水に憑いたのならば   作:猛烈に背中が痛い

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第弐拾壱話 少年は夜明けに涙した

 座敷牢の中でゴリゴリと何かを削る音がする。何故そんな音がするかといえば、それは錆兎が金属製の簪で牢の一部を高速で削り取っているからだった。

 

 非力な伊黒とは比べ物にならない速度で牢が削り取られていく。彼では数日かかる作業も、数々の鍛錬や修羅場によって鍛え抜かれた身体を持つ錆兎ではあっという間だった。あまりの作業速度に、これを見た伊黒は今までしてきた自分の努力が少しだけ馬鹿らしく感じてしまう。

 

「伊黒、何か異常は」

「え、な、無いぞ。誰も来ていない」

「そうか。じゃあ少しだけ下がってくれ」

 

 何をする気だと思いながらも伊黒は言われた通り数歩下がった。そして錆兎はそれを見た後両腕を振り上げ、手錠を鈍器の様にして牢の削った個所へと叩きつけた。

 

 バギッ、と何かが強く折れる音。それに怯んだ伊黒は思わず目をつぶり、恐る恐る目を開けると……そこには綺麗に折れた牢の一部を持った錆兎の姿があった。

 

「や、やった!」

「ああ。これで出られる……」

 

 早速錆兎が牢に出来た隙間に体を通してみる。少し狭いとは感じたが、何とか抜けることができた。それに伊黒も続き、錆兎より小柄な彼は何の抵抗も無く抜け出すことに成功した。

 

「じゃ、じゃあ早く冨岡を助けに行かないと」

「……いや、俺たちはこのまま装備を探しに行こう」

「え!?」

 

 想像もしていなかったその言葉に伊黒は驚くしかない。まさか義理深い彼から、相方を見捨てるような言葉が出てくるなんて思わなかったのだ。

 

 伊黒の反応を見た錆兎は言葉足らずだったかと苦笑しながらすぐに説明を付け加える。

 

「無論、見捨てる訳じゃないぞ。義勇ならあれぐらいの危機は乗り越えられると信じている。それに……万が一この状態で鬼に見つかるとさすがの俺でもどうしようもない」

「そ、それはそうだが……」

 

 およそ一刻の事か。睡眠薬を食事に盛られ、それを口にしてしまった義勇は敢え無く女たちに連れて行かれてしまった。

 

 勿論錆兎は最初それに抵抗しようと思ったが、すぐに考えを改めた。例え今ここを凌いだとしても、次に何をされるかわからなくなるからだ。少なくとも食事に睡眠薬を盛る以上の事をやってくるとは想像がつく。故に、わざとその蛮行を見逃した。

 

 男としてこれ以上無い危機だが、義勇なら何とか切り抜けられると錆兎は信じている。しかしもし……もし考えうる限りの最悪の状況になっていたのならば、その時は殴られる覚悟をして誠心誠意詫びようと心の中で誓った。

 

 幸いなことに女たちの話を盗み聞きした限りは、眠らせて運んで相手をする娘を決めるのは少し間があるらしいので義勇がそれまでに起きたのならばきっと何とかなる筈。そう自分に言い聞かせながら、錆兎は今後の予定を素早く組み立てる。

 

「伊黒、鏑丸に俺たちの臭いを辿らせることは可能か?」

「臭いを?」

 

 蛇はヤコプソン器官という、鼻より優れた嗅覚器官が口の中の上顎の部分に存在する。要は口の中に鼻がもう一つあるようなものだ。そして蛇は空気中に舌を出すことで、空気中の”臭い”を舌で絡め取り、口の中のヤコプソン器官に運んで正確に感じ取ることが出来るのだ。

 

 それを使えば臭いを辿る事も決して難しくは無い。……ただし、蛇と意思疎通が出来て言うことを聞かせることが出来れば、という前提条件が必要だが。

 

 しかし、今回の場合その条件を満たしている人物がいる。そう、鏑丸と長い間共にいて友情を培ってきただろう伊黒小芭内が。

 

「できる、と思う。やったことは無いが」

「頼む」

「ああ。鏑丸、錆兎や冨岡の臭いを辿れるか?」

「シュー……」

 

 伊黒が呼びかけると鏑丸は錆兎の髪の近くでペロペロと舌を出し入れし、おもむろに身を起こした。まるで自分の体を矢印にするように。

 

 二人はそれを見て小さく頷き合い、早足で部屋を立ち去る。もうすっかり日が暮れて、監視の目も軒並み就寝してしまっている。

 

 普通ならば寝ずの番くらい付けるだろうが、この一族は何も知らない子供を除いて全員が堕落しきった思考に染まり切っている。そんな者たちの中で誰がわざわざ辛い役目を請け負うだろうか。

 

 そのせいでこうも易々と脱出を許しているのだから、実に皮肉としか言いようがない。

 

 錆兎は両手両足が拘束されているためぴょんぴょんと飛び跳ねながら、伊黒は運動などしたことも無い体に鞭打ちながら廊下をなるべく静かに、しかし素早く移動する。

 

 道中、部屋を通りかかる度に誰かの寝言や寝返りを打つ音が聞こえて冷汗を幾度かかいたものの、十分ほどでどうにか無事に目的の場所らしき部屋にたどり着くことができた。

 

 しかし、

 

「くっ、鍵がかかってる……!」

 

 当然と言えば当然だ。この鉄の格子が表面に巡らされ、木製扉と鉄製の南京錠で守られているのは、恐らく宝物庫。今まで鬼が奪ってきた金品や値打ち物が保管されている場所。そこを厳重に守らないわけがない。

 

 扉も錠も破壊は困難。伊黒はこの状況にどうしたものかと頭を悩ませる…………が、錆兎は無言で扉と相対し、一歩二歩と可能な限り距離を取り始める。

 

「……錆兎? 何をする気だ?」

「まあ見ていろ。きっと上手く行く!」

「え、まっ――――」

 

 制止の声を振り切って錆兎は連続で側転を始め、身体を大きく回転。そして扉に近づいた瞬間両足で大きく跳び上がり、下半身にに全体重をかけながら足の枷を宝物庫扉へと打ち付けた。当然、凄まじい音が鳴り響き、伊黒は顔から一気に血の気を引かせた。

 

「なっ、何をやっているんだお前は!? 馬鹿か!?」

「いってて……いや、ちゃんと目的は果たせたぞ?」

「何……?」

 

 扉の傍で尻もちを付いた錆兎は反動が直接返ってきたせいで痛めてしまった両足を摩りながら、扉の方を指さした。瞬間――――鉄製の扉があっけなく開いていくではないか。

 

 どういう事だと伊黒は扉を見て、何故そうなったかを直ぐに気づく。

 

 そう、扉の蝶番があっけなく折れて壊れている事に。

 

「南京錠は頑丈そうだったが、蝶番が酷く錆びていたからな。強い衝撃を加えれば壊れる可能性が高いと思ってやってみたが、上手く行くもんだ」

「な、なんて無茶苦茶な……」

「無茶苦茶だろうが結果を出せばそれでいい。伊黒、何でもいい、切れ味が良さそうな刀を持ってきてくれ! なるべく早く!」

「わ、わかった!」

 

 言われた通りに伊黒は宝物庫の中に入り、その直後己が目に飛び込んだ光景を見て絶句した。

 

 部屋の中にあったのは金銀細工に高そうな陶芸品、業物のような刀剣類、一般庶民では手も出せないだろう大陸由来の薬草の数々……それらが溢れんばかりに大切そうに置かれていたのだ。そしてその光景は、伊黒が絶望するには十分すぎるものだった。

 

(こんな物を揃えるために、僕の一族は一体何十何百の人間を死なせてきたんだ)

 

 伊黒にはこれらがどれだけの価値があるかはわからない。わかったとしても、彼はこう思うだろう。

 

 これは、こんな物は、人を殺してまで奪う価値があったのか?

 

 お前らはこんな物のために外道に落ちたのか?

 

(こんな物のために、僕は――――!!)

 

「伊黒! 早く! 人が来るぞ!」

「あっ、貴方たちそこで何をしているの!」

「って、私たちが連れてきた男じゃない! どうしてここに……!?」

「みんな大変よ! 牢に居た子供たちが脱走して……っ、こんな所に!!」

 

 後ろの扉から声が聞こえて伊黒はようやく意識を再起動させた。

 

 そうだ、今は絶望している場合では無い。伊黒は手近にあった刀を手に取り、それを鞘ごと扉の外にいる錆兎へと投げつけた。それを見事に受け取った錆兎は刀の柄を両手で握り、振り払う事で抜刀。即座に両足へと振り下ろして足枷を二つに叩き斬った。

 

 両手の方はすぐには無理だが、足の方が自由になった。ならばこの場を切り抜けるには、あまりにも十全すぎた。

 

「ヒュゥゥゥゥ――――!」

 

 刀の向きを反転させた錆兎が自由になった足で女たちへと駆ける。戦ったことなどあるはずもない女たちにその動きを捉えられるはずもなく、錆兎がその首に一撃入れるのは赤子の手を捻るように簡単な事であった。

 

 

 【参ノ型 流々舞い】

 

 

 女たちの間を通り過ぎた錆兎は綺麗に納刀。鯉口を鳴らせた瞬間、女たち全員が糸が切れたように倒れ伏す。

 

 無論、全て峰打ちである。

 

「すごい……すごい!」

「言っただろ? 刀さえあればこっちのもんだってな」

 

 手枷や足枷の残りの部分を切り落としながら錆兎は深いため息を付いた。ようやく状況を打開の方へと転ばせられたのだ。張り詰めていた気も緩むというもの。

 

 ――――ただし、それを状況が許してくれるとは限らない。

 

「っ、なんだ!?」

「ひっ」

 

 天井裏から聞こえる何かが蠢くような音。それが一斉に周囲から聞こえ始め、尋常ではない事態に錆兎は汗を流す。伊黒もまた日々の恐怖を呼び起こされたことで反射的に錆兎の服を掴んで縮こまってしまった。

 

 そして――――バキリ、という音と共に、それらは落ちてきた。

 

 海でもその姿を現した、白い大蛇が。

 

「な……………」

「う、あぁ」

 

 海で見たものと比べれば一回りは小さい。だが子供一人のみ込むには十分すぎるその巨大な蛇に睨まれたことで錆兎は身構える。天井に空いた穴からボトリボトリと大蛇が落ちてくるたびに、錆兎の額に浮かんだ汗はその筋を増やし続けた。

 

「キシャァァァアアアアア!!」

「伊黒伏せていろ!!」

 

 大蛇が一斉に錆兎へ――――否、此処に居る全ての人間へと飛びかかった。予想と違った動きを見ても錆兎は焦ることなく冷静に刀を振るい、攻撃が届く片っ端から蛇の胴体を真っ二つに断ち切った。

 

『きゃあぁぁぁあぁあああっ! いやっ! どうしてぇっ!? 守ってくれるって約束じゃ――――』

『誰か助けてぇっ! ぁぁぁあぁあああっ!!』

「何がどうなっている……!?」

 

 周りから聞こえる悲鳴。それは間違いなく別の場所に湧いただろう蛇たちに女たちが襲い掛かられている何よりの証明だ。

 

 だからこそ錆兎は状況が飲み込めなかった。伊黒の一族は生贄を差し出すことで鬼の庇護を得ていた筈。なのにこの土壇場で突然手の平を返されるなど訳が分からない。

 

「伊黒! そこの奥にある刀二本と服を持ってきてくれ! 急いでここから離れるぞ!」

「あっ、ああ!」

 

 ただ一つ確かな事は鬼はこの場に居る全ての人間を皆殺しにするつもりであり、自分たちが一刻も早く鬼を仕留めねば今宵何十人もの人が食い殺されるという事だけだった。

 

 鬼と共生していたとはいえ、錆兎も鬼殺隊の端くれ。目の前にいる人間を見殺しにするつもりは毛頭無い。

 

(無事でいてくれ、義勇……!!)

 

 次々と襲い掛かってくる大蛇を斬り捨てつつ先程気絶させた女たちを叩き起こしながら、錆兎は武器も持っていないであろう相方の無事を祈った。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 蛇鬼から繰り出される両手と巨大な尾、そして従えた大蛇を使った怒涛の連撃。俺は両手両足を拘束された身を限界まで酷使しながらそれらをどうにか紙一重で躱し続けている。

 

「あぁもうウザったいねぇ! いい加減捕まって楽になりな小僧ォ!!」

「誰がっ……!!」

 

 身体が重い。頭が痛い。それでも身体の奥底から気力を絞り出して手足を動かす。でなければ俺は奴に捕まって確実に貪り殺される。

 

 普段から防御を心がけているからこその立ち回り。身体の動きを大きく制限されていたとしても動体視力まで鈍るわけでは無い。常に最適な動きを頭の中で導き出し、回避と防御を続けることで俺は時間稼ぎに徹していた。

 

 今の俺に奴を倒せる手段も無ければ状況を逆転させる一手も無い。精々自分が生きる時間を少しでも伸ばせるくらいだ。

 

 だから信じるしかない。錆兎たちが自力で牢を抜け出してこちらにやってくることを。無論それが蜘蛛の糸ほどの儚い希望だと言う事は重々承知しているが、この場を打開できる確率が一番高い手がそれしかないのだ。

 

 【血鬼術】――――

 

「!!」

 

 蛇鬼の動きが一瞬止まった。そして奴は口を大きく開けると、喉奥から鋭く太い棘のようなものを吐き出した。間違いなく血鬼術の前触れ。

 

 【蝕毒(しょくどく)散牙(さんが)

 

 予想通り蛇鬼はその棘を高速で撃ち出した。だが避けられない程では無い。俺は余裕を持って距離を取り、難なくその攻撃を避ける。

 

 が。

 

(かぁつ)ッ!!」

「ッ――――!?」

 

 宙を飛んでいた棘が突如膨れ上がり、爆発。内包されていた細かい棘が四方八方に飛散した。

 

 予想外の事態に対応が遅れ、俺はとにかく急所への攻撃だけは避けるために身をよじりながらも手足で身体の重要な部分を庇った。その甲斐あって細かい棘は俺の手足に幾つか突き刺さる程度で済む。

 

 だが、俺は安心などできなかった。長年生き続けた鬼の血鬼術がこんなチャチなもので済むはずがない。必ず何かが仕込んである。きっとそれは……。

 

「クキキキキ! 当たったねぇ! 冥土の土産に教えてやる。棘に付いていたのは毒さ! 獲物をジワジワと弱らせる毒。小一時間もすればお前は手足も動かせない程に弱る! そうしたらお前を生きたまま手足の端から少しずつ食い殺してやるよ、小僧!」

「くそっ……!」

 

 やはり毒の類だった。きっと、島から脱出したという男性にも打ち込まれた毒の正体がこれなのだろう。

 

 そして当然だが、俺も錆兎も鬼の扱う毒を解毒できる術など知らない。即ち約一時間以内にあの鬼を仕留めなければもれなく俺はただの餌となる。

 

 唯一の救いは毒の効果はあくまでも衰弱に限るようなので症状がいくら進んでも死にはしなさそうなところだが、追い詰められている今の俺にとっては一抹の救いにすらなりはしない情報だ。

 

 たださえ余裕がないのに時間的な猶予さえも消えてしまった。冷静沈着を心がけてきた俺も流石に焦りを隠せなくなり始める。

 

「いいねぇ、その表情が見たかったのさぁ。どうする? みっともなく命乞いでもしてみるかい? もしかしたら見逃すかもしれないよ?」

「ふざけろ、蛇畜生が……!!」

「その余裕が何時まで続くか、見物だねェ!!」

「くぅっ……!」

 

 奴の言う通り、この攻防がどれだけ続けられるのかわからない。正直、毒の事を考慮していなくてもいずれ体力の限界が訪れるだろう。

 

 更に言えば毒以外にも媚薬と睡眠薬を盛られたせいで身体も頭も滅茶苦茶だ。こうして独白を走らせている余裕があるだけ奇跡といえる。

 

「――――たっ、助けてぇぇぇ……!! いやぁぁ!」

「!?」

 

 障子を倒しながら部屋から女性が倒れ込むように現れた。そして部屋の中には白い大蛇と、既に食われてしまったであろう下半身だけになった女性の死体。

 

「どっ、どうしてですか蛇神様ぁ! いっ、生贄の赤ん坊なら毎月言われた通り捧げて来た筈! どうして我々を襲うのですか! これでは、これでは約束が違う!!」

 

 女性が俺と対面している蛇鬼に気付いて狂乱したかの様に喚き散らした。その内容は聞くに堪えない保身塗れの言であり、それを聞いた蛇鬼は呆れと嘲笑混じりに女へ返す。

 

「あァン? もとはといえばアンタ達が閉じ込めていた男を逃したからこうなっているんだろうが。おかげであたしはせっかくここまで育て上げてきた餌場を捨てる羽目になったんだよ! だからせめて最後には腹ぁ一杯食ってもいいだろう? 特に、女は肉が柔らかくて美味いのさ。美味しいものばかり食ってきた、お前たちの様な女はねェ……?」

「ひぃっ」

「それに……なぁぁんであたしが自分よりも弱い奴らとの約束を守らなきゃならないのさァ! アンタらの命は、最初からあたしが握っているというのにねェェェ!! ヒャッハッハッハッハ!!」

「い、いやっ――――」

 

 蛇鬼の叫びに呼応するように大蛇が女性へと襲い掛かった。

 

 それを見た俺は反射的に身体を動かして、高速で動く大蛇の顔を横から蹴り飛ばした。……してしまった。

 

 いくら救いようのない者たちだからといって、彼女らは鬼という絶対者に支配されていた。つまり、生きるためには従う以外の選択肢などなかったのだ。それを良いことに贅沢三昧していたという事実があったとしても……俺にとっては見殺しにしていい理由にはならなかったようだ。

 

 大蛇の頭は狙いが逸れてそのまま畳へと突っ込んで床を突き抜けた。抜けなくなったのがじたばたと暴れ出している。その光景だけなら手放しで喜べただろうが――――残念ながら、此処には大蛇以外の敵がいた。

 

 そう、蛇鬼が隙を作ってしまった俺へと向かって来ている。大きく跳躍し、両足で大蛇を蹴り飛ばしたことで大きく硬直してしまった俺へと。

 

「はははっ! 馬鹿だねェ!」

「ッ――――!!!」

 

 可能な限り最速で復帰して跳び引こうとするも、間に合わない。蛇鬼が腕を振り、その爪が俺の腹に深々と突き刺さった。

 

 そしてそのまま腕が振り払われると、爪で肉を大きく抉られながら俺の体は遥か彼方へと吹き飛ばされてしまう。

 

「ご、っはぁっ……!!」

 

 背中が壁にめり込むと同時に腹部から溢れんばかりの出血。内臓には届いていないが、血管と肉が大きく損傷した。決して無視できる怪我では無い。

 

 痛みに悶えながらもどうにか脱出しようと足掻く、が、それよりも蛇鬼が追いつく方が早かった。鬼は壁からずり落ちそうな俺の首根っこを左手で掴んで再度壁へと叩きつけると、見せつけるように右手の爪をこちらの眼前へと突きつけた。

 

 視界の端で今さっき助けた女性が尻尾を巻いて逃げ出す光景が見える。助ける素振りを少しでも見せてくれても良いだろうに、清々しいまでの逃げっぷりだ。……つくづく救いようがない。

 

「これで終わりだねぇ。キッヒッヒッヒ……これで悲鳴の一つでも上げてくれたらやりがいもあるんだけどねェ」

「がっ、ぁ、ぐ、ぅ」

「ま、いいさ。――――死ね、小僧ォ!!」

 

 蛇鬼の右手がそのまま振り上げられ、降ろされる。そして俺の体は見るも無残な死骸へと成り果てる――――

 

 

 ――――寸前に、青い閃きが走った。

 

 

 ガンッ!! という音が頭上で起こる。瞑りかけていた目を開けば、頭上に上げていた両腕の手錠を貫く様に、青色の刃が突き立っていた。

 

 これは間違いなく俺の日輪刀。そして今の俺の両腕は自由になった。どうしてそうなったかはわからない。

 

 だが、今やるべきことなど考えずともわかった。

 

「おぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおお――――ッ!!」

「なっ、一体どういう――――」

 

 自由になった両手で日輪刀の柄を握って壁から引き抜き、全力で振り下ろすことで俺を拘束していた蛇鬼の腕を真っ二つに叩き斬った。

 

「あぎ、ギャァァァァァアァァアァァアアアアッ!?!?」

「っらぁぁぁぁあぁああああああッ!!!」

 

 そして繋ぐように振り上げて、今度は左腕を付け根から斬り飛ばす。

 

 舞い散る鮮血と蛇鬼の悲鳴。反撃など想像もしていなかったのだろう、混乱のあまり蛇鬼は身悶えしながら近くにあった部屋の障子を破壊して文字通り尻尾を巻きながら何処かへと逃げて行ってしまった。

 

「はっ……はぁっ……!」

「――――義勇! 無事か! 怪我は!?」

「錆、兎」

 

 壁からずり落ちて尻もちを付く俺へと駆け寄ってきたのは、自分の刀を取り戻し己の隊服と羽織を身につけた錆兎と伊黒だった。俺が信じた通りに、彼らは自力で脱出して刀まで取り戻したらしい。先程こちらへと刀を寄越したのも錆兎なのだろう。

 

 流石は錆兎、最後まで翻弄されっぱなしだった俺とは大違いだ。

 

「すまない、錆兎。鬼から毒を、もらった。一時間で、俺は行動不能になる」

「何だと!? いや、それより腹の傷も……!」

「大丈夫だ……呼吸で、何とかする」

 

 乱れそうな呼吸を整え、俺は全集中の呼吸を用いて止血を試みる。腹部の傷はかなり大きいが、そこまで深くは無い。これくらいなら、呼吸で血管を収縮させればいい。

 

 呼吸し、意識を集中。焦らず、ゆっくりと――――出血を止める。念のために襦袢を千切って作った即席の包帯も撒いておくのを忘れない。

 

「ほ、本当に止まった……」

「鍛えれば、これくらい誰にでもできる」

「義勇、服だ」

「ああ、ありがとう錆兎……」

 

 もし明雪さんと稽古を付けて常中を物にしていなければ出血を止められたかはかなり怪しい所だっただろう。やはり鍛錬はいくら積み重ねても損は無い。 

 

 その後、俺は残っていた枷を刀で斬り落とし、服を手早く隊服と羽織に着替えて足早にこの屋敷を立ち去ろうと試みた。

 

 きっとこの屋敷中で大蛇に女性たちが食い殺されるという惨状が繰り広げられているだろう。余裕があれば助けに行くだろうが、今の俺たちにその余裕は無い。

 

 万全の状態ならばこのまま鬼を追撃するだろうが、今は俺と伊黒という足手まといが二つもある。どう考えても、安易な人助けなど許される状況ではなかった。

 

 助けられるなら助けたい。だが今の俺たちの手は、あまりにもちっぽけ過ぎた。

 

「……行こう、義勇」

「……ああ」

 

 俺たちは適当な部屋を通り抜けて外へ出ると、予想通り屋敷を囲っていた土塀を乗り越えることで脱出を図った。正門や裏門は恐らく待ち伏せされている可能性が高いと考えたが故の選択だ。

 

 呼吸で身体能力を増加させられる俺と錆兎は悠々と塀の上まで登れたが、今まで碌な運動もしてこなかっただろう伊黒は当然越えられるはずもないので、俺たち二人で引っ張り上げることで三人とも無事に塀を乗り越えることができた。

 

 さて、これで屋敷からの脱出は成功だ。問題はこれからどこへ逃げるかだが――――。

 

「――――カァァァァァ!! 発見! 発見! 義勇ヲ発見!」

「カァァァァッ! 無事ダッタカ錆兎! カァァァァ――――!!」

「黒衣!?」

「門左衛門か!」

 

 森の中を走っていると空の上から聞きなれた烏の声が降ってきた。見上げればそこには間違いなく俺たちの鎹烏である黒衣と門左衛門が元気に空を飛んでいる。

 

「無事だったのか!」

「何度モ死ヌカト思ッタゾ! 蛇ドモノ居ナイ方角ハコッチダ! 急ゲ!!」

 

 肝心な時に大変頼りになる道案内役が帰って来てくれた。

 

 俺たちは相方が無事だった喜びを噛みしめながら、後を追うようにその場を出発した。無論、俺たちより足の遅い伊黒はこの中で一番健常な状態の錆兎が背負うことで足並みを揃える。

 

「義勇! 山を降りたらこのまま港に向かえばいいのか!?」

「いやダメだ! 海にはあの大蛇どもがいる! 島の外に出るにはあの鬼を倒すしかない!」

 

 脱出における一番の問題がそこだった。俺たちが海で大蛇たちに襲われ難破したことを鑑みれば海に出るのは悪手でしかない。無理に海から脱出しようとすればまた大蛇たちに襲われて今度こそ海の藻屑になるだろう。

 

 そうすると今考えられる最善手は――――

 

「鬼を倒すか、朝まで隠れられる場所を見つけるしかない!」

「無茶を言ってくれる……!」

 

 錆兎の言う通りどちらも無茶だ。鬼の追跡から朝まで逃れられる場所などそうそう簡単に見つかるとは思えない。かといって鬼を倒すにも相手の物量が圧倒的すぎる。

 

 せめて相手を土壇場から引きずり降ろせればこの上ないが、それにはあの蛇鬼を島どころか海域から引き離さなければならない。即ち不可能だ。

 

 どうすればいい。どうすれば全員生き残れる。どうすれば――――

 

 

「待ぁぁぁぁあああああてえぇぇぇええええええええぇええぇぇええええええええええッッ!!!!」

 

「「「ッ――――!?」」」

 

 

 背後から迫る倒壊音と大量の蛇の鳴き声。流し目で背後を一瞥すれば、怒涛の勢いで迫る蛇鬼と大蛇の群れ。しかも大蛇は屋敷の中に居たものとは違い大人でも丸呑みにできそうなほどに巨大だった。それが、木々の間を縫うようにして大波の如く押し寄せてくる。

 

 生物としての本能的恐怖と生理的嫌悪が全身を駆け巡る。同時に悟った。このままでは逃げ切ることは絶対にできないと。

 

 まずい、まずい、まずい、何とか手を考え――――

 

「義勇!」

「錆兎!?」

 

 錆兎が走りながら突如背負っていた伊黒をこちらへと投げ寄越した。驚愕する伊黒を背で受け止めながら俺は何をするつもりだと声を上げるが……浮かべていた顔を見てすぐに理解出来てしまう。彼が何をするつもりなのかを。

 

「足止めをする! 此処は俺に任せて先に行け!」

「ふざけるな! 死ぬ気か!?」

 

 あの数相手に時間稼ぎなど自殺行為だ。だがこのままでは全員仲良く蛇の餌だ。だから、二人を生き残らせるために一人が全ての負担を請け負う。

 

 だったら自分がする、そう言えたらどんなにいいか。わかっている。わかっているのだ。この役目を請け負って一番生存率が高いのが錆兎なのは。

 

 今の俺は絶不調だ。正直、痣を出すことすらままならないだろう。それに毒を受けたせいで戦闘不能になるのが確定している。

 

 錆兎の事は信じている。だがもしものことがあれば、俺は……!!

 

「死なないさ。――――お前の兄弟子を信じろ、義勇」

「…………!!」

 

 それだけを言い残して、錆兎は俺が何かを言う前に足を止めた。

 

 俺も同じく足を止めて共に立ち向かいたかった。だが伊黒の存在がそれを許さない。彼を庇いながらあの群れを相手にすることは出来ない。俺が、俺が肝心な時に力を出せ無いせいで。

 

(くそっ、くそっ、くそっ……!!!)

 

 走る。ただひたすらに走る。頭の中で何度も己を罵倒しながら走り続ける。

 

 何故大事な時に限って俺は役立たずなんだ。何故万全に動けるのが俺じゃないんだ。あんな役目は俺にこそさせるべきだろうに……!!

 

「はぁっ……! はぁっ……! げほっ、ごほっ……!」

「と、冨岡……? 大丈夫か?」

「あ、あぁ……まだ、動ける……!!」

 

 身体に鞭打ちながら駆ける事たったの数分。未だに視界は木々塗れだ。本調子ならまだまだ走れるだろうに、俺は情けなくも体力の限界を迎えていた。

 

(激しく動いたせいで、毒の巡りが早くなっている……!)

 

 運動をすればそれだけ心拍数が上がり、血流が早まる。それに伴って毒が身体に広がる速度も上がってしまう。毒蛇に噛まれた際には絶対安静にする理由がそれだ。だが今の俺たちは逃げねばならない。しかし毒はひとかけらの慈悲も無く俺の体を蝕み続ける。

 

「と、冨岡……もう、もういい。僕の事は見捨ててくれ」

「……なに?」

 

 泣きそうな、嗚咽混じりの声で伊黒が突飛なことを言い始めた。

 

「今まで、死にたくないという思いだけで生きてきた。だけど……それはお前たちのような、優しい誰かを犠牲にしたかった訳じゃない……! 僕は元々生贄にされるために生まれてきたんだ! 僕は、きっと死んでいい人間なんだ。だから、此処で死んだって問題は無い!」

「………」

「だから僕が、僕が囮になる! だから――――」

 

 

「――――ふざけるな!!!」

 

 

 余りの物言いに、俺は叫び出しそうな衝動を抑えきれなかった。

 

「生贄になるために生まれて、微かな幸福さえ知らずに死ぬ人生なんて許されるものか!! お前が死んでいい人間であるものか!! 問題無い? 大有りだこの大馬鹿がっ!!」

「と、冨岡……?」

「お前はっ、お前はまだ何も見てないだろうが! 何も残せてないだろうが! なのにこんなにも早く生きる事を諦めるんじゃない! 惨めでも、みっともなくても、最後まで足掻き続けろ!!」

 

 お前は俺の様な罪人とは違うんだ。

 

 まだ世界の美しさの一つも知らないんだ。

 

 それを知らないうちに全てを諦めるなどあってはならない。例え血族がどんなに救いようのない奴らだとしても、どうしようもない奴らだったとしても――――お前には、生きる権利があるんだ。

 

「生きろ、伊黒。生きて、生きて……死ぬときに悔いがほんの少しでも無くなるように、生きるんだ」

「……………僕、は」

 

 足と指の先から感覚が消えた。この調子では動けなくなるまであと十分も無い。

 

 それでも、それでも少しでも進む。錆兎が稼いでくれている時間を一秒でも無駄にしない様に――――。

 

「シャァァァァアア!!」

「鏑丸!?」

 

 伊黒の懐で大人しくしていた鏑丸が突如興奮し出す。それを見た俺はすぐさま腰の刀に手をかけた。

 

 

「いいや、お前たちは今宵此処で死ぬ! あたしに殺されるからねェェェェェ!!」

 

 

 抜刀。反射に任せて振り向き様に刀を振るい、此方へと振り下ろされた爪と花火を散らす。

 

「ひっ……!?」

「逃げろ伊黒ッ! 可能な限り遠くへ!!」

「ははははっ!! 動きが鈍くなってるねェ、小僧ォ!!」

 

 馬鹿な。なぜもう追いついた。どういう事だ。

 

 背中から伊黒を放しながら俺は最悪の想像を脳裏に走らせた。いやそんな筈はない。ああそうだ、人の血の匂いはしない。ならば考えられる可能性は。

 

「あたしが馬鹿正直にあの餓鬼の相手をする訳ないじゃないのさ! 今頃あの馬鹿はあたしの子供たちを何十匹と相手にしているだろうねぇ!!」

「ぐ、ぅっ……!」

 

 考えが甘かった。相手がこちらの思惑に都合よく乗ってくれる筈がなかった。

 

 失敗した。失敗した。畜生、どうすればよかった。今から何をすればいい。考えろ、考え続けろ。最後まで諦めるな。足掻き続けろ。勝利への道筋を探せ――――!!

 

「ヒヒッ、アンタの相手も後さ。後で弱ったところをじっくり食い殺してやる……!」

「がッ――――」

 

 攻撃を受け止めているため無防備になった腹部へと蛇鬼の尻尾による薙ぎ払いが叩き込まれた。身体の反応が鈍くなっているせいで防御すらままならず、俺はそのまま吹き飛ばされて木の幹へ身体を打ち付けてしまう。

 

「カァァァァ!? 誰カ! 誰カ義勇ト子供ヲ助ケロ!! 誰デモイイカラ助ケロォォォォ!!」

「く、そ……っ!!」

 

 黒衣の叫び声が夜空に空しく散る。聞こえるはずがない、聞こえていたとしても、一般人一人が増えた所で鬼の餌が一つ増えただけに過ぎない。

 

 俺が呻く間にも蛇鬼が逃げる伊黒の背へ迫っていく。鬼殺隊でない彼に逃げ切れるはずがなかった。あっという間に距離が縮まってしまった。

 

「う、あぁっ!?」

「キャヒャハハハハ!! 無様だねぇ。惨めだねぇ。もう終わりだよ、あたしの大切な生贄」

 

 恐怖に負けた伊黒の体がその場で躓いて倒れ込んでしまった。これもう、彼が逃げ切れる可能性は潰えた。

 

 駄目だ、殺させない。殺させるものか。

 

 お前にだけは――――

 

 

「殺させるかぁぁぁぁあああああああ――――ッッ!!!!」

 

 

 日輪刀を逆手に持ち、振りかぶる。まるで槍投げでもするように俺は限界まで刀を引き絞り――――投げた。

 

 渾身の力で投げた刀は初めてとは思えない正確さで蛇鬼の頭へと突き刺さった。人間ならば致命傷だっただろうが……鬼にとって、それはかすり傷と変わらなかった。

 

「そいつを喰いたければまず俺を倒せぇッ!!!」

「嫌だねぇぇぇえええええええええええ!!!」

 

 みっともない挑発に鬼が応じるはずもなく、嘲笑と共に蛇鬼の腕が振り降ろされる。

 

「逃げろっ、伊黒ぉぉぉぉぉッ!!」

「っ、ぁ――――」

 

 俺の決死のあがきは結局、伊黒の寿命を数秒伸ばしただけだったのだ。現実は、最後まで無情だった。

 

 

 

 

 がこの場に現れるまでは。

 

 

 

 

 

 

「ご、ふっ、ごぼっ……!!」

「モウヤメロ錆兎! 早ク逃ゲロ!」

 

 錆兎は膝を突いて倒れそうな身体を刀を杖代わりにすることでどうにか保つ。しかしその体はもう限界であり、相方の門左衛門の声ももう掠れてまともに聞こえなくなっていた。

 

 目の前だけでなく四方八方に大蛇の顔がある。十や二十では済まない数だ。戦闘からまだ数分しか経っていないと言うのに、右足の骨と肋骨が折れてしまっている。頭も強く打ち、平衡感覚も狂っている真っ最中。

 

(格好つけて、この様か……!!)

 

 死力を尽くしてどうにか大蛇を十匹ほど屠ってみせたが、相手の数があまりに多過ぎた。それだけでなく、肝心の鬼は逃がす始末。あれだけ大見得を切っておきながら情けない姿をさらしている己を、錆兎は憤死するのではないかというほどに恥じた。

 

「シュー」「シャァァァァ……!」「フシュルルルル……」

 

 状況は絶望的。逆転の手は見つからない。まず間違いなく、自分は此処で死ぬ。

 

 それでも錆兎は諦めなかった。

 

 己の弟弟子が死ぬまで諦めずに戦い続けたのだ。ならば自分もそれに見習おう。死ぬ寸前までこの手に握る刀を振るい続けよう。

 

 せめて、逃がした二人が少しでも生き残れる確率を上げるために。

 

「来いよ、蛇畜生ども……!! 俺はまだ、生きているぞぉぉぉおおおおお!!!」

「カァァァァァ!! ヤメロ! 錆兎! 逃ゲロ! 錆兎!!」

「シャァァァアアアアアアアッッ!!」

 

 錆兎の叫び声に応えるように一匹の大蛇が正面から向かってきた。それに対し錆兎は倒れ込むように大蛇の突進を回避しながら口へと刀を突っ込み、相手の勢いを利用して大蛇の身体を大きく切り裂いた。

 

 だがそれだけだ。直後に横から飛びかかってきた別の大蛇に撥ね飛ばされ、宙に浮いた身体を更に別の大蛇が巻き付いたことで錆兎は完全に拘束された。

 

「シュゥゥゥゥゥ……」

「ぎ、ッ……あ、がぁぁぁぁあぁぁああああああッ!!」

「カァァァァァ――――ッ!! ヤメロ蛇野郎! 錆兎ヲ放セェェェェ!!」

 

 ミシミシと大蛇が徐々に錆兎の体を強く締め付け始める。まるでジワジワ嬲り殺しにするように。門左衛門が怒りのあまりなりふり構わず大蛇を嘴で攻撃するが、そんなものが効くわけが無かった。

 

 そして、数秒も経たずに錆兎の両腕が折れた。

 

「ッ、が」

 

 次に肋骨が追加で数本折れ、口から胃酸が絞り出される。

 

「ぃっ、ご、ぶっ」

 

 もはや声すら上げられない。そして、あと一秒経てば明確な致命傷が――――

 

 

「炎の呼吸、【肆ノ型】――――」

 

 

 訪れることは、無かった。

 

 

「【盛炎(せいえん)のうねり】」

 

 

 この場一面を包み込むような猛火が巻き起こった。

 

 瞬きする間に数十匹の大蛇が残らず真っ二つにされ、錆兎を絞め付けていた蛇も頭と胴体をバラバラされたことでその力は一瞬で失われた。

 

 支えを失った錆兎の体が落下し、それを誰かが優しく受け止める。

 

「師、匠」

「すまない、遅くなった。手漕ぎ船ではやはり時間がかかり過ぎたみたいだ」

「カァァァ! 生キテルカ錆兎!?」

「あ、あ……なんとか、な」

 

 この絶体絶命の状況を根底からひっくり返したのは、煉獄惣寿郎その人。序盤の序盤から消えてしまった最強の切り札の存在に、錆兎は安堵の息しか吐けない。

 

 余りにも遅い登場だ。だが、手遅れでは無かった。

 

「義勇を……早く……鬼が……!」

「! 了解した。此処に来る途中で周辺の大蛇は全て殲滅しておいたから、君はここで楽にしていてくれ」

「は、い……」

「――――惣寿郎、コチラデス。早ク!」

 

 閉じていく視界の中で錆兎は己が師とその相方(鎹烏)の背を見送る。

 

 自分が半死半生になってようやく十匹仕留めたというのに、惣寿郎は傷一つ負うこと無くそれらを殲滅したと言う。その言葉にあまりにも隔絶した柱との実力差を痛感しながらも、錆兎は今だけはその心強さを甘受した。

 

 ――――きっと全て上手く行く。

 

 その確信を胸に、錆兎は己の烏の声を聴きながらそのまま沈み込むように眠った。

 

 

 

 

 

 鬼の爪が伊黒を切り裂かんと迫る。伊黒はそれに対して動くことが出来ない。出来たとしても、速さが圧倒的に足りていない。

 

 故に彼の死は確定した。――――外部から、それを退ける力さえ無ければの話だが。

 

 

「……………あ?」

 

 

 きっと一秒にも満たない、ほんの少しの時間の間に現実は塗り潰された。

 

 気が付けば蛇鬼の頭は胴と離れ、胴もまた両腕ごと真っ二つに叩き斬られていた。空を駆け巡る炎の煌めきによって。

 

 どじゃぁ、と肉が地べたに落ちた音が木霊する。

 

「なんとか、間に合ったようだね」

「な、んで……あたし、斬られ……お前、まさ……か……は、し…………ら………………」

 

 蛇鬼は頸を斬られたことでそのまま灰となって消えた。まるで覚めた悪夢の様に、そこには何も残っていない。

 

 百年近く島を支配してきた鬼の最期は、あまりのもあっけない物だった。

 

 

 

 鬼のいる夜が終わる。

 

 多くの罪人の命を、対価として。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「冨岡、平気か……?」

「………ああ。大丈夫、だ」

 

 身体にはもう碌に力が入らない。こうして伊黒に肩を貸されなければ歩くことすら儘ならないほどに、鬼の毒は俺の体に巡り切っていた。

 

 鬼の扱う毒は鬼本人が消えても効力は消えない。適切な処置をするか日光を長時間浴びるなりしなければ、俺の体は永遠にこの調子のままだ。これだから毒というものは厄介極まりない。

 

「冨岡君、本当にすまなかった。こんなにも来るのが遅れてしまって……」

「謝らないでください、惣寿郎さん。謝らないといけないのは、俺の方なんですから」

 

 死の淵から救われた立場で相手を責めることなどできるものか。

 

 俺たちが海に落ちた後、惣寿郎さんは船員たちを守りながら一旦三宅島へと帰還し、二次被害を防ぐために手漕ぎ船を借りて一人で島を発ったらしい。そして道中立ちはだかった無数の大蛇を斬り捨てながら八丈島までたどり着き、先行した惣寿郎さんの鎹烏が俺たちの鎹烏の声を聞きつけ迅速な対応を行った事で、崖っぷちの窮地にいた俺たちは何とか助け出されたわけだ。

 

 そういう意味では烏たちは実に大活躍だった。彼らがいなければ俺たちは鬼に殺されていた可能性が高かったのだから。因みにその功労者三羽はこの大冒険にすっかり疲れ果ててどこかの木の上で眠っている。後でちゃんと労わねば。

 

 と、話が逸れてしまった。

 

 結論を言えば、惣寿郎さんはほぼ全速力で俺たちの救出に駆けつけてくれたという事だ。その上で遅いだのなんだの責められるわけないし、そもそもこんな状況に陥った原因は油断して海へと落っこちた俺に他ならない。

 

 惣寿郎さんに感謝することはあっても罵倒するなど、恥の上塗りにも程がある。

 

「その、それより錆兎の容体は……」

「応急処置は施したけど、かなりの重体だ。準備が済んだら、すぐに本土の方に帰還しよう」

「わかりました」

 

 惣寿郎さんに背負われながら眠っている錆兎は虫の息というほどではないが、外から見ても重傷である事がわかるほど重体だった。両腕と片足が折れており、胸のところも赤黒い痣だらけだ。肋骨も一本や二本折れた程度では済んでいないだろう。

 

 今すぐにでも医者に診せねばならないが、こんな島に腕の立つ医者など居るわけもない。一刻も早く帰還しなければ。

 

 だがまずは、最低限の仕事を済まそう。念のためにあの屋敷に生存者が残っているかを確認するのだ。生き残っている者がいるかどうかで今後どう後処理をするかを決めるのだから。

 

「……これは、酷いな」

「あ……」

 

 俺たちが脱出してきた屋敷は、原型こそ留めていたがそこかしこが血と破壊跡だらけとなっていた。消滅した大蛇の腹にあっただろう食いかけの死体が散乱し、血と腐臭が場を満たしている。

 

「――――あんた、達は……」

「! 生存者か……!」

 

 庭の隅から声がした。死にかけの小動物の様なか細い声、しかしその声にはありったけの憎悪が込められている。

 

 視線を移せば、そこには生き残ったであろう女性たちが返り血塗れの着物を握って互いに寄り添い合いながら、此方を射殺さんばかりに睨みつけていた。

 

「あんた達の、せいだ……」

 

 その中で俺より少し年上くらいの娘が立ち上がりながら、此方へと歩み寄る。

 

「あんた達が逃げたせいでみんな殺された! 三十人以上死んだわ! あんた達が殺したのよ! 生贄のくせに! 家畜の癖に! 大人しく飼い殺されてればよかったのよ!! このっ――――!!」

「っ、やめなさい!」

 

 パシン、と娘が伊黒の頬を張り飛ばした。そのあまりの物言いに、俺たちは茫然とするしかできない。

 

 逆恨みも甚だしい罵倒だ。他人を食い物にして生きてきた癖に、いざ自分たちが餌に変わればこの態度。身勝手極まりない言い分に、俺は無言で伊黒の肩から離れる。

 

 ずしりと圧し掛かる体への重み。しかし今だけはそれを無視しながら、俺は娘の方へと一歩踏み出す。

 

「なによ……! あんただって同罪よ! あんたたちが大人しくしてればお母さんや叔母さんは――――」

「ふざけるのも大概にしろ!!!」

 

 相手が言葉を言いきる前に力いっぱいにその頬を張り飛ばした。弱っていても、呼吸を修めた鬼殺隊の肉体。頬を張り飛ばされた娘は容易くよろけて尻もちをついた。

 

「生殺与奪の権を相手に握らせたからこうなった!! 惨めに道理も通らないことを喚くのをやめろ!! そんな言い分が通用するならお前たちはこんな事になっていない!! お前たちは主導権を握っているようで全く握れていなかった! 全てあの鬼の掌の上だった! いつ殺されても文句など言えなかった!! にも拘らずその責を全て他人へと転嫁する? 笑止千万!!」

 

 抑えていた激情が口から出てくる。この惨状はお前たちの咎なのだと吐き出し続ける。

 

 自分たちの罪を見ろ。

 

 それが今、お前たちが一番すべきことだ。

 

「弱者には何の権利も無い! 選ぶことが出来るのは強者だけだ! お前たちが強くなろうともせず現状に甘え続けた結果、あの鬼に全てを蹂躙されることになった! 惰弱、傲慢、堕落しきったお前たちの意思など誰も尊重しない! それが現実だ!! いい加減目を逸らし続けるのをやめろ! 自ら行ってきた事を自覚しろ、この愚か者どもが!!!」

「ひっ……」

 

 こちらに向かっていた殺意の視線が恐怖へと変わった。あまりにも脆い意志。立ち上がることを放棄して強者のお零れを貪ろうとするだけの者達。

 

 これから彼女らが変われるのかはわからない。ただ此処で朽ち果てるか、それとも再起して今度こそ正しい道を歩めるのか。――――だがそれを見届けるのは、俺たちの役目では無い。

 

 体力を振り絞り終えた俺は再度伊黒に肩を貸されながら、ゆっくりと踵を返す。

 

「……行きましょう、惣寿郎さん。もう此処に用は無い」

「……わかった。行こう」

 

 目的は達した。この場に長居する理由など無く、俺たちは足早にこの屋敷を後にした。

 

 血族たる伊黒はこの場に留まる権利があるが、躊躇い無く俺の肩を背負ってここから出ようとしているのを見るとやはり残る気は無いらしい。

 

 ……残ったところで、碌な事にはならないだろうが。

 

 

「――――どうすればよかったのよっ……!!」

 

 

 背後から縋るような声が聞こえる。

 

 

「――――何をすればよかったのよ!!」

 

 

 その問いに対する答えなど、持っていない。

 

 

「――――答えてよ! 逃げるな! 逃げるなっ! 卑怯者ぉっ! うぁっ、ぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあああ……っ!!!」

 

 

 抗おうとすれば命が危うい境遇。俺の様な第三者が、「死ぬことを恐れず反抗すればよかった」とは口が裂けても言えない。誰だって自分の命は大切だ。それを擲てなんて他者に説くなど言語道断。

 

 それでもほんの少しだけ勇気を出していれば。誰か一人一人が自分にできる限りの事を少しずつ積み重ねていれば、こんな事にはならなかったのではないか。

 

 ……よそう。もう全て終わったんだ。これ以上考えるのは、不毛な行いだろう。

 

「……冨岡」

「どうした、伊黒」

「僕は……僕はわかっていたんだ。僕が逃げれば、僕の親戚たちが何かしらの罰を受けることなんて」

 

 大粒の涙をポロポロと地面へと落としながら伊黒は懺悔するように呟き続ける。

 

「僕は生きたかった。その為に僕は、自分以外の誰かに危害が及ぶ可能性を見て見ぬふりしていた」

「だがそれは……」

「仕方ないなんて言葉で片づけたくない。僕のせいで、多くの人が死んだ。それは紛れもない事実なんだ……」

 

 それは因果応報というものだ。悪しき行いが彼らに帰ってきただけだ。しかし伊黒はそれを承知の上で、今回生まれた犠牲の罪を背負う気だった。

 

 何と不器用な奴だろうか。

 

「僕は、屑だ。他人を犠牲にして生き延びようとした最低な奴だ」

「伊黒。それなら、俺たちも同罪だ」

「違う! お前たちはただ僕たち一族の汚い所業に巻き込まれただけだ!」

「関係無い。死んだ三十人がお前の咎だというなら、俺が、俺たちが一緒に背負ってやる」

「っ……!!」

 

 伊黒が屑なら俺も同じく屑だ。俺も多くの命を見捨てた。自分たちを優先して、助けられたかもしれない三十人分の命を見殺しにした。

 

 だったら、共に罪を背負おう。この身が果てるその日まで。

 

「…………ありがとう」

「……どういたしまして」

 

 顔を上げる。

 

 水平線の彼方で太陽の光が煌めいた。一人の少年の出立を祝うように。

 

 少年の顔を見る。

 

 泣いていた。それは悲しみでも、怒りでもない――――

 

 

「…………綺麗」

 

 

 ――――初めて見る太陽の美しさに、涙したのだ。

 

 

 

 

 




《血鬼術》

蝕毒(しょくどく)散牙(さんが)
 体内で特殊な体液を分泌し、それを硬化させることで巨大な棘を形成。それを口から吐き出し筋肉の収縮によって撃ち出すことで攻撃する。
 速度はそこまで早くないため攻撃力は低いが、その真価は遠隔爆破によって内包された百以上の毒塗りの針が四方八方に飛び散らせ、広範囲に回避困難な毒をまき散らす。
 毒は衰弱効果を持っており、柱や特殊な訓練を受けた物で無ければ一時間で手足が動かなくなる(ただし日光を浴びれば効力は弱まる)。効果が非常に強力な反面、致死効果は皆無なので(餓死させるならともかく)これで敵を仕留めることはできない。

百生母胎(ひゃくせいぼたい)数多大蛇(あまたのおろち)
 生命力を消費することで胎内から己が眷属である大蛇を生み出す。上限は三百体。
 生まれたての大蛇はそこまで強くは無いが、限界まで成長すれば並みの隊士程度では数人がかりでも敵わないほどに強くなる。また、鬼と違い成長するために人を食う必要が無く(食べれない訳では無い)動物や魚の肉などでも成長・生存出来るため維持するための手間が殆ど無い。
 ただ一匹生み出すだけで最低でも子供一人を食した分のエネルギーを要するため、無暗に生み出すことが出来ない(逆に大きくエネルギーを費やせば最初から強い個体を生み出すことも可能)。また遠隔での思考・情報の共有が不可能(口頭の会話でしか情報交換ができない)。燃費のせいで気軽に増やせない上に生むために必要な時間も無視できない程には長いため、一度に大量の損失を受ければ迅速な回復が困難。日光を浴びれば勿論灰になるなど、強力な血鬼術ではあることは確かだが多数の弱点も多く抱えてしまっている。

《裏設定》
 蛇鬼は元々はただの村娘で、成人するまで健やかに過ごし、裕福な青年と結婚するほどの幸せな人生を送っていたが、ある日青年の両親が売り物として保管していた珍しい蛇が偶然逃げ出してしまい、不運にもその蛇に噛みつかれたせいで三日三晩生死の境を彷徨う羽目に。
 医者の奮闘によって九死に一生を得たが、後遺症として顔の筋肉が歪み、子が産めない身体となってしまう。その挙句「きっとこの娘が気の迷いで蛇を逃がした」という青年の両親の言いがかりによって逃げ出した蛇の代金(明らかにぼったくり)の損失や高い治療代を娘に請求。更には子が産めない身体になってしまったため夫にも見捨てられ、両親からも飛び火を恐れて離縁されてついに発狂。
 絶望のまま入水自殺を図るも偶然それを見かけた無惨によって鬼に変えられ、元夫や自身と夫の両親を皆殺しにした――――という設定を作ったはいいものの、そのための描写を入れるのが途中でクソめんどくさくなり、敢え無く裏設定として片づけられた。大蛇を生みまくる血鬼術はその名残だったりする。




実は蛇女繋がりからメデューサやラミアから着想を得て石化の魔眼や精神汚染の口笛とかも考えていたけど、弱体化した冨岡パーティではどう考えてもお手上げだしあんまり盛り過ぎるのも後処理が面倒なのでやめました。どうせ炎柱に瞬殺されるのは確定してたし盛っても見せ所がね……

今回の更新はこれで終了。次の投稿もまた間が空きそうですが、出来るだけ早く出せるように頑張ります。ああ……次の更新までに本誌絶対に終わってるよこれ……

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