とあるアルビノ艦娘と、考察好きの技官の、ノアの方舟伝説に関するお話。
※Twitterで面白い話のタネをいただいたので短いお話を
想定した艦娘はいますが、特に指定して書いてませんので、お好きな子で置き換えてお読みください。
「何を読んでいらっしゃるんですか?」
月明りだけを頼りにして、ハードカバー本のページをめくっていた私の背後へと、彼女は歩み寄ってくる。それ自体は珍しいことではない。気配がないまますぐ後ろより声をかけられることにも慣れた。
別段気にすることもなく、私は彼女を目線だけで促す。
「旧約聖書の記述を少々。ノアの方舟伝説の項をな」
ハードカバーの表紙を掲げてみせると、彼女は興味深げに相槌を打って、私の隣へ立った。バルコニーでロッキングチェアに揺られていた私は、彼女へもう一脚を勧める。フルーツティーを一杯注いでから、彼女は揺れる椅子に身を預けた。
一情報解析技官でしかない私の元へ預けられた彼女に、名前はない。元艦娘である彼女は故あって予備役入りし、今は私の助手という扱いになっている。彼女の戦場は、深海棲艦の跋扈する海上から、書類と資料が跳梁する保管室へと移ったわけだ。
読み終えた本を閉じ、私はチラリと彼女の方を窺った。
アルビノ。先天的にメラニン色素が欠乏し、毛髪や皮膚の色が失われた生物を差す。特徴として、肌の色が抜けて白く、毛髪は透き通るようで、瞳は深紅。〇・〇〇五パーセントの確率で産まれるとされる。
彼女は世にも珍しいアルビノ艦娘であった。
「どうして、ノアの方舟を?」
彼女は優雅にフルーツティーを啜りながら、私に問いかける。月明りに爛々と輝く深紅の瞳と目が合った。月明り程度なら問題ないのか、日中している眼鏡兼サングラスは外している。
「ノアはアルビノだったという話がある」
「あら」
彼女はさらに興味を惹かれた様子で、私に続きを促した。
「方舟に乗ったのは、ノア夫妻と三人の息子夫妻、各動物の
「……ええ、お話には、少し聞いています」
なるほどと、私は月を見上げる。今宵は満月だ。純白のベールを思わせる光が、バルコニーで安らぐ私たちを包んでいる。ぼんやりと思い出したのは、同期と寿退職した艦娘のことだ。
「少しおかしいと思ってな」
「何がですか?」
「単純に、確率の話だ」
ここからはいつもの戯言だ。私はそう前置いて、話を続ける。
「ノアがアルビノなら、その子供たちも当然アルビノの劣性遺伝子を受け継いでいる。つまり、ノアから繋がる洪水後の
言い切った私は、彼女の様子を窺った。彼女は相変わらず、満ち満ちた月を、その光を見つめていた。憧れるように、夢見るように、乞い願うように、ルビーの瞳をきらめかせる。
無言を肯定と捉えて、私は話を続けた。
「……君たち艦娘は、海よりやって来た。海のいずこからか、人類の与り知らぬところから。そして――君のように、アルビノの艦娘も珍しくはない」
方々駆けずり回り、ほとんど残されていない資料をかき集めてようやく判明したことだ。事実、鎮守府勤務中に出会ったアルビノ艦娘はただ一人、彼女だけであった。
残るアルビノ艦娘たちは、軍に登録はされず、いずこかへと消えている。その消息を追うことは叶わなかった。だが、数だけははっきりした。
「二十三、コンマ数パーセント。四分の一ないし五分の一。それが艦娘全体に占めるアルビノ艦娘の割合だ。君たちの全体数がわからないから何とも言えないが、サンプル数三百超は十分じゃないか」
それは、両親がアルビノの劣性遺伝子を持っていた場合の発生率と、ほぼ合致する。
彼女は今夜初めて、その目を閉じた。
「さて、いつもの仮説と行こうか。ノアの方舟伝説に語られるノアの子孫、本来
彼女は黙ったまま、月の光を浴びている。
「そして、今人類と名乗っている私たちは――あの時の洪水を、
そこでようやく、彼女は目を開いた。深紅の瞳に、果たして今夜の私の推理は、どう映っただろうか。
「・・・あなたは、神を信じますか」
まるで宣教師のようなことを、彼女は呟いた。あまりに自然なその呟きが、私へ向けられたものだと理解するのに、数瞬をようした。
答えは否だ。私は残念ながら、いずこかの神を真摯に信仰はしていなかった。私が信じるのは、数字と物理だけだ。
それこそが堕落に他ならない。神を信仰することを忘れた旧人類の証。
「……いいえ、よいのです」
彼女はどこか諦めた風に呟いて、ロッキングチェアから立ち上がった。月の中でひらめく白髪は、銀にも蒼にも映る。光の粒を纏い、星空を宿したように輝く。怪しげな光を宿す両の瞳は、それでも朗らかに笑っていた。
「神は約束したのです。二度と災厄を授けない、と。――ですから、今まさに地を呑まんとする災厄は、あなた方、あるいは私たち、人類と呼ばれた者自らが引き寄せたもの。私たちの業そのものだと、私は思うのです。そして……私の役目とは、方舟を作り上げることに、他なりません」
彼女を引き受けた時、同じように渡された書類の一節を思い出した。彼女の供述書だ。海軍警察の取り調べでも、彼女は同じような供述をしていた。
すなわち、彼女こそが、ノアだ。
彼女は月光を一杯に纏い、どこか悪戯っぽく笑う。
「頑張ってくださいね。いい子にしていなければ、方舟には乗せませんよ」
「善処しよう」
私の答えに、彼女はさらに笑みを深めた。穏やかな風の中で微笑む彼女は、月明りという純白を被ったようにも見受けられた。
「さて、そろそろ、ディナーにしましょう。もうすぐパンが焼けますよ」
「わかった。すぐに行く」
先に立ち去った彼女の足音を聞き届けてから、私もまた身を起こす。バルコニーの先、すぐ眼下に見える海面の月をしばし眺めてから、踵を返して彼女を追う。
執務室の明かりを消し、扉を閉じて鍵をかけた。「富士五合目観測基地 基地司令室」の下に、赤字で書かれた「退室」の札をかけることも忘れずに。
行きついた部屋では、彼女が夕食を作って待っていた。今夜は奮発してステーキだ。デミグラスのいい香りも漂っている。その横には、赤ワインのコルクを抜いている彼女。
二人だけの基地に、今日もディナーの時間がやって来た。
いかがだったでしょうか?
ノアがアルビノだったというお話は今回初めて知ったので、色々考えてしまいました。