水に憑いたのならば   作:猛烈に背中が痛い

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だらだら書いている内に本誌でやっと無惨様が死んで喜んだ次の週に「ふざけんなクソ死ねよ。クソッもう死んでる」ってなったわ。

ワニ先生もうやめて……(ガラスハート)



第拾漆話 各々の歩む道

 全てを救える、なんて思っていたわけじゃない。

 

 自分が矮小な一人の人間に過ぎないことなど、とっくの昔から知っている。世の理から外れたような存在である継国縁壱(神の子)の惨酷たる人生を知っているからこそ、どんなに力があっても思い通りに事が運ぶなんてことは殆ど無いとはわかってはいた。

 

 わかってはいたのだ。……だが、それを容易く許容できるかは、また別問題だった。

 

「……これが、お星様。で、これをこうして、此処を通すと……流れ星。ほら、やってごらん」

「………………」

 

 骨折が治ったことで包帯を取ることができた腕を遠慮なく動かしながら、俺は寝台の上で対面している小奇麗な着物に身を包んだ少女にあやとりを教えていた。

 

 子供の頃に蔦子姉さんから教わった一人遊びがこんな所で役に立つとは、人生何が起きるかわかるものではない。

 

「そうそう、そこで指を搦めて……ああ、よくできたな」

「……………」

 

 教えた通りに糸を弄ぶ少女の頭を俺は優しく撫でる。……だが、変わらず反応は見せない。

 

 当然だろう。一夜にしてあらゆるものを失い、心が壊れてしまったのだから。

 

 皆の尽力でどうにか痩せこけていた肌の色こそ正常に戻ったが、心だけはどうしようもない。時間をかけて少しずつ治して行くしか無い。治る保証なんてどこにもないが、それでも俺にはやらなければいけない義務がある。

 

 故意で無かったとしても、彼女から家族全てを奪った原因の一端は、俺にもあるのだから。

 

「……な、なあ冨岡。いい加減元気出せよ。な?」

 

 こちらを心配そうな声で励まそうとするのは、隣で横になっていた村田だった。俺が集中治療室から一般の部屋に移された時、奇しくも隣になったのは同期である彼だった。

 

 隣人になって早三日、それからずっと死んだような目と気力しか見せない俺を心配してのことだろう。俺の弱音を聞いて相談にも乗ってくれたし、全く、優しい少年だと思う。

 

「その子が家族を失ったのは鬼の攻撃のせいだって、皆言ってるだろ? あんまり気負う必要はないって」

「そうだぞ、冨岡! 悪いのはあのスカした顔の鬼だ!」

「お前は頑張ったよ。だからそう落ち込むな」

「だ、大体、一番の功労者のお前がそんな様だと……高位の隊士と同伴して何の役にも立たなかった俺たちの立つ瀬がないだろ……?」

「……すまない」

 

 同室の隊士たちも同じように俺を励ましてくれる。その優しさに温かなものを感じ、しかしその通りにできない俺の不器用さが悩ましい。

 

 気にしないように努めても、被害を受けた少女を見るたびにそんな甘ったれた思考は消し飛ぶのだ。

 

 自分のせいだ。自分がもっと強ければ、もっと早く鬼を倒せていれば――――頭の中で幾度も反響していくその言葉を、どう無視しろと言うのだ。

 

「………本当に、どうすればよかったんだろうな」

「冨岡……」

 

 あの夜、俺は少女の身柄を引き取ることにした。あの場に置いて行くなど、端から選択肢にはない。

 

 当所こそ予定通りに鱗滝さんに預けようとしたが……他ならぬ俺自身が、それを許すことができなかった。この子を自分の目に届かない場所に預けることが、どうしようもなく”逃げ”に思えてしまったから。行動の責任を取らないで背を向けるなど、男のするべきことでは無い。だからこうして、身近な所に置いておくことにした。せめて傷ついた心が治るまでは、と。

 

 勿論、子供一人とは言え一人の人間の世話を見るなど生半可な苦労ではない。

 

 まず汚れだらけの少女を全身くまなく綺麗にしたり――――これに関しては蔦子姉さんとカナエとしのぶが半ば強制的に引き受けた――――食事の仕方が鷲掴みが基本だったため箸の使い方を一から教えたり、厠というものを理解していないせいで物陰で小水やらを済ますのを矯正したりと……この数週間、本当に色々と大変だった。

 

 何より自発的に何かをしないのだから、その苦労は倍増だ。喉が乾いてもそれを言うことが無いので、脱水症状で倒れたこともあったのだから。

 

 面倒を見るのが俺一人だったら、ノイローゼ気味になっていたかもしれない。そうならなかったのはひとえに共にこの子の世話をしてくれた胡蝶姉妹やこの屋敷の主である菫さんのおかげだ。

 

 本当に、手助けしてくれた皆には頭が上がらない。

 

「……………」

 

 不意に、少女が俺の服の裾をぎゅっと引っ張ってきた。この数週間の間で唯一少女が起こす自発的な行動だ。その訴える意味は、即ち睡眠欲。

 

 要は眠いらしい。

 

「ああ、おやすみ。あまり長くは寝るなよ」

「………」

 

 少女は俺の体に抱き付いたまま眠りに入ってしまった。俺の体温が高いからか、こうするととても心地良さそうに眠るのだ。今の俺の存在が少女にとって微かな温もりになれているのならば、これほど嬉しいことは無かった。

 

(……どうすれば、助けられた。どうすれば)

 

 もう後の祭りだ。結果は出て、覆すことなど出来やしない。

 

 最善は尽くした。それでも足りなかった。……それだけの話なんだ。今の柱にも及ばない俺では、出来ることなど高が知れている。

 

 だからこそ、より一層自分を鍛えなければ。一人でも多くの人間を救うためにも。

 

 

「――――随分と、落ち込んでいるようですね」

「「「「!?」」」」

 

 

 まるで虚空から現れた一撃の如く、この場に居るはずの無い女性の声が俺たち全員の脳裏を突き刺した。

 

 慌てて周囲を見回してその声の主がようやく見つかる。というか、すぐ近くに居た。具体的には俺の隣に――――毛先の青い美しい黒髪を腰のところまで伸ばした、流麗な波模様が描かれた青い羽織を羽織る麗しい美女が座していた。

 

 仙女の様な自然体の美。その極地を垣間見たかの如く、俺たちは等しく言葉を失った。

 

「どうしました? まるで人を幽霊でも見るように」

「え、いや、その……」

 

 まず最初に思い浮かんだのは「馬鹿な」という率直な感想。

 

 足音が無ければ扉が開かれた音すらしなかった。更に言えば誰しもが放っているはずの気配というものが限界までそぎ落とされている。まるでそこに存在していないかの様に。もしや幽霊か、と彼女の言う通り一瞬思ってしまったほどだった。

 

「い、一体どうやってここに……?」

「どうも何も、私も鬼殺隊ですよ。正面から入ったに決まっているでしょう? ……ふふっ、わかっていますよ。単純に気配と音を消してみただけです。ちょっと皆さんを驚かせようと思いまして」

 

 さらりと言っているが、言うほど簡単な事で無いことは誰にでもわかるはずだ。だからこそこの場に居る全員が察する。この女性は確実にただ者では無いと。

 

「そうですか。……それで、一体どちら様でしょうか?」

 

 が、それがわかったからと言って彼女が何者であるかは未だに不明だ。少なくとも俺の知り合いにこんな人は思い当たらない。もしかしたらこの場に居る者の親戚かとも一瞬思ったが、この場の一人も例外なく彼女に見惚れていることからその可能性は薄いと判断する。

 

 ではこの女性は何者で、一体何用で此処に居るのかが問題なのだが。

 

「ああ、そうですね。まずは自己紹介しましょうか。――――私の名は漣雫。鬼殺隊に於ける今代の水柱です。どうぞ、よろしくお願いしますね?」

「あ、はい。冨岡義勇です。よろしく――――は?」

 

 差し出された手を反射的に握り返した頃に、ようやく彼女の言葉が頭に入ってきた。

 

 ……水柱? この人が?? えっ???

 

「……水柱って、あの”柱”?」

「ええ、その柱ですよ」

「貴方が?」

「はい」

 

 部屋に広がる沈黙と静寂。無理もない。ただ者でないとはわかっていたが、その正体は予想を上回る大物だったのだから。

 

 皆今にも叫び出したい一心だろうが、目の前にいるのは柱。鬼殺隊に於いて九人しか存在しない最高階級にして最高戦力。失礼の無い様に両手で口を精一杯押さえていた。

 

 かくいう俺も困惑を隠せない。何故ここに柱がいるのかわからない。少なくとも水柱に関しては自分から接触を図ろうとしたことなど一度も無いと言うのに。

 

「その……水柱様が、何故ここに?」

「一応、貴方を此処まで運んだのは私ですからね。万が一にも病状が悪化していないか、一目見ておきたかったのです」

「!」

 

 それは初耳だ。まさか水柱直々に俺をこの屋敷まで運んでいたとは。てっきりカナエや錆兎、それでなくとも隠の方が運んでくれたと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。

 

 思い返せば確かに二人からはそう言った旨の話は聞いた覚えが無かった。彼女の話と辻褄は合っている。

 

「それは、ありがとうございます。おかげで助かりました」

「いえいえ。感謝などしなくて結構ですよ。むしろ、感謝したいのは私の方ですから」

「……それは、どういう?」

「どうもなにも、私の駆けつける前に鬼を倒してくれたでしょう? 迅速な討伐によって多くの命が助かった。感謝以外の何物でもありません」

「………………」

 

 それを言われて、俺は言葉に詰まる。

 

 鬼を倒したことについて、後悔はしていない。しのぶを助ける上でどうやっても避けきれないことだった。ただやはりこうも思う。

 

 ――――俺が、俺たちが刺激したせいで、本来なら出ないはずの命が散ってしまったのではないか、と。

 

 勿論ただの「たられば」の話。今更討論しようが永遠に答えなどでない話だ。

 

 考えても無駄だとわかっていても、つい考えてしまう。俺の心が弱いから。

 

「――――もし、自分のせいで被害が広がった、なんてことを考えていたのならば……それは筋違いも甚だしいですよ。冨岡義勇君」

「え……」

 

 図星を突かれて硬直する。だが勘違いとはどういう事だ……?

 

「もし貴方が不用意に触れたのがどうしようもない天災の類ならば、貴方が責められるのも当然でしょう。ですが鬼は違う。奴らは悪意を持つ、明確に人に害を成す存在。厄だけを振り撒き、益など何一つ齎さない害虫以下の存在です。例え此方が触れていなくても、奴らは悪戯に人を貪り弄ぶ」

「それは、そうかもしれませんが……」

「それに、貴方がここで仕留めていなければ、もっと被害が広がっていました。私も下弦の陸に一度だけ遭遇したことがありましたが、奴は用心深く相手が自身より上だと気づくや否や迷わず逃げの一手を選ぶため、敢え無く逃してしまっています。そのせいで犠牲となった人が、どれほど居るのやら……」

 

 彼女の言うことが真実ならば、確かに此処で下弦の陸を仕留められたのは幸運以外の何物でもなかっただろう。

 

 俺が弱かったから奴は逃げず、痣が発現しても相手が冷静さを失い尚且つ実力が拮抗していたおかげで逃がすこと無く仕留めることができた。そういうことならば、弱さ故に荒んでいた心も少しはマシになったような気がした。

 

 それでも、気持ちは相変わらず暗いままだが。

 

「……そういう意味では、私は貴方がたや今回犠牲となった人々に謝罪しなければいけないでしょうね。私たち柱が幾度も遭遇しておきながら未熟にも仕留めきれずに逃がしてしまったこの不始末。おかげで、貴方たちに要らぬ苦労を背負わせてしまった」

「そんな事は……!」

 

 思わない、と言えば嘘になる。

 

 俺だって人間だ。もし誰かの失敗を自分が尻拭いをする羽目になったのならば、文句や悪態の一つくらい言いたくもなる。だが先程も言った通り、人生思い通りに行く方が珍しいのだ。

 

 その苦難を知っているからこそ俺は何とか慰めの言葉の一つでも出そうとして、しかし気休め程度のものしか出てこない。

 

 ……慣れない嘘など、吐く物では無いか。

 

「……全ての苦難を我が身に背負えて、その全てを後腐れなく捌けるのならば良かったのですが。中々、上手く行かない物です」

 

 本当に、儘ならない世の中だ。

 

「――――さて、次の話題に移りましょうか」

 

 先程よりも数段重くなってしまった空気を切り変えるように、雫さんがゆったりとしつつも軽快な声を響かせながらパチンと手を叩いた。

 

 色々思うところはあるが、後悔など後で幾らでもできる。今はとりあえず、態々俺に会いに来てくれた雫さんの話を聞くのが先決だろう。

 

「早速ですが冨岡君、私の継子になりませんか?」

「はい。……はい?」

 

 前振り無く落とされた爆弾にすぐさま反応できず、俺は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。

 

 ……こう言う話はもっとこう、長い前置きをするものではなかろうか。

 

「ええと……どうして俺を? 俺以上に優秀な水の呼吸の使い手ならば、上の階級の隊士には何人も居ると思うのですが」

「そんな事、私が確かめていないと思いますか? 水の使い手は全員把握済みです。その上で断言しますが、私の後継に足りうる者は一人として居ません。悲しきことですが、純然たる事実です」

 

 数分前の優し気な雰囲気は何処へ消えたのやら、そういう彼女の口ぶりからは一切の遠慮が無い。

 

 水柱たる彼女がそう言うのだから、それはきっと事実なのだろう。鬼殺隊に水の呼吸の使い手は多いが、その全員が才能溢れる者とは限らない。不運にも、今期の水の使い手たちは柱から見ればあまりにも力不足なのだろう。

 

「……つまり、俺は貴方のお眼鏡に適ったと?」

「端的に言えばそうなります。もう一つ付け加えるのならば……貴方が今まで百年以上確認されなかった”痣者”である事も、その一因でしょうか」

「!!」

 

 想定内ではあったが、やはり触れてきたか。

 

 鬼とあれだけ大規模な争乱を起こしていれば、鎹烏が何羽も空を飛び回っていたはずだ。当然、俺の痣に付いても報告されるだろう。そして産屋敷は痣に付いての情報……その効果と代償を把握している。不明なのは発現するための条件。

 

 そのため実例たる俺に接触してくるのは自明の理。……さて、どう対応するのが吉と出るか。

 

「貴方は戦闘中、顔に独特な紋様が現れたことがあるそうですね。それについて何か知っていることがあるのならばできる限り教えて欲しいのですが」

「…………それは」

 

 即座に答えが出せるわけも無く、俺は言いよどむ。

 

 痣者は一人現れたら共鳴するように他の者にも伝播する。――――()()()()()俺はその条件をなるべく口にしたくない。明細な条件が判明すれば、それだけ痣は発現しやすくなる。

 

 その代償は寿命の前借。痣者は一人の例外を除いてその全てが二十五を待たずに死ぬ。その例外も、正直生物としての例外過ぎて参考にならない。つまり発現させればもれなく死への階段が他人の四分の一に縮まるのだ。

 

 そして何より、発現した者が既に二十五を越えていた場合は、恐らく……。

 

 ……しかし、前述した通り代償に付いては産屋敷は既に把握している。未来予知じみた先見の明を持つ彼らならば、貴重な柱を無暗に欠けさせるようなことはしないだろう。決して悪い方向には転がらないはずだ。

 

 ならば……託すべきか。

 

「……戦闘中、身体能力が爆発的に上昇する現象は過去三度体験しました。そのどれもに共通するのが、体温と心臓の鼓動です」

「ふむ、体温と心臓の鼓動。具体的にはそれがどうなるのですか?」

「体温は熱病に掛かったが如く異様に発熱し、心臓の鼓動は激しい運動を無理にしたかのように早鐘を打ちます。恐らく、常人ならば死の境を彷徨うほどの状態でしょう」

「……なるほど。常人ならば間違いなく死ぬ篩を抜けることで、痣という理外の力を手にできる。そう言う事ですか」

 

 我ながら簡潔な説明ではあったが、雫さんは予想以上に聡明でこれだけで答えに到達してくれた。ならばこれ以上の説明は無用か。

 

 願わくば、この行為が後になってこちらに牙を剥かないことを祈るばかりだ。

 

「ああ、話が逸れてしまいましたね。それで、私の継子になることへのお返事は如何ほどに?」

 

 継子になるデメリットは殆ど無い。むしろ柱直々に指導を受けられるのだから、未来のためにも大きな力を求める俺にとっては端から端までメリットだらけだ。更に言えば同じ呼吸の使い手、ならない手は無い。

 

 だが……。

 

「……あの、もし継子になったら、この子はどうなりますか?」

「? その子は……貴方の妹ですか?」

「いえ。鬼の被害によって、天涯孤独となった子です。俺が、身柄を預かりました」

「…………」

 

 その為にこの子を手放すことになるのだとしたら、あまり気が進まない。例え雫さんの助力が将来にとって大いに役立つものだったとしても、だからといって無暗にこの少女と離れるのは、間違っている気がするのだ。

 

 我ながら、何とも女々しいと呆れてしまう。

 

「ええ……私の継子になるのならば、次期柱として訓練を積むだけでなく、通常通り任務も行ってもらいますから。やはり、その子の面倒を見る時間も少なくなるでしょう」

「……なら」

「ですが、私が要求する以上の努力を積み重ねるのならば、十分な時間を差し上げるのも吝かではありません。……私の言いたい事、お分かりいただけましたか?」

 

 その言い分に俺は瞠目した。

 

 要するに彼女はこう言いたいわけだ。力も欲しい、この子の世話もしたい。どちらもやりたいのならば、死ぬほど頑張れと。中々無茶な事を言ってくれる。

 

 だが――――面白い。

 

「わかりました。どうか貴方の継子にさせてください、師よ」

「ふふっ、善哉善哉。多くのものを掴みたければ、倒れ伏すまで足掻きなさい。成すべきことを成すのなら……」

 

 どの道、鬼舞辻無惨の討伐なんて夢物語の様な事を目標に掲げているのだ。今更鍛錬と子守の両立に何を戸惑うものか。心の底でやりたいと思ったのならば、成すためにも死ぬ気で足掻け。

 

 泣き言など、死んでから吐いても遅くないんだ。

 

「ところで、その子の名前は何でしょう? これから長い付き合いになる身、呼び名がわからないのは困ります」

 

 それもそうだと、俺は隣で寝る少女へと視線を移し、小さく頭を撫でる。

 

 断片的な情報を符合すれば、共通点は多々あった。しかしこんなにも早く会えるわけがないと思いこんでいたから気づかなかった。

 

 縁と言うのは、実に不思議なものだ。これを奇縁と言わずに何と言えばいい。

 

「……この子は親から名前を付けられなかったようで。苗字はまだですが、下の名前の方は胡蝶……知人に名を付けていただきました。この子の名は――――」

 

 

 

 

「カナヲ。それがこの子の名前です」

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 狭い部屋の中で紙に筆を滑らせる音が静かに木霊する。

 

 枯れた木を思わせる物静かな気配を纏う老婆、灸花菫はただ冷淡に机の上で事務作業をしている。自身の後ろで深々と綺麗な土下座を見せる少女――――胡蝶しのぶの事など眼中にないと言外に示すように。

 

 ただ付け足して述べるのならば、この状態は一時間以上もの間継続している。更に言うなら、この光景は一週間以上前から繰り広げられていた。

 

 ただ必死に頭を下げて懇願するしのぶ。やめろと言っても聞かないので、菫は暫く無視を決め込んでいたのだが、そろそろ堪忍袋の緒も切れる頃合いだ。その証拠に彼女の筆にも僅かではあるが乱れが生じてきている。

 

「一体何時までそんな情けない恰好を見せつけるつもりだい」

 

 痺れを切らした菫が口を開いて、ようやくしのぶが肩を揺らす。しかし頭は上げず、必死さの滲む声でただ一言告げるのみであった。

 

「……お願いします。どうか、私を弟子にしてください。鬼を殺す毒を作るために、どうか」

「…………はぁぁぁぁ」

 

 深い深いため息を吐きながら菫は筆を置き、背もたれに肘を掛けながらしのぶの方へと振り向く。その顔には取り繕うことの無い呆れが張り付いている。

 

「まだそんな世迷言を言ってんのかい。今まで何度も言ったと思うけどね、鬼を殺せないからと言って明日生きられない訳じゃないんだ。大人しく諦めて、好きな男と乳繰り合ってガキでもこさえながら余生を過ごしな。鬼狩りなんてもんは、日常を捨てた狂人共に任せりゃいい」

「だったら……だったらなんで菫さんは鬼殺隊に入ったんですか! 貴方だって、鬼に大切な何かを奪われたんじゃないんですか?」

「……………ふぅぅ、頑固な娘だねぇ」

 

 菫は引き出しから煙管を取り出し、慣れた手つきで火皿に煙草を詰めて火を点け、肺の奥まで浸透させるように深く吸いこんだ。そして、同じく深く吐き出す。

 

「ああそうさ、奪われたよ。一人娘以外全部奪われたさ。父も母も夫も兄弟姉妹全員、あたしを残して一夜で居なくなった。……そして娘も孫も、消えちまった」

「……え?」

 

 鬼殺隊に入る者は余程の酔狂者以外は誰かしら肉親を失っている場合が多い。だからしのぶも菫が鬼殺隊に入隊した経緯についてはある程度推察することはできた。

 

 だが、彼女から語られたのはしのぶの想像以上に惨い現実だ。

 

「娘はあたしが引退した後に赴任した花柱だった。当時は誇りに思ったもんさ。娘が立派に、人の命を救う仕事に就いたとね。だけど娘はたった数年で鬼に貪り食われた。遺体なんて残りやしない、あたしの手元に残ったのは羽織の切れ端と血塗れの簪だけさね。この時、ようやく後悔したよ。どうして娘をこんな組織に連れ込んだ、ってね」

「っ……だったら!」

 

 しのぶは反射的に叫び出すが、菫は無視して言葉を続ける。微かに滲み出る威圧感に、しのぶも思わず言葉を止めるしかなかった。

 

「孫は娘の後を継ぐように鬼殺隊に入った。これが中々頑固者で、あたしがいくら鬼殺隊をやめろと言っても聞きやしない。何度も喧嘩するうちに馬鹿みたいに早く育っていって、たった二年で柱になった。……で、つい数週間前に鬼に食われて逝っちまったさ。不運にも、上弦に出くわして。で、義理の息子は後を追うように自殺した」

 

 そう語る菫に、しのぶは何も言うことができなかった。

 

 一ヶ月前まで見ていた師とは明らかに違う。泥の様な黒い感情に染まり切った双眸がしのぶを射抜いていたからだ。息をすることすら難しい、さながら蛇に睨まれた蛙のような心境だろう。

 

 鬼によって己以外の全ての肉親を奪われた絶望。それは一体どれほど重い物なのだろう。

 

「なんで皆、揃いも揃ってこんな婆を置いて先に逝っちまうんだか。七十越えた婆さんを労う気持ちがあるんなら、一日でもあたしより長生きして、老体を安心させてほしいんだがね」

「菫さん」

「あんたの姉にも文句を言ってやりたいよ。何で妹連れてこんな自殺志願者の集まりみたいな所に来たんだと。本当に大切に思ってんなら、一緒に町娘として静かに暮らすか、無理にでも突き放せばいいものを」

「っ……………」

 

 彼女の言うことは全て人として正論だ。鬼と戦うという事は常に命懸け。一般人の目線からすれば、鬼殺隊は自分の命など顧みない気狂いの集団と見られても仕方がない。それだけ鬼殺隊が出している年間の殉職者数は目を覆いたくなるほどの代物なのだから。

 

 全てを忘れろとは言わない。しかし生き残った自分や家族の命を大切にしながら、陽の当たる場所で健やかに生きていけ。菫はそう言っている。

 

 普通の者ならばそうするだろう。誰だって自分や身内の命の方が大事だ。一体どうして見ず知らずの他人や下らない自己満足のために命を捨てる覚悟で異形の怪物と勇んで戦おうとするだろうか。

 

 そんなことは、命を投げ出してまで他人のために戦える愚直な馬鹿か、自らを燃やすほどの恩讐に全てを捧げようとする復讐者か、自分は死なないと思い込んで現実を楽観している大間抜けにしかできない事だ。

 

 しのぶをその中で表すのならば――――

 

「……だから、なんですか。私が流されて、この場所にいるとでも思っているんですか」

「違うなら違うと言ってみな。肉親を殺された恨みを忘れられず、怒りと憎しみに取り憑かれた訳じゃないと本気で言えるならね」

 

 その挑発するような菫の言い草に対し、しのぶは思いっきり拳を床に叩き付けながら立ち上がる。先程まで縮こまっていた様子など、まるで嘘の様だ。

 

「――――()()!!」

「……ほぉう」

「鬼に対する怒りと憎しみが無いと言えば嘘よ。そこは、否定しない。だけど、断じて()()()()じゃない!! 自分を蔑ろにしながら闇雲に突っ走る姉さんの助けになりたい! お父さんとお母さんの様に誰かのために頑張れる人間でありたい! なにより――――全部忘れて、毎夜毎夜鬼なんて下らない存在にビクビクしながら暮らすなんて真っ平御免よ!!」

 

 初めて、菫がその顔に微かな笑みを浮かべる。吹っ切れたしのぶの様子が面白かったのか、それとも……一年鍛えても剥けなかった殻を突如突き破ったことに興味を示したのか。

 

「私は私自身の意志で此処に居る! 私は自分のやりたいことをやるために此処に来ているの! 両親の敵討ちも、姉さんを支えるのも、困っている人を助けたいのも、全部私自身の決めたことよ!! これは、絶対に状況や感情に流されて決めたことなんかじゃない!!!」

「…………くっ、くっは、くははははははははっ!! はっははははははははははは!!!」

 

 心の底から絞り出すような叫びを言い切ったしのぶ。息を荒げ、肩を揺らしながらしのぶは菫を睨みつけ――――当の彼女は愉快愉快と高らかに笑いだした。

 

 何がそんなに面白いのだとしのぶがキッと睨みを強くしても、菫はそよ風を受けるように涼し気な顔のまま煙管を吹かす。先程と違うのは、今の菫は実に上機嫌といった顔であった事だ。

 

「な、なんで笑うんですか!」

「いやいや、全く。つい一ヶ月前までは鬼を殺さなきゃだのなんだのと亡霊にでも憑りつかれていたようなガキが、今は一丁前に鬼殺隊の卵のような面してるのが実におかしくてね。恋をすれば人は変わる……今の今まで迷信だと思っていたんだがね」

「な、こっ、こっここここここぉっ……!?」

「んだい、下手くそな鶏の真似だね。ったく、男一つでこうも変わられちゃあ、一年間頭をぶっ叩きながら矯正しようとしたあたしが馬鹿みたいじゃないか」

「……す、すいません」

 

 憑き物が落ちたような顔で重い腰を上げる菫。そしてしのぶの眼前にまで進むと、彼女の目の前に指を二本だけ突き立てた手を見せた。

 

「二年だ」

「はい?」

「二年であたしの持つ技術の全てをお前に叩き込む。それをモノにできるかはお前次第。できたとしても、それをどう活かして役立てるかもお前次第だ。……あんだけ自信満々に大言を吐いたんだ。今更無理だなんだの泣き言は聞かないよ」

「っ……はい!!」

 

 こうして胡蝶しのぶの、剣士ではなく薬師としての歩みがようやく始まる。

 

 剣士としては大成できない。しかし別の道を以て鬼殺を成す。過去千年の間一人として成せなかった、毒による鬼殺しという偉業を成すがために。

 

 誰もが望む、鬼の無き夜明けのために。

 

 


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