水に憑いたのならば 作:猛烈に背中が痛い
誰もが寝静まった真夜中に、蝶の模様が描かれた羽織と真っ黒な装束を着た華奢な少女が風のように駆ける。
息が荒くなり、口から熱気が感じ取れるほどに走り続ける一人の少女。汗を垂らしながら少女――――胡蝶カナエは空を飛ぶ鎹烏の後を追い続け、ついに目的地らしき建物にたどり着いた。
そこは一人の町医者が営む小さな診療所。恐らく最寄りの医療機関に運び込んだ結果だろうと推察したカナエは固唾を飲んでその建物の中へと駆けこんだ。
「はぁっ、はぁっ――――義勇君!!」
倒れ込みそうになるのを堪えながら崩れるように戸を開け放ち、カナエは目当ての人物の顔を探し始める。そんな彼女の慌てようを見てこの建物の持ち主であるだろう医者が駆け寄った。
「ちょ、ちょっと君! 一体どうしたんだい!? どうやら尋常じゃない様子だけど……」
「あ、あのっ、こ、此処にっ、私と同い年くらいの男の子が運び込まれませんでしたか!? ツンツンした髪の……!」
「君は、あの子の知り合いなのかい? しかしその刀は……いや。わかった、付いて来てくれたまえ」
医者は突然入ってきたカナエと腰に佩いた刀を見て気難しそうな表情を浮かべるも、彼女の顔を見て覚悟を決めたのかすぐに先導を始めた。
そう大きくない建物故に探し人の元まではそう時間は掛からず――――故に、まだ心の準備も定まってないまま、カナエは少年の惨状を目にすることとなる。
「ひゅー……っ…………か、ひゅ……ぅっ……」
「――――あ、あぁ……っ!」
顔以外の全身を血の滲んだ包帯で包まれながら死人のように横たわる、冨岡義勇の惨たらしい姿がそこにはあった。
息は掠れてまるで乾いた風のようで、命の危険を現す信号か止めどなく汗が流れ続けている。包帯に滲んだ血も斑模様などというレベルをとうに通り越して、まるで血の池だ。辛うじて手足の骨は無事なようだが、この様子では気休め程度にもならない事だった。
「ど、どうして、こんな……」
「突然、黒ずくめの子達がこの少年を運び込んできてね……。全身がまるで至近距離で何かの爆発に直撃したような、酷い有様だった。増血剤や止血剤を打って応急処置は済ませたが、安心はできない」
「な、何とかならないんですか!? お願いしますっ! お金なら幾らでも差し上げますからっ……!」
「……そうしたいのは山々だけどね、無理なんだ。私の診療所では、彼を安全な状態まで治癒できる設備が存在しないんだよ」
そう、義勇の受けた傷は小規模な町で営業しているような医療機関で対応できるようなものではなかった。
爆風によって圧迫されたことで肋骨は五本以上が折れ、衝撃によって肺も多少ながらダメージを受けている。
しかしそれ以上に彼を苦しめているのは、その体内にまで食いこんだ異物……即ち、鬼の肉や骨の欠片たち。
意図したものかただの偶然か、それらが内臓を傷つけることは無かった。が、手足や胴へと打ち込まれたそれは義勇の筋肉や血管を大きく引き裂いてしまっており、再起不能という程ではないにしろ大きな傷を与えた。もし今彼に意識があったのならば、その痛みと体内に異物があるという嫌悪感によってこれ以上無いほど苦しんでいただろう。
何にせよこれ程の傷。何らかの無茶でもしない限り、彼が即時に戦いへ復帰できる可能性は潰えたと言える。
「だけど安心してほしい。先程この少年を運び込んだ子達が馬車を借りてくると言っていたんだ。ここから大きい病院のある場所まではそう遠くない。きっと間に合うはずだよ」
「…………はい」
そう言って医者はカナエを慰めてくれるが、それでもカナエは胸の中を満たす不安に顔をくしゃくしゃに歪ませながら涙を浮かべるのを止められなかった。
何故ならば、理解しているからだ。彼がどうしてこんな目に遭ってしまったのか。どうして一人で鬼を倒しに行こうとしたのか。
「ごめんなさい……義勇君、ごめんなさい……! 私がっ、私が不甲斐ないせいで……貴方が、こんなっ……!」
苦しそうな表情で眠り続ける義勇の手を握り、膝を着きながら彼女は許しを請うように何度も謝罪の言を呟き続ける。
自分の心が弱ったせいで、彼は一人で戦わざるを得なくなった。刀を握れなくなった剣士などいう役立たず以外の何物でもなくなった自分のせいで、そうする選択肢を選ぶ他なくなったのだ。――――その結果、こんな身体になってしまった。
――――こんなつもりではなかった。
きっと何れ良くなると、少し時間が経てばまた共に戦えると思っていた。
――――こんな事になるなんて思っていなかった。
わかっていた筈なのに目を逸らし続けていた。彼の優しさに甘えてばかりいて、何をすべきか考えようともしなかった。
――――…………胡蝶カナエ、貴方は一体なんのために、此処に居るの?
「……私、私は……」
階段で足を滑らせてしまったかのような、取り返しのつかない事になるという不安感がカナエの全身を包み込む。
絶え間なく溢れ出る罪悪感と自己嫌悪。カナエはもう自分が何のためにこの場所にいるかもすらわからなくなり始め、赤子の様にすすり泣き続けるしかできなかった。
こうなってはもう下手な言葉は逆効果だろうと悟ったのか、医師は沈鬱な顔で部屋を去ろうと踵を返した。しかしその瞬間を狙いすましたかのように、診療所の入り口の方からドタバタと大きな足音が聞こえ始めて、この部屋に近付き始めるではないか。
まさかもう隠達が帰ってきたのかとカナエは顔を上げて扉の方へ視線を移すが……部屋に入ってきたのは予想だにもしなかった者であった。
「――――お医者様! お医者様はここですか!?」
「えっ……?」
少し前までのカナエのように息を荒げながら戸を蹴破らん勢いで入ってきたのは小柄な少女……そしてカナエはその顔を知っていた。忘れるわけがない、何せつい最近知り合い、今日も顔を合わせたのだから。
その少女は他でもない――――神崎家長女、神崎アオイだった。
「ア、アオイちゃん!?」
「君は神崎さんの所の……? こんな夜更けに一体どうしたんだい!?」
「はっ、はぁっ……! カ、カナエさん? あ、いえ、それよりも! 大変なんです! あ、兄が突然苦しみ出して! 身体の肉がボコボコって、変な風に蠢いててっ! お願いします、お兄ちゃんを助けてくださいっ……!!」
これ以上無いほどの切羽詰まった様子と覚束ない言葉。誰にでもわかるほどのアオイの焦り具合に、医者は一度だけ義勇の様子を一瞥すると近くにあった救急箱と聴診器を手に取って外へ出る支度を始めた。
「すまない! この子の兄の様子を見てくる!」
「し、失礼しますっ!」
そう言い残して医者とアオイはこの場を去ってしまった。一見無責任な行動に見えるかもしれないが、先程言ったようにこの診療所では今の義勇はこれ以上手の施しようがないのだ。である以上、医者が他の患者を優先するのも仕方のない行動だ。
彼らが去ってしまったことで義勇と二人きりになってしまったカナエは、もう一度寝た切りになってしまった義勇の顔を見る。
「ひゅー……こほっ、こほっ……」
(……しっかりしなさい、私! 今一番苦しんでいるのは義勇君なのよ!)
汗が絶え間なく流れ続けている。身体の代謝機能が最大限にまで働いているのか体温もとても高い。このままでは燃え尽きてしまうのではないかと思えてしまうほど。
それを理解したカナエの行動は早かった。彼女は自身の両頬を叩いて気合を入れ、急いで部屋を出ると隅にあった水桶と棚にしまわれていた布を拝借し、建物の裏手にあった井戸から冷たい水を汲み上げた。そうして汲み上げた水を桶に注ぎ、カナエは早足で義勇の居る部屋へと戻る。
そして桶の冷水に布を浸して軽く搾り、汗まみれの義勇の顔や包帯に包まれていない身体の一部を賢明に吹き始めた。
(どんな些細な事でもいい。私にできることを、しなくっちゃ……!)
何かをしても何も変わらないのかもしれない。
だけど、それでも。
(何もしないより、ずっといい……!)
無意味だったとしても、偽善だったとしても構わない。……結果がわかり切っているからって何もしないだなんて、そんなの悲しすぎるではないか。
(義勇君…………)
その調子でしばらく義勇の身体を拭き続けている内にそれなりに時間が経ったのか、またもや外から足音が聞こえ始めた。しかし今回は一人では無く、数人分。これは間違いなく――――。
「うぉぉぉぉぉぉ! 冨岡ァ! 生きてるかぁ!?」
「馬車を借りてきたぞ! クッソ、あのオヤジ深夜に訪ねたからってぼったくりやがって! 後で覚えてろよチクショウっ!」
「隠さん達!」
頼みの綱の隠たちがやってきた。これでようやく義勇を治療が可能な病院まで運べるというもの。
「うおっ、カカカカカ、カナエさん!? どうしてここに――――ってそれは後! カナエさんもこいつを担架に乗せるの手伝って!」
「え、ええ」
隠に知り合いなんていたかしら……? と頭を傾げるカナエだが、今は細かいことを気にしている場合では無い。なるべく大きく揺れないよう、身体の端と端を持って床に置かれた担架に義勇の身体を移そうとカナエは肩を掴んだ。
瞬間。
「うあああああああああああああああああッッ!!!!」
「「ぎぃやぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああっ!?!?」」
尋常ならざる雄叫びを上げながら義勇はその双眸を開いて覚醒し、あまりの突然すぎる復活に隠たちは悲鳴を上げて後ずさった。
しかしこれを責めることはできない。どう見ても死に体の怪我人が突如叫びながら起き上がってきたのだ。悲鳴を上げるなという方が難しいというもの。カナエですら叫び出しそうなのを両手で口を塞ぐことでギリギリ持ち堪えられたほどだったのだから。
ともあれ意識不明だった義勇は目覚めた。……が、それが幸運だったとはとても言えない。本人にとっては間違いなく幸運だっただろうが……。
「ぐ、ぅぅっぁッ……!!」
「ぎ、義勇君! 駄目よ、まだ身体を動かしちゃ駄目! 身体の中にまだ異物が沢山あるってお医者様が……」
「鬼はっ、鬼は何処だ! 奴を逃しちゃいけない! ここで、仕留めないとっ……!!」
「鬼は、鬼はもう……」
義勇は身体中に住みついた激痛と嫌悪感に苦しみもがきながらも傍にいたカナエにしがみ付いて鬼の所在を問うが、カナエの顔は暗い。何せ事前に烏から鬼を逃してしまったことを聞いていたから。
その顔を見た義勇は泣きそうな顔を浮かべて項垂れる。後悔と悲しみに歪んでしまっている顔は、咄嗟に直視できない程だ。
「くそっ、くそっ……くそぉっ……!!」
「義勇君……」
「俺がっ、俺が楽にしてやらないといけなかったのに……! 善継に、これ以上罪を重ねさせる前に……!!」
「―――――――え?」
カナエは一瞬、自分の耳がおかしくなってしまったのかと疑った。
何故、今善継の、アオイの兄の名が出てくる――――?
「ぎ、義勇君。どうしてそこで善継さんの名前が出てくるの……?」
「……神崎善継が、鬼だった。異なる二つの人格を持っていて、表に出た人格ごとに体質が変化する特異な鬼だ。人の人格の時は不完全ながらも日光に耐性を得て、外見も人と何も変わらないものになるが、鬼の人格が表出すると完全に鬼化して――――……カナエ?」
震える手で口元を抑えるカナエ。その顔は青ざめ、瞳が小刻みに震え始めている。
あの少女の、アオイの兄が鬼……? だとすれば、先程あの二人は何と言っていた。何のために向かった。もし義勇の言葉が真実だとすれば、それは――――
「神崎さんたちが危ないっ!!」
「カナエっ!? ――――うぐっ、がぁぁぁああああッッ……!!!」
「おっ、おい冨岡! 大人しくしろ! お前今重傷なんだぞ!?」
「後藤! 急いで運ぶぞ!」
最悪の事態を予見したカナエは爆ぜるようにして部屋を飛び出した。咄嗟にその背を負おうとする義勇だったが、体中に食いこんだ肉と骨の破片がそれを許さない。
カナエは無我夢中で走った。頭の中で思い浮かべた光景を防ぐために。
これ以上、自分の様な人を増やさないために。
(お願い……みんな、無事でいてっ……!!)
彼女の願いは、果たして聞き届けられるのだろうか。
まだだ。まだ終わっていない。
「ふぅぅぅぅうううううっ!! ふぅぅぅぅうううううううううううううううッッ……!!!」
「とっ、冨岡! 大人しくしてろって! 今病院まで運んで――――」
「やめろッ! まだ駄目だ! まだやるべきことが残ってるっ……!」
仔細はわからなくとも、俺の身体に凶裏の自爆による傷しかない事とカナエの言葉と様子から大体の状況は察した。恐らく凶裏、いや善継は何らかのきっかけによって人格の主導権を不完全ながら取り戻し、無意識的に神崎家の所に戻っていったのだろう。
そしてそこで何か異常な反応があり、神崎家の誰かがここを訪れて医者を連れて行った。概ねそんなところだと推察した俺は、この状況を最悪からまだ回避できると確信した。
故に、こんな所で呑気に寝ている場合では無い。急いでこの身体を動かしても問題無いように処置しなければならない。俺は後藤とその先輩の隠らしき者の手を振り払いながら何とか方法を考え始める。
だが、今できることなんて最初から決まっていた。
(体中に食いこんだ鬼の骨や肉片のせいで身体の反応が狂っている……なら、
本来ならば外科手術で慎重に摘出しなければならないだろう代物を無理矢理引っこ抜く。想像するだけで悪寒がするが……不可能では無い。なら、やるだけだ。
「後藤、急いで救急箱からピンセットと消毒液……それと薬品棚に
「はぁっ!? お、お前何をするつもりで……いやまさか、無茶だろ!?」
「やらなきゃこれから何十人何百人の命が消えるぞ! お前もさっきの爆発音を聞いただろう! 奴の血鬼術の規模は桁外れだ……!! 今この場で対応できるのは俺しかない! だから、早く……! 頼む……!」
「う、ううっ……わ、わかったよ! 後で恨むんじゃねぇぞ!?」
俺の懇願を聞き届けた後藤らは診療所内を探り、俺の頼んだ通りピンセットと消毒液、そして
それを受け取った俺は
全身全霊で堪えろ、冨岡義勇。
「はぁっ、はぁっ……ぅ、ぬっぅぅうううぅぅぅうううううううッッ……!!!」
ピンセットを持つ。これからやろうとすることを考えると身体中から汗が吐き出されていく。
やるしかない。
やるんだ。
目を開ける。まるで波の上を揺蕩うような不思議な感覚が身体を包み込んでいる。
一言で言い例えるなら、冬のように寒い時に目を覚ましたような倦怠感。布団の暖かみが恋しくて、そのまま二度寝したい欲求に駆られる。
「――――ちゃん」
声が聞こえる。
「――――いちゃん」
懐かしい声だ。とてもとても、聞かなくなって久しい、記憶の奥底へと沈めてしまったものが、俺の意識を深い海の底から引き上げようとしてくる。
「――――兄ちゃん! どうしたんだよいきなりボーっとして?」
「…………え?」
意識が覚める。
左右を見渡せば、辺り一面は白が敷き詰められた雪景色。よく冷えた冬風が肌を撫でればぶるりと背筋から鳥肌が駆けあがってくる。
「ここは、一体」
「何言ってんだよ。昨日川に仕掛けた罠に魚が掛かってないか俺と見に行くんだろ? ほら、早く早く!」
「あ、ああ……」
そうだ、思い出してきた。俺は今から川に仕掛けた罠の確認に行くんだった。食い物が限られる冬でも母や弟、妹たちに美味いものを食わせたくて、獣肉は無理でも新鮮な魚なら出来るだろうと思って。
そして俺の隣にいるこの子は家族の次男坊、
「うーっ、さむさむっ……兄ちゃん、別に家にいてもよかったんだぞ? 風邪でも引いたらどうするんだよ?」
「大丈夫さ。今日はなんだか調子がいいからな」
「兄ちゃんの『大丈夫』が信用できねぇから言ってんだよ……」
「は、ははは……」
正司の言う通り、俺は大丈夫だと何だといいながら結局無茶をしてしまう性質で何度も家族に心配をかけてきた身。反論のしようがなかった。だがそうでもしなければこの家を支えきれなかったのもまた事実だ。
俺の父親はろくでなしだった。いつも母に暴力を振るっては酒浸りの生活を過ごし、周囲の住民ともめ事を起こしては暴力沙汰に発展する。何処からどう考えても碌な人間で無かったのは確かであり、今思っても俺があんな男の種から生まれたという事実に腹が立つ。
いや、何よりも腹が立つのは母を孕ませるだけ孕ませて、何も言わずに金目の物を根こそぎ持ち逃げしたことだ。おかげでまだ十歳だった俺は弟と妹をそれぞれ二人ずつ、母と共に養わなければならなかったのだから。
こうして皆無事に生き残っているのはまさに天が許してくれた奇跡としか言いようがない。あんなに小さかった弟妹たちが元気に駆け回って遊ぶ姿を見れば、弱かった身を死ぬほどこき使った甲斐もしみじみと感じるいうものだ。
「――――兄ちゃん! 見ろよ!」
「おお、これは……」
罠を仕掛けた川に着いた俺たちは早速小枝で作った罠を水から引き上げてみた。するとどうだろう、小枝の網の中にはでっぷりと太った小魚が何匹も元気良く跳ねているではないか。
「よかった……これなら皆腹いっぱい食べられるぞ」
冬越しのために日々食べる量には限りがあったが、久々に新鮮な魚肉を家族に振舞える嬉しさで俺は舞い上がるような気持ちになった。これ程の自然の恵み、きっと食い物に困っていた俺たちを助けるために神様が送ってくれたに違いない。
俺は手を合わせて山の守り神に深くお辞儀をする。贈り物を貰ったのならば感謝を返す。それが今の俺たちにできる神様への精一杯の誠意なのだから。
「ただいまー。兄ちゃんたちが帰ったぞ~」
「「兄ちゃん!」」
「お兄ちゃん! お帰り~!」
袴に着いた雪を払い落しながら俺たちは我が家の中へと入る。真っ先に出迎えてくれるのは冬でも気力のあり余っている三男の
元気よく駆け寄ってくるその子達を俺はしゃがんで真正面から胸に受け止め、抱きしめてやる。この子達はこれが一番好きらしい。
「うへへ、お兄ちゃん冷たーい」
「ひゃー! さむーい!」
「こらこら……貴方たち、お兄ちゃんたちを休ませてあげなさい。善継、正司。こんな寒い中外に出て……寒かったでしょう?」
「ううん、大丈夫だよ母さん」
「俺も平気だよ」
俺が少々病弱気味なのは母譲りだ。しかし生まれつき体の弱い母だったが、本来はそこまで酷い物では無かった。……それを、父の暴力と身勝手な奔放が悪化させた。常日頃から暴力に晒され、挙句の果てに俺の手伝いがあったとはいえ女手一人で子供を五人も育てなければならなくなったのだ。
無理に無理に重ねたのが祟り、母はもう一人では満足に出歩けない程虚弱になっている。……医者の話では、あの一年持つかも……。
「ごほっ! ごほっ!」
「母さん!」
「っ……大丈夫よ。ええ、少し埃を吸っただけ……母さんは元気だから、心配しないで」
「…………母さん」
大きく咳き込む母。俺はすぐさま駆け寄ってその様子を確かめるが、母は「何でもない」とひたすら俺たちに言い聞かせる。
その体はまるで枯れ木だ。手足はやせ細り、顔も三十路を越えたばかりだというのにまるで老婆のようにシワクチャだ。そんな状態の身体を回復させるにも、母の身体はもう多量の食事を受け付けられなくなっている。
今は食べやすい粥などで凌いでいるが、それが一体どれだけ時間を稼ぐことができるのか。
「すまない、母さん……俺が、俺がもっとお金を稼げていたら……」
入院させるにも、この家にはお金がない。冬というのもあるが、春になっても俺たちの様な貧民がやれる仕事などほとんどなかった。暖かい時期に獣を狩って肉や皮を売ったり、小さな畑で作った野菜を売ったりして金を稼いではいるが、それもこの冬が終わる頃までには殆ど使い果たしてしまう。
故に母の様な重体を治癒できる病院に長い期間入院させられる大金など用意出来るはずもなく、俺はこうして日に日に弱っていく母を見て歯噛みするしかなかった。
「善継、きっと何とかなるわ。貴方は悪い事なんて何もしていない。ならきっと、神様が助けてくれるわ」
「……ああ、そうだよな。母さん」
良い事をすれば良い結果が帰ってくる。昔から母がよく言っていた言葉だ。その言葉を信じて俺は今まで頑張って生きてきた。
困った人がいれば助け、飢えている人がいれば食べ物を恵む。例え自分が苦しむことになろうとも、決して見捨てるなんてことをしてはいけない。そんなことをすれば、いずれその報いが自分に帰ってくるのだと教わったのだから。
「お兄ちゃん! お腹空いたー!」
「空いたー!」
「ああ、ちょっと待ってくれ。今日はお魚がいっぱい取れたんだ、鍋にして皆で食べよう!」
「「「やったー!」」」
腹の音を空かせた弟妹たちが飯をねだるのを見て、俺は暗い顔を明るく作り変えながら精一杯の元気を出す。
きっと何とかなる。悪く見えるのは今だけだ、いずれいい結果が訪れると信じて。苦労して作った魚や山菜がたっぷり入った鍋をお腹いっぱい食べた家族の笑顔を見て、俺はより強くその言葉を信じることができた。
……………だけど、そんな都合のいい事があるのならば、俺たちはこうして汚れた家屋で暮らしていない。
奇跡は何時だって起こってほしい時に起こらない。
善行は報われるなんて言葉が幻想であることを、あの時俺は学んだ。
「ごほっ、げほっ、けほごほっ!」
「母さん……? ――――母さん!?」
その日の真夜中、弟妹たちがすっかり眠りに落ちた頃に母は突如大きく苦しみ出した。その苦しさはいつも以上で、今まで無かった喀血まで起きる様を見て俺は跳び上がる様に眠りから覚めた。
「どっ、どうすれば! 温かい湯を持って――――!」
「善、継………」
「ああ、母さん! 何をして欲しい! 何でも言ってくれ!」
母が縋る様に俺の肩を掴んできた。手から伝わる身体の冷たさと非力さに思わず震えるが、それでも俺は諦めない。絶対に、絶対に助けてみせる。
でなければ、俺は、俺たちは今まで、何のために――――ッ!!!
「どう、か……あの子、達と……幸せに……生き……………」
それだけを言い残して、母の身体からは一切の音が聞こえなくなった。
力なく俺によりかかる母を、俺は何も言わずに布団に横たわらせ、開いたままの瞼を閉ざす。
「………………………」
何も言えなくなった俺は、堪らず家から飛び出した。風が吹く度肌を刺すような痛みが走る。息を吸う度肺が凍りそうになる。それでも俺は今だけは家にいたくなかった。でなければ、今頃幸せな夢を見ている弟妹達を現実という名の悪夢に引きずり込みそうだったから。
「……んで、だよ」
腹の奥から湧き出る。憤怒が、憎悪が、悲痛が。理不尽に対する感情は、到底抑えつけられない程の瀑布となって俺の口から飛び出した。
「何でだよっ!! 何でっ、何で母さんが死ななきゃならねぇんだ!! 俺たちが一体何をしたっていうんだ!! 何もっ、何もしなかった! 誰にも迷惑なんてかけなかったのに、なんでッッ…………あぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
叫んだ。ただひたすらに雪の振り積もった地面を殴りつけて、手足が真っ赤になって皮膚が裂けても俺は叫ぶのを止めなかった。
ようやく、わかった。
良い事をしたって意味なんて無い。
他人を気遣ったって何の価値もない。
無意味だった。俺の心がけてきたこと、信じてきたもの、全部、全部全部全部っ――――!!
「――――騒々しい。こんなに静かな夜に情けない喚き声を散らすな、小僧」
「っ!!!」
聞き覚えの無い声にハッとなった俺は顔を上げる。
そこには、如何にも羽振りが良さそうな高価な着物を着た美顔の男性が佇んでいた。
一見して人間味の無いほどの美貌と、見たことも無いほど赤く染まった眼。それを綺麗だとは俺は欠片たりとも思わなかった。ただただ、現実離れしたその存在そのものが不気味で、本能が「絶対に近付くな」と何度も叫び出す恐怖を呼び起こす。
だが、俺は彼の顔に釘付けになってしまう。その赤い目、その薄ら笑い。
見下している。まるで人を人とも思わない、道端の小石を眺めてもこうは形作られないだろう侮蔑の眼差し。それを見た俺は――――生まれて初めて、殺意を抱いた。
見せつけているのか、俺のような貧乏人に。優越感でも感じているのか、その下卑た笑みは。
「態々こんな辺鄙な所まで出向いてようやく見つけたのが、このような貧民とはな。はぁ……」
「……ろ、す」
「まあいい。丁度、ここらには鬼を配置していなかったのだ」
「……ろして、やる」
「これ以上人を探すのも面倒だ。お前でいいだろう」
「ああああああああああああッ!!! 殺してやるッ!!! この糞野郎がぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああ!!!!」
目の前が真っ赤に染まるほど血眼になって俺は目の前の男を八つ裂きにしてやる気で飛びかかり――――
「やめてっ! 兄ちゃん! いやぁぁぁああああ!!」
「痛いようぅっ! 痛いよぉ……! たすけ、たすけて、お母さん……!」
「許して、許して、許して。もう迷惑かけたりしないから。もう遊んだりしないから。お兄ちゃん許しっ――――」
「人殺しっ! 兄ちゃんの人殺しぃぃぃっ!!」
俺は、何をした?
守ってやるべき弟妹達を、一体どうした?
弔うべき母の亡骸を、どう扱った?
「ようやく思い出したか、■■善継」
俺の声、だけど俺じゃない声が何処かから聞こえてくる。
「お前がやったんだよ、全部。俺じゃなく、お前がな。まあ、そん時は俺が生まれる前だからなぁ? 流石の俺でもどーしようもねーよ?」
誰だお前は。何を言っている。
「いい加減目を逸らすなよ~。何時まで俺に責任を押し付けるつもりだ? 悪い悪い人格の俺にさぁ? いや、その後の殺しは俺の所業だよ? でもこればかりは庇いようがねぇだろうよォ?」
違う。
俺じゃない。
俺のせいじゃない。
俺は、俺は、俺は!!
「なあ善継、大好きな母親と下の子達の肉の味はどうだったよ?」
顔に温かいものが掛かるのを感じて、目が覚める。
「……善……継……どう、し……て………………」
「……………ぇ」
目を開けると、真っ赤な景色が見えた。鮮血。一体誰の? その答えは視線をほんの少し上に動かせば、直ぐに明らかとなった。その人物の顔を見て、俺は足場が崩れ去るような絶望を感じた。
俺の恩人であり、義母である菖蒲さんの顔が、目に入ってきた。
ずるりと滑るように、義母の身体が倒れる。同時に俺の両腕から生々しい感触が伝わる。見てみれば、俺の両手はよくわからない物体を握っていた。
赤く染まった、肉の様な物体。握ってみれば柔らかい感触で、同時に中に入っていた赤い液体が勢いよく吹き出す。俺は、これをよく知っている。狩りの時に、獲物を解体するときに何度も見ていたからだ。
これは、心臓だ。
人にとって欠かせない臓器。
命を司るモノ。
何でそれが二つも、俺の手の中にある?
「ぁ、あぁ、あ」
「……アオイ?」
「ひっ」
部屋の隅によく見知った顔を見つけた。義妹であるアオイだ。一体何がどうなっているのかわからず、俺は今まで見たことも無いほどに怯えた顔でこちらを見つめてくるアオイに声をかけて説明を求めようとする。
が、足に何かがぶつかってその歩は止まった。そして反射的に下を見てみれば――――そこには義母と同じく胸に大穴を開けた、義父である清蔵さんの身体と、誰のものかもわからない首なしの死体が当り前のように転がっていた。
(……何が、あった)
――――わかっているはずだ。
(……誰が、やった)
――――わかっているはずだ。
(俺じゃない。俺じゃない俺じゃない俺じゃない違う違うちがうちがう俺はこんな――――ッ!!)
「あ」
どこかで、何かが壊れるような音がした。
こいつはひでぇや(他人事)。
母親が死んで自暴自棄になって飛び出したら頭無惨と遭遇して鬼にされた挙句一番守りたかった存在であろう残った弟妹皆殺しとか、我ながら中々に酷過ぎるお話を書いてしまったと思う。
なお後に追加で身寄りの無い自分を拾ってくれた恩人兼義理の両親も手にかけることになった模様。