苦しいが、割り切らねばならない。

 

 何とも難しい世の中だ。

 

 

 

 さて、場面は変わって鬼殺隊の保有する医療施設、通称”花屋敷”。

 

 元花柱が営んでいる鬼殺隊専用の医療施設であり、古びた外見に反して産屋敷からの無尽蔵の資金援助によって確保された最新鋭の設備が供えられているこの場所の中で、胡蝶しのぶは寝台で寝ている少年の横で俯いていた。

 

 そんな彼女の対面に座している一つの人影。しのぶと比較するとまるで熊かと見紛う程の巨体を持つ男はジャリジャリと数珠をすり合わせながら目の前の少年に対して一礼をし、そしてしのぶを見て深く息を吐いた。

 

「…………随分、無茶をしたようだな」

「……はい」

 

 男の名は悲鳴嶼(ひめじま) 行冥(ぎょうめい)。鬼殺隊に属する者であり、つい数ヶ月前に柱に任命されたばかりの、しかし確かに鬼殺隊における最高位の称号を持つ者の一人。

 

 なにより、胡蝶姉妹を最初に鬼の手から救った者。しのぶにとって大恩ある人であった。

 

 そんな者がはっきりと怒りの気配を纏いながら威圧してくる。正直しのぶは逃げ出したい気分に駆られたが、自業自得なことなど言われずとも理解しているためこの状況を甘んじて受け入れた。

 

「カナエから事のあらましは聞いている。確かに、今回は互いの対話不足が招いた不測の事態だろう。お前一人に全ての責があるとは言えない……が、それでもお前が馬鹿な真似をしたことに変わりはない」

「…………申し訳、ありませんでした」

「……いいかしのぶ。鬼殺の道を志すのならば、感情に任せた軽率な行動こそが真の敵だ。何も考えずに選んだ選択によって、関係の無い者が何人も死ぬかもしれない。我々鬼殺隊は自分だけでなく、他者の命をも背負っている事を忘れてはならない。……私の言いたいことは、わかるな」

「はい……」

 

 鬼殺隊において命の価値は酷く軽い。人智の及ばない力を持つ鬼と戦っている以上、犠牲はどうしてもつきものだ。

 

 その犠牲が鬼殺隊内部で支払われるなら、まだいい。余程の例外を除けば皆自身の命を投げ捨てられる覚悟はあるのだから。だが無関係の一般人は? ――――答えは言わずともわかる。

 

 鬼との闘いは熾烈だ。鬼たちが目立つことを好まない故に人の多い場所で大規模な戦闘が起こることは珍しいが、決して起こりえない訳では無い。過去には極稀に大規模な交戦が幾度か行われ、その度に見るも無残な数の犠牲者が出ていた。酷いものでは三百以上もの人命がたった一晩で消えたこともある。

 

 それを引き起こすのは、我々の選択だ。人間は間違う生き物とは言うが、それは決してその間違いを許していい理由にはならない。

 

 一度の間違いが、多くの命を潰す事もある。

 

 しのぶの行動が此度の事件にて生まれた犠牲の原因なのかどうかはわからない。だがその一端を担っているのは否定しきれない。故に行冥は確かな怒りを以てしのぶを戒めるのだった。

 

「所で……此度の件に菫さんは何と」

「そりゃもう、カンカンに怒ってました。アンタが男だったら裸にひんむいて半日は干してる所だ、って」

「フッ……ならば私がこれ以上どうこう言うことはない。これからもしっかりと反省し、学ぶといい。お前が本気で鬼殺の道を歩みたいのならば」

 

 それだけを言い残して行冥はこの場を後にした。彼は柱であり基本的には多忙、むしろ貴重な時間を捻出して態々会いに来てくれたことをしのぶは深く感謝した。

 

 そうして再び静寂の訪れた病室の中で、しのぶは何も言わずに目の前で寝ている少年――――義勇の手をそっと握る。

 

「……冨岡さん」

 

 幸い一命こそ取り留めたが、三日経ってもまだ彼の意識は戻らない。臨死状態にまで追い込まれたのだ、無理はない。

 

 むしろ命を拾えたのは奇跡と言えるだろう。彼を診た医師――――しのぶの師でありこの屋敷の主である灸花(やいとばな) (かおる)によれば常人ならとっくに死んでいるほどの怪我だったらしい。というか、実際一度死んでいる。

 

 なのに何故生きているのかと言うと……不明である。

 

 本当に原因がよくわからないまま生きていたのだ。何でも常人と比べて代謝機能が異様に高くなっているせいだというのだが、何故代謝機能が高くなっているかはわからないのだ。彼の先天的な体質なのだろうか。

 

 とはいえ、大怪我に変わりは無い。菫曰く、目覚めるのは何時になるかわからないらしい。最悪月単位で経過観察をしなければならないとの弁だ。少なくとも、今日明日目覚めることはまず無いだろう。

 

 ……何にせよ、しのぶにとって彼が生きていてくれたことは心の底から喜ぶべきことだ。二度も自身の命を救ってくれたこの大恩、返す前に逝かれては仕様がない。

 

「早く目を覚ましてくださいよ。……じゃないと、悪戯しちゃいますよ?」

「――――あらあら。しのぶちゃんったら大胆ね~」

「あうあうあー」

「えっ?」

 

 しのぶが義勇の手をにぎにぎしながら遊んでいると、不意に背後から声が飛んできた。反射的に振り返れば、そこには長い髪を三つ編みで束ねている、赤子を抱えた妙齢の女性が佇んでいるではないか。

 

 その顔に見覚えはある。彼女らは昨晩知り合ったばかりの、義勇の姉である蔦子とその娘である向日葵だ。彼女と会話や顔を合わせた時間こそ一刻程度であるが、彼女の優しい人柄を理解するにはその程度でも十分すぎた。

 

 何せ弟がこんな大怪我をした原因とも言えるしのぶを責めることなく、むしろ慰めてくれたのだから。

 

「あ、いや、その、ちっ、違うんです! これは!」

「うふふっ、しのぶちゃんが義勇のお嫁さんに来るつもりならいつでも大歓迎よ?」

「うーあー?」

「そ、そうじゃなくて……ううっ……」

 

 何より雰囲気があまりにも自身の姉、カナエに良く似ていた。おかげでしのぶのいつもの気強な態度は何処かへとすっ飛び、すっかり良いように揶揄われてしまう。もし蔦子がカナエと同じ空間に居たらどうなるのか、しのぶは想像するだけで頭を抱えた。

 

 蔦子は微笑みながらしのぶの隣の席へと腰掛けた。見舞い品として持ってきた高価そうな果物の詰め合わせを寝台の横にある卓に置き、優しい手つきで弟である義勇の頭をそっと撫でる。

 

「全く……目を離すと、すぐに無茶ばっかりするんだから」

「……その、蔦子さんは冨岡さんがこうなった経緯については?」

「ええ、大体理解しているわ。鬼や、鬼殺隊についても」

 

 一般的に鬼は御伽の存在だと言われている。これは社会に混乱させないための処置であり、何より大半の者達は鬼などという超常の存在の事を聞いたところで法螺話の一種だと片づけるだろうからだ。

 

 しかし蔦子は鬼に襲われた経験の持ち主である。その存在を目で見て、また元とはいえ鬼殺隊に命を救われた身。義勇がこうして寝込んでいる経緯については大方察している。

 

 悲し気に、慈しむように蔦子は義勇に触れる。

 

 弟のこんな悲惨な有様を見て、一体どうして平気な心で居られるだろうか。

 

「……本当に、ごめんなさい蔦子さん。私が無理を通したせいで、弟さんがこんな目に……」

「いいのよ。こうしてちゃんと、生きて帰ってくれただけでいいの。それに……こうやって無茶をするのは、今回が初めてじゃないのよ?」

「そうなんですか?」

「そうなのよ。普段は兎みたいに大人しい顔をしているのに、いざという時には想像できないくらい無茶をやって……。私や義勇が初めて鬼に襲われた時も、一人で突っ走って大怪我をしたわ。でもそのおかげでこの子が、向日葵が生まれたのよ」

「うぅ?」

 

 それを聞いて、しのぶは反射的に膝の上に置いた両手をギュッと握った。

 

 聞けば、義勇の両親は彼が物心つく前に流行り病で他界したらしい。それからは蔦子と義勇の姉弟二人暮らしだったそうだ。それは、つい数年前まで何の不自由なく育ってきた己には想像もつかない程過酷な生活だっただろう。

 

 だが一つだけ共通するのは、不運にも鬼に遭遇し、襲われた事。そして最大の相違点は、義勇は家族を守り通せて、しのぶは何もできず両親が食われるところをただ見ているしかできなかった事だ。

 

 正直に言えば、凄く羨ましかった。何故彼は守れて、自身は守れなかったのか。どうしてもそう嫉妬せざるを得ない。助けられた身でありながら何と厚顔無恥だろうかと、しのぶは自身の脆弱な心を恥じた。

 

「しのぶちゃん、よかったら抱いてみる?」

「え? い、いいんですか?」

「ええ、優しくね」

 

 赤子を見たことはあっても、抱きしめてみたことはないしのぶは溢れんばかりの好奇心に身を任せて蔦子の提案に是非と乗った。

 

 しのぶは緊張しながら蔦子から向日葵を受け取り、その小さな両手にもっと小さな命を抱きとめる。

 

「あぶっ、あぅやぁ」

「可愛い……」

「でしょう? 小さな頃の義勇にそっくりで……うふふっ、ほら向日葵~、叔父さんの未来のお嫁さんですよ~」

「よ、よよよっ嫁って――――!?」

「うゆっ」

 

 あからさまにテンパり出したしのぶの頬に、向日葵の小さな手が触れた。

 

 その柔らかくて暖かい感触に、しのぶは一瞬言葉を失う。

 

 先程、自分は一体何を思ったのだろう。何故、何故自分は守れなかったのか、だったか。

 

 何と愚かしいのだろう。何と醜いのだろう。例え意識していなかったとはいえ、それではまるで――――今この両腕に抱いているこの子が生まれなけ(死んでい)れば良かったと、思ってしまったという事では無いか。

 

 それに気付き、しのぶは己の心臓を潰したいほどの苦痛と罪悪感に苛まれた。

 

「っ……なんでっ、なんでいつも、私はっ…………!!」

 

 反省していたと口にしたくせにこの様だ。結局、私は自分の事しか考えていなかった。

 

 誰かのために力を振るえる人達が傍に居るからこそ、しのぶは自身の浅ましさを酷く明確に自覚してしまう。それが悔しくて、怖くて、身体が震えて涙が出てくる。

 

「しのぶちゃん、いいのよ。そう思っても仕方ないの、貴方はまだ子供なんだから」

「うっ、うぐっ、うぅぅぅうぅぅぅぅっ……!」

 

 色々と察したのだろう蔦子はもの柔かな笑みを湛えてしのぶを抱きしめた。身体越しに伝わってくるその優しさはとても暖かくて、だからこそしのぶは泣きたくなる気持ちで胸が溢れてしまう。

 

 だって、この温もりは失われて久しい、母の様なものだったのだ。

 

 すっかり忘れていたもの。心の底で欲しくて止まないそれがこんな醜い自分を包んでくれている事に酷く申し訳なくて、しのぶはただ泣いた。

 

「あぅ? あいやいぁ~」

「あ、ひ、向日葵ちゃん!?」

 

 しのぶが大粒の涙を零していると、ふと腕の中にいる向日葵が突如義勇に向かって手を伸ばし始めた。腕の中でもがく赤ん坊をどうしたらいいのかわからずしのぶが泣きながら焦ると、蔦子は困ったような表情で向日葵を抱き上げ、義勇へと近づける。

 

 すると向日葵はペシペシと義勇の頬を叩き始めた。まるで早く起きて自分に構えと言わんばかりに。

 

「ひ、向日葵ちゃん……」

「ふふっ、向日葵は本当に叔父さんが大好きなのね~。でもごめんね? 叔父さんは今疲れて寝込んで――――」

 

 二人が一向に頬を叩くのを止めない向日葵を窘めようとした。

 

 

 瞬間、目が合う。

 

 

 ぱちくりと目を開けてこちらを見ていた義勇と。

 

「「「…………………」」」

「あーぅ」

 

 はて、一度死ぬほどの大怪我を負ったはずなのに、何故あの少年は目覚めているのだろうかとしのぶは熟考する。

 

 当然ながら考えども考えども答えは出てこなかった。推察するための情報が無いのだから当り前である。

 

 が、今確かに言えることは義勇は無事目を覚ましたという事だ。そしてそれは間違いなく朗報であった。

 

「……………姉さん、と……胡蝶?」

「あぶっ」

「……向日葵、か」

 

 枯れた声ではあったが確かに義勇は言葉を紡いだ。やっと現実を受け入れられたのか蔦子は無言で、飛びつく様に弟の体を抱きしめた。

 

「義勇! 良かった! 本当に良かった……っ!」

「……姉さん、心配かけて、済まない」

「いいのよ、義勇。私の大事な弟……」

 

 まだまだ片づけるべき問題は山積みだ。だがその一つが今消えたことには、素直に喜ぶべきだろう。

 

 涙を流しながら抱き合う姉弟の姿に、しのぶも思わず顔をほころばせた。

 

 

 

 

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