水に憑いたのならば   作:猛烈に背中が痛い

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この小説はとても健全な小説。卑猥は一切無い。イイネ?



第弐拾参話 更け往く夜

 快晴。青く晴れた空の元で、二人の男女が激しい運動をしている。動く度に汗水が散り、呻くように小さな声が響き渡る。

 

「ふっ……はぁっ……はぁっ……!」

「ん……あ、ぅうっ……! ダメ、もう私っ……!」

「頑張れカナエ……! あともうちょっとで終わる……!」

「っ、もう耐えられない……! ごめんなさい義勇君、私っ――――」

 

 ――――説明は不要だと思われるが、別に二人の間で淫らな行為が行われているとかそういう事はない。

 

 声だけを聞くならそんな勘違いが起こるかもしれないが、彼らの様子を直に見ればそんな考えなど微塵も残らないだろう。

 

 何せ行われているのは素振りという極々単純な鍛錬であり……しかし普通の素振りとは少し違う点があった。

 

 具体的に言うならば、全身に鉛色の錘を括りつけ、重々しい金属の棒を振るっているという所が。

 

「カナエさん? 時限まではあと五分も残っています。手を止めることを許した覚えはありませんよ?」

「すっ、すみません師匠!」

「冨岡君も剣筋がズレてきてます。正しい振り方をしないのならば私手ずから矯正して差し上げましょうか?」

「はいっ! 大丈夫です! 頑張りますっ……!!」

 

 竹林に囲まれた大きな屋敷の縁側にて茶を飲みながら俺たちの鍛錬光景を眺める麗しい美女、漣 雫はニコリと穏やかな笑みを浮かべ湯呑みに注いだ茶を啜りながら容赦のない指摘と発破の言葉を飛ばして俺たちに鞭打つ。

 

 傍から見れば中々に酷い光景ではあるのだが、実態を知れば誰も文句など言うまい。何せこうしてくれることを頼んだのは他でもない俺たちだ。

 

 無論、俺たちが被虐趣味だとかそう言う話では無い。これはただ単に雫さんに鍛えられているだけだ。何せ俺たちは彼女に師事してもらっている者――――水柱の継子であるのだから。

 

 少し前にカナエが俺に助力を求めた後、運が良かったのか割と直ぐに彼女は雫さんに会うことができた。そしてカナエは難しい話は抜きにしてすぐさま雫さんに師事をお願いした結果、雫さんは二つ返事でそれを受け入れた。きっとその慧眼によってカナエに眠る剣士としての資質を見抜いたのだろう。

 

 そして俺が退院してから一週間後、下弦の壱についての情報が途絶えてしまったことで雫さんの調査が手詰まりになってしまう。

 

 そのため更なる有力な情報が得られるまでの間、雫さんは下弦の壱捜索のため今まで返上していた休日を俺たち二人を鍛える時間に充てることにしたのだった。自分の休日を俺たちのために使ってくれるとは、感謝の言葉も無いとはこの事だろう。

 

 肝心の鍛練の内容はそう小難しいものではなかった。何せやることといったら走り込みや素振りといった基礎的な運動くらい。それだけ俺たちの基礎的な能力がまだまだ未熟という事なのだろう。それについては自覚はあるし文句はない。

 

 問題は――――

 

「はい。では鍛練の日は休憩と風呂と就寝の時以外”これ”を付けて過ごしてくださいね?」

「「えっ」」

 

 初日に雫さんが俺たちに渡してきた、一本数キロはありそうな重厚な鉛の延べ棒が幾つも括りつけられた伸縮性の素材でできた帯状の装飾具だった。そして雫さんはそれを休憩と風呂と寝るとき以外、つまり鍛錬中は常につけて過ごせと言う。

 

 いや、やりたいことは勿論わかる。全身にかかる負荷を増やして運動をさせることで鍛錬の効果を上昇させるのだろう。それはわかるのだが――――少し、数が多過ぎやしないか。

 

「お、重いっ……!!」

「あの師匠? これ、歩くのも難しそうなのですけれど……!?」

「大丈夫。慣れますよ」

 

 全身に括りつけられた鉛の延べ棒は合計三十本。体感的に一本四キロ弱ほどだったので、単純計算で今の俺たちの体には百二十キロもの重さがのしかかっていることになる。そして十三歳の子供の平均体重はおおよそ五十キロほど。

 

 つまり俺たちの体には今、平時と比べて三倍以上もの負荷が常に掛かっている訳だ。

 

 これを付けたまま動きまわるのは、まだいい。大変ではあるが頑張ればなんとかなる。だがこの状態での長時間の鍛錬は控えめに言って……地獄だった。

 

「ふぅぅぅぅっ……ふぅぅぅぅぅぅっ……!!」

「ひぃっ、ひぃっ……!」

「はい、二人ともその調子ですよ」

 

 とはいえ、最初から長時間だった訳ではない。最初こそ三十分置きに休憩を挟んでいた。いや、正確には当時の俺たちがそれ以上耐えることが出来なかっただけなのだが。

 

 しかし何度も繰り返している内に身体は少しずつ負荷に慣れていき、段々と動ける時間は増えていった。その度に雫さんは鍛練の時間を延長し……最初の鍛錬から二ヶ月――――雫さんの休日が週に一日であるため合計十日間もの間に行われた濃密な鍛錬の結果、今では一回につき四、五時間もの鍛錬をぶっ通しで行うほどになってしまった。

 

「はい、きっちり素振り分の二時間が経過しましたね。では少し休憩にしましょうか」

「はっ、はぁっ、おえっ……」

「ぶへぇぇぇぇぇ……やっと終わったぁあぁぁあぁ……」

 

 朝から行われた長い長い鍛錬地獄は昼になってようやく一区切りがついた。

 

 だが動きを止めたことで今まで意識してきた身体の疲労がドッと湧き上がり、さながら内臓が裏返ったかの様な不快感が全身を巡ったことで俺は思わず膝から崩れ落ちて地面に四つん這いになる。

 

 カナエもまた、鍛錬用の鉄棒を手落としながらその場で潰れた蛙のようにべっちゃりと倒れ込んだ。無理もない。

 

「二人とも素晴らしい上達です。まさか二人ともたった二ヶ月で此処まで仕上がるとは……。カナエさんについても正直途中で脱落するか半年はかかるものと思っていましたが……冨岡君といい、今年の私は随分と弟子に恵まれたようです」

「あ、ありがとうございます……」

 

 雫さん曰く、自分の継子になった者の九割は鍛錬が厳しすぎて途中で逃げ出すらしい。それに対しては俺は「そりゃそうだ」としか思えなかった。

 

 余程堅い覚悟を持つ者でもなければこんな死に際の綱渡り染みた鍛錬を長々と続けるのはいささか酷過ぎる。むしろ残る者が一割も居たことが驚きだった。

 

 ……その一割も、明雪さん以外は全員他界してしまったようだが。

 

「……カナエ、大丈夫か?」

「ええ、平気……ではないけど大丈夫。人間、頑張れば何とかなるものね……」

「そうだな……」

 

 前のめりに倒れた身体を裏返してその場を大の字で寝転がるカナエは肩で息をするほど疲労してはいたが、それでももう立ち上がる事すらままならないというほどではない。かくいう俺の方も自分の予想を遥かに下回るくらいには身体に元気が余っていた。

 

 最初の頃は鍛錬後には全身が倦怠感と筋肉痛に襲われ、もう一歩も動けないような有様だったのに。

 

「人間と言うのは極度の疲労状態においてこそ、残った気力を効率的に使うため無意識的に無駄を全て削ぎ落した最適な動きを模索するものです。その為、全身に過度な負荷を長時間かけて人為的に身体を極限状態に追い込む必要があるのですよ」

 

 そう、雫さんの言う通りこれは基礎体力や筋力を上げるだけでなく、俺たちの動きにある”無駄”を消すという意味も込められていた。曰く、俺たちの動きは無駄が多過ぎるらしい。

 

 しかしその”無駄”を口頭で説明したところで意識して直すのは困難を極める。だからこそ自分自身の体にその”無駄”を探させ、矯正するための超過負荷鍛錬。

 

 その成果は劇的であり、今の俺たちは二ヶ月前とは比べ物にならないほどに強くなっていた。今の俺ならば痣無しであっても下弦の陸に食い付けそうだと思えそうなほどまでに。

 

 事実、この二ヶ月で斬った鬼は――――大半が取るに足らない雑魚ではあったが――――既に二十を越えている。基礎的な能力が大きく上昇した事でこれまで以上の速度と効率で鬼を狩ることができるようになったのだ。

 

 また、階級も下弦の陸を倒した功績で(かのえ)まで上がっていたのがもう(つちのえ)にまで達している。この調子なら年内に(きのえ)になることも夢ではないかもしれない。

 

「鬼との戦闘ではそれが判断であろうが行動であろうがたった一秒の遅れが死に直結します。だからこそ、私たちは勝利へと繋がる理想的な動きを常に考え続け、実行しなければなりません。その為に必要なものこそ、己の心技体全てを俯瞰し、理解し、完全に律する事。……私の言っている事、お分かりいただけましたか?」

「「はい!」」

「よろしい。……やはり私の目に狂いは無かったようです。素晴らしい剣士の卵ですよ、貴方たちは」

 

 自身の存在を俯瞰せよ。第三者という誰でもない視点から己の全てを把握せよ。

 

 己に足りぬ物を理解せよ。今の自身に必要なものがわからなければ次に進む資格は無し。

 

 心、技、身体を律せよ。己一つ制することが出来ないならば敗北は必ず訪れる。

 

 それらを全て克服したときにこそ俺たちは”剣士”として完成する。その為の道程は気が遠くなるほど長いが、大事なのは速さではない。一歩一歩、道を間違えること無く進んでいくこと。焦って邪道へと踏み外せば、先に待つのは破滅の二文字。

 

 これが、この二ヶ月の間に雫さんから学んだ事の一つだった。

 

「さてと。二人とも、錘を外してお風呂に入ってきなさい。もうそろそろ()()()()がやってくる頃合いですから」

「む、もうそんな時間か……」

「うぇぇ……汗臭ーい……」

 

 太陽の位置からしてもうすぐ真昼か。来客の前にこんな汗臭い姿をさらすわけにもいかないので、俺たちは風呂に入るために全身の錘を脱ぎ去った。そしてやってくる絶大な重力からの解放感。実に清々しい。

 

 しかし積み重なった疲労が無くなる訳ではないため、その足取りは生まれたての小鹿の様にガクガクと震えている。それでも俺たちは気合で何とか前へと進み、フラフラと幽鬼の如き足取りで風呂場へと入っていく。

 

 因みに風呂は室内風呂と露天風呂の二つが用意されている。流石柱に与えられる屋敷。つぎ込まれた金が半端な量では無い、とても個人が使う事を想定しているとは思えない豪華仕様だ。

 

 そして今回俺は露天風呂に入ることとなった。理由は単純、交代制によって今日の順番が俺になっただけである。

 

「――――っぷへぇぇぇぇぇぇええええええ……疲れたぁぁぁぁぁぁああぁぁあぁぁああ……」

 

 湯で身体を軽く流した後、足先からゆっくりと風呂に入れていく。そして頭以外の全身が熱い湯で包まれた瞬間、俺の口から空気が抜けるように光悦の声が漏れていく。

 

 疲れた。ホント、疲れた。

 

 柱が直々に課す鍛錬が凄まじく厳しいものだというのは想定の範囲内だった。だから事前に覚悟は決めていたし、おかげでこうして二ヶ月もの間耐え抜くことができた。

 

 その効果は目覚ましく、日々の鬼殺によって自身が着実かつ順調に強くなっていくのがわかる。師であり柱である雫さんと比べればまだまだ月と鼈ではあるが、流石に剣を握って一年半も経っていない俺と十年以上鬼と戦い続けた歴戦の強者である彼女を比べるのはいささか不公平というものだろう。

 

 とにもかくにも、俺は今一歩ずつ自身の目標へと近づいていっている。これだけは自身を持って断言できる。

 

「鬼舞辻、無惨………」

 

 ――――打倒、鬼舞辻無惨。千年に渡る鬼の夜の終焉。全ての元凶の征伐。

 

 それこそが俺の存在意義にして唯一の目標。命を賭して成し遂げるべき使命であり義務。

 

 それを実現するためにも時間をかけて力を付けることは必須だ。奴がどんな能力を持っていてどんな戦い方をするのかは不明な所が多いが、少なくとも上弦の壱……痣を発現させた柱が複数で掛かってようやく辛勝できる最強の十二鬼月たる奴をも越える強さを持っているのはまず間違いない。

 

 何せ奴は千年前から存在し続けている始祖の鬼。食ってきた人の数も十二鬼月と比較しても桁違いだろう。性格からして戦闘技能はあまり高くなさそうだが……もし奴が上弦以上の身体能力を持っているのならば、それだけで十分に脅威となる。その上奴は食らった鬼の血鬼術を自分の物にできるという。

 

 つまり推定されるだけでも上弦以上の身体能力と、詳細不明の血鬼術の数々。

 

(…………頑張らなきゃ、な)

 

 敵の強大さとそこまで立ちはだかる数々の難題に思わず弱音を吐きそうになるが、手で掬った湯を顔に叩き付けて一度思考を真っ新にする。

 

 深く考えすぎるな。先はまだまだ長いし、そのために準備できる時間も十分ある。

 

 出来る事を一つずつやるんだ。今の俺が出来ることは、それだけだ。

 

 …………そろそろ湯に浸かって三十分。もう上がっても良い頃合いだろう。足早に風呂を出た俺は駆け湯でサッと体と頭を洗い流し、更衣室に備え付けられている綿タオルで髪や体に付着している水分を適度にぬぐい取った。

 

 着替えの方は――――あ、疲れのあまり持ってくるのを忘れてしまった。しかし汗がべっとりと染みついた衣服をもう一度着るわけにはいかず、仕方ないので部屋にある着替えまでの繋ぎとして備え付けの浴衣を着ることにする。

 

(急いで取りに行かないとな……)

 

 流石に(下着)まで忘れるのは我ながらどうかと思う。これでは万が一帯が解けたらその下にあるものが人前でさらけ出されてしまう。それはマズい、実にマズい。

 

 まあ、さっさと着替えれば問題ないか。

 

 俺は風呂上がりのさっぱりした余韻を堪能しつつ廊下を進み、自分の荷物を置いている広間に繋がる襖を開ける。するとどうだろうか、俺の鼻を擽る甘美な香りがしてくるではないか。

 

 この匂い。間違いない、これは――――

 

「鮭大根!」

「あ、義勇さん。もうお風呂上がったんですね」

「…………」

 

 部屋の真ん中にてよく見知った顔の二人の少女……しのぶとカナヲが吊り下げられた鍋で食材を煮込んでいる。その料理は他でもない、鮭大根。俺の大好物だ。

 

 あ、いや、それよりまず二人に挨拶せねば。流石にここで真っ先に料理に飛びつくのは俺が食い意地の張った失礼な男だと思われてしまう。

 

「……しのぶ、カナヲ。今日は来るのが早かったな」

「今日は菫さんから出された課題を早く終わらせられましたから、その分早く出たんですよ。きっと二人がお腹を空かせていると思いましたし」

「そうなのか」

「むふふっ、来るときに運よく生きのいい鮭と取れたてほやほやの大根を買えたんですから。期待してもいいですよ」

「ああ。楽しみだ」

 

 確かに朝からほぼぶっ通しで鍛錬を続けていたので空腹は今最高潮に達しようとしている。漂う鮭大根の香りが更に空腹を刺激してもうたまらない。が、流石に下着を付けずに食事をするのはマズい。食べている最中に間違って下のモノが見えたらもう目も当てられない惨状になるのは誰だってわかる。

 

 なので俺は食事のためにも早く服を着替えようと隣室に行こうとして――――

 

「…………!!」

「え、ちょ待―――」

 

 何故かカナヲが俺を引きとめようと服を固定している帯をその両手で引っ掴んだ。そして帯は後ですぐに脱ぐつもりで軽めに結んでいたため、強く引っ張られれば解けてしまうのは想像に難くなく。

 

 はらりと帯が床に落ち、浴衣で隠れていた俺の下半身が外気に晒された。

 

 よりにもよってしのぶの眼前で。

 

「「「…………………」」」

 

 気まずいなんてレベルじゃない静寂。俺としのぶは予想外の事態に何の動きも取れず、カナヲは何で俺たちが固まっているのかわからないのか茫然と俺たちの顔を交互に見ている。

 

 さて……どうしようか。

 

「しのぶ、とりあえず目を閉じ」

「ふんッッッ!!!」

 

 精一杯の説得空しく、しのぶの拳は俺のモノへとめしょっと叩き込まれた。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「お茶漬け美味ーい! 鮭大根も絶品ね! 流石しのぶ、お姉ちゃんも鼻が高いわ~」

「ええ、これは中々の出来です。カナエさんの妹さんはとっても料理上手なのですね。……所で冨岡君? 何故先程から内股で座っているのです? 男の方にその座り方は負担でしょうに」

「いえ、お気になさらず……いやほんと、何でもないですから」

「……フンだ!」

「…………」

 

 今日の献立は鮭大根と、魚の炊き込みご飯を握り飯にしたものを椀に入れて温めた茶をかけたお茶漬け。疲れた体に塩分が染みてとても美味い。それについては文句はない。

 

 あるとすれば、そうだな。今現在俺の股間を蝕んでいる染みるような激痛についてだろうか。

 

 恐ろしく速い一撃。咄嗟に身を引いたためダメージ軽減には成功したものの、それでも痛みは未だに退いていない。もしそのまま受けていたらどうなっていたことか、想像するだけで男として血の気が引く思いだ。

 

 いやまあアレについては下着を忘れた俺が原因ではあるけど。

 

「カナヲ、頼むから次は服じゃなくて手を引っ張ってくれ。できるか?」

「…………(コクリ)」

 

 二度あることは三度あるとも言う。俺は必要ならばどんな苦痛にも耐える自信はあるが、流石にこの男性特有の痛みを二度味わいたいとは思わない。なのでとりあえず、その二度目が起こらぬよう、俺は引きとめる時は服ではなく手を引っ張ってくれとカナヲに言い聞かせた。

 

「………………急、に

「――――――――へ?」

 

 カナヲが小さく頷いたのを見て一息つき、食事を再開しようとした瞬間――――小さな声が、耳を震わせる。

 

 それはしのぶやカナエにも届いたのか、彼女たちはピタリと動きを止めて動揺のあまり手にしていたお椀を取り落とす。俺もまた同様だった。

 

「…………何も言わずに、離れる、から………私が、何か………悪い事、したのかなって………」

「…………その、すまなかった。次からは、ちゃんと言う」

「……………うん

 

 想定外の事態に頭が追いつかず、それでも何とか返事は搾り出せたが頭の中は変わらず混乱の真っただ中。

 

 え、いや、いずれ自発的に喋るとは思っていたが、速くないか。最低でも二、三年は掛かると思っていたんだが。一体何が切っ掛けになったんだ……!?

 

「かっ、カカカカカカカナヲちゃぁ~~~ん!! やっと喋れるようになったのね! すっごく可愛い声っ! ああもう声も顔も可愛いとか卑怯よ卑怯!」

「姉さん、はしゃぎ過ぎよ……」

 

 衝撃から回復したカナエが弾けるようにカナヲに飛びついて全身をホールドしながら頭を撫でまわし始めた。何と言うか、前から思っていたが彼女は可愛いものを前にすると暴走しやすくなるようだ。とはいえまだ十三だし、年相応ではあるか。

 

 それにしのぶの方も姉の様子に呆れてはいるが、いつもより表情が緩んでいることからやはりカナヲが言葉を出せるようになったことの嬉しさが隠しきれていない。かくいう俺も、予想外ではあったが記念すべき第一歩に歓喜を隠せない。

 

「ふふっ……嗚呼、懐かしや」

「あ、すいません師匠。勝手に盛り上がったようで……」

「お構いなく。喜ばしき事は素直に喜ぶ。そこに水を差すほど私は冷淡な人間ではありませんよ。……冨岡君、人との縁を大切になさい。それを失う悲しみを知りたくないのならば」

「…………雫さん」

 

 彼女が浮かべるのは変わらず慈母の如き微笑み。十人が見たら十人とも振り返るような美しく慈しみに満ちたものではあったが、俺は同時にその内側に抑え込まれた何かを感じずにはいられなかった。

 

 それは果たして悲哀か、絶望か、痛哭か。それとも――――憎悪か。

 

 痛みを知らない俺はそれ以上踏み込むことはできず、ただそっと食事を再開する彼女を眺めることしかできなかった。

 

 そうして十分ほど経過した頃か。俺たちが食事を終えた丁度その時、ふと空から黒い影が竹林を越えて部屋の中へと飛び込んできた。

 

「――――雫様、至急オ耳ニ入レタイ事ガ」

心水(しんすい)。その様子だと……見つけたようですね?」

 

 その首に巻き付いた雫さんと同じ青い波模様の襟巻に右目に刻まれた深い傷跡、なにより歴戦の貫録を感じさせる低く渋い声は間違いなく雫さんの鎹烏。その名は心水。

 

 今の今まで偶にしか姿を見せてこなかった彼がなにやら急いだ様子で姿を現したということは、恐らく……。

 

「下弦ノ壱ニツイテノ情報ガ入リマシタ。町人ノ様子カラシテ例ノ薬ガ出回ッテイルノハホボ間違イナイカト」

「はぁ……全く、潰しても潰しても虫のように湧いて出る……。あの鬼のしぶとさも乍ら、彼奴に踊らされ、ただひたすらに悦楽を求める馬鹿共の愚かさには呆れてものも言えませんね」

 

 ため息を吐きながら雫さんは名残惜しそうな顔で俺たちを一瞥し、翻すように畳まれていた羽織の袖に腕を通し、立て掛けていた刀を腰へと佩いて出撃の準備を即座に整える。

 

 そこにはもう慈母の貌は無く、一人の鬼狩りだけが存在していた。

 

「二人とも、この二ヶ月間よく頑張りました。次に面倒を見られるのが何時になるかはわかりませんが、私の目が無くなったからといって決して怠けることのないようお願いしますね?」

「無論です」

「師匠、お気を付けて!」

「ええ。――――行きますよ、心水」

「御意」

 

 その一言の後には、雫さんと心水の姿は霧の様に掻き消えた。それでも二ヶ月前と比べて微かな輪郭だけでも捉えることが出来たのは、確かな成長だと受け入れてよいものか。

 

「さて、と。俺たちもそろそろ此処を出よう。何時までも長居しては悪いだろう」

「あ、待ってくださいよ義勇さん。今荷づくり始めますから!」

 

 家の主である雫さんが去った以上、俺たちが何時までも此処に居続ける理由はない。彼女は俺たちがこの家を使った所で気にはしないだろうが、流石にそんな事を素面で行える程俺は図太くない。

 

「うーん……連れて行って貰えなかったって事は、私たちはまだまだ頼りないのかな。義勇君」

「……そうだな」

 

 雫さんが請け負っている下弦の壱の追跡任務。それについての詳細は知らないが、きっと生半可な難易度では無いことは察せる。なにせ十年も柱を務めている彼女が年単位の時間をかけて追い続けても尚有力な手掛かりが殆ど掴めていないのだ。

 

 動かせる人員やその質に限りがあるとはいえ、最上位の隊士でさえ手こずる任務。鬼殺隊の中でも良くて精々中堅止まりの俺たち如きがどうこうできることでは無い。

 

 だから納得も理解もしている。それでも……やはり、置いて行かれるのは、寂しい事だ。

 

 恩人であり師である彼女の助けになりたくても、己の力不足がそれを許さない。

 

 だからこそ思う。早く、力を付けねばと。

 

「だが……今は駄目でも、欠かさず努力を重ねて行けばいつかきっと共に往けるさ」

「うん、そうね! よーし、明日からも頑張るぞー! おー!」

「おー」

「…………おー

「頑張るのは良いけど、身体を壊さないくらいにしてよね。はぁ……私も早く選別に行けないかなぁ……」

 

 流れていく長い時の中で、俺たちは懸命に血と汗を流しながら小さなものを積み重ねていく。

 

 いずれそれが望みを果たすための力になると、必ず報われると信じて。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 

 

 月明かりが地上を照らす真夜中に、艶麗な琵琶の音が一つ鳴る。

 

 瞬間、一人の男が忽然と姿を現した。

 

「――――――――あ?」

 

 その左眼に”下弦の伍”の数字が刻まれた男――――現下弦の伍である鬼は何故自分が此処に居るかわからないような様子で周囲を見渡す。

 

 上下左右がわからない、まるで空間が歪んでいるような作りの建物。見ているだけで頭や平衡感覚がおかしくなりそうな不可思議な造りに鬼は思わず悪酔いしそうな気分に見舞われた。

 

 

    べ

    べ

    ん

 

        べ

        ん

 

 

 

 

 男が困惑の渦中であっても構わず鳴り響く琵琶の音。音源を探れば、一等空間の歪さが激しい中心部にて座す、琵琶を携えた長髪の美女がいる。男は直感的にその女がこの場を司る鬼であると理解した。

 

 そして琵琶が鳴り響く度に何処からか現れる男女が四人。彼らの眼には各自下弦と刻まれた眼を持っている。

 

 下弦の壱――――今の時代としては目新しい、白衣というものに身を包んだ、まるで研究者のような出で立ちをした白髪が目立つ眉目秀麗な男の鬼。

 

 下弦の弐―――—身体の一部を覆う真っ赤な鎧、露出の多い深紅の衣服、頭の後ろにまとめられた長い朱色の髪と全身赤色尽くしな般若の面を被った女鬼。

 

 下弦の参――――美しい振袖を身につけた、流れ落ちる滝の様な美しい空色の髪を地面まで垂らしている、手足が水で出来た見た目麗しい美女の鬼。

 

 下弦の肆――――まるで御伽に出てくるような、土や岩でできたような厳つい牛の頭と局部の無い屈強かつ巨大な男の体を持つ鬼。

 

 下弦の伍――――何処にでもいる何の変哲もない好青年の如き外見。ただしその手と足だけは骨肉が異様に歪んでおり、獣の様に鋭利な形となっている鬼。

 

 この光景から鑑みるに、即ち此処に集められたのは下弦の鬼のみ。

 

 どうして自分たちを一か所に集めるのか。いや、下弦の鬼を集めているのならば何故一人分だけ人数が欠けているのか。その疑問を浮かべた瞬間、最後に強く琵琶の音が木霊した。

 

 

 

べ ん

 

 

 

 知覚すらできない合間にこの場に呼ばれた鬼たちが一所に集められる。

 

 そして目の前には洋服に身を包んだ妖艶な雰囲気を纏う一人の男性がこちらを見下ろしている。その存在が”誰”なのか理解した瞬間、鬼たちは一斉に無心かつ最速でその場で膝を着いて平伏した。

 

「――――良い反応だ。やはり今期の下弦たちには期待が持てそうだ」

 

 かつて聞いた声。懐かしきかの御方の声。細部こそ出会った時と異なるが間違いなくあの御方は我々を統べる鬼の頂点。即ち鬼舞辻無惨その人。

 

 どう足掻いても手も足も出せない絶対存在を前に、鬼たちはただただ何も言わず考えず、目の前の存在からの問いを応える機械であることに全力を注ぐ。生殺与奪の権を握られた自分たちが余計なことを考えて彼の機嫌を損ねればどうなるのかは想像に容易いからこそ。

 

「蒐麗、下弦の陸が下された。――――が、これは本題では無い。所詮穴埋めのために置いていただけの存在。彼奴如きのために貴様らを態々集める程、私は暇では無い」

 

 下弦の陸が落ちた。成程確かに事件ではあるが、態々他の下弦たちを集めて討論するようなことでもないだろう。不謹慎かもしれないが十二鬼月の顔ぶれが入れ替わることなどよくある事だ。ただ、上弦と元上弦である下弦の壱だけは例外的に百年以上その座を動いていないのだが。

 

「痣の者が現れた。人の身のまま鬼の如き怪力を手にした者の事だ」

 

 その言葉と同時に鬼舞辻からの圧力が一層強まる。ミシリ、と彼らが膝を突く床が微かな悲鳴を上げた。

 

「幸いなことにその者は柱でなくただの取るに足らない小僧ではあるが、忌々しいことに、黒死牟(こくしぼう)曰く痣者は他者へ同じく覚醒を促す効果があるらしい。もし奴から他の者達、特に柱へ痣が伝播すれば私にとって厄介な事態になるのは間違いないだろう。故に、私は貴様らに命ずる。――――奴と出会った場合、その命を捨ててでも痣者の小僧を殺せ。もし殺して生還できたのならば、褒美として私の血を多分に与えてやろう」

 

 血の授与。それを聞いた一部の鬼の方がピクリと震えた。

 

 鬼舞辻の、鬼の始祖の血。人にとっては鬼に変えられてしまう秘薬にして劇毒であるが、鬼にとっては大きな力の源に他ならない。無論、過剰に与えられれば適応できずに死ぬ可能性もあるのだが、それでも人間を一人二人チマチマ食すよりもよほど簡単かつ飛躍的に強くなれる方法だ。

 

 余程の事が無い限り他の鬼へと血を与えようとはしない無惨は直々にそれを褒美として授けると言う。それはつまり、彼からの期待に応えれば鬼として大きな力を得ることが出来るという事。

 

 今の地位で満足していない一部の下弦にとってそれはこの上ない機会であった。

 

「――――畏れながら鬼舞辻様、一言申し上げてよろしいでしょうか」

「……何だ? 言ってみろ。もし下らぬ物言いであればその半身を削り取るぞ、魔識(ましき)

 

 皆が一言も口を出さずに跪く中、一番前に居た白衣の男、下弦の壱である魔識が恐れ多くも――――いやこの場合は命知らずと言った方が良いか――――鬼舞辻に意見を述べようとした。それに対して鬼舞辻も不快そうに眉間に皺を寄せながらも発言の許可を出す。

 

「貴方様のおっしゃりたいことは理解しましたが、我々はその小僧の顔を知りません。故に貴方様の記憶を血を介して我々に授ける方がより正確に貴方様の望みを叶える道なのではないでしょうか?」

「この私の血を、まだ何の成果も出せていない貴様らに与えろというのか?」

「記憶や情報のみでございます。我々はそれ以上何も望みません」

「…………………チッ」

 

 その言葉に一先ずの納得がいったのだろう。鬼舞辻は盛大に舌打ちしながらその五指を目の前の下弦たちへと突き出し――――彼らが反応できないほどの速度で指先から管を撃ち出した。

 

 撃ち出された管は寸分違わぬ正確さで下弦たちの眉間へと突き刺さり、そこから鬼舞辻の記憶の籠った血がほんの一滴だけ送られる。記憶の共有を行うだけならばそれで十分。下弦たちの脳裏には確かに顔に痣を浮かべた少年――――冨岡義勇の姿が映し出された。

 

「これで満足か?」

「勿論でございます。我が言葉に答えていただき誠に感謝いたします、鬼舞辻様」

「フン……ならばもう貴様らに用は無い。――――鳴女(なきめ)

「はい」

 

 鬼舞辻の声に応えるよう鳴女と呼ばれた鬼が琵琶を鳴らした。

 

 それだけでその場に居た下弦たちは鬼舞辻の本拠である”無限城(むげんじょう)”から姿を消し、各々呼ばれる前に居た場所へと抵抗する間もなく放り出される。

 

 その内の、下弦の伍の数字を刻まれた青年は何も言わずにその場に佇む。ただただ歪んだ笑みを浮かべながら。

 

「あぁ……あの御方の血を頂けるのか。クヒッ、ヒハハハハッ……! ()()()が消えれば俺の力を抑える者は居なくなる……そこにあの御方の血を授かれば……上弦も夢じゃないぞ……! ヒヒッ、イヒヒヒャヒャ……!!」

 

 狂ったように路地裏に響く不気味な驚喜の籠った笑い声。放って置いたら何時までも続きそうな調子であったが……不意に人の気配を察知した彼は先程とは打って変わった様に笑みを真顔へと変貌させた。

 

 まるで、人が変わった様に。

 

「――――お兄ちゃん?」

 

 大通りへ続く道から顔を出したのは、黒みがかった紺碧色の髪を左右で小さく留めた、青い瞳の女の子。とても不安そうにこちらへと駆け寄る姿は実に愛らしい。

 

 それに対して男は、まるでただの人間の様な何の変哲もない手を振って少女を迎える。

 

「ああ、()()()。どうしたんだ?」

「どうしたんだ、じゃないでしょ! 急に店から出たかと思ったらこんな所に来て! お父さんもお母さんも心配してるんだから!」

「え? ……あ、す、すまない。なんだか意識が朦朧として……最近どうも調子がおかしいな」

 

 男の演技はそれこそ真に迫った、鬼など何も知らない青年の如き振舞いだ。それこそ、()()()()()()()()()()()()。演技とはとても思えないその行動に疑いをかけられる者など誰一人いなかった。

 

「本当に大丈夫? 一度医者に診せた方がいいのかな……」

「うーん、まあきっと大丈夫さ。今後気を付けていけば問題ないよ」

「お兄ちゃんの『大丈夫』は全く信用できないんだけど……」

「ひ、酷い言われようだ……。んん! とりあえず、早く帰ろうか。これから父さんと母さんの店の掃除を手伝わないといけないからな」

「うん!」

 

 青年と少女は何処にでもいそうな兄妹のように手を繋ぎながら路地裏から去っていった。

 

 

 

 ――――その奥に隠れていた人間の臓器と骨に気付かなかったのは、果たして幸か、不幸か。

 

 

 

 

 




正直いつまでも無言のままだとクッソ書きにくいのでカナヲちゃんには早めに心を開いてもらった。(クソザコ執筆者で)ごめんね

なんかこの無惨様甘くない?と思うそこの読者。私もそう思う(便乗)
でも無惨様的には将来性の無いそこそこの強さの手駒が一つ無くなっただけだからそこまで苛立ちはしないだろうし、残った部下は全員従順かつそれなりに期待できる素質ある人材だから対応がマイルドになった……んだと思いたい。

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